たったひとつの鈍いやり方 16
竜に触れ、その鱗の熱に触れて。
そして、ヘレナは大地を睥睨する。
大地は穴ぼこだらけで、至るところに水が渦を巻いている。
溶岩のようなものさえも噴出していて、これが王都だとは思えない。
まるで地獄。この世の混沌を煮詰めたような光景だった。
己の生み出したかったものの、その結末には相応しくない画だ。
もっと神々しくて、輝いているものを、彼女は求めていたのに。
「こんなものか」
「どうしたんだい、勇者ヘレナ」
「いや、なんでもないとも」
厳めしい面をした女が声をかけたので、ヘレナは口の端を歪めて、振り返る。背後に立つ彼女もまた、空に浮かんでいた。全身にまとう雷を見るに、とぼけた表情をしているが、おそらく竜の予想だにしない攻撃から、己を守りに来たのだろう。
ヘレナは、彼女のこともまた知っている。
いや、聞いていた。
「フィーラ=クレオンディーネだな。私を勇者などと呼ぶ必要はない」
「知らん。オーステンがそう呼んだから私もそう呼ぶのだ」
オーステンの名を、フィーラは口にする。
今日だけで何度耳にしたことだろう。
彼によって、己の目論見は打ち砕かれたのだ。
「オーステンか……あれはどんな男だったのだ」
「エルマンの語りでしかお前は知らないだろうが、意外に筋肉があった」
「くはは。それがすべてか?」
思わず笑いだし、そして、首を傾げる。
愉快な女だと思った。
フィーラは、至って真面目な表情で言葉を返した。
「それくらいで語られるほうがあいつは喜びそうなのでな」
被虐的だな、と言いかけて、ヘレナは口を噤む。
眼前の女は、その真面目な顔つきのままで、何かを言いかけていた。
「聞きたいことがあるのだが」
「ふむ?」
サニャの生み出した泥が、みるみるうちに魔竜の手足を飲み込んでいくのを見ながら、その見事な戦いっぷりに、この世界にアイナ=レシュカなどいなくても大丈夫だったのかもしれないと思いながら、最後の勇者ヘレナは、耳を傾けた。
「そのなんというかな、私は貴殿を殺そうとは思ってはいない」
フィーラ=クレオンディーネは、潜めた声で言った。
「結局、この世界からアイナがいなくなっても、竜は生まれ続けるのだろう。ならば、貴殿が再びこの世界の勇者となって、竜を倒すという道は、ないのか。私も私の子孫たちも、できるかぎりで協力を惜しまないぞ。それが世界のためならば。」
その嘘偽りのない声色と顔つきに、思わずヘレナは笑い声をあげた。
「かはははっ。愚直にして真面目な女よな」
「私は最善を尽くしたい。その道があるのなら、誰も望まずともそうする」
「うむ、よい考え方だ。だがそれももう、過ぎてしまった道ではある」
「過ぎてしまった……道?」
「うむ。私が勇者となって世界を救う試みは、百年続けても、失敗したのだ」
この女の前では嘘など何一つつけそうもない。ヘレナは、オーステンという男がなぜ彼女を選んだのか、分かった気がした。そこにひとかけらの運命がなくとも、惹きつけられる人間とはいるものだ。自身がかつて愛した人間もそうだった。
しかしながら、ヘレナはそれについてもはや語るつもりはなかった。
いや、むしろ、それ以上に彼女の口は滑らかに動いたのだった。
「私はもう十分に勇者を尽くしてきた。勇者にできることは、もうないのだ」
「全てではないだろう。だから、」
「無論、今、お前たちとやっているようなことは初めてだとも。だが、勇者アイナを諦めるばかりか、この身を危険に晒して、竜から人間を引きずりだそうなど、そんなのはこの世界の天秤を滅びへとかたむける行為以外の、なにものでもないぞ」
偽らざる本心であり、偽らざる真実だった。
彼らの行いは、世界のためにできる最善ではない。
これは彼らの、彼女らのエゴだと、ヘレナは本気でそう思っていた。
「では、私たちとは相いれないということか?」
「違う。共に戦っても無駄だと、そう言っておるのだ」
「ほんのかすかな可能性もないというのか?」
「そうだ。お前たちの行いはエゴだから、この世界は早晩に滅ぶ。世界を永遠に救うためのたったひとつの方法、アイナ=レシュカを、お前たちは壊したのだから」
そう言われて、フィーラはかすかに俯いた。
勇者の重みというものが、ようやく分かったらしかった。
「それはきっと……言い訳のしようもないのだろうな」
