第三話

 舞台は素晴らしかった。綺麗なバレリーナ、荘厳なフルオーケストラ、息を止めてそれを見守る観衆たち……

 席は少し遠目だったが、ダベンポートが劇場で借りてくれたオペラグラスを覗いたリリィは息を飲んで舞台を見守った。

(あ、エリーゼさんだ)

 エリーゼは舞台の袖から白い衣装を着て滑るように現れると、音もなく大きなジャンプを連続して披露した。

(ほとんど反対側まで行ってしまいそう……。バレエのジャンプってこんなに跳ぶんだ)

 続けて綺麗なピルエット、男性ダンサーとのデュエット、どれも息をすることを忘れてしまいそうなほどに美しい。

〈リリィ、エリーゼが跳ぶ時の脚を良く見るんだ〉

 大きな双眼鏡を覗きながらダベンポートが小声でリリィに言う。ダベンポートは劇場のオペラグラスの他に魔法院の高性能双眼鏡を持ち込んでいた。どうやらこれで距離を測りたいらしい。

〈舞台に印が書いてあるだろう? あれが跳ぶ時の目印らしい〉

〈はい……〉

〈確かに届いてないな、何故なんだろう?〉

 これ以上おしゃべりしていると後ろの席の人に怒られてしまいそうだったので二人は口を噤むと再び舞台のエリーゼの姿を双眼鏡とオペラグラスで追った。


+ + +


 幕が降りてカーテンコールが何回も行われた後、ようやく舞台は終了した。

 客席に瓦斯ガス灯がつけられ、劇場内が明るくなる。

 魔法院の権力をあからさまに振りかざしながら、ダベンポートが半ば無理矢理舞台の裏の楽屋に歩いていく。

「魔法院だ。エリーゼ・レシュリスカヤさんに会いたいんだ」

「そんな、困ります!」

 舞台を片付けている若者が数人、ダベンポートを取り囲んだ。

「ほう? 誰が困るって言うんだい?」

 ダベンポートは若者の一人の顔を覗き込んだ。目が剣呑だ。

 ダベンポートは人差し指で若者の胸を突くと言葉を続けた。

「もし、僕が来たのに君たちが追い出したってエリーゼさんに知られたら、困るのは君たちの方だと思うがねえ?」

「……だ、旦那様、もっと穏やかに」

 ダベンポートの後ろにいるリリィの方は気が気でない。

「でも、まだ舞台が終わったばっかりですし……」

 他の若者が反駁した。

「ふん、しょうがない。エリーゼさんを呼ぶか」

 やれやれと両手でメガホンを作る。

「エリーゼさん、ダベンポートだ。ちょっと会えませんか?」

 ダベンポートは大声で騒がしい舞台の後ろに声をかけた。

「……どうしたんです、一体」

 まだ汗を流しているエリーゼがすぐに舞台の緞帳の裏から現れた。

「まあ、ダベンポート様?」

 舞台の袖で、エリーゼが驚いたように目を瞠る。

「どいつもこいつも聞き分けが悪くてね、申し訳ないけどおいで頂いたよ」

 悪びれる様子もなく、ダベンポートはエリーゼに言った。

「エリーゼさん、これは一体……」

 エリーゼがダベンポートを知っている事を察した若者たちの勢いが悪くなる。

「その方達は私の大切なお客様です。私の控え室にお通ししてくださいますか?」

 エリーゼは女王の貫禄で若者達に命令した。

…………


「事前に言って下さればもっと良いお席をご用意できましたのに……」

 控え室で寛ぐダベンポートの前に、汗を拭いて着替えを済ませたエリーゼが現れた。

「いや、急に思いついたものでね。僕も一度一流のバレエというものを見たかったし」

 エリーゼがにこりと笑ってダベンポートの向かいの椅子に上品に腰掛ける。

「それで楽しんでいただけましたか? バレエは?」

「それはもう、大変な感銘を受けましたよ!」

 ダベンポートは大きく両手を広げた。

「そこにいるリリィなんて息をし忘れそうになっていました」

 隣で縮こまるリリィをエリーゼの前に少し押し出す。

「バレエってあんなに跳べてしまうのですね」

 リリィは勇気を出してエリーゼに感想を伝えた。

「そうです。ジュテと言うのですが、大変に難しく、微妙な調整が必要な技術です。失敗すれば怪我をしてしまいます」

 エリーゼはリリィに向かって微笑んだ。

 何故かそれだけでリリィが赤面する。

「そうそう、それでその跳躍ですよ」

 ダベンポートは立ち上がるとエリーゼに話しかけた。考え事をしている時の癖で、ダベンポートがウロウロと歩き回る。

「確かに、距離が足りていないようですね。ステージにマーキングが貼られているのに気づいたんだが、あなたが目印にしているマークには届いていない」

「……はい、その通りです」

 エリーゼは頷いた。

「あのマークはリハーサルの時につけられるのです。ですから、今はリハーサルほど跳べていないということになるのです」

「今日、本番で使ったトウシューズをちょっと見せては頂けませんか? できれば持ち帰って調べたい」

 ダベンポートはエリーゼに訊ねた。

「え? トウシューズをですか?」

 エリーゼの目が大きくなる。

「はい」

 ダベンポートは頷いた。

「でも、あれは汚れていますし、今は汗で濡れていますからあのトウシューズはちょっと……」

 エリーゼは気まずそうに目を逸らした。

 それはそうだろう。女性の靴だ。脱ぎたての靴だなんてわたしだって躊躇する。

 リリィも呆れてダベンポートの顔を見る。

「旦那様、汚れた靴は流石にどうかと……」

「ふーむ、デリカシーが足りなかったか」

 ダベンポートは後ろ頭を掻いた。

 そのまま、椅子にもう一度坐り直す。

「エリーゼさん、あなたが今日お履きになっていたトウシューズのつま先には意匠がついていたはずなんです。あの意匠のあるシューズをお貸し願えませんか? できれば一度本番で使った事のある靴がありがたい」


 エリーゼは最初躊躇う様子だったが、結局はダベンポートに白いトウシューズを手渡してくれた。ちゃんとつま先に意匠が入っている。

「そうそう、この意匠が気になるんだ」

 思った通りに意匠のついた靴を手に入れると、ダベンポートはどこかウキウキとした様子でリリィに言った。

「これで面白くなるぞ、リリィ。僕の考えが正しければこの靴には何か仕掛けがある。絶対に突き止めてやる」

 一方、エリーゼからサイン入りのブロマイドを貰ったリリィはまだ夢見心地だ。

「……ああ、どこに飾ろうかしら」

 少女のような顔で虚空を見上げている。

 各々違う理由でそれぞれ上機嫌になった二人を乗せて、魔法院の黒い馬車はゴトゴトと夜の田舎道を走っていった。

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