◇ 02

 息が出来なくなっていく。もがいても、もがいても、引っ掛かりの無い宙を切ることしかできない。このままでは溺れてしまう。『助けて!』とも言えず、ただただ祈りながら手を伸ばした。


 その指の先に、淡い光がまるで手を差し伸べるように差し出される。必死になってそれに手を伸ばし、触れた──瞬間、青葉はそこから引き揚げられた。



「──っ!」


 意識が暗闇から浮上すると同時に目を開けた。突然肺に押し込まれた空気に咽返り、しばらく肩で息をする。呼吸が落ち着いても混乱した頭は『とにかく逃げたい』という気持ちだけを汲み、勢いよく体を起こしてしまい、すぐに貧血のような気分の悪さから僅かに呻いた。


 未だ視界がチカチカとする中、周辺を観察する。青く光る奇妙な苔が生えた、洞窟のような場所だった。吸い込む空気は冷えていて、体の内から冷えそうだ。


──人間に生まれ変わるとは限らないけどね。


 ふいにラピエルの言葉を思い出し、青葉は手のひらを見た。見慣れた自分の手だ。制服であるカッターシャツと、指定のセーター、上から羽織った白のパーカー、ダークグレーのズボンに、学校指定の革靴。転落事故を起こす前と、そしてあのラピエルと話した時と何も変わらない。


 這うように移動して、近くの透き通った水溜りを覗き込めば、やはり見知った自分の顔が映っていた。


「はー……」


 そこまで確認して、ようやく青葉は息をつけた。


 落ち着きを取り戻した頭が、ようやく働く。


 生まれ変わる、というならば、何かの生物の赤ん坊から始まるのではないか? と。


 それから、『準備』だと言って差し出された真鍮のグラスを思い出し、あれを飲まなかったからだろうか、と推察してみるが、確証もなければ答えを教えてくれる人もいない今、無駄だと悟ってため息を吐いた。


 これからどうすればいいのだろう。


 本当に知らない世界なのだろうか。元いた世界のどこかということはないだろうか。全部夢で、本当は病院のベッドで寝ているんじゃないだろうか。そもそも転落事故そのものが夢で……。


 また、答えのない疑問が頭に浮かぶ。無駄だと分かっているのに、どうしようもない不安感が怖くて、思考することで現実から逃げていた。


 とにかく立ち上がろうと壁に手を掛けた瞬間。


 ぐに、と壁らしからぬ感触がした。それと同時に、触れた左の手の平がジュッと音を立ててただれた。


「痛っ!?」


 慌てて手を離す。壁には黒い泥のような液体がかかっていて──僅かに、蠢いていた。


 悲鳴を上げそうになって、締まった喉からヒュッと息を吸い込む音だけがした。


「……」


 現実逃避のための思考すらままならなかった。泥のようなものは、良く見れば手があった。蛙のような、水かきがついた平たい手。目も口もあった。動きに合わせて開いたり小さくなったりする穴は、もしかして鼻だろうか。人や動植物のなんらかの特徴を大量に入れてぐちゃぐちゃにかき混ぜて泥状になったものが、そこにいた。


 これはなんだ? 生き物か?


 自身の心音が異様に大きく聞こえてくる。まとまらない思考を遮るように、ラピエルの言葉が再生される。


──人間に生まれ変わるとは限らないけどね。


(これ、まさか、人だったとか、そんなこと……)


 ずり、と。引きずるようにして泥が動いた。思わず大きく肩を揺らしてしまったが、幸い俊敏な動きはしないらしい。視線は泥に向けたまま、震える足を無理やり動かして、青葉はゆっくりと後退する。


