◆0章 優しい人

00-1 夕暮れの夜

◇ 01

 いつの間にか、一面が真っ白になっていた。自分が目を開けているのか、それとも閉じているのか。夢なのか現実なのか分からないまま、青葉は体を起こした。


「う……」


 頭がぐらついた。何気なく後頭部に触れてみるが、血で濡れたような感触はしなかった。そうか、血は出ていないのか。安心して、ようやく少し冷静になって周囲を見渡した。


 真っ白な空間に、白磁の支柱が並んでいた。意識がはっきりしてくると、周囲は霧がかかっているだけで何も無いわけでないことが見えてくる。地面には少し崩れた石畳。崩壊気味だが天井と壁もある、神殿跡のような場所に、青葉は座り込んでいた。


「……」


 夢を見ているのだろうか。


 ふらつきながらも立ちあがり、砂を払う。数歩進むと左右均等に並んだ支柱が見え始め、その中央に、妙に場違いな金色の椅子があり、誰かが座っていた。


「おはよう。そしてお疲れ様。良い人生は送れたかな?」


 少女とも少年ともつかない声で、その人物は青葉を見つめて言った。紅色のゆるいウェーブがかった長い髪。金色の目。人間ではない獣の耳。露出の高い白い衣服に包まれた体は細いが、男とも女とも断言できない体型だ。円形の金属の装飾が、崩れた天井から漏れる光で鈍く反射している。


 何より目を惹くのは、その人物の頭の上に、刺々しい円盤が浮いていることだった。


「ええと……」


 言っている意味が分からず、どういう原理で浮いているのか分からない円盤に首を傾げつつ、曖昧な返事をする。その中性的な人物は、人懐っこい笑みを浮かべた。


「ワタシの名はラピエル。……まだ理解できてないよね。キミはここに来る前のことはどれぐらい覚えている?」

「えっと……テストが終わって、帰り際に友達とご飯を食べに……」


 素直に思い出す。そう、確か。食事もまだなのに、それが終わったらどこかに遊びに行こうという話をしながら、駅まで歩いていて。それで、帽子が飛んできて。拾おうとして……落ちた。


「あ……!」


 思い出した途端、言葉が出てこなかった。


 落ちて、どうなった? 確か後頭部を打った。声が出ないほどの痛み、体温が下がり、暗転する視界。触れはしても掴み切れなかった帽子が、再び空へと飛び立とうとする光景。それらの記憶が蘇った瞬間、こうして現実味の無い場所にいることの意味が、突如として恐ろしいもののように感じられた。


「……僕は、し、死んだ、の……ですか?」


 青葉の言葉に、ラピエルは笑顔のまま頷く。


「そう。転落事故でね。そこまで高さはなかったはずだけど、打ち所が悪かったのかな? かわいそうにね」


 嫌な予感が的中して、思わず額に手を当てた。まさか、こんなに早く人生が終わってしまうとは思っても見なかった。


両親はどうしているだろうか。友人達が近くにいたのだ、救急車はすぐに来たはずだから、病院から連絡が行ったのだろうか。葬式には誰が来るのだろう。初孫だからと何かと甘かった祖父母は悲しみに暮れるだろうか。そんなのは困る。しかし、もうどうしようもない。


 ぐるぐると、まとまらない考えが巡る。落ち着けようと、とにかく目の前の人物に話しかける。


「そ、そう、ですか……。あの、じゃあ、ここは……」

「天国なんてものじゃないよ」


 青葉の心を見透かすように、ラピエルは言う。金色の、あまり座り心地は良く無さそうな椅子から立ち上がり、ラピエルは青葉の目の前まで歩み寄った。


「ここは、ただのワタシの部屋さ。若くして不幸な事故で亡くなったキミが可哀想で、可哀想で。だから、チャンスをあげようと思ってね」

「チャンス、ですか」

「新しい人生を送らないかい?」

「生き返る、とかじゃないんですね」

「それは無理な話だよ。キミの肉体は死んだのだから。焼却したはずの息子が帰ってきたら、いくらキミを愛している両親でも不気味だろうよ」


 妙に冷静な指摘に納得する。ラピエルは続ける。


「今の記憶を保持したまま、新しい世界で新しい人生を送る。他の人と違って事前知識がある分、誰よりも有利な状況を手に入れられる。素敵でしょう?」


 青葉の頬を優しく撫でて、ラピエルは心底嬉しそうに目を細めた。


「早めに終わっちゃった分、ちょっぴり得をして生まれ変わるのさ。まあ、キミが元いた世界とは違う世界だから、ちょーっと常識は違うけど。それはそれで刺激的で良いよね」


 青葉の返事を待たず、勝手にラピエルは話を進めていく。ラピエルが青葉の両手を握ると、小さな光が二人の手に集まってくる。祈るようにラピエルが目を閉じると、ふっと光が消えた。


