◇ 06
元来た道を戻り、隙間をもう一度潜り抜けると、苛立った表情のシャルフが腕を組んで立っていた。先ほどユラがやっていたポーズと全く同じである。彼は何か言いたげだったが、ペルルが抱えている人形を見て固まった。
「……それは?」
「その、奥に……」
「……そうか、子供なら入れるか……」
隙間に視線を落とし、シャルフは呟く。
「前に見た時は、もっと細い……人が通れるような大きさではなかった……が、そうか。半年もフラン・シュラが棲んでいたのなら、溶けて、広がったか……」
言いながら、再び人形を見て、シャルフは肩を落とした。周辺の苔の光に当てられて、彼の顔色も青白く見える。
「それを、あの夫婦に渡すのか?」
「え? はい。だって、あの二人の娘さんの……」
「本当に、渡すのか」
シャルフが聞く意図が分からず、困惑する。どうして、と聞き返す前に、シャルフが答えた。
「貴方たちの娘はここでフラン・シュラに溶かされて死にました、とでも言うつもりか?」
「え……」
「あの二人だって、もう分かっているんだ。娘はどこかで溶かされて死んだってな。でも、死体が見つからないから、遺留品がないから、もしかしたらって、僅かな希望に縋って生きている」
馬鹿みたいだろ。シャルフはそう小さく続けた。
「フラン・シュラに溶かされたら、最悪な事態が無い限り、骨の一欠けらだって残らないってのに、遺体が無いなら生きているかもしれない、なんて」
青葉には、それが馬鹿な事には聞こえなかった。証拠が無いのだから、生きているかもしれない、そう思うのは親なら普通の事だろうと思った。だがきっと、この考えはこの世界の常識ではない。
いなくなったのなら、どれだけ探して何も見つからなくて、それが何か月も続いたのなら、フラン・シュラに溶かされたのだろう……そう考えるのが、この世界の一般的な思考なのだ。それでも希望を捨てられず、僅かな奇跡を信じている人がいる。
「置いていけ。ここなら人は来ない」
シャルフは、そんな人を傷つけまいとしている。
「わずかでも希望を持ってしまったのなら、それを奪われた時、人は壊れてしまう」
「そ……そんな、希望を持つ事が、それ自体が悪いみたいな言い方……」
「ああ、その通りだ」
間髪入れず、シャルフは肯定した。
「いい言葉だよな、希望って。遂行できもしない事に取り組んでも、指さされて笑い者にされても、引っかかる馬鹿がいるんだから。叶わなかった時の失望感ぐらい想像できるはずなのに、遠くで輝く何かを夢見て追いかけている内に、その思考を奪う、いい言葉だ」
「……」
「もう一度言うぞ。その人形はここに置いていけ。俺たちは何も見つけられなかった。あの夫婦は──もういない娘を探すことで、希望を失わずに済む」
半端な希望なら無い方がいい。そう言ったユラは、彼の言葉に賛同するのだろうか。否定して欲しかったが、ユラは頷いているような気がして、そちらを見ることができなかった。
***
オーディール信仰の跡地に残された人形に振り返る。
誕生日に贈られたという、白磁の人形。もしかしたら、その女の子に似せて作ったのかもしれない。贈ったのは誰だろうか。口ぶりからして、両親ではなさそうだ。親戚の誰かか、それとも歳の近い友人だろうか。
「ペルル、ごめんね。せっかく探してくれたのに」
顔を合わせてそう言うと、ペルルはちらりと人形を振り返った。それから青葉に視線を戻し、腕を人形の方に動かした。「いいの?」と言いたげに見えたのは、青葉の罪悪感のせいだろうか。
一歩、また一歩と歩みを進めていくたびに、人形が遠くなっていった。
洞窟を出ると、待ち構えていた夫婦が青葉に縋りついた。「どうだった!? 娘はいたか!?」と揺さぶりながら聞く男の目は、まだわずかな希望を持っていた。
生きた娘を探す事。それが、この夫婦にとって、唯一の生きる希望なのだ。あの人形を渡して、娘がもうこの世にいないと知ったら、彼らはどうなってしまうのだろう。
俯く青葉を庇うように、シャルフが割って入る。
「何も無かった。探すなら、別のところを探せ」
「そ……そうか」
二人は肩を落としたが、すぐに「そうだよな」と納得した。「こんなフラン・シュラの巣窟に、娘がいるわけがないよな」夫の言葉に、妻も「そうね」と頷いた。
これでいい。彼らは希望を捨てずに済む。いつまでも見つからない娘を探すことで、彼らは生きる活力を保てる。それでいい。
(……いいのか、本当に)