 トン、と。足に何かが当たった。


「!」


 一気に悪寒が背中を走ったが、そこにあったのは薄汚れた白磁の人形だった。ほっとしたのも束の間、すぐ近くに泥が見えて、再び身構える。


 泥の淵に生えた睫毛が震えた。植物の細い根が張った表面が、規則正しく痙攣している。それらを見ないように、視線を泥から外す。


 視線を移した先に、別の泥がいた。縦皺が入った、白い爪が壁を引っ掻いているのが見えた。慌てて目を強く閉じ、頭に浮かんでしまった妄想を振り払おうとする。


 あれが人なわけがない。きっとこの世界のそういう生き物で──。


 その瞬間、目の前で重い物が地面に叩きつけられる音がした。反射的に開いてしまった目には、体のほとんどが融解した、しかし最悪な事に頭だけはまだ形を保っている泥になりかかっている人間が落ちていた。


「あ……」


 少女だったのだろうか。ブロンドの柔らかそうな髪の下に、見開いたままの緑の目がこちらを見ていた。


 ぼこりと気泡が浮き上がり、その頭は弾けて、溶けて行った。周囲の苔を巻き込んで、青黒い泥へと変貌していく。近くにいた泥と混ざり合い、少し膨れた。恐怖から視線を外さずにいた青葉はその過程を見てしまった。妄想だと言い聞かせていた事が、簡単に打ち砕かれてしまった。


 あの泥は、人間の成れの果てなのだ。それも、複数の人間が溶け合わさった末路だ。


 それが確定してしまった今、青葉の意思とは裏腹に、思考は次の仮定を予想する。


 自分もああなるのではないか、と。


 あるいは、泥たちが自分も取り込もうと、大群で襲ってくるのではないか、と。


 まだ痛みが残る左手の平に視線を落とした。あの動く泥に一瞬触れただけで皮膚がただれたのだ。もし何らかの形で長時間接触するような事態になれば、人一人溶かす事もありうる。もしもあの泥になったら、誰かを傷つけてしまう。


 もし、そんなことになったら……。嫌だ。それだけは絶対に駄目だ。それならこの泥に溶かされた方がマシだ。それだけはダメだと否定する。

 それでも嫌な想像が頭を離れない。泥は集まり、融合し、青葉を襲う……。まるで──そうなることを望んでいる、ような。


──『想像したものを作り出す力』をキミにあげたの。


 急に、ラピエルの言葉を思い出した。嫌な予感がじわりと脳内に染み渡る。ラピエルは青葉を嘲笑した。愛おしいと言いながらも、その目は嫌悪感に満ちていた。なら何故、そんな一見便利に思える力を青葉に贈った?


──こんな子が、大勢を不幸にしてくれたらどれだけ面白いだろうって!


 あれは、青葉が他者を不幸にするところを見たがっている。青葉が人に優しくするのを滑稽だとせせら笑い、青葉が他者を傷つける事を何よりも恐れている事を知っている。


──記憶がある分、混乱もしやすいと思ってさ。


 あれは、知識があるが故に、混乱から恐怖を覚えると分かっていた。だから。


──面白いもの、作ってね?


「……」


 ラピエルは、青葉が与えられた力で、誰かを不幸にすることを望んでいる。恐怖が膨れ上がり、それらが青葉の心理を飲み込んだ時、生み出される何かを期待している……。


ぐちゃり、と音を立てて、泥同士が混ぜ合わさった。


「!」


 音に反応をして顔を上げる。気づけば青葉の胸の辺りが淡い光を纏っており、それに反応するようにして泥は広がり、人の形へとゆっくり変貌していた。青葉の仮説を補強するように、元は人なのだと言いたげに。まるで──青葉が想像した事を、形にしようとしているかのように。


 近くの泥を飲み込んで、着実に巨大化する泥が青葉を飲み込むのは時間の問題だった。一歩、また一歩と、足を引きずって歩み寄る泥の通った道は、強酸を零した床のように溶けていく。


 足がすくんで、動けない。仮に動けたとしても、逃げた青葉を追って泥が外に出て、他の人を襲うかもしれない。そうでなくとも、これを形作ってしまったのが青葉に与えられた能力なのだとしたら、些細な想像で恐ろしい化け物を生み出してしまう可能性が高い。


(どうしたらいい!? このままじゃ……)


 何もできずにいる間にも、泥は青葉につかみかかろうと、ゆっくりとした動作で腕を振り上げた。思わず目を瞑り──痛みも何も襲ってこないので、恐る恐る目を開けた。


 泥の動きが目の前で止まっていた。


「……?」


 何かに阻まれるようにして、泥はゆっくりともがいた。自身の激しい心音に紛れて、何事か呻いているのが聞こえてきた。言葉を聞き取ることは出来ないが、悲痛さだけは伝わってくる。


(泣いてる……?)


