◇ 11

 宿の部屋に戻り、さすがに限界を感じて靴下を脱いで窓際に並べて置いた。多分明日には乾くだろう。ベッドの淵に座ると、ペルルがサイドテーブルに置かれたランプを見ながらペチペチと机を叩いているのが見えた。先ほどのカインとシャルフの真似だろうか。「良くないよ」と言いながら手を引いて止めさせるが、どうして止めさせられたのかは多分分かってないのだろう。真珠色の大きな目が、不思議そうに瞬いている。


「アオバ。さっきの聖書、見せてくれないか。この世界の宗教観が知りたい」

「はい」


 物に触れられないユラの為に、聖書を開いて見せる。あまり上等ではなさそうな紙は日に焼け、端の方は随分とぼろぼろだ。二人で聖書を見ているのが気になったのか、ペルルが隣に座って覗き込んでくる。青葉には読めない記号を、ユラとペルルが目で追う。


「何が書いてあるんですか?」

「……この世界の成り立ちと……ふむ、四つの国の建国についても書かれているな。後は……ほう、この世界の九分九厘は精霊のものらしい」

「ほぼ全部じゃないですか」

「自然が意思を持っているなら、まあ当然の見解だろう」


 元居た世界で言うと、七割が海なのだから、世界の七割は水の精霊のもの、みたいな意味だろうか。なるほどなぁと青葉が相槌を打っている間にもユラは文字を次々と翻訳しては、一人で納得している。


「王族と、精霊と……うん? 精霊のー……?」


 ふいに、ユラが眉根を寄せて聖書の文字を指でなぞる。


「翻訳が上手く働かんな。名詞か?」

「何かの名前ですか?」

「ああ。ええと、オーディール……か。精霊の中でも特殊なものらしい。普通の精霊たちと違って、人前に姿を現す。それがいる地域は特別で、豊かな土地に恵まれる」

「座敷童みたいですね」

「なんだそれ……ああ、ミヨコが昔言っていたあれか。それがいる家は幸福になれるとかいう……」


 知っていたのか、ユラが一人で納得する。青葉も記憶の奥底から、その知識を引っ張り出す。


「富に恵まれる、とも言いますね。子供にしか見えなかったり、にも関わらず大人が子供の数を数えると、一人増えていたりするそうですよ」

「私がやっている認識妨害のようなものか?」


 怪奇的な話が急に現実的になったな(いや、そもそも認識妨害を意図的に行えるとは一体どういう技術なのか不明だが……)、などと思いながら笑って誤魔化し、ページを破かないように丁寧に捲った。最期のページにたどり着くと、中央揃えの文章が載っていた。詩だろうか。


「ほお。祈りの言葉が決まっているのか。しかも寝る前限定とは面白い」

「普通は違うんですか?」

「ものによるが、大体は自由だ。内容ではなく、神へと祈るその気持ちが大事だし、祈る場面も多種多様だ」


 そういうものかと、馴染みのない思想について考える。お祈りなんて、高校受験の合格発表の前夜にしたぐらいで、いざ合格と知れば神への感謝など消し飛んでいた。ユラに言わせれば、随分と罰当たりだと怒られるかもしれない。


「逆に、構文がある場合はどういった意図があるのでしょうか?」

「呪術的な思惑が強い、だろうか。その言葉に意味があるわけだから」

「ああ、呪文的な」

「そうそう」


 ならば、この聖書に書かれている祈りの言葉は、神への祈り以上にどんな意味があるのだろう。読めない文字を指差し、ユラに視線をやる。


「なんて書いてあるんですか? せっかくですし、寝る前にお祈りしてみたいです」

「そうだな。おっと、ペルルもちゃんとお祈りするんだぞ」


 ”ペルル“が自身の名前だという自覚があるのか、ペルルがユラを見た。ユラが聖書を指差すと、少し首を傾げてまた視線を本に落とす。それを見届けてから、ユラは静かに読み上げた。どこか淡々とした──洞窟で出会った時に聞いた、説明書を読み上げているような──感情を削り落としたような声だ。


「私たちの生命の光よ、

 救いの道を照らしてください。

 今日の誤りは明日には真実を、

 今日の悲しみは明日には喜びに、

 今日の理解は明日からの愛に。

 罪が夜に溶けて、朝の恵みとなるように、

 この大地に祈ります。

 明日も先も、皆が幸せでありますように」


「……大地に祈るんですね?」


 少し気になって聞くと、ユラは考え込むように腕を組んだ。


「神様が大地に宿ると考えられているのかもしれんな……。ま、細かいところは専門家か教会関係者でも、見つけ次第聞くことにして……今日は色んなことがあって疲れただろう。早く寝たほうがいい」


 言われて、体が重い事に気づく。考えてみればここ数日は少し夜更かしをしてテスト対策をしていて、朝は学校でテストを受け、昼過ぎにこちらに来てからは気を張ってばかりで疲れたのだろう。