「そうだ。だがまぁ、エゴ以外に、人間を動かしえるものなどないのかもしれぬ。あれがエゴならば、これもエゴだ。それ以外には何も存在すらしないのだろう」
ゆえに、彼女は嗤う。
「だから許そう。お前たちが、この世界の者たちが、そして私の子孫がそれを望むというのならば、私は容赦せず徹底的にやろう、やってのけようではないか。たとえそれが私の選ばなかった道で、失敗でしかないとしても、それを望むのなら、」
そう、彼女は邪竜に、手のひらを押し当てた。
「やってやろうとも。――『万物聖剣』」
直後、エラミスタが大弓を構えて、それを射ち放った。歌い矢じりを仕込んだ矢が、天空に刺さり、そこから、声がこぼれる。ララ=リオライエンとハルティア=ラングを呼ぶ声。天に響き渡るのは、レイエルと、エラミスタの歌声である。
それにより、竜の動きが更に緩慢となる。もはや静止しているといってもよい、その竜の耳朶にレイエルの声が届いている。聞こえているのか、いないのか。ララは生きているのか、いないのか。誰にも知ることはできないが、信じることはできる。
サニャがそうするように。
オーステンがそうしたように。
信じることだけはできるだろう。
だが、そうしないものもいる。
たとえば勇者ヘレナには、それをする気など更々なかった。
彼女は、何も信じていないのだ。
だから端からそのつもりで、ここまで来たのだった。
そのつもりで、やってやる気なのだった。
「さてさて死ぬまで踊れればよいがな」
右手が再び腰に伸びて、そこから現れたるは竜魂剣。
無量箱には初めから、二本の剣が入っていた。
アダロが奪ったそれと、アダロから作り出された、それ。
ヘレナの口が耳まで裂けるかというほどに吊り上がった。
「ララ=リオライエン、お前の黒蛇、貰い受けるぞ」
右手に剣を持ちながら、勇者ヘレナは、竜に触れるその左手を輝かせた。
まばゆい光が溢れて、そして、見る間にどす黒く染まっていく。
実体をもはや持たない黒蛇、それが今まさに顕れているのだ。
ここだ、
そう気付いて、フィーラ=クレオンディーネも動こうとする。
しかし、その首には驚くべきことに、竜魂の剣が突きつけられていた。
その剣の担い手は、もちろんヘレナという名の竜女である。
「どうしたのだ、勇者ヘレナ!」
「ふふ――呪言に依りて竜と成る。『黒蛇よ、我が身に移りてこの身に巣くえ』」
女が唱えた。
朗々と響きが宣告となり、呪術が、かたちづくられていく。
「なに!? なにをするつもりだ!!」
答えはない。
ただ、黒縄のように、蛇がヘレナの腰に巻き付いた。
どす黒いあざが浮かんでは、竜脚の鱗がその領域を拡大する。
白磁の肌が無残にも食い尽くされていく。
成る。
成り果てる。
「まさか貴様、竜に!」
フィーラが気付いたときには、しかし、次なる出来事が起きていた。
それは、それはまたしても声だった。
黒蛇を飲み込んでいく勇者のかたわらで喚き叫ぶは、邪竜。
そしてその声の、その奥底に、フィーラはたしかに彼女の声を聞いた。
答えたか、答えなかったか。
ひどく曖昧なその返答。
しかし、そう聴こえたならばそれが真実だ。
フィーラ=クレオンディーネは宙を蹴り、勇者を捨てて、彼女に手を伸ばした。
〇
雷と暗雲。
しかし降り注ぐのは雨ではない。
空から降り注ぐは、どす黒い血のような闇。
いや、黒い輝き。まるで夜のとばりの如き闇が広がっていた。
その中心にいるのは、勇者ヘレナ、彼女であった。
「なんてことだ……」
エルマン=エリオットは見上げながら言った。
到底、予想もできないことではあった。
あの勇者ヘレナは、ハルトの黒蛇を喰らって、己が竜になろうというのだ。
彼女が竜となれば、王都どころではない。世界が危うい。
サニャが億劫そうに杖を抜いて、構えた。
「エルマン、私の後ろに来な」
「本物の勇者が竜に成れば、そんなの、無駄でしょう」
「そうだね。それでもまぁ約束だからね」
空は、粘性の闇に覆われていて、その向こうはわずかしか伺いしれない。
彼女はすべてを捨て、自棄となって竜となったのか。
いや、違うだろう。とエルマンは考えた。もしも合理的な理由がそこにあるのだとすれば、これは最後のあがきだろう。もしかすると、勇者ヘレナは、アイナ=レシュカを諦めてはいないのかもしれない。ララを封じたようには、ヘレナを封じることはできないのだから、彼女が竜となれば、もうアイナを呼ばざるをえなくなる。
