新説『牡丹燈記』

ねくす

新説『牡丹燈記』


 今は昔、明州に金蓮きんれんという侍女がおりました。湖西の粗末な家に住み、美しくも悲しい顔ばかりする女主人の麗卿れいきょうに仕えること十余年、その日は五夜にわたり提灯をともす灯節の祭の明かりが遠くに見えたものですから「麗卿さまの御気分も幾分か晴れるはず。こんなにもお美しい人が廃屋にこもっていてはなりません」と冷たい手を引き、お連れして、牡丹の花を模した提灯を手に街へ見物に行きました。

 思いのほか道のりは遠く、往路は高揚気分も相まって軽やかだった足取りも、いよいよ人もまばらな夜更けとなっては重いばかり。街行く人の提灯明かりも途絶えがちになったとき、門に立つ男が一人、金蓮の牡丹灯篭を見て、次いで後ろの麗卿に視線を向け、こそこそと吸い寄せられるように歩いてきました。麗卿が振り返って見せた姿は薄明かりに照らされて、いかにも優麗な十七・八そこそこの乙女と見えたことでしょう。しかしながら、その笑顔は憂いを帯びておりました。祭事の乙女は花のように笑うばかりと思っていた男は、思わず声が出てしまったのでございます。

「この街の人では無いでしょう。灯篭はお嫌いですか。なぜそのように悲しい顔を」

「はい、これを連れて見物に参りましたが、他に見知った方も居りません。私には月明かりの方が優しくさえ思えますから、そろそろお暇しようかと」

「私も灯篭を見る心地がせず、夕暮れから無為に過ごしていたのです。どうでしょう、私の家は他に家族も居りませんから、遠慮することはありません。少し休んでいらしては」

 間を置いて「そう」とだけ答えた麗卿は思案する素振りを見せて、提灯を持った侍女の方を振り返り、目を伏せて、首を横に振るのですが、その姿は相手には見えません。金蓮が二人の間に立ち、主人の思いを代弁して言うことには、

「ありがたきお言葉。ちょうどくたびれて困っていたところです」

 牡丹の提灯が道を照らし、その男が言う道を歩けば家の門は近く、中を通って座し語り合う男女には各々の似た境遇に心を通わせ合った様子です。

「私は喬生きょうせいという名の者です。今日という夜は皆が意気揚々と軒先に灯篭を下げ、若い女たちは各々に飾り立てた提灯を手に、赤く薄ぼんやりとした光に照らされ見物に来ます。光の加減はまやかしです。先日亡くした妻の面影を見てしまうのは、きっと心を患っているからなのでしょう」

「嗚呼、可哀そうに。わたくしも家族の者を亡くしました。父は地方長官に仕える役人でしたが、病に倒れ、母も後に続き、家が零落してからというもの、頼れる兄弟も親類もございません。今や湖の西にある侘しい家で金蓮と二人――いいえ、お忘れください。わたくしは姓は符、名は淑芳そうほう、字は麗卿と申します」

 静かに席を外した金蓮は戸を一つ隔てて耳を澄まして膝を抱え、そこに嫉妬のような暗い気持ちが無いかと問われれば嘘の答えようもありませんが、ひとえに麗卿のためを思って灯篭の火を吹き消します。まるで無き者のように音を立てず息を潜めて、一夜は更けていくのでありました。


 早朝のうちに別れの挨拶をして立ち去るも、夕方になれば再び麗卿の顔は心苦しい様子に元通りでございます。またもや気を案じた金蓮は、主人の白い手と牡丹灯篭を片手に連れ出して、同じ道を歩きに歩き、同じく門にもたれ心憂げな喬生と再会すれば、同じ夜の堂々巡りが続きました。金蓮は戸の外で小さく丸く身を屈め、瞼を閉じ、耳を澄ませば朝が来ます。灯節の祭が終わってからも逢瀬の日は続きに続き、とある凡庸な夜のこと、金蓮は物音に目覚めて暗闇を見ました。老人が壁に穴を空け、中の様子をうかがう姿がありました。寡婦暮らしの喬生に夜な夜な尋ねる者がいると気づいた隣人が、興味と不審を半々に覗きをしたという次第です。年輪のごとくシワを刻んだ老人が冷ややかに顔面を強張らせると、胸の動悸に背中を丸め、ゆっくりと壁から離れます。不吉なものを予見させる立ち振る舞いは、見たものがあまりにも驚愕だったのでしょう。潜む金蓮には気づかぬ様子でぼそりと声を漏らします。