「あの、今のは?」

「ああ。おまけだよ。記憶がある分、混乱もしやすいと思ってさ。『想像したものを作り出す力』をキミにあげたの。端的に言えば超能力だよ。面白いもの、作ってね?」


 手を離し、横に並んだラピエルが背中を押す。手前に、いつの間にかワイングラスのような、良く磨かれた真鍮のような入れ物が浮いていた。赤黒い液体が半分ほど入っている。


「それを飲んで」


 後ろから、ラピエルがグラスを掴み、目の前にまで寄せた。


「新しい世界に行く為の準備だよ」


 おそるおそる、グラスに指が触れる。ラピエルから譲られ、グラスを手にとって見つめた。


「……あの」


 ふと、聞いておかねばならない事を思い出した。言葉の続きを待つラピエルをグラス越しに見据える。


「あの帽子は、持ち主のところに返せたんでしょうか」

「なに、急に」

「いや、僕が探して、返せたらよかったんですけど。死んじゃったみたいですし」

「人が死ぬ原因になった帽子なんて、欲しい?」


 言われて見れば、確かに。とはいえ、もしも思い出の品だったりするならば、多少ケチがついても手元に置いておきたいものではないだろうか。


「でも、きっと探しているでしょうから。その、ラピエルさんのお力で、持ち主に返したりはできませんか?」

「そうかい。優しいね、青葉は。じゃあ、とっても良い事を教えてあげよう」


 青葉のうなじに冷たい指を這わせながら、にたにたと含み笑いをしてラピエルが耳元で囁いた。


「あの場に帽子なんてなかったよ」

「……え?」


 にたー、と。グラスに映ったラピエルの表情が歪んだ。


 ぎょっとして手を離した。グラスが石畳に落ちて、大きな音を立てて割れると同時に、ほとんど反射的にラピエルが青葉を突き飛ばした。


「っ!?」


 赤い液体がぶち撒けられた地面は、底なし沼のように青葉を飲み込んでいく。


「信じられない? いやいや、本当さ。是非ともキミにも観客として見てもらいたかった。キミが一人でふらふらと後ずさって落ちるまでを、周囲がぼんやりと見つめて、いざ落ちたら慌てて駆け寄る茶番劇をね!」


 せせら笑いながら青葉の頭を踏みつけて、ラピエルは言う。


「ずーっと見てたよ、黒野青葉。君は優しいね、何よりも、誰よりも。 で、よくまあ生き残っていたものだ。その尊大さは滑稽で嗤えるが、虫唾が走る程愛おしい。だから、ねえ。ワタシ、思ったんだ。ああ、こんなに優しい子が──大勢を不幸にしたら、どれだけ面白いだろうって!」


 頭上に浮かぶ円盤が不気味に光る。後光を浴びて神々しく、しかし不吉な予感を漂わせて、視界が泥で埋まっていく中、ラピエルは静かに口元に笑みを浮かべた。


「まあ──人間に生まれ変わるとは限らないけどね」


***


 青葉が見えなくなると、ラピエルは地面に広がった赤い液体をじっと見下ろした。次第に表情から笑みが消え、を認識すると舌を鳴らした。


「あーあー、手を出さないのが神様なんじゃなかったのかい」


 何の気配も無い。姿が見えるわけでも、声が聞こえるわけでもない。しかし、確かにそこにいると分かった。それはずっとそこにいる。否、本当はどこにでもいる。誰もが認識できないだけで、確かに存在するのだ。


「こいつは助けるのか──ワタシは助けてくれなかったのに」


 贔屓だ。悪い奴め。


「なんで、ワタシが……」


 そう小さく呟けば、それはふっといなくなった。

 多分、笑っていた。


***

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