「どういう策かね? 不確かだが、捨てきれない可能性ばかりあるよ」
サニャが首を傾げた。
「可能性で十分です。ここから勇者を撃ちぬけますか?」
「無理だね。そうは言っても、やってはみるんだけどさ」
サニャが指先を、撃つように掲げると、そこから放たれるは泥の糸。
闇が瞬間だけ払われて、おぞましい竜のなりかけが天に映る。
鋼のごとき強度を有した魔法が、その邪悪へと一直線に伸びていき、
そして、弾かれた。
「今のは?」
「局所結界だ、聖域を反転させたような魔法だね」
「そんな、じゃあどうすることも」
言葉どおり、ヘレナの周りにはすでに黒い力場が生み出されていた。
それは玻璃聖域のように徐々にその範囲を広げて、空間を歪めている。
エルマンは、上ずった声で所感を述べた。
「で、でも母さんならアレを破れるはずです……」
母親、フィーラ=クレオンディーネ。
彼女の持つラズ=サウラの力は、己のそれとは比較にならないほどに強力だ。
生まれた時から巫女として育てられた彼女は、まさに雷神そのもの。
それゆえに、竜の生む魔法には最高の耐性を持つに違いない。
だが、青年の願いは、早々に破られた。
輝ける稲妻が、すでにヘレナ=レシュカの元を離脱していたからだ。
彼女はまるでなにかを探すように、空を自在に飛んでいる。
「母さん、なにをしてるんだ!?」
「エルマン……」
「なんです!!」
「――ありゃ、上手くいったんだよ」
女の呟きに答えるように、中空の魔竜の肉躰が萎んでいった。
空気を抜いた風船のように竜の姿が小さくなっていく、竜自体も落ちていく。
地上に落ちるその巨体から、なにかが、弾かれるようにして飛び出た。
その姿を、エルマンは間違いなく捉える。
宍色の四肢。細身で小柄な肉体を持つ、女性だ。
「まさか、こんなことが」
ララ=リオライエン。
彼女の姿だった。
思わずサニャが笑い出す。
「最高だね。最高の気分だね。だけど、このままじゃいけないね」
喜びを噛みしめながら、しかし険しい表情でサニャは呟いた。女の言うことは、当然至極であった。エルマンにもそのことは分かっていた。だが、だが、これ以上に何ができるというのか。もはや、打てる手は、なにひとつないのだった。
ようやく、ようやくここまで来たというのに。
上手く行ったというのに。
「サニャ!!」
そう思った時、輝ける髪の女が、大声とともに青年の前に滑り込んだ。
彼女は息を切らして、血相を変えている。
「レイエルさん」
「さっきのはまさか、ララなのかい!?」
「そのようだね。けど竜を殺さないとおしまいなのさ!」
「よし、それなら首を落とそう!」
彼女はそう言いながら、己の喉笛のあたりをさっと撫でた。
左手はエラミスタと繋がれており、そこには強く魔力が通っている。
互いの魔力を循環させて、力を増幅させていたのだと見えた。
「あんたたち、今のアレを歌で無力化できるのかい」
「難しい。ハルトのときと同じく、成り果てたモノには歌など効かない」
「そうかい。じゃあ、どうするつもりだって言うんだい」
「うん。任せてくれよ――私が落としてみせるさ」
握られているのは、杖の中の聖正十字。
と、すかさず、エラミスタが腕を強く引っ張った。
「レイエル、ダメだ。それは我が許さぬ」
「もう一度だけ、アイナをこの身に降ろすだけだ、大丈夫だよ」
「お前の大丈夫だとか、もう一度だけだとかは、ちっとも信用ならぬ」
「信じてくれないと、私も君もここで死ぬことになるんだよ」
そうしてレイエルは眼鏡をはずそうとしたが、エラミスタはその手を掴んだ。
強く握ったその手を、さっと天へと向ける。
あれを見ろ、と彼女は言った。
「凄まじい魔力の膨張だ。あの中に飛び込むなど、自殺行為だ」
「それでも、やらなければ!」
「死ぬぞ。我はそれなら共に逃げたい」
「エラ!!王都にはまだ人がいるんだ!!」
「助けられぬ。もはやどうにもならぬ」
確かに、もはや干渉の余地はないと思われた。
竜の魔力は砂嵐のように吹き荒れて、ヘレナの肉体を微塵にしては再生している。
治る度に鱗へと変わっていくその変身を止めるには、あの中へと行くしかない。