「怖ろしや、ついに喬生も狂ったか。添寝するは髑髏であるぞ。しかも化粧の髑髏であるぞ」

 老人が静かに迅速に逃げ出した後のこと、金蓮は物思いに耽ります。見られてしまった。いっそ殺してしまおうか。いいや、それほどの罪を犯したわけではあるまいに、殺生はならぬこと。これ如何に、私は如何に。麗卿様を救う手立てが得られるのなら、一夜にして魂を献ずることも厭わぬというのに。


 翌日のこと、長手の箱に腰掛けて夕暮れを待つ麗卿と脇に控える金蓮のところに来客がありました。二人は驚き、とても悲しい顔をして、その男が喬生だということを知りました。あの老人から忠言を受け、正体を確かめに来たのだと金蓮が察したところで手遅れでした。喬生は部屋を調べるばかり、麗卿と金蓮の姿を見ることができません。背もたれの無い長椅子のような箱には紙が貼られていて、読み上げていわく、

故奉化符州判女こほうかふしゅうはんじょ麗卿之棺れいきょうのひつぎ

 金蓮の視界からも麗卿の姿は消えました。そこは湖岸の廃屋などではなく、湖心寺という寺の西廊下の行き詰り、葬られることさえ忘れられた棺桶には牡丹飾りの提灯が立て掛けられておりました。金蓮と喬生は目が合います。しかし、彼が見たのは子供の侍女ではなく棺桶の脇に立つ副葬品の絹人形で、後ろに回れば背中の貼紙に「金蓮」の二文字があったのでした。


 亡骸は棺桶の中にあろうとも、成仏できぬ霊魂は棺の上で嘆き悲しむばかりです。もはや金蓮の慰めの声も届きません。より一層つらいだけの夜が来ることになってしまったのですから、金蓮も後悔の念を抱いていました。怯えた顔をして逃げ去っていった喬生が戻ってくることもありません。侍女の姿となった金蓮は麗卿の背中に抱き寄って「私が連れて戻ります。どうか気を確かにお待ちください」とささやくと、牡丹灯篭を片手に月明かりの夜へと駆け出しました。

 喬生の家は固く門が閉じられ、開けようにも不思議な力で応じることができません。叩いて声を上げたところで返事の一つもありません。仕方無しに金蓮は方々の噂を聞き集め、喬生が道教寺院の高僧に邪鬼払いを願い出たこと、二枚の札を受け取り一枚は寝床に、もう一枚は肌身離さず持ち歩いているとの旨を知りました。これでは家への訪問も出先での邂逅も叶わぬことは明白でしたが、金蓮の決意は固く、寒さ暑さに疲れも知らない体でしたので、ひたすらに門の前で待つこと長く、外出の折も離れて後を追い、何事も起こすことはできぬとも付かず離れずのまま時間だけが過ぎていきました。何度も昇っては降りていく太陽と、満ちては欠けゆく月を見上げては残してきた麗卿の心を案じ、事が皆にとって良きほうに傾くことを祈るのでした。

 怪異がぱったり収まったことに油断したのか、気晴らしに友人宅で夜更けまで酒を飲んだ喬生は帰りの近道が湖心寺の前に通じていることも忘れて歩きます。木陰の裏から少しづつ距離を詰めていきながら、もしやと金蓮は思います。獣道を風のように走り抜けて先回り、月明かりの下で湖心寺の門に立つ金蓮の前に喬生が現れます。ついに、紅に光る牡丹灯篭を掲げる時が来たのです。

「麗卿さまがお待ちです。どうか、お入りくださいまし」

 慌てふためき襟や袖を探るばかりで喬生は動こうとしません。

「お札はどこかにお忘れのようですね。そのようなものに頼らなくとも、あなたは己の本心で向き合うべきなのです。麗卿さまへの愛の言葉は嘘だったのですか。あなたは別れの言葉も弔いも無い非情な人なのですか。私には、高僧が札を与えてあなたを導いたようには思えません。思いがけぬところにある道をお隠しになってしまわれた。私には高い徳も叡智も備わってはいませんが、ただ役目を全うするために、こうしてあなた様をお連れするべく参上したのでございます」