 そう気づいた瞬間、彼らの行動が理解できた。


(……ああ、そうか。そうだよな。こんな形になったのが僕の能力のせいなら……彼らは、僕を責めてもおかしくない)


 考えてみれば、理不尽な目に遭っているのは青葉ではなくこの泥の方ではないか。見知らぬ少年に、いきなり体を結合されてはたまったものではない。詰め寄ってくるのは、普通の人間らしい行動じゃないか。


 人型の泥の頭を、正面から見上げた。どこが目なのか、そもそも正面を見ているのかどうかすら分からない。青葉が望んだせいでこうなったのなら、この泥たちが青葉を責めるのは道理だ。そう理解して、それから涙のように顔を伝う泥を掬うように、そっと泥に触れた。勢いよく水分が蒸発する音と、指先に痛みが広がったが、彼らの本位ではないと考えればさほど気にならなかった。


「ごめんなさい。僕のせいだ」


 びくりと僅かに痙攣した後、泥がわずかに後退した。


「僕が貴方たちを怖いものだと思ったから、だからきっと、こんな形にさせてしまった。だから、ごめんなさい。すぐ、戻します。ちょっとだけ待ってください」


 言葉は通じているのだろうか。いや、今はそれよりも、元に戻す方法だ。さっきつなぎ合わせてしまったように、元に戻すにはどうすればよいのか。後天的に突如手に入れた能力など、使い方が分からない。


「何か、外に方法とか……」


 青葉が方法を探しに出ている間、この泥は大人しく待っていてくれるだろうか?


「あの、ちょっと探してくるんで、待っててくれたりとか……します……?」


 迷いながら泥を見上げていると、静かに、泥は決壊した。ぼとり、ぼとりと音を立てて、崩れ落ちていく。


「え……だ、大丈夫?」


 思わずそう声をかける。自分の能力が働いたのかと思ったが、先ほどのように胸の辺りが光ったりしていない。何か別の要因があるのだろうか。


溶け落ちた泥は地面に広がった後、相変わらずのゆっくりとした動きで、青葉の足元に転がる人形に集まっていった。


 人形が着込んだ白いワンピースが泥の色に染まっていく。他の泥たちもそれに群がる。天井から、岩壁の隙間から、こんなに隠れていたのかと驚く青葉を他所に、泥たちは一か所に集まり、蠢いた。ぼこり、ぼこりと、大きな気泡が内側から何度も沸きあがる。


 さながら共食いのような光景に若干引いていると、先ほどと同じように(いや、先ほどよりはかなり小柄だが)泥は人型へと形作っていった。取り込んだ人形を元にするように、真っ白なワンピースとフリルができていく。粘土の造形を整えるように、皮膚が作りあがっていく。練り余った泥は細長く垂れ、しばらくして髪になった。


「……」


 ぽかんとしている間に、目の前には十にも満たない、人形じみた美貌の小柄な少女が立っていた。髪も肌も服も、何もかもが白い、しかし長い睫毛に縁取られた瞳だけは、真珠のような複雑な色を持っている。


「君、は……」

「……」


 少女は青葉の声に反応して顔を上げた。言葉を発さない少女に、青葉は戸惑いながら手を差し出す。


「え、と……一緒に行く……?」

「……」


 目の前に差し出された手を見つめていた少女は、何を思ったのかその手に顎を乗せた。先ほどまでとは打って変わって痛みも何もなく、ただ子供らしい柔らかい皮膚の感触が手の上に広がった。少女は無表情ながらに、なんだこれは、と言いたげに青葉を見つめ返している。


「よ、よろしくね……?」


 青葉はただ、困ったように笑うしかなかった。

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