だが、たとえアイナと化したレイエルであっても、無傷で為せるものか。今の彼女は、存在が綻んだことで大きく弱体化しているのだ。もはや、絶対無敵にして完全無欠のアイドルではありえない。そんな無駄な賭けをするほど、パートナーであるアールヴは酔狂ではなかった。彼女はますます強く、手を握りしめて睨みつけた。
「レイエル。我はお前と生きていたいのだ」
「エラ!! しかしそれでは、すべてが無駄になる」
「ならない。お前が生きていれば、ならない」
「――ッ!」
声にならないしかめ面とともに、レイエルがへたり込む。
もはやそこに戦いの意思はない。ないだろう。
サニャ=クルーエルは、静かに天を仰いだ。
絶望があった。諦めがあった。今にも濃厚な闇の気配が破裂しようとしている。勇者が竜となるときの、その爆発的な拡散が生じようとしている。そしてそれを、もはや誰も止めることはできない。ゆえに訪れる瞬間。その時が訪れた瞬間。既定であり、変更不可能な必然としてのイベントが起きる。その瞬間が、輝いて、
来る。
嵐が一点に収束し、とてつもない閃光が空を斬り裂いた。
霹靂でも陽光でもない。
まるで光の川が決壊したかのような奔流が、流れ出た。
エルマンは、そして誰もが、己の死と襲い来る災禍を覚悟した。
皮がねじ切れ、肉が弾け飛び、頭蓋が粉砕されることを幻視した。
それは本物の予感であった。
破滅が、エルマンらの鼻先まで迫りくる。
そこにある死が、確かに見えた。
己がここで終わるのだと、直感した。
だからその光が収まった後、青年は違和感さえ覚えた。
「あれ? 竜……は?」
見上げた空には何もいなかった。
黒雲はもはや消え去っていた。
澄み切った夜空が、ただ広がっていた。
なぜ自分は生きているのか。
なぜ、誰も死んではいないのか。
――その答えは、高空から落下して示される。
落ちる、堕ちてくる。
空から降りきたったのは、たったひとつの頭部だった。
それは、ヘレナ=レシュカ、彼女の首であった。
〇
夜は降りやみ、竜は消えた。
長きに渡る戦いがようやく終わったのだ。
「ララ……」
レイエル=レシュカはそう言って、膝から崩れ落ちた。
目には、もはや腫れていない部分はなかった。
「レ、レイエル、泣かないで欲しいのです」
ララ=リオライエンがいた。赤毛はくすんでおり、血と灰に塗れているが、確かにそこにいた。どうして彼女がもとに戻れたのかは分からないが、きっと勇者ヘレナが、ララから黒蛇を見事に抜き取ったのだろう。ほんの一瞬どころか、永遠に。
しかしこうなると、ララは二度も死の淵から、あるいは絶望的な状況からよみがえったということになる。これではまるで、彼女こそが物語の主人公のようだ、とエルマン=エリオットは思った。帰ってきた彼女の顔は、美しく輝いていた。
「ララ、本当に、すまない」
「なにがです? ていうか、泣くほど仲がよかった記憶もあまりないのです……」
赤毛の女は困惑するが、それも無理もない。彼女が竜に閉じこめられていたあいだ、そのあいだに明かされた数多くの事柄は、その耳には一切入っていないのだ。これから、レイエルが勇者であったことやハルトが異世界人ではなかったことを知れば、彼女はきっと今の比ではないくらいの驚愕をあらわにするのだろう。
その際には、あるいは彼女は、レイエルや勇者ヘレナについてひどい怒りを剥き出しにするかもしれなかった。だが、たとえそうなるのであったとしても、レイエルも、そしてエラミスタもフィーラも、このことを後悔はしないはずだった。
それはもちろんエルマンも、オーステンもそうである。
「ララ、お帰り」
フィーラ=クレオンディーネが言った。
その顔もやはり泥と血に塗れている。
べちゃべちゃの金髪をかき上げて、皺だらけの顔で女が笑った。
「フ、フィーラは随分と、と、歳を取ったのですね」
「……歳を重ねたのだ!」
その言いかえに大した違いがあるかはともかく、嬉しそうに彼女は言った。四十年以上の月日が経ってなお、フィーラ=クレオンディーネは何も変わっていない。そのことがララをとても安心させた。彼女は、辺りを見回して、それから問うた。
「あれ? オーステンはどこです?」
「うむ。あれは今日までは生きられなかった」
「そうですか。残念です」
「遺言があるが、読みたいか?」
「まぁ、その、読んではみたいですけど、です」
かすかに怪訝そうに、そしてかすかにはにかみながら。
