第五話

 アンジェラ女史は魔法院の北の皇国の専門家だった。歳の頃は六十歳くらい。とても博識な人だが少々気難しい。白毛の混じった茶色い髪を後ろで結い、口をいつもへの字に結んでいる姿は怖い学校の先生のようだ。

 ダベンポートはアンジェラ女史が苦手だった。ところが不条理な事にどうやらダベンポートはアンジェラ女史に気に入られているらしい。いつも最後はほうほうの体で退散する事になるのだが、訪問すれば歓迎される。

 トントントントン。

 最初に失礼のないよう四回ノック、これが大切だ。

「アンジェラ先生、ダベンポートです」

 ちゃんとドアの前で名前を告げる。これも大切。

『あー、ダベンポートかい。お入り』

 中から応答があるまではドアノブに手をかけてはならない。

「おはようございます、アンジェラ先生」

 ダベンポートは後ろ手にドアを閉めるとアンジェラ女史の前に立った。

「まあ、おかけ」

「はい」

 椅子を勧められてアンジェラ女史の前に座る。

「で、今日はどうした? どうせ北の皇国の魔法陣が読めないとかそんな話だろう?」

 アンジェラ女史はメガネを外してデスクに乗せるとニヤッと笑った。

「ご明察。実はこれを解読したいのです」

 ダベンポートはリリィが袋に入れてくれたトウシューズを取り出した。

「ほう、トウシューズじゃないか。北の皇国はバレエが盛んだからねえ」

「実はこの靴はエリーゼ・レシュリスカヤの持ち物なのです」

「ほ!」

 珍しく、驚いたようにアンジェラ女史が目を大きく見開いた。

「それはまた大きく出たね、王立芸術劇場のエトワールじゃないか!」

「はい」

 ダベンポートが頷く。

「ここを見てください」──とダベンポートはトウシューズのつま先を指で示した──「ここに北の皇国の魔法陣が作られています」

「どれどれ、お貸し」

 アンジェラ女史は耳にかけるチェーンがついたメガネを掛け直すとトウシューズの意匠をまじまじと見つめた。

「ほう、エレメントはダイヤモンドかい。これはエネルギー解放系の呪文のように見えるねえ……」

「はい」

 ダベンポートは頷いた。

「ただ、これを履いているエリーゼ・レシュリスカヤは本番だけ遠くに跳べないと言っています。それがどうにも解せないのです」

「本番では跳べない? ではリハーサルで呪文を使って本番では呪文を使っていないのかも知れない」

「それも考えたのですが、そんな理屈に合わないことをするでしょうか? どうにも解せません。ですので」

「この小さい魔法陣を私に読めと言うのかい!」

「はい」

 雷撃を警戒しながらもダベンポートは頷いた。

「その魔法陣を読めるのはおそらく院内には先生しかおりません」

「は、呆れた坊やだよ」

 そう言いながらもアンジェラ女史はトウシューズを受け取ってくれた。

「時間がかかるよ。虫眼鏡が必要だ」

「自分でもちょっと読んでみようとしたのですが、数字の3やらアスタリスクやらでまるで読めませんでした」

「バカな坊やだね! その数字の3に見えた物はзってZと同じ発音、アスタリスクはжって濁ったSと同じ発音だ!」

 まずい。そろそろ来る。

「では先生、トウシューズはお預けします。よろしくお願いしましたよ」

「ああ、明日には読めているだろう。その時はお菓子の一つも持ってくるんだよ!」

 いつものようにダベンポートはアンジェラ女史が爆発する前にさっさと部屋から逃げ出した。

…………


(とりあえずこれで魔法陣の方は解決だ)

 魔法院の池のほとりを歩きながらダベンポートは考えていた。

(しかし、魔法陣の解読はできたとしても謎は残る……)

 アンジェラ女史も一眼見ただけであの魔法陣がエネルギー解放系の呪文じゃないかと言っていた。だとしたらあのトウシューズは履けば高く、遠くに跳べるはず。

(まあ、判らんものは判らん)

 その場で解決することは諦めると、ダベンポートは早上がりにしてそのぶんリリィと長く過ごすことに決めた。

(しかし、お菓子を持って来いとはね。仕方がない、リリィに作ってもらうか)


 まだ日があるうちにダベンポートが帰ってくることは珍しい。その珍事にリリィは驚くと同時に喜んだ。

「旦那様、お茶をお召しになりますか?」

「新聞買ってあります」

「今日の晩御飯は羊のステーキ、グレイビーソース添えです。付け合わせは人参とマッシュドポテト、それにブロッコリーにするつもりです」

 なんだかよく判らないがやたらと甲斐甲斐しい。このままだと肩まで揉まれてしまいそうだ。

「リリィ、何か嬉しいことがあったのかね?」

 普段着に着替えたダベンポートはミルクティーを飲みながらリリィに訊ねた。新聞を広げ、とりあえず事件面に目を落とす。

「いえ、特にこれと言って嬉しいことがあった訳でもないのですが……」

 なぜかリリィが少し赤面する。

「最近は旦那様がそんなにお忙しくなさそうなので、ちょっと嬉しかったの、かも」

「まあ、確かに最近これと言って事件がないなあ」

 ダベンポートは頷いた。

「エリーゼの件がなかったら退屈してしまうところだ」

「エリーゼさんのトウシューズはどうですか?」

 リリィはダベンポートに訊ねた。

「ダイヤがついていたよ。どうやらあのトウシューズを履くと高く、遠くに跳べるらしい」

「高く、遠くに跳べる……」

 リリィが顎の下に人差し指を当てて宙を仰ぎながら少し考える。

「でも、確かエリーゼさんは……」

「そう、そこなんだよ」

 ダベンポートは言った。

「エリーゼは遠くに跳べないと言っている。しかも本番中だけだ。まさか誰かが隠れて魔法を終了させているとも思えない。あの魔法陣はエリーゼ本人が起動して終了させているはずなんだ。それなのになぜ本番だと調子が悪くなるのだろう?」

「不思議ですね」

「ああ、不思議だ」


 いつものように夕食は美味しかった。夕食の時間を少し早めにしたので、その分リリィとゆっくりお茶が飲める。

 ダベンポートはリリィを誘うとリビングのソファに座った。

「食後のお茶はミルクティーにしよう。どうも最近僕はミルクティーが好きなようだ」

「畏まりました」

 すぐにリリィが階下のキッチンからお菓子とお茶のセットを持って上がってくる。

「お菓子はアップルパイを焼いてみました。お口に合うかどうか判らないのですが……」

 リリィの焼いたアップルパイはきつね色に焼けていかにも美味しそうだ。中のリンゴからはシナモンの香りも漂ってくる。

 ミルクティーにしてよかった。これでお茶までアップルティーだと香りが被る。

「やあ、これは素晴らしい」

 ダベンポートは笑みを浮かべた。ふと、ダベンポートはアンジェラ女史のお菓子の件もこれで解決するかも知れないと閃いた。

「リリィ、このアップルパイはまだあるのかね?」

 ダベンポートは訊ねた。

「はい、まだたくさんあります。明日配ってきます」

 ミルクティーを入れながらリリィが言う。

「それはいい。一箱明日の朝に準備してくれるかな。そう、中には二スライスも入れてやれば十分だろう。アンジェラ女史はお菓子をご所望だ。このアップルパイなら文句はあるまい」

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