カミサマの玩具箱
灯針スミレ
◆どうにもできない不幸
◇ 00
雲ひとつ無い真っ青な空に、つばの広い白い帽子が舞う。ちょうどこちらに向かってきたそれに、
***
放課後の昼下がり。かつては世間を騒がせた大量失踪事件が起きたことで少しだけ有名になってしまった、しかし今はただただ穏やかなその街には、定期考査の最終日ということもあって、昼前には多くの地元の高校の生徒が開放感にあふれた表情で町を歩き回っていた。
高校二年生の青葉もまた、似たような表情だった。
勉強はさほど得意ではない。成績は上位を維持しているものの、机に向かって黙々と問題を解く時間は緊張するし、あまり面白くはない。だから、ようやくその緊張感から放たれ安堵していた。
「やっと終わったー!」
「返って来るまで気を抜くんじゃねーぞ」
「うるせー。赤点さえ回避してりゃいいんだよ」
友人らが楽し気に話す。その後ろをついて行く青葉をちらりと見て、友人の一人はわざとらしくため息をついた。
「いいよなぁ。黒野と
急に呼ばれて驚いたが、青葉は苦笑しながら否定的に手を振った。医者を目指す彼が言うそれは、下心や妬みを含んだものではなく、純粋に羨んだが故の発言だ。大きな目標も大層な理由もなく、ただ両親が喜ぶからという子供心だけで勉学に取り組む青葉にはもったいない言葉だった。
「いや、得意ってわけじゃ……」
「そうそう。真面目に予習してたら余裕だから。な、青葉」
言い終わる前に、青葉と同じく名を挙げられた佐々浪が、半ば無理やり青葉と肩を組んだ。爽やかな好青年という印象の彼が、からかうように笑う。途端、茶化し半分で友人らが抗議の声をあげる。
「嫌味だ、嫌味! 裁判長! 二人が俺たちを馬鹿にしてます!」
「はい、有罪~」
「何の罪だ、何の」
雑談を続ける友人らを見ながら、青葉は困ったように笑ってまた後ろをついていく。
黒野青葉は、これといった長所がない。勉強は得意じゃない。一人っ子である青葉は、両親や祖父母の期待に応えようと必死に取り組んでいるだけで、決して得意ではない。運動もまったくからっきしというわけではないが、やはり得意ではない。容貌が特別良くも悪くもなく、年齢よりもやや幼く見られる程度で、どちらかといえば地味だ。茶色っぽい黒の癖毛は、不潔に見えないようセットしてはいるものの、どちらかと言えば面倒だし好きじゃない。人当たりは悪くは無いと思っているが、広く浅く友人はいるものの、心の内から語り合えるような相手はいない。とはいえ、世間に対して窮屈だとか不満を言えるほど捻くれてもいない。
青葉は目立つものなどない、強いて言うなら少しお人よしな、どこにでもいる少年だと自負している。
その日も、単なる親切心だった。
午前の内に考査が終わり、下校途中に友人たちとファミリーレストランに行こうという話になり、最寄りの高台にある駅に向かって歩いていた。
歩道と呼べないほどの、車道と古びたガードレールの間にある僅かな白線の内側を歩く。きつい傾斜なだけあって、ガードレールの向こうはもう随分な高さになっており、しかし見慣れてしまった景色に恐怖心は無く、その高さから一望できる町並みの美しさにももはや無関心だった。
「期間限定だって」
「えー、この組み合わせはねーわ」
先頭を歩く友人らが、スマホの画面を見せ合いながら話し、そのうちに食後に遊ぶ事が決まり、ならどこへ行こうかと話題が変わっていく。青葉はそれらの会話に加わらず、しかし一緒に行動するのはほぼ自動的に確定しており、どこで何をするのかだけをぼんやりと聞いていた。
クラスでも発言力のある面々が揃ったこのグループでは、主張の少ない青葉の発言はあまり重要視されない。当たり障りの無いことを言って、最終的に決定権を持つ数名の意見に賛同するのがこのグループにおいて青葉のポジションになっている。だから、会話に加わる必要は無いのだ。
「黒野は……」
ふと、顔を上げた。
気を回した友人に呼ばれたのがきっかけだったが、その友人の言葉はそこで止まった。その場にいた全員が、ある一点を見つめて固まった。
まぶしいほど真っ青な空に、つばの広い白い帽子が浮いているのが見えた。その帽子は風に煽られて、進行方向から青葉に向かってきていた。
前を歩いていた友人たちも、周囲を歩く大人も、視線が帽子を追い、青葉の方を向いた。ぴたりと空気が停止したような空間で、帽子だけがふわりふわりと舞っている。
(あ、取らなきゃ)
何故か、そんな思いを抱いた。
取り損ねれば、きっと良くないことが起こる。誰かが傷つき、青葉はきっと後悔する。
理由のない思いは使命感を持って青葉の心を浸し、思考を停止させた。何の疑問もなく青葉は帽子に向かって手を伸ばす。
あと少し、というところで帽子は風に煽られ、青葉は数歩、車道から離れるように後退した。帽子を掴んだその瞬間、
ガクン、と。視界が揺れた。
「え」
気付けば、並んだガードレールの間から外へと出ていた。着地点を失った踵からゆっくりと、体重が下へ下へと落ちていく。時を止めていた何かが突然崩壊し、呆然とそれらを見ていた周囲の人々が動き出す。
友人たちの焦った顔が見えた。パーカーの前ポケットに無造作に突っ込んでいた、自身の財布が飛び出すのが見えた。数秒遅れてガードレールから身を乗り出す者もいた。伸ばされた手を掴もうとして、指先だけが触れ、摩擦でチリッとした痛みだけを残して離れていった。慌てた声が次第に遠のいていき、アスファルトに叩きつけられた視界が歪む。
強く打ち付けた後頭部の、数秒の浮遊感が霞むほどの痛みに表情を歪める。痛い、なんて言葉すら出ないほどの激痛の中、様々な記憶が溢れ出た。
『君、迷子?』
小学生の低学年の時に迷子になり、半泣きでうろついていたところを、通りがかった女子高生が声をかけて助けてくれた思い出。
『青葉は良い子だね』
手伝いをすると、過剰なほど褒められた事。
『小説の真似をして、大怪我をした。もうやるまい』
これは父の書庫で見た本のあとがきだったか。
『本気だって言ったら、付き合ってくれる?』
中学生の時、遊びに行った友人の家で告白された時の言葉。
肉体と精神を結ぶ複数の糸のようなものがほどけていくような感覚がした。一本、また一本と丁寧にほどける度に、思い出が白く霞んで消えて行く。
チョークで黒板を叩く先生の背中。塾の帰りにあるコンビニの前にいる猫。満員電車で初めて会話した、今の友達。
『青葉が幸せになってくれるなら、それだけでいいのよ』
母の誕生日に、欲しい物を聞いた時の答え──。
ぷつりと、最後の一本が千切られた。
再生する記録を失った空っぽの脳に送られてくるのは、明滅する視界に、絵の具で塗ったような真っ青な空と、また空へと飛ぼうとする白い帽子が映っているだけだった。
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