ララがこくりとうなづく。
フィーラは無量箱からおもむろに手紙を取り出して手渡した。
「……親愛なる僕のはじめての友人へ、ってはじめての友人だったのです!?」
「そうらしい」
オーステン直筆の手紙を、ララはすこしだけ言葉に出しながら読んだ。読み進めていくにつれて、言葉はなくなり、ララの手に力がこもった。その中に何が書いてあったかは、ララ=リオライエンにしか分からない。笑いながら、真顔になりながら、そして、悲しみながら彼女は手紙を読み終えて、そっとそれをしまいこんだ。
それから、フィーラはもう一つの紙束を手渡した。
そこにはララのための、あらゆる知識がひとまとめにされていた。
たとえば、この時代のことがびっしりと書かれていた。文化や風俗、国々の関係性など、ララがいなかったあいだの、この国のすべてがまとまっている。魔竜ララが出自不明の竜と呼ばれていること、ハルトが行方不明とされていること、アイドルであるアイナ=レシュカの正体がレイエルであることもそこに書かれていた。
もちろん、ハルトという少年の正体や、それにまつわる学院長ヘレナの所業についても、事細かに書かれていて、ララはそれを無言でひたすらに読んだ。身体中が疲れていて、今にも寝てしまいそうだったが、それでも読まないわけにはいかない。彼女はぽろぽろと涙をこぼして、すべての真実と、その結末を胸におさめた。
「オーステンは、良い人ですね」
ララが言った。
「さ、先にこんなのを読まされてしまえば、もう誰かに怒ろうなんてことも思わないです。その分の気持ちはぜんぶ、たぶんみんな、竜が持って行ってくれたですし」
その笑顔は、レイエル=レシュカに向けられる。
「レイエル。こういうのは言葉に、し、しておく方がいいと思うので言っておくですけど、これは私が怒ることではないです。ハルトや今までの勇者たちに、ちゃんと胸でも張れるように、レイエルが良いと思うことを、これからはすると良いのです」
ありがとう、と呟いて、深々とレイエルは頭を下げた。
様になったその姿を見て、思いついたとばかりにララは手を叩いた。
「そうです、レイエルがアイナ=レシュカなら、これからも元気とかそういうのをみなに与えると良いんじゃないです? 確か、オーステンもすごく喜んでたですよ」
「いや、その、もうアイナはやめようと思っているんだ」
「な、なんでなのです! 私はまだ曲を聴いたこともないのです!」
愕然と目を見開いて、ララが尻もちをついた。
大きく開いた口には手が当てられており、これまでで一番、令嬢らしい。
レイエルは困り眉で首を捻った。
「だって、あんな偶像で世界をどうにかしようなんて、ね?」
「世界!? そんな大それたことは求めてないです!!」
「でも勇者の力も、なくなったんだ。翼も出せそうにないし、浄化も使えないよ」
「いらないです!」
「理想化されたアイナを、この身に降ろすのだって避けたいんだ」
「それもいらないです! 完璧なんて無用かつ不可能なのですから!」
ララの矢継ぎ早な反論に、レイエルはいよいよ窮した。
真剣な顔で、彼女は問いかける。
「じゃあ皆は、どうしてアイナを求めるんだい?」
「オーステンいわく、好き以外に理由なんていらない、です」
「でも、その好きは幻みたいなものだろう、本当の私を好いたのではないだろう」
「えぇ……そ、それはまぁ、そうかもですけど」
言葉を濁すララ=リオライエンはひどく誠実だった。これがエルマンであれば、「そんなことはありません」と立て板に水を流すように語るところなのだが、ララにはそういった芸当はできないし、そもそも調子の良いことを言うつもりもない。
女は、ただ、残念そうにその髪先をくるくると弄った。
「見たかったのです、レイエルの歌っているところ」
「さっき、私が良いと思うことをやれと、言ったじゃないか」
「それはまぁ、そう言うべきときにはそう言うですけど……」
じゃあさっきのは本心ではないのか、とレイエルが首をすくめる。確かにそれはララの本心ではなかったのだが、しかしまぁ、それが正しいということを分かっているのもララという女性であった。彼女は、しょんぼりと頬をふくらませた。
と、そのとき、エラミスタが進み出た。
彼女は腕をかたく組んで、顎を突き出した。
「我もレイエルに言っておきたいことがある」
「なんだい」
