第六話

 翌日、ダベンポートはリリィが持たせてくれたアップルパイをぶら下げてアンジェラ女史のオフィスに直行した。

 一応四回ノック。

「失礼しますよ」

 だが気が逸るあまり、ダベンポートはアンジェラ女史のオフィスの『入室の儀』を忘れてしまった。

(しまった!)

 そう思ってももう遅い。ダベンポートはもうドアを開けてアンジェラ女史の前に立っている。

 ダベンポートは早朝からの落雷を覚悟した。

「ああ、ダベンポート、早いじゃないか。読めてるよ、魔法陣」

 機嫌が良かったのか、アンジェラ女史の雷は幸い降っては来なかった。

「凝った魔法陣だねえ、これは」

 そう言いながらピンク色の袋に入ったトウシューズを差し出す。

「凝ったとは?」

 突っ立ったままダベンポートはアンジェラ女史に訊ねた。勧められもしないのに椅子に座りでもしたらえらいことだ。

「まあ、中身はどうってことのないエネルギー放出の魔法陣さね。これが起動していると反発力が十パーセントほど上乗せされるようだ。どうやら謎は解けたね」

 十パーセント。反発係数その他を考えれば距離の差はおそらく五パーセント程度。数値的にはエリーゼの跳躍の誤差と一致する。

「ただ、これが銀糸の刺繍だったのには驚いたよ。こんな小さな刺繍、よく作ったもんだ」

「銀糸の、刺繍ですか」

「ああ」

 アンジェラ女史は頷いた。

「一針一針、願いを込めて作ったんだろうねえ。古いものだ。きっとエリーゼ・レシュリスカヤはこの魔法陣をずっと使っているんだよ。トウシューズがダメになるたびに刺繍を付け替えてね」

「しかし、それは変ですよ、先生」

 ダベンポートはアンジェラ女史に言った。

「エリーゼのトウシューズは一つではありません。そのそれぞれにこの魔法陣の刺繍がついているとなると……」

「ああ。たくさんあるんだろうねえ、きっと」

 アンジェラ女史は頷くと椅子から立ち上がった。

「さて、坊や、行こうじゃないか」

「行くって、どこへ」

 アップルパイを手から下げたまま立っているダベンポートはまるで間抜けだ。

「バカだね、王立芸術劇場だよ。わたしもエリーゼ・レシュリスカヤに会いたくなった。連れて行っておくれ」


 えらいことになってしまった。

 アンジェラ女史と往復二時間も馬車の中に缶詰になっていたら何が起こるか判らない。

 だが、アンジェラ女史の同行を断るだけの勇気は流石のダベンポートも持ち合わせてはいなかった。

 仕方なく、とりあえず伝声管を使ってテレグラムの手配をオペレーターにお願いする。

『イマカラ ホウモンスル トウチャクハ イチジカンゴ ダベンポート』

 エリーゼに送ったテレグラムは短かった。

 まだバレエが公演中の今なら、昼間はおそらくリハーサルをしているだろう。少しくらいなら時間を作ってもらえるはずだ。

 リリィのアップルパイはアンジェラ女史のデスクの上に置いてきた。すぐに悪くなるものでもないから大丈夫だろうとアンジェラ女史は言う。

 慎重にエスコートしながら、ダベンポートは仕立てた魔法院の馬車に最初にアンジェラ女史を乗せた。

「セントラルの王立芸術劇場までやってくれ」

 と御者に命じ、自分も観念してアンジェラ女史の隣に座る。


 アンジェラ女史は上機嫌で、道中も雷を落とすことはしなかった。逆に、北の皇国のことやそこに留学していた時のことを楽しげに話してくれる。

「ダベンポート、北の皇国の食べ物は食べたことはあるのかい?」

 穏やかに笑いながらアンジェラはダベンポートに訊ねた。

「いえ、ありません」

 いつアンジェラ女史が爆発するかと怯えながら過ごすこの会話は心臓に悪い。

「北の皇国の料理は前菜が素晴らしいんだよ。サラダとか、サーモンの冷製とかね。ああ、豚の煮こごりやキノコのマリネ、ペリメニ(北の皇国風水餃子)も美味しかったねえ、サワークリームを添えて。……ほら、お前のところには良いメイドがいるそうじゃないか」

「リリィ、ですか?」

「そう、その子にお願いして作ってもらうといい。レシピは私の所にもあるはずだからいずれ探してやろう」

 草地に囲まれた緩い斜面をくだる馬車の窓から、セントラルの街並みが遠く見える。

「……ああ、見えてきたようだ。セントラルだ」

「それにしても先生、なぜわざわざ……」

 ダベンポートは恐る恐るアンジェラ女史の気まぐれの理由を訊ねてみた。

「なに、単なる好奇心だよ。あれだけのバレリーナなんだ、どんなオーラを放っているのか会ってみたくなったのさ。それが一つ」

 アンジェラ女史が人差し指を立てる。

「もう一つは?」

 興味を持ってアンジェラ女史の顔を覗き込む。

「坊や、北の皇国ではね、バレリーナになるには三代必要なんだ」

 アンジェラ女史は突然違うことを話し始めた。

「バレリーナになりたい子が来ると、バレエ学校は最初に家系の追跡調査をするんだよ。母親、父親、祖母、祖父全てね。身体つき、太りやすい体質じゃないかどうか、筋肉の柔軟性、関節の柔軟性……。バレリーナの資質は家系の影響が大きいって考えなんだろうね」

「…………」

 アンジェラ女史はため息を吐くと、どこかぼんやりと外を眺めた。

「その追跡調査を全部クリアして、初めてその子はバレエ学校への入学を許される。それにしたって茨の道さ。バレエ学校は寄宿制だ。早朝から夜遅く、夕食後まで一日中踊るんだよ。当然食事制限もされるしね」

「凄まじい話ですね」

 ダベンポートはアンジェラ女史に言った。

 王国とは違って、北の皇国のバレエ学校には幼少の時から入るとダベンポートは聞いていた。だが、そんな年端も行かない少女達がそのような過酷な生活を送っていたとは知らなかった。

「それだけじゃない。学校の中はそれは厳しい競争社会だ。いつ友達に蹴落とされるか判らない。一度落ちたらもう終わり、たったの一回でその子のバレリーナへの夢は全て絶たれる」

 アンジェラ女史はダベンポートの方に向き直るとニッコリと笑った。

「あの魔法陣を解読できた時、だから私は思ったのさ。ああ、これは母の愛だ、母の愛の結晶なんだってね」

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