 金蓮が喬生の手を取ったとき、覚悟のほどは決まっていたのでありましょう。牡丹灯籠の赤い光が湖心寺の暗い回廊を照らし出し、足音立てずに奥の部屋まで導くと、女のすすり泣く声も収まって、まるで灯節の祭りの初夜のように悲哀と歓喜の入り乱れた麗卿の顔が二人を迎えたのでした。

 麗卿は棺から降り、距離を詰めること数歩、白い手を出し顔は伏せ「わたしのところへ来て頂けませんか」との問いかけが静かに消え入ります。喬生は手を取りました。すっと棺へ引き寄せられると、蓋が開き、霊魂と人間とがまるで恋人のように重なり合います。「こちらへ」と言ってはじめに麗卿が、次いで喬生が棺の中へ入ります。棺桶の蓋は閉じました。床に絹人形がことりと落ちて灯篭の火も消えてしまえば、何者も何事さえも包み隠すに十分な、夜より暗い闇が訪れるのでございます。


 金蓮が牡丹灯を掲げて歩く後には、睦まじく手を繋いだ麗卿と喬生が続きます。例えば雲の無い昼、例えば月の隠れた夜、三人の姿を見かけた人々は言い知れぬ胸の不快感や目のかすみ、喉奥の刺々しさ、耳鳴り、指先の痺れ等々を訴えたものですから、医学と霊術に心得のある鉄冠道人に治癒を求めた人々が山の頂まで長々と行列を作りました。何やら慌ただしい様子で行列の中を割り込み割り込み、先頭へと躍り出たのは喬生の隣に住む老人でした。

「ひと月も戻らぬ喬生の奴が髑髏の女と歩いておった、わしゃ忠告したのじゃ、道教寺院の高僧様にも霊験あらたかな札を承ったはずなのじゃ、然りして、然りして」と声を張り上げると、最後まで言い終わらぬうちに苦しみ出して地に倒れます。まるで不吉なものを見るかのように、等距離だけ離れた人の輪が作られます。

「お可哀想な人だこと」

 死体のかたわらに人影がふつと現れます。「出たァ」と群衆の一人がおののき、人の輪が波紋のように広がります。その日はまさしく厚い雲に太陽が隠れておりました。

「私はこの世に違えるものゆえ手を触れることができません。ですから、あなたがたがお助けください。さあ早く。ご老人の息は絶え絶えです、ああ、なぜ遠くへ行くのです。あなたたちは人でしょう。ここに居られるのも人でしょう。私は不思議でなりません。この人は持病で胸が悪いのです、なのに無理をなさるものだから。それだけのことなのに、それなのに、あなたがたは同胞を見捨てるというのでしょうか?」

 金蓮は知らず知らずのうちに声を荒げていたものですから、怯えた人々は散り散りになりまして、急いで坂を駆け降りる人々は混沌を成し、転んだ人は後ろの足に潰されて、首や背中の骨を折ったり、運の悪い者は命を落としたりもしたのです。老人のかたわらに金蓮はしゃがみ込み、憐みの目で白髪の後頭部をさすります。二人の次元は違えておりましたから物理的に触れることは叶いません。安らかな顔をして老人は息を引き取りました。金蓮の小さな口が動きます。「これ殺生だとするのなら、手を下したのは私か人か、それとも定めか」

 ただ一人、鉄冠道人だけが現れました。極太の眉毛の間にシワを寄せ、目尻は吊り上がり、杖の打ち鳴らしてがつがつと下駄で地を叩く音頭は憤怒の形相です。

「妖め、こやつが人の世を騒がした張本人か。己が罪を吐くがよい。さもなくば」

 懐から出した札を放つと、さっと焔が舞い上がり、火炎と煙の間から金剛鎧と兜の武者がすくりと立ちました。武人の鎖は弁明の間も与えず金蓮の体を絡め取ります。手の下に牡丹灯篭がだらりと垂れて揺れました。

「私は奉化符州判女、麗卿さまに仕える侍女の金蓮と申します。竹札を骨とし絹布を身体にした形代ではありますが、人を模すこと巧妙の技、名を与えられると魂の機微まで備わりました。ですから主人のために働くことができたのです。麗卿さまの霊魂と人の男を引き合わせたのは私です。彼らは愛し合っておりました。男はその人のもとへ行くことに決めたのです。男の名前は喬生といいます。二人のお身体は湖心寺の棺で抱き合っておりますが、心は自由、睦まじく手をつなぎ、今や外の世界を巡り廻っているのでございます」