僅かな疑念が生まれる。真実を伝える事が、必ずしも正しいとは限らない。時には多くの人を傷つけてしまう。嘘が物事を円滑にしてくれる時だってある。シャルフの選択はまさにそれで、彼なりの優しさなのだと青葉も理解した。
だが、後悔してしまう。
何かが背後に立った気がした。
何も聞こえないのに、ひたり、ひたり、と足音がする。
生暖かい空気がじわりと近づいて、青葉に触れようとする。
後悔したくない。ああすればよかった、こうすべきだった。そのような思考はすぐに『何故そうしなかったのか』と青葉を責めに形を得てやって来る。
真っ黒な、潰れた影が来てしまう。どこに逃げようとも、それは必ず追ってくる。
『青葉』
母の声が真後ろから聞こえてくる。責めたいのをこらえて、言い聞かせようとする、もう聞くことのできない声。きっと困ったような表情で、自信の無さが現れた立ち姿でそこにいる。
『悪い事なんて、してないよね、青葉?』
ぐい、と。後ろから服の裾が引っ張られた。
「!」
大きく体を揺らし、硬直する。視界の端で白い頭が動き、青葉を見上げた。ペルルだった。彼女は何度となく裾を引き、洞窟に戻るよう催促していた。
「ペルル……」
「あおば」
ペルルの唇が動き、初めて言葉を発した。子供らしい、舌足らずな幼い声だった。その姿で話すとそんな声なのかと驚いていると、彼女は裾を引っ張りながら続けた。
「おにんぎょ。かえ、かえして、あげる」
「え……」
「あげない……?」
あのお人形を返さないの? たどたどしく、ペルルはそう言っていた。折角見つけたのに。
「いた、よ」
無表情のまま、ペルルは主張した。
背後まで来ていた気配が、ピタリと止まった。
「わたし、いたよ」
「──!」
その言葉の意味にようやく気付いて、青葉は洞窟を振り返った。ブロンドの少女が青く光る洞窟に吸い込まれていく幻が見えた。形を得かけた後悔を振り払うように、青葉は洞窟に向かって走り出した。
「!? おい! 何してるんだ!」
シャルフの叫び声がしたが、振り返る余裕が無かった。
人形を探したのは、ペルルではなく──ペルルの中にいた、彼らの娘の意思だ。わずかに残っていた彼女の意識が、三か月にも渡って自身を探していた両親に、『ここにいた』と証明しようとしていたのだ。
整備されていない足場を、よたつきながら走った。置き去りにされていた人形の下にたどり着いた途端、石に躓いて壁に左頬を強く打った。倒れ込まないように壁に手をつくと、打った頬から血が垂れ、地面にポタポタと数滴落ちた。
肩で息をしながら袖で血を拭った。白いパーカーが汚れたが、気にせず人形を拾い上げる。
ここにいた。彼女は確かにここにいた。溶かされて、今はペルルの中だが、いたのだ。何の救いにもならないかもしれない。いなかった事にした方がいいのかもしれない。それでも、いたのだ。少女はここに来て、短い生涯を終えた。溶けていく恐怖と戦い、最後まで両親を呼んでいたかもしれない。それを『何も無かった』と言うことは、青葉にはできなかった。
──悪いことなんて、してないよね、青葉?
夢で聞いた母の言葉が脳内に響く。悪いことをしていないとは、もう言えない。だってもう数えきれない数の人を殺してしまった。そうしなければ彼らはいつまでも苦しいままで、この世界の誰かがそのせいで傷ついてしまう。どうにかできる力を持っている以上、青葉がどうにかすべきなのだ。これは言い訳じゃない。開き直りだ。分かっている。だから、これ以上”悪いこと“はできない。
小さな女の子がここにいた証を見ないフリなど、できない。
行きよりも重くなった足を必死に動かし、出口まで走る。出口まであと数メートルといったところで、シャルフが立っていた。その後ろから、あの夫婦が駆け寄って来る。
「お前……」
人形に目を止め、シャルフが一歩前に出た。しかし、すぐ後ろまで来ていた夫婦が先に、青葉に駆け寄った。
「それ……ユアラの……」
女性が誰かの名前を口にした。息も切れ切れの青葉は、人形を差し出し、何とか呼吸を整えながら、確認を取る。
「こ、れ……っ、ですか……」
口元に手を当てて、女性がゆっくりと崩れ落ちた。影を落としたままの緑の瞳がじわりと濡れ、嗚咽と共に涙が零れ落ちた。震えながら男が人形を受け取り、俯いた。
「……ここに、いたんだな」
ぽつりとそれだけ呟いて、それっきり、彼は何も言わなくなった。ただ、ボタボタと水滴が地面を叩く音だけが響く。そんな光景を、後ろからユラとペルルが見つめていた。
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