第八話(エピローグ)

「では、ここからは私が説明しようじゃないか」

 アンジェラ女史はそう言ってダベンポートから話を引き取ると、目を丸くしているエリーゼに説明を始めた。

「ふうむ、そうは言っても説明が難しいねえ。順を追って話そうか。エリーゼさん、実はこの意匠は魔法陣なんだよ。北の皇国の古い呪文のね」

「え?」

「知らなかっただろう?」

「は、はい」

「思った通りだ。では、このようなおまじないは聞いたことがあるかい?」

『🎼────|』


 アンジェラ女史はダベンポートも聞いたことがない呪文を詠唱した。歌のような詠唱。とても短い、子供でも覚えられそうな詠唱だ。

「はい。そのおまじないは良く知っています」

 エリーゼは頷いた。

「そのおまじないは亡くなった母に教わりました。実はそのトウシューズの刺繍は私が子供の頃に母が作ってくれたものなんです。最初にトウシューズに刺繍をつけてくれた時、これは良い演技をするためのおまじないだから本番では必ずそのトウシューズを履いておまじないを唱えるようにって言われていたんです」

「やはりね」

 アンジェラ女史の目が光る。

「それから先、私は母が亡くなった後も言いつけ通りトウシューズが痛んで交換するたびに刺繍を付け替えて本番の舞台で使っていたのですが、まさかそれがそんな恐ろしいものだったなんて……」

 エリーゼが怖そうに眉を顰める。

「いやエリーゼさん、魔法陣とは言ってもこれはそんな恐ろしいものじゃないんだ。むしろ逆だよ」

 アンジェラ女史はエリーゼに言った。

「あんたのお母様はね、それはそれはあんたの事を気にかけていたらしい。この魔法陣は簡単に言うとあんたの演技を助けるんだ。ジャンプ力を少し底上げするんだよ、そのおまじないを契機にね」

 アンジェラ女史は眼鏡の縁から上目遣いにエリーザを見つめた。

「あんたのお母様は子供だったあんたがバレエ学校への進学を許された時、少しでもバレエで成功するようにってその魔法陣を作ったんだと思う。少しでもうまく演技できるように、少しでも高く跳べるようにってね」

「…………」

「あんたのお母様はその魔法陣の刺繍を一針一針縫ったんだ。心を込めてね」

 アンジェラ女史は眼鏡を外した。

「申し訳ないけどエリーゼさん、あんたの事を少し調べさせてもらったよ。あんたのお母様はあんたが十一の時に亡くなったんだね? しかも事故で」

「はい」

 エリーゼはこっくりと頷いた。

「あんたのお母様の唯一の誤算は娘の成長を見届ける前に自分が死んでしまった事なんだ。本当だったらあんたのお母様はあんたが成長した時にその魔法陣を他の何かに替えるつもりだったんだと思う。ところがその前にお母様が亡くなってしまったもんだからそれができなくなってしまった。結果、今日まであんたはその魔法陣をつけて踊り続けていたという事なんだ」


 今ではエリーゼは真剣な顔をしてアンジェラ女史を見つめていた。息を飲み、言葉の一つ一つに耳を傾けている。

「エリーゼさん、あんたは爆発的に成長した。学校でも一番、北の皇国のバレエ団でも一気にトップに駆け上がり、そしてこの王国のエトワールになった。でもその間、あんたが成長している間も魔法陣は毎回働き、そして徐々に身体感覚と実際の動作とが乖離するようになってしまったんだろう。本格的な不調はここ数年の事だそうだが、でも実際にはもっと前から違和感を感じていたんじゃないかね?」

「はい。その通りです」

 エリーゼは頷いた。

「それはきっと、今までなんとかあんたがその抜群の身体能力で抑え込んでいたこのズレがもう抑え込めないほどになってしまったからなんだ。……ところでエリーゼさん、あんた今何歳だい?」

 突拍子もなくアンジェラ女史はエリーゼに訊ねた。

「三十、一になります」

「エリーゼさん、今まさにあんたはバレリーナとしてのピークを迎えつつある。技術も熟練し、跳躍力も強い。そこであんたのお母様の魔法陣が起動したらどうなる? あんたに今起きていることはまさにそれなんだよ」

