00-2 そこにいた証

◇ 01

 とんとんとん、と。硬いものを叩く音が遠くから聞こえてくる。曖昧な意識の中でも、それがまな板の上で包丁を使っている音だと理解する。テレビもついているのだろうか。昔流行った歌の、替え歌を歌手本人が歌うCMが流れているのが聞こえる。「女優業をしながら、夢だった歌手活動も始めた、十代の頃の思い出の歌なんですよ」と当人が何かの番組で語っていたような気がする。


 うすく目を開ければ見慣れた部屋の天井で、青葉はぼんやりと、その天井にはめ込むような形のLED照明を見つめていた。


「青葉ー? そろそろ起きなさいよー」


 母親がリビングから声をかけてくる。のそりと体を起こし、欠伸をした。眠たい目をこすり、部屋を出る。向かいの扉は少し開いていて、何かのファイルに埋もれた部屋が見えた。それを尻目に大した距離のない廊下を数歩で済ませると、台所にはエプロンをした母の後ろ姿があった。


「……母さん」


 何故だろうか。もう会えないような気がしていた。漠然と母を呼べば、「何、どうしたの?」と、驚いた表情を浮かべた母が振り返る。バレッタで留めた焦げ茶色のセミロングがふわりと揺れ、茶色の丸い目がしげしげと青葉を見つめる。少しだけ精神的に弱いところがある母だったが、今日は元気な日らしいと、少しほっとする。


「また夜更かししたの? もう、ダメよ。そんなところまで、お父さんに似ちゃ」

「あ、うん……」

「お弁当、早く包んじゃって」

「うん」


 いつものやり取りに安堵して、近くの引き出しから弁当袋を引っ張り出す。中学から使っている黒の二段弁当を包みながら、横に置かれた紺色の細い弁当箱に目を止める。


「今日、父さんも弁当?」

「そうなのよ。今日は外で食べる余裕なさそうだからって」

「ふーん」

「それ終わったら、お父さん起こしてきて」

「うん」


 ついでに顔も洗うかと、洗面所へと向かう青葉に、母が背中から声をかけた。


「あ、そうだ。青葉」


 振り返ろうとして、突然足が固定されたように動かなくなった。驚いて足元を見れば、黒い泥が青葉の足にしがみついている。数多の動植物の要素を崩して、壊して、混ぜて、泥状にしたものが、呻きながら青葉を見上げている。


「なっ……!」


 どうして、ここにフラン・シュラが……!


 声には出さず、しかしその単語が自然と出てきたことで、思い出したように足がジュッと音を立てて焼けただれていく。


「いっ……うぅ」


 痛みに呻き、よろめいて壁に手をつけば、すぐ近くにフラン・シュラがいて慌てて仰け反った瞬間、胸の辺りが淡く光りを放つ。そしていつの間にか手に持っていた音叉が床に叩きつけられ、高い音と共にフラン・シュラは光の粒になって消えて行く。


 選ばれなかった命が消えて行く? 否。命は消えるのではない。

 青葉が選ばなかった命は、青葉に殺された。


「──」


 パタパタと、スリッパを履いた足音が背後から近づいてくる。母だ。母のはずだ。慌てて音叉を拾おうとするが失敗し、這いつくばるよな態勢になりながら、手で隠す。


「青葉」


 母の声がする。ぎこちなく首だけをそちらに向けた。


 もう音叉の音はしない。朝の静かな空気を、光の粒が数個、視界の端をふわりと昇って行く。


 リビングの照明を背にした母が、ただ、ほほ笑んでいた。


「──悪い事なんて、してないよね、青葉?」


***


「……!」


 急激に現実に連れ戻された。横向きで寝ころんだ格好のまま、目を開けて固まっていた青葉は、異様に大きく聞こえる心音をしばらく聞いていたが、忘れていた呼吸を思い出し、浅い呼吸を繰り返してどうにか落ち着けた。


 ゆっくりと体を起こし、周囲を見渡す。ベッドの近くに立っていた白い少女が、拾い上げた何かを不思議そうに見ていて──それがフラン・シュラを消す音叉だと気づき、青葉は慌ててそれを取り上げた。


「……」

「……」


 しばらく二人で黙って見つめあっていたが、少女がこてんと首を傾げたことで、妙な緊張感は終わった。


「だ、大丈夫……なの、か……」


 少女の肩に触れ、光の粒が出てこない事に安堵して、大きく息をついた。よかった。この子の中の誰も殺していない。


「は~……よかった。あっ、ごめんね。びっくりしたよね」


 よかったよかったと青葉はペルルの頭を撫でた。多分、枕元に置いていた音叉を落としてしまい、その音が夢の中と繋がったのだ。そしてペルルは落ちた音を聞いて拾ってくれたのだろう。