「もう一度、アイナ=レシュカをやらぬか」
レイエルが目を丸くした。
「ッ!! やるわけがないだろう!!」
「もちろんやるのは、竜殺しのアイドルじゃない」
「なんだって」
「ただ、ファンとなった者たちを元気づけたいだけなのだ」
エラミスタがその答えに至るには、長い葛藤があったに違いなかった。先ほどはあんなにもレイエルをアイナから離そうとしていたのだ。それが考えを変えるとは理由があるに違いない。だが、それがなにかはエルマンには分からなかった。それはおそらく、どうしても言葉にはならないような思考の果ての、結論なのだろう。
「手伝ってくれ、レイエル」
エラミスタが透き通った声を震わせてそう言った。
レイエルは、しぶしぶその手を伸ばして、
その口元はかすかに緩んでいた。
そのとき、ララが、ぽんと手を打った。
「あ、思い出したです。りゅ、竜になっていたとき、エラミスタとレイエルの声が聞こえたです。そのお陰で、私はこっちへの戻り方が分かったです。レイエル、きっと貴女の声は凄い力を持っているのです! さ、最初からこれを言えばよかった!」
レイエルの手がぴたりと止まった。
沈黙。重たい沈黙が生じた。
「――おい、ララ、我の声も聞こえたのか」
「き、聞こえたです……」
不穏なその声に、ララは首を縮こまらせる。見ると、エラミスタが背中の大弓を手を伸ばしていた。どうしてこうなるのか、とでも言いたげな顔で、赤毛の女は両手を挙げた。ふと見れば、エラミスタの足下で、レイエルが小さくうずくまっていた。
見るからに元気がない。
どうもショックを受けたらしかった。
「ど、どうしたのです」
「あんなに褒めてくれたのにさ。はぁ。やっぱりエラでもできるんじゃないかい」
「え」
「所詮、私の替わりなんていくらでもいるというか」
その呟きに、エラミスタが弓を構えた。
ララが慌てて手を振った。
「わ、私は聞こえたままに言っただけで!!」
「その結果がこれであろうが」
「レ、レイエルを慰めようと思っただけで!」
「こいつは、四十年ぶりに出てきたお主に慰められるような女ではない」
「いやいや、わ、私の知っているレイエルはそんな人では……」
「無用」
「わわわわわ」
きりきりと弓が鳴り、エラミスタがにっと笑った。あの歌弓には殺傷能力などないはずだが、それでも当たれば痛いだろう。つがえられた鳴矢はすこしもぶれることなく狙い定められている。すこしだけ涙目で、ララが頬をふくらませた
「ちょ、ちょっと、エラミスタ! わたし、折角、生き返ったのに!!」
「残念だ、ララ=リオライエン」
「ああもう、レイエル! レイエル、あいつをなんとかするのです!」
「なにを。消沈させたのはお主であろう!」
「ぬぅ……そ、そうだったのです!」
彼女が、がしっと頭を抱える。
いよいよエラミスタが矢を放つのだ。
とそのとき、笑い声が響いた。
「あははははは。もういいよ、エラミスタ」
レイエル=レシュカが目元を拭っていた。
笑いすぎて涙でも出たらしい。
「ふふふ。あははは。なんだか、楽しくなってきたよ」
「うむ……レイエル、我にとってはお前の声は特別なのだ」
「それは私にとっても同じことだよ。うんそうだね。また歌おう、一緒に」
そもそも、とエルマンは思う。
人が人のなにを好きになるのか、ということを、好きになられる側の人間が一方的に判断することなどできるわけがない。人のあいだでは、自分では悪いと思っている性質が、誰かの心に愛おしく突き刺さってしまったり、そのまた逆に、良いと思っているふるまいが、邪悪そのものに見られてしまったり、するものなのだ。
であれば、自分が嫌っている自分自身を掲げて、孤独であるふりをするなんて、あまりにも早計にすぎる。というか、それは現実離れした空想に耽っているのとおんなじことだ。好かれているなら、求められているなら、それが幻ということはない。
たとえそれが、その人間のすべての瞬間を抱きかかえるような「好き」でなくても良いのだ。上っ面の良さに向けられた思いだったとしても、十分なのだ。それはすべてではなくとも、偽物でも嘘でもない。ただ、ちょっと壊れやすい、だけだ。
そして、そうした思いのなかにはどうしても壊せないものもあって、
なにをどれだけ見せても、壊れないものがある、残る者がいる。
それだけの話。