 鉄冠道人は怒りをつのらせるばかりです。その矛先は金鎧の武者にも向けられて、唾を飛ばしながら叫び命令して言うことには、

「妖の類をのこのこ人の世に歩かせておって、図体ばかりで警備の役にも立たん武者どもめ。早く捕えて連れてこい、淫らな霊は死体もろとも焼き祓ってしまおうぞ!」


 さらに数枚の札が燃やされて、幾方向にも金色の武者が練り歩けば如何なる魂も逃れようはありません。たちまち麗卿と喬生は枷につながれ鎖を巻かれ鞭うたれ、血を流すまで痛めつけられる姿は哀れです。もし金蓮に心というものがあるのなら、憐みや悲しみや苦しみがもたらす疼きこそ何より締め付けるばかりで緩まない真の鎖なのだと思います。

 騒ぎを聞きつけた湖心寺の僧たちも集まって、西廊最奥の部屋で棺の蓋は空けられました。麗卿の死体は生きているかのように麗しく、喬生の顔には生前の憂いは微塵も見られず、それを見た僧の一人が「申し訳ないことをした」と溜息をつきました。「このお嬢様は十七の時に亡くなられた時のお姿そのままです。親類の方々が棺を仮に置いたまま北へ向かわれ消息を絶つこと十二年。まさか人を祟ることになろうとは怖ろしいことでございます」

 金色衣装の武者たちは罪人を床に投げ出すと背中の荷物をほどいて祭壇を組み立て始めます。両脇に立てた燭台に緑色の火を灯し、最上段に鉄冠道人が鎮座しました。盛大に鈴を鳴らして一同の注目を集めます。いかにも場を仕切る意欲は満々、我こそは裁定を下す判事なり、といった様子でありました。

「現世を迷える霊魂の男が一人、女が一人、形代が一人、これより弁明の時を設け給う。その声を聞くは天上世界で邪を切る官吏の右耳、かたや冥途で悪を罰する鬼人の左耳と心得よ。供述は書に記すこと五行を上限として超過に至れば問答無用、いざ語れ!」


 はじめに麗卿が語りていわく、

「人としての生を全うできず、ねんごろに葬られることさえ無い寂しさのあまり人を惑わしてしまいました。この罪は許されるものではありません。どうぞ罰してくださいませ」

 次に喬生が語りていわく、

「夫婦としての生活がままならぬまに妻を亡くして己を見失っておりました。たとえ覚悟の上であっても、命を軽んじた罪に変わりはありません。いかにも罰していただければと存じます」

 最後に金蓮が声を荒げていわく、

「お二方、どうか嘘偽りない気持ちをお叫びください!」


 凛と響き渡る少女の声に一同は目を見開くと、思わず背筋をピンと伸ばして鼓膜と琴線とに響く演説をしかと受け止めたのでした。

「私は不思議でございます。なぜ私たち妖の者が責め立てられればならぬのでしょう。ここにある棺をあなた方は見捨てたのです。荒野で行き倒れた旅人でさえ、鳥と夜空と草木と大地とが優しく弔うというのに、こんなにも暗くてせまい所に閉じ込めてしまわれた。ここに手を差し伸べたものはおりません。だから私が生まれたのでしょう。たとえ人の世を知らぬ人外であろうとも、人を思うて生まれた我が身を、その主人に尽くすのは当然のことでございます。その細く青白い手を引き、赤く艶やかな牡丹灯籠の光を灯して街に出れば、その人々の様々たること、もはや妖との区別に道理があるようには思えません。もちろん妖の様にて妖の咎を為すものは人智を超えた御力で退治なさねばなるまいでしょう。けれども、妖の姿で本質は人、あるいは人の姿で本質は妖の者たちが罪も作らず暮らすのならば、その者たちに天誅は不要です。わたしたちはそのようにしていたではありませんか。人目を忍んでお会いしていただけなのに、何も知らずに騒ぎ立て、悪なる者だと吹き込んで禁ずること強いること、知らぬ存ぜぬで済ますのならば、我々も人の都合など切り捨てたく存じます。嗚呼、この黒染めされた絹糸の髪も天まで逆立つ思いです。人間とはなんて傲慢なのでしょう。道端の草を踏み潰すような生き様と、毒霧を吸って瘴気を吐くような愚かさをいい加減悔いたらいかがです。それとも冥土送りをお望みですか。いいでしょう。死んだ人間の気持ちは死んだ人間にのみ分かること。その身を持って知れば人の世も幾分か良くなることでございましょう!」

