第二話

(旦那様がわたしの事を美しいと言ってくださった……)

 鏡の前で髪の毛を梳かしながらリリィは晩御飯の時の会話を反芻していた。

 あのあとぽーっとしてしまって何を話したかよく覚えていない。だけど、なんだかとっても楽しくお話したような気がする。

 ぽーっとしていたのでキッチンではお皿を落とした。幸い鋳鉄のお皿だったので問題はなかったのだが、これが陶器だったら大変な事になるところだった。

 そもそもリリィは小心者だ。下手にお皿を割ったら死んでしまうかも知れない。

「ナーオ?」

 キキがリリィの脛で頰を擦る。もう寝ようよの合図だ。

「そうね、キキ、もう休みましょう」

 リリィは手を添えて鏡の横のランプをそっと吹き消すと、キキを抱いて月明かりに照らされたベッドの中に潜り込んだ。


 一方その頃ダベンポートの書斎では……。

 ダベンポートはインデックスを取り出すと、それらしい呪文を調べていた。

 飛距離が狂う? 重力制御か?

 あるいは振動? 舞台に細工がされている可能性もある。

 あるいは知覚が狂わされるのかも知れない。強力な超音波を当てれば見当識が一時的に麻痺する可能性もある。

 だが、どれも大掛かりすぎてどうにも現実的に聞こえない。

「うーむ」

 ダベンポートはため息を吐くともう一度エリーゼの姿を思い出してみた。

(あの白いトウシューズ、そういえばつま先に意匠があったな)

 ダベンポートは思い出した。ひし形だと思って見逃したが、あれが魔法陣なのかも知れない。

「やあ、しまったなあ」

 思わず宙を仰ぐ。

 仕方がない。観に行くか。

 正直、バレエには興味がない。だが、美しい女性がくるくる回っているのを観るのも一興だ。

(そうだ、リリィを連れて行ってやろう。きっと喜ぶ)

………… 


 エリーゼ・レシュリスカヤの舞台は高価たかかった。まあ、魔法院の払いだ、気にする事はない。

「ふわー、すっごい値段ですね」

 途中、気まぐれで買ってあげた黒いうさぎの円筒状の帽子をかぶったリリィが息を飲む。

「まあ、思いつきだからね。事前に話しておけばチケットを用意してくれたかも知れないが」

 窓口で二人分、夜の部のチケットを受け取る。開演は六時半、開場は六時だ。

「終わるのは九時半か……先に何か食べておいた方がいいかも知れない」

 ダベンポートはリリィと共にオープンテラスのフィッシュ&チップスのお店に入った。

「たまにはこういうのも悪くないだろう?」

 お店は中で注文して、後からウェイターが食事を持ってきてくれるタイプのお店だった。ビールなどの飲み物もおいてあるようだったが、ダベンポートは炭酸水にした。リリィにも同じもの、フィッシュ&チップスはオヒョウハリバットとサーモンを選ぶ。これを二人でシェアすれば色々な味を楽しむことができる。

 このお店のフィッシュ&チップスはちゃんとお皿に乗って提供された。店によっては紙に包まれて出てくるが、さすがはセントラルの王立芸術劇場の前の一等地、お店もなんとなく洒落ている。

「やあ、美味しそうじゃないか」

 おしゃれなお店だけあって、ナイフとフォークも一緒に供された。テーブルの真ん中にはお酢モルトビネガーやレモン、塩、タルタルソースなどが並べられている。フィッシュ&チップスは基本的には素手で食べるフィンガーフードだが、ナイフとフォークがあると手が汚れなくて有り難い。

「美味しい! この衣はどうやって作るのでしょう?」

 カリカリに揚げられた熱々の魚のフライやポテトフライを食べながらリリィが歓声を上げる。

「ポテトは素揚げ、魚の衣にはエールが入っているんじゃないかな?」

 自分も魚を頬張りながらダベンポートは言った。

「ほら、衣の色が少し濃い」

「エール……。おうちではちょっと難しそうですね」

「そうだね。魔法院の駅前にもフィッシュ&チップスのお店ができたら流行るかも知れないなあ」

 ふと手を休めると、炭酸水のグラスを傾けながらリリィは周囲を見回してみた。

 どの人もみんなお金持ちっぽい。合理服を着ている人はほとんどいない。みんなドレスアップして、髪も綺麗にセットされている。

「……上流の方が多そうですね」

 リリィはため息を吐いた。

「まあ、安い演劇じゃないからね、バレエは。大方彼らはエリーゼの出身地である北の皇国の料理でも楽しんでいるんだろう」

 ダベンポートは皮肉っぽく鼻を鳴らした。

「その点、我々はしがない庶民だ。気楽にしよう。雰囲気に飲まれてもつまらない。バレエが終わったあとで僕らがエリーゼと会っていたら、彼らきっと度肝を抜かれるぞ」

…………


 食事が終わった時、お店はちゃんと手を拭うための換えのナプキンを出してくれた。高級な店ならこれがフィンガーボウルになるのだろうが、流石にフィッシュ&チップスにフィンガーボウルは似合わない。

 ダベンポートは丁寧に両手を拭うと再び白い手袋を身につけた。

「これをしていないとどうにも落ち着かん。職業病だな」

 ニコリとリリィに笑ってみせる。

 一方のリリィはミトンの手袋だ。上流の人は革の手袋とかハンドマフ(両手を入れておくための円筒形の防寒具)とかを持つんだろうか?

 持つんだろうな、きっと。ミトンの手袋じゃあなんだか労働者みたいだ。

「……暖かそうじゃないか、そのミトン」

 そんな様子のリリィを見ながら感想を述べた。

「人々はファッションよりも実用を取る。きっとこれからの世の中はもっとそうなっていくと僕は思っているんだ。だったら僕たちは時代を先取りしている事になる。流行の超最先端さ……さあ、舞台が開く。そろそろ行こう」

 ダベンポートは笑顔を見せると、リリィに肘を差し出した。

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