いつかレイエル=レシュカは、それを見つけるのだろう。
あるいは、もう、見つけているのか。
はるか長い歳月を生きながら、己よりも無垢な顔つきをしている女たち。それを見ながら、青年は笑みを浮かべた。彼女が、彼女たちが歌い上げる新しいアイナ=レシュカは、これまでよりも多くの人々を魅了するのだろうか。影もシワもない理想像よりも等身大の彼女らの方が、すくなくともエルマンは、好きだと思った。
「エルマン」
話しかけられて振りかえれば、フィーラがいた。
泥が落ちたその顔つきはやはり尊大で、武人特有の威圧感を備えている。
とは言っても、母親だ。
青年は破顔した。
「母さん、父さんの、オーステンの望みは叶いました」
「そうだな。きっとあいつも、それにライドも喜ぶことだろう」
「ライド=クルーエルですか」
エルマンが彼と直接に会ったことはない。
生まれたときにはすでに死んでいた男だ。
サニャの父親であり、オーステンの育ての親と聞いていた。
「元はと言えば、これはあの男とサリア=クルーエルの物語だったのだ。オーステンはいつもそう言っていた。あいつが語るときに、ライドの名前が出ないことがなかっただろう。エルマン、あやつの遺言をあの勇者に届けてくれて、助かったぞ」
「そうさね。スーリアの分も、もっとお返ししてやればよかったねぇ」
けたけたと笑いながら、サニャがそうぼやいた。
「エルマンの坊や、これからどうするつもりなんだい?」
「私ですか」
改めてそう問われると、言葉に詰まる。
何も考えていなかったわけではない。
だが、全員が無傷で、いわば大団円で終わるとは思っていなかったのだ。
「私、いや、僕は……」
「吟遊詩人を続けるつもりなのか?」
「母さん……そのつもりはないよ。確かに僕は英雄譚を語ることが好きなのだけど、語りの技術なんてまだまだ未熟だし、それに、一番語りたかったものはもう済んでしまったからね。なんというか、趣味にしておくのがいいような気がしているんだ」
「そうかい。じゃあ私の跡を継いでみるかい?」
サニャがそう言って、槌を振るう仕草をした。
エルマンは、残念そうにしかめ面を返す。
「父から手ほどきは受けたんですけどね」
「ははっ。火を視る才能が皆無だというのは聞いてるさ!」
「ひどい……」
「でもやるんなら、今の工房をエリオット工房にしちまってもいいよ」
「サニャさんのお弟子さんに殺されてしまいますよ……」
サニャという筋骨たくましい女性は、当代最高の鍛冶師の一人であった。偽名を使って開いている工房には、常に弟子志願者が絶えないという。なんでもサニャ=クルーエルは、その父親から鍛冶の秘伝を学んだらしく、全盛期のライドにも勝るほどの剣を打つらしかった。祖母譲りの魔力制御の才と相まって、魔剣造りでは並ぶものがいないとか、なんとか。オーステンには悪いが、血縁とはやはり偉大だ。
「どうするかね」
サニャが問いかける。
エルマンはしばらく考えた末、首を横に振った。
「もう少し考えてみます。勇者ヘレナがいなくなった世界で、竜をどう倒すことができるのかも考えていかないといけませんし。もはやこの世界に、勇者も聖剣もないんでしょう? それなら、二百年前に状況が戻るわけですから。油断はできません」
才がないという理由もある。
あるが、それ以上に気にかかるのはやはり世界の行く末であった。
この現在を選んだ者の一人として、それを見届ける責任がある。
エルマンは、そのように考えたのだった。
「立派になったね。さて、じゃあこれから、どうするかね」
「まずはこの王都をなんとかするのです!」
「ララは律儀だな。まぁ、街を吹っ飛ばしたのはお前なのだが」
「……フィ、フィーラ、そんな言い方はないだろう」
生き残った人々もいた。アイナ=レシュカの張った強力無比な結界が役目を果たしたからだ。あの混沌と無秩序のなかでもアイナは確かに人々を守っていたのだ。
それに付け加えれば、そもそも王都にはそれほど多くの人間がいなかった。竜が来ると聞いて、アイナにすがった者は非常に多くいたが、それでも彼女と戦いを共にしようというものは稀だったのだ。人々のその多くは、竜が現れると同時に、遠く山を越えた別の街へと、魔法で逃げていたのだ。それでも、それでもアイナ=レシュカにはこの王都こそが守らねばならない場所であったのだった。