 アンジェラ女史は言葉を続けた。

「あんたは着地地点がリハーサルと本番とで違うと言う。でもそれは当たり前の事なのさ。普通のバレリーナだったら跳び過ぎてしまうんだろうが、あんたの場合はそれを無意識のうちに身体能力でカバーしているんだろうね。だから今度は着地地点が近くなり過ぎてしまっている。事の次第はそう言うことなんだと思うね」


「エリーザさん、あんたこの魔法陣の刺繍を何個くらい持っているんだい?」

 アンジェラ女史はエリーザに訊ねた。

「恐らく、百個は下らないと思います。母は何かというとこの刺繍をくれました。トウシューズの色に合わせて何色もあります」

「ふむ、じゃあ今もすぐに使えるシューズがあるはずだね?」

「はい。今日使おうと思っていたトウシューズがあります」

「それはいい。ちょっと一つ、実験してみようじゃないか。私らはね、必ず仮説を立てて実験して、それを検証する。これをやってみようじゃないか。申し訳ないが、トウシューズを履いて舞台でちょっと跳んでおくれでないかい?」

…………


 エリーゼが舞台に上がると、突然踊っていた他のバレリーナの動きが止まった。

 皆、固唾を飲んでエリーゼを見つめている。女王のオーラ。それは、そうとしか表現の仕様がない不思議な光景だった。

 エリーゼが舞台の真ん中に移動するにつれ、自然にバレリーナの群が散っていく。

「エリーゼさん、身体は温まっているかい?」

 アンジェラ女史は優しくエリーゼに訊ねた。

「はい。それは大丈夫です」

 エリーゼが答える。

「では、最初はリハーサル用のトウシューズで跳んでみよう。一番大きなジャンプがいいね」

「では、『グリッサード』から『グラン・ジュテ』を」

「結構」

 ダベンポートは腕組みをしながら、エリーゼとアンジェラ女史が話しているのを舞台の袖から見つめていた。

 手にはすでにいつもの手帳が開かれている。

 ダベンポートの役目はエリーゼの跳躍の正確さを見極める事だ。

 それならば反対側から見た方がいいかも知れない。

「エリーゼさん」

 ダベンポートはエリーゼに言った。

「僕は反対側から見る事にする。左袖に移動するから、先生のいる右袖から左袖にジャンプしてもらえるかね?」

「わかりました」

 エリーゼは木箱に入れられた松ヤニの粉をトウシューズにつけながらダベンポートに答えて言った。

「では、跳びます」

 グリッサード摺り足からの大きなジャンプ。音もなくエリーゼの身体が舞い上がり、音もなく着地する。距離もぴったり。マークからマークへと正確に跳んでいる。

「では次だ。今度は本番用のトウシューズをつけて、おまじないを唱えてから跳ぶんだ」

「はい」

 トウシューズを履き替え、次の演技の準備をする。エリーゼはすぐに準備を整えると、綺麗なフォームでグラン・ジュテを舞った。

 再びエリーゼの身体が舞い上がり、小さな音を立てて着地する。

 ダベンポートは素早く手帳に記録してあったマークと着地位置とを見比べてみた。

「先生」

 ダベンポートはアンジェラ女史に言った。

「前回と一緒です。約五パーセント飛距離が足りません」

 手にしていた手帳をアンジェラ女史に掲げて見せる。

「想定通りじゃないか、ダベンポート。私も思ったよ、さっきよりも着地が早い」

 アンジェラ女史はダベンポートに答えた。

「エリーゼさん、じゃあ本番だ。トウシューズを脱ぐ前のおまじないもお母様には教わっているね?」

「はい。演技終了のおまじないです」

「結構。では、そのおまじないを唱えてくれるかい? そしてトウシューズを脱がないでもう一度跳ぶんだ」

「判りました」

 エリーゼが頷き、跪いて呪文を唱える。

『♬────‖』


「それでは、跳びます」

 心なしかエリーゼの顔が緊張している。

「ああ、しっかりおやり」


 演技は一瞬だった。

 ダベンポートとアンジェラ女史が見つめる中、数歩グリッサードで滑るように助走をつけたエリーゼの身体が宙高く舞台を舞う。まるで重力を感じさせない、浮遊のような飛翔。

 滞空時間が長い。右脚で踏み切ったエリーゼが前後に大きく開脚し、遠くに伸ばした左脚が舞台に吸い込まれるように着地する。

 完璧な着地。