 それから恐る恐るペルルに音叉を近づけてみるが、あの細く高い音はしなかった。反応する条件はよく分からないが、ペルルには効かないらしい。とはいえ、もし何らかの条件に当てはまって消してしまうとも限らないので、触らせないようにした方がいいだろう。


 一人分の命以外を殺してしまっては、この子とした約束を違えてしまうのだから。


(肌身離さず……にしてはちょっと大きいし……)


 せめてもう半分ぐらいの大きさになれば、ペンダントにできそうだが。いや、鎖を通す穴も無いと……。


 音叉を手に、胸に押し当て、目を閉じて念じる。淡い光を瞼越しに感じ、そっと目を開けてみると、音叉は手の平サイズから三センチぐらいにまで小型化していた。ご丁寧にもいつの間にかU字の底に輪が付き、音叉と同じ色の細い鎖も通されていた。


 想像通りのものが生まれた事に不気味さを感じながら、それを首に通す。それから音叉を手に取る動きをすると、鎖が消えて本来の大きさに戻った。手放してみると、いつの間にかネックレスとして首元に戻っていた。


「魔法少女というより呪いのアイテム……」

「何がだ?」

「ひっ」


 急に後ろから声をかけられて肩を揺らす。そちらに視線をやれば、ユラがキョトンとしてこちらを見ていた。


「お、おはようございます……」

「おはよう。もう昼だが」

「え、うそ」


 慌てて窓の外を見れば、太陽の位置が随分と高い。道理で体が痛いわけだと納得する。


「すみません、寝過ぎました」

「構わない。疲れをため込むよりはずっといい。それと、洗面所は部屋の外だ」

「重ね重ね、すみません……」


 出かける準備をしようとして、水場の場所が分からずきょろきょろする青葉に、ユラが助け船を出してくれた。昨晩窓際に置いた靴下が乾いていたので回収し、それを履いてから靴を履きなおす。部屋を出て、彼女が指さす方に向かうと、不思議な石がはめ込まれた水瓶が、水はけの良さそうな石の上にいくつか置かれていた。


 近くにあった柄杓を手に取り、水瓶から水を掬うと、はめ込まれた石が少しだけ光った。


「な、なんでしょう、これ」

「さあ?」


 知らん。と短く返されてしまった。


 なんでもかんでもユラに聞けば良いというわけではないのだと考え直しつつ、掬った水で顔を洗おうと手を濡らした途端、左手にビリッとした痛みが走った。


「いって……!」


 思わず声を漏らすと、ユラが手を覗き込む。


「昨日フラン・シュラに触ったところか」

「忘れてました……」

「包帯か何かで覆った方がいいんじゃないか?」


 貴方の能力で作ればいい。と指摘されたが、水で濡らしている内に痛みに慣れてきたので、大した事は無いだろうと判断する。


「大丈夫です。思ったより痛くないんで」

「ならいいが」


 適当にばしゃばしゃと顔を洗う。それから拭くものを忘れていた事に気づき、しょうがなく袖口で拭いた。


 ペルルも洗わせようかと視線をやると、しゃがみ込んで石を見ていた。ぱっと見どこか汚れているようにも見えないが、一応「やる?」と柄杓を差し出すと、立ち上がり、掬った水を石の上に零し始めた。すぐに彼女はしゃがみ込み、石の上に落ちた水がするりと吸い込まれる不思議な光景をじっと見つめている。顔を洗う行為より、そちらに興味が沸いているらしい。


「ペルル、顔洗おうね?」


 手ぶりをしながら教えたところ、両手に水を溜め、そこに静かに顔を付け(顔を洗っているというよりは、水中で息を止める練習のように見える)、顔を上げた頃には顔が乾いているという奇妙な現象を見せた。そのまま手の平に残った水を石に零し、また吸い込まれるのをしゃがみ込んで見つめるペルルを観察しながら思う。そういえば、水たまりに足を付けたのに靴が濡れていなかったな、と。フラン・シュラは水を弾くのだろうかなどとぼんやりと考えてしまう。


 そんな青葉とペルルを見ながら、ユラは今後の予定を口に出す。


「それで、アオバ。後で向かって欲しい場所がある」

「どこでしょうか?」

「郷土資料館」

「はい?」


 思わず聞き返した。対してユラは「昼食を済ませてからでいいから」と明後日の方向に遠慮を見せて返した。

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