このことについて、エルマンは何か教訓めいたことを語ろうとは思わない。だが、ひとつだけ言うとするならば、ヘレナはもっと街の手前でアイナを戦わせるべきだったのだ。そうすれば被害はもっと軽微だっただろう。
そうしなかったことに理由があるとすれば、ヘレナ自身がそれを望んだからだろう。王都が壊滅し、それでもアイナが勝利を収めるという神話的な場面を作り上げるために、ヘレナはわざわざ竜を待ち焦がれたのだ。
ならば、その責までララが負う必要はないのだ。
「それじゃあ、皆で片付けといくかい」
「それから祝いの宴と行くぞ!」
サニャが言うと、ファーラが乾杯のふりをする。
「ほ、本気ですか?」
ララが問うと、意外にもレイエルが微笑んだ。
「私も賛成だよ。オーステンくんとフィーラの馴れ初めも気になるし」
「うむ! 存分に話してやろう!!」
「そ、それは私も聞きたいのですぅ」
「いやいや、ですぅじゃないですよ……」
無理に明るく振る舞っているように見えた。
だがそこから、始めるのだ。
無理やりでも嘘っぱちでも、そこから。
やり直すしかないのだ。
「我も異論はない。王でも司祭でも招いて、大々的に祝宴を執り行うがよい。そして、ハルトという勇者の、弔いもせねばならぬ」
弔い。
エラミスタの言葉に、ララが鼻をすする。
その肩を無言で、サニャが撫でた。
〇
その日の夜、すべてが終わった王都で、その王城にエルマンはいた。祝賀の宴も終わり、なにもかもが滞りなく終わったかのように思われる。だが、彼にはいまだに引っかかっていることが一つあった。それを確かめるために、彼は扉を叩いた。
ぎしりと開いたその先には、赤毛の女がいた。
「どうぞ、なのです」
エルマンは部屋へと入った。絨毯にはわずかに濡れた跡がある。おそらく、ほんの先ほど、入浴を済ませたばかりなのだろう。彼女の赤毛もしっとりと光っていて、肌もわずかに上気しているように見えた。すぐに女は、グラスに葡萄酒を注いだ。
促されるままに、男はソファにかける。
沈み込んだその身体の前に、グラスが静かに置かれた。
「かたじけない」
「わ、私の命の恩人ですから」
「いただきます」
ほのかに酸味のある良い酒だった。が、すこし渋い。
彼女が用意したのではなく、王城にあったものだろう。
それを二口で呑みほしてから、エルマンは彼女を見つめた。
「ララさん、ひとつ聞きたいことがあるんです」
「なんなのです」
「空で、一体なにがあったんですか」
エルマンの心残り。
それはあの戦いの夜の、一番最後のことだった。
あのとき、本当には何があったのか。
それを知らねば、この物語は完結させられない。
ララは一口、飲んで、かすかに顔をしかめた。
「エルマンさんは、ど、どう思われているのです?」
「母さんは、あなたがヘレナを殺したのかもしれない、と言っていました」
「フィ、フィーラが、そんなことを言ったのですか」
「そうです。でも私は信じていません。あの首の断面は間違いなく刃物でした」
それも竜の首を断ち切るなど尋常な得物ではない。母は、ヘレナがもうひと振りの業物を有していたというが、それは彼女が竜と化したのち、地上に滑り落ちたようだったとも言う。であれば、誰かがそれを拾ったのか? だが、それは誰が?
「竜になろうとした勇者ヘレナの首を、誰が斬ったんですか?」
再びの問いに、ララは、顔を俯けた。
「――それは言えません」
「どうしてです?」
「自信がないのです、それに恥ずかしくて、なんだか」
赤らめるというよりも悩むといった表情で彼女は顔を伏せた。エルマンはそれでも根気強く問うた。彼にはそうする義務があった。一度語りはじめた者として、それを伝える義務があった。
「あまり無理強いはしたくありませんが、私はどんな話でも……信じますよ」
「そう、ですか。なら、話してみるです」
再三の問いかけに、そう言ってララは口を開く。
彼女のなぜか潤んだ瞳が、はるか遠くへ向けられた。
語り部は、語り部は。
言った。
「竜でなくなって目を開けたときのことです」
「すごい魔力が空を覆っていて、まるで落ちてきそうだったんです」
「実は、あのとき――声を、聞いたのです」
「レイエルでもエラミスタでもない、声を」
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