 踏み切りの時も着地の時も物音一つしない。

「どうだい、ダベンポート」

 舞台の反対側からアンジェラ女史がダベンポートに訊く。

 ダベンポートは手帳を繰りながらもう一度踏み切り位置と着地位置を確かめてみた。

「……ぴったりです」

 ダベンポートはアンジェラ女史に答えて言った。

「リハーサルの時と同じ距離を跳べています」

…………


 その後三回ほど同じシューズでグラン・ジュテを試してもらったが、結果は一緒だった。身体が跳びすぎるような違和感もなくなったと言う。

「もう怖くなくなっただろう?」

 エンジェラ女史は優しくエリーゼに微笑んだ。

「アンジェラ先生、ありがとうございました」

 エリーゼがアンジェラ女史に深々と頭を下げる。

「ダベンポート様も」

 もう一度お辞儀。

「よかったじゃないですか」

 ダベンポートはエリーゼに言った。

「エリーゼさんや」

 笑顔のアンジェラ女史はエリーゼに言った。

「あんた、確かその刺繍が百個以上あるって言っていたね?」

「はい」

 エリーゼが頷く。

「それは全て、あんたのお母様の愛情の証なんだ。あの大きさだ、それを作るのはさぞかし大変だったろうと思うよ。大切にしなさい。それにだ」──ふと相好を崩す──「その刺繍はおそらくあんたのバレリーナとしての寿命を劇的に伸ばすよ」

「どう言う事でしょう?」

 エリーゼは不思議そうに小首を傾げた。

「恐らくあんたは今がピークだ。だが、十年経ったら衰えるだろう。跳べなくなってきた、そう感じたらまたその魔法陣を使うようにするんだ。そうすればまだまだ跳べる。ひょっとしたらあと十五年以上踊れるかも知れないよ。全く、あんたのお母様はとんでもないバレエの女神シルフィードを生んでしまったのかも知れないねえ」

「…………」

 無言のまま、エリーゼがアンジェラ女史の顔を見つめる。

 ふと、エリーゼの唇がわなわなと震え出した。

 すぐにエリーゼの頰を大粒の涙が伝う。

「……ああ、マーマ」

 エリーゼは両手で顔を覆うと静かに泣き始めた。

…………


 週末の公演の特等席のチケットを三枚、無理やりエリーゼに渡されてダベンポートはアンジェラ女史と劇場を後にした。エリーゼはリリィも連れてぜひもう一度観に来て欲しいと言う。

 今度こそ、完璧な演技をお見せできます。ぜひいらしてください。


 帰りの馬車の中で、ダベンポートはもらったチケットを内ポケットから取り出してみた。三枚ともにエリーゼのサインが入っている。

「なにニヤニヤしているんだい」

 いつもと異なり、柔らかい表情のアンジェラ女史は笑いながらダベンポートに言った。

「全く、いい歳して何をおねだりしているんだ」

 アンジェラ女史が言っているのはダベンポートが大切に持っているピンク色の袋だった。中にはエリーゼのサイン入りの真新しいトウシューズが入っている。

「何ね、このチケットとトウシューズを見たらリリィがどんな顔をするかと思いましてね」

「仕方がない坊やだねえ、全く」

 アンジェラ女史はため息を漏らした。

「ハウスメイドを気に入っているのは結構だが、甘やかすのも大概にしな」

 そう言いながら背中を馬車の座席に預ける。

「ま、とは言えそう悪いことでもないかも知れん」

 なぜか知らないが、アンジェラ女史は再び笑みを浮かべた。

「ダベンポートの坊やがそんな顔をするとはねえ……今度の日曜日か。楽しみじゃないか。一つ、そのリリィとかいうハウスメイドも私が見極めてやろう。坊やの想い人がどんな女性なのか、楽しみになってきたよ」

「僕とリリィはそんなんじゃあないですよ」

「ハ! どうだか」

 アンジェラ女史が笑う。

 夕暮れの中、ダベンポートとアンジェラ女史を乗せた馬車は再び田舎道を魔法院の方へと戻って行った。


──魔法で人は殺せない14:跳べないバレリーナ 完──

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【第三巻:事前公開中】魔法で人は殺せない14 蒲生 竜哉 @tatsuya_gamo

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