「……そうですね。まだ十時ぐらいみたいですけど、ちょっと眠い気がします……」


 背筋を伸ばしていると、ユラが難しい表情のまま扉の方へと向かう。


「少し周辺を見てくる」


 そう一言だけ零し、出ようとして、ふと思い出したようにユラは振り返る。


「そういえば、アオバ。あの時何か言いかけなかったか?」

「え? いつですか?」

「カインに会う直前ぐらいだ」


 ああ、あれか。感情のままに言葉にしそうになったそれを、すっかり忘れていた。青葉は苦笑して首を横に振る。


「いえ、大丈夫です。今思えば、ちょっと感情的なお願いだったので」

「そうか。ならいいが」


 事務的な返事をして、立ち去るユラの背中に声をかける。


「ユラさん。おやすみなさい」

「……ああ、おやすみ」


 少しだけ表情を緩めて、ユラは扉をすり抜けて行った。ペルルが不思議そうに扉に近づき、頭をこつんと扉にぶつけた。すり抜けられないという事実に首をかしげるペルルから視線を外し、青葉はポケットに手を入れた。探す必要もなく、スマートフォンを引っ張り出し、スリープ状態を解除する。


 真っ黒な画面が点灯し、初期設定から一切触れていないスクリーンが現れる。充電は半分程しかなく、普段なら充電器を差しているだろう。指を滑らせると、ロック画面に切り替わり、洞窟でも見たあの不思議な記号が現れる。


 同じ数字を連打するだけの、もはや鍵の意味を為していないロックを解除し、何気なく写真を開いた。一番古い写真には、少しブレているが両親が写っている。初めて購入してもらったその日に、試し撮りとしてカメラを両親に向けた時に撮ったものだ。その次に何故か花束、合格発表の時の受験番号、いくつか夜道の写真があり、学校行事などの日常の写真を挟み、最後の写真である友人らとカラオケに行った時に撮ったもので指を止めた。


「もうちょっと撮っとけばよかったな……」


 両親の写真はややブレていて、祖父母のものは一枚も無い。友人らが写っているものは想像よりも多かったが、思い出として振り返るにはあまりにも少ない。


 ふいに視界に白いものが写り込み、そちらを見る。ペルルが後ろから割り込んできたようだ。


「見る?」


 画面をペルルに見えるように向け、スライドさせる。何を思って見ているのか全く分からないが、彼女は黙々と画面を見つめている。


 少ない写真はあっという間に見終わり、ペルルは見様見真似で画面に指を滑らせ、最初に見せた写真まで戻した。


「あはは、ありがとう」


 ペルルの頭を撫でて、青葉はそのまま寝ころんだ。少し遅れて、ペルルも寝ころぶ。


「このまま寝ちゃおっか。えっと、お祈りの言葉は……なんだっけ……また明日、ユラさんに教えてもらわないと」


 一度聞いたぐらいでは全く覚えきれず、急速に力が抜けていく中、ぽつり、ぽつりと言葉を漏らす。


「罪が溶けて、朝に恵みになるように……? この大地に、祈ります。明日も、皆が幸せでありますように……」


 言葉の途中から我慢できずに目を閉じる。熟睡できそうだと確信しながら、少しだけ埃っぽいシーツに身を任せた。



 ふいに、指先がチリっと痛んだ。

 瞼の裏に浮かんだのは、雲一つない真っ青な空。空に浮かぶ白い帽子。慌てた表情で、ガードレールから身を乗り出し、手を伸ばす友人。人生最後の光景に、青葉は後悔する。


(あの時、手、掴もうとしなきゃよかった)


 指先しか触れられなかったほど、手遅れだった。間に合わない事など、少し冷静になれば分かったはずだ。それでも青葉はあの時、手を伸ばしてしまった。

 彼は──佐々波は、周囲に警戒感を抱かせない、変わった雰囲気の人物だ。一言二言交わしただけで、相手の警戒心を解いてしまう。すんなりと周囲の人間に受け入れられる穏やかさがある反面、正義感が強くて、他者の悪意に敏感で、いつも巻き込まれがちな青葉を助けてくれる人だった。だから、いつものように甘えてしまったのだろう。


 だからこそ、よくなかったと、そう思う。


(絶対、後悔してる。僕を助けられなかったって、もっと早く動けたらって、掴み損ねたせいでって……)


 酷い事をしてしまった。青葉は死ぬ間際に一人の人を傷つけてしまった。常に避けてきた行為のはずなのに、肝心な時に限って上手くいかない。


(知っていたのにな。目の前で助けられない事が、どれだけ後悔するか。僕も──)


 僕も?


 まどろみの中で、首をかしげる。


(何か、あったっけ……?)


 思い出そうとするが睡魔に抵抗できず、意識を手放す。その瞬間、わずかに思い出す。


 真っ青な空。飛んできた白い帽子と、それを掴もうとして失敗した。そしてひどく後悔した。死に際によく似た出来事を、青葉は体験している。


 それがいつなのか、どこだったかを青葉は覚えていない。何に後悔したのかも分からない。だが、はっきりとわかっているのは、その時から、


 誰かを傷つけることを、異常に恐れるようになっていた。

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