 金蓮の小さな体が飛び上がると、金剛武者の錫杖を引っ掴み、背丈の二倍はあろうかという長物で風を切るように横へ一振り、その勢いは凄まじく、武者の巨体が倒れて床を滑り、壁に打ち当たる衝撃で部屋の空気が震えます。鉄冠道人の脇に控えた武者の一人が大太刀を縦に振り、横に振り、しかし金蓮の絹布を斬ること叶わず、反撃に籠手を払って兜に一打ち、間髪与えず胴の鎧が一突きされると、錫杖の金輪がついた先端が背中を破って血に濡れて、引き抜きざまに肉を抉って倒します。我れ先にと出口へ逃げる僧たちが明かりの蝋燭を投げ捨てたものですから、格闘戦の最中に火は炎となり燃え上がり、柱を這って崩れ落とすのも時間の問題です。金蓮は鋭い眼差しを鉄冠道人に向けると、錫杖を構えて戦闘態勢に入ります。すでに手下の金色武者は全員が床に伏しており、霊術を行おうにも火のついた祭壇は二つに割れて使い物になりません。鉄冠道人は成すすべもなく、青ざめた顔に暑さと恐怖の汗を流して歯を固く食いしばります。なぜ侍女を模しただけの人形に、これほどまでに圧倒的な霊と妖が宿るのか、道人は長い人生を思い返しても説明できるだけの解を導くことができません。もはやこれまで、と目前の敗者が覚悟を決めたとき、金蓮を後ろから優しく抱き留める手が現れました。膝をついて頭の高さを合わせた麗卿が耳元でささやくのでした。

「もうよいのです」

 金蓮の心は虚しく、ほとんどが空っぽでした。周囲では轟々と炎が燃えたぎる一方で、自らの内面は波風の立たない水面のように静謐で、そこに悲哀の雫が一滴、ぽたりと落ちる音に耳をすませて金蓮が思うことには、人のように泣けたら良いのにと、それだけでした。

「金蓮、よくお聞きなさい。たった今、わたくしに天神さまからお告げがありました。我々の罪は赦されたのです。わたくしと喬生とは天へ召されることになりました。しかし、あなたには大事な使命があるとのこと。人にあらずは天へ召すに能わず、しかりて人に足るべく精進せよとの仰せです。先ほどの、何よりも強い意志を見込んで神々が力をお与えになったのですから、使い方を間違えてはなりません。よもや人より深く人の道理に通じることが叶えば、やがて人を導くことさえできるだろうと大変な期待を寄せております。光栄なことです。あなたと別れるのは寂しくて仕方がありませんが、わたくしはもう、一人ではありませんから」

 喬生が麗卿の肩に手を置きます。二人は並んで立ちました。背後の火柱が門のように裂けたことには、神界への入り口が開かれたと言われております。かたわらに落ちていた牡丹灯籠を手に取ったのは麗卿でした。金蓮はうやうやしく頭を垂れて、淡く火を灯す灯籠を受け取りました。

「麗卿さま。しかるべき時を迎えたあかつきには、どうか本物の小さな人間として、お仕えさせてください」

 穏やかな微笑を返して二人の霊魂は火の中へと静かに消え入りました。きびすを返し、金蓮が行くのは浮世の道です。火の部屋を出て、燃え立つ湖心寺を背後に、前方の夜道を牡丹灯籠の淡い光が照らします。世と人の真理を求めて歩き出した小さな人形の顛末は、天人妖鬼でさえ知り得ぬ未知の霞に隠れております。後に語られることには、事の顛末を知らぬ人々が鉄冠道人に礼を言おうも山奥の庵に人は無く、焼け落ちた湖心寺の僧を迎えた道教寺院は口の聞けなくなる病が広がったとのことですが、それでも庶民に害は無く、幾十年の平穏な日が過ぎたというのは何とも慈悲深い計らいでございます。

 幼き金蓮が人の世と神の世を巡る話はまた何かの折に、今宵は牡丹灯籠の火を吹き消して静かに眠ることといたしましょう。それでは、良い夢を。


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