たったひとつの鈍いやり方 15



 彼方で、黄金のアイドルの光が失せていく。

 まき散らされた粉塵と水、そして炎が生み出す黒煙。

 そのなかでアイナ=レシュカが消失していく。


「――解けた、のか」


 勇者ヘレナは跪いて、床を強く叩いた。


「どうしてだ、どうして『神降し』は解けたのだ。アイナを降ろしたレイエルは完璧な存在だったはず。欠点も汚点もなにひとつなかったではないか。心残りなどに耳を傾ける心の隙間など、ただのひとつもなかったはずだ! 一体なにをしたのだ!」


 サニャが歩み寄って、女の傍にしゃがんだ。

 すでにエルマンはいない。

 雷神と化した彼は、エラミスタを援けるために窓から飛んで行った。


 だからここには、彼女と竜女だけ。

 物語の脇役である、たった二人だけ。


「そうさね、だったら何かをしてしまったのは、あんた自身なのかもしれないね」


 女はそう言って、泥の蛇を動かした。

 蛇が、己自身の尾をぱくりと咥える。

 ウロボロス。


 ヘレナはうねるようにその首を傾げた。


「どういう意味だ」

「私らが、なんのためにエルマンに語らせたと思っているんだい。あんたを殺すだけならフィーラで事足りる。わざわざ傍に近づく必要なんて、どこにもないだろ?」


 困惑を浮かべて、勇者が顔を上げる。

 まるで幼いその表情に、女は憐れみの視線を送った。

 諭すように優しく、サニャ=クルーエルは怪物と会話する。


「あんたにレイエルの物語を語らせること、それが必要だったんだよ」

「そうか……綴り手自身による開示か」

「呪唱の原理と同じだよ。その正体を語ることで、存在自体を変質させるんだ」

「――か」


 ヘレナの顔が屈辱に歪んだ。

 いまや稀代の勇者にも理解されていた。

 

 サニャ=オーステンとエルマン=エリオットは、己の語りでもって、神降ろしならぬ、神剥がしを試みたのだ。呪唱という魔術ではなく、ただ言葉を語らせるというそれだけのことで、そんな迂遠なまわりくどいやり方で、アイナを壊したのだ。


「そのうえ、あんたは致命的な失敗をしている」

「なんだ、それは、」

「あんたは物語を聞きながら、その結末に不満を、持ってしまった。その時、レイエルという人格をアイナから引きずりだすための準備が整ったんだよ。エルマンが翻訳した物語によって、オーステンとレイエルの物語を期待した、その時に」


 その、言葉の意味に、ヘレナは眉根を寄せる。


「この私があの物語に些細な期待を抱いた。それがなんだと言うのだ?」

「あんた自身が、勇者じゃないレイエルの在り方を願えば、それも呪いになる。アイナなんて、ただの造り物の偶像であれと願う、最大の呪術にね」


 


 サニャの話を聞いたヘレナはいつしか表情を失っていた。

 結末は、予想されていた。

 もう決してしまったその選択の、結末は。


「違うぞ、私は、本当にこの世界を救いたくて、アイナに守らせたくて、」

「そうさ。でもその願いは、エルマンの物語の前にその皮を剥ぎとられたんだ」

「そんなわけが、ない」

「まだ分からないのかい」


 サニャは冷たい声で告げた。


「確かにあんたは、アイナという理想像をレイエルに望んでるんだろう。だけど、それと同時に、レイエルという失敗した己の似姿も望んでいるんだよ。分かるかい。あんたはアイナの成功を望むのと同じに、レイエルの成功も望んでいたんだよ」

「違う、そんなものは望んでいない」

「彼女が、彼女自身の望みを叶えること。あんたと違って、あんたの失敗を取り返して、あんたのなれなかったあんたになること、その願いは、アイナとレイエルの両方を望むことだって、本当は分かっているんだろ?」


 歯をがちがちと鳴らして、竜がその尾を震わせる。

 彼女はいまや、幼い子どものようにサニャを恐れていた。

 サニャが語るその言葉が、己を開いていくのを、畏れていた。


「だから『至高のアイドル』なんてものは、端からブレブレだったのさ」

「違う、本心じゃない、私は、私の失敗を取り戻したいなどとは、思っていない、自由などをレイエルが手に入れて、それで何になる?! それで、私が救われると思うのか!?」

「そりゃあ本当かい」

「嘘ではない、私はちゃんと望んでいたのだ。願っていたのだ、」

「なら、本心なんてのが、いくつもあるものだったのさ」

「そんな答えで納得できるものか!」

「まぁ喚いてもしょうがないさ。もうすぐ、その答えが出る」

 

 サニャはうな垂れる勇者をもはや気にもしないで、

 窓の外を、はるか、はるかかなた、遠い心の奥底に思いを馳せていた。

 輝きはますます弱くなっている。


 救い出せるか、彼女が諦めるか。

 それはもう、賭けでしかない。


 だが、オーステンの予想が正しければ、

 ――きっとエラミスタは彼女を救うだろう。


 そうに違いないと、サニャ=クルーエルも思っていた。


『僕には貴女を救えない』


 オーステンはそう言って、レイエルに拒絶されたのだという。

 そう、話を聞いたときサニャは、諦めの言葉などひどく情けないと、思った。

 老いつつあった彼の、遠い昔の汚点だとすら、思った。


 しかし、オーステン=エリオットは諦めたわけではなかった。

 

 サニャが知らない間も、彼とフィーラ=クレオンディーネは世界中を走り回って、レイエルを、ララ=リオライエンを、ハルトをも救う手がかりを見つけることを諦めなかったのだ。老いてもなお、ずっと、彼らを救おうとし続けていたのだ。


 ゆえに、サニャ=クルーエルは思う。


『僕には貴女を救えない』のではない。

『僕には貴女を救えないが、それでも貴女を救う』だったのだ。


 それがオーステンという男の本心だったのだと、彼女は思う。

 そして、この瞬間にそのすべては結実した。


 彼には救えない。救えなかったが、

 私が。彼が。彼女が。

 

 こうして、救いに来たのだ。

 


 窓の外。 

 雷撃が一瞬、ほとばしる。

 

 ラズ=サウラの、本物の雷撃。


 宙を飛ぶ竜を、フィーラが牽制したのだ。

 いま、アイナ=レシュカはいない。

 彼女が竜のそのすべてを、受け止めていた。


 老いたるその肉体はとうに全盛期を過ぎているだろう。

 だが、神を降ろしたその姿は、力強く、神々しかった。

 この数年、断酒した甲斐があったというものだろう。


 くすりとサニャは笑って、エラミスタの声に耳を傾ける。

 終わる、もうすぐそれが終わり、そして、


 そのときには。

 その結末には。

 

 サニャ=クルーエルは信じた。


「さようなら、」


 その瞬間にアリュオランから唯一絶対の光は消えた。

 あとに残るは、闇、そして、暗がり。


 その深まった夜のなかから、ひとりの女が顔を覗かせる。

 彼女は、後ろ手で髪を結ぶと、そっと手渡された眼鏡をかけた。

 翼もない。剣もない。その姿で、女は言った。


 あるいは、言っただろうか。

 


 それは輝き。

 

 神々しい光とともに、女はふたたび舞台に立つ。

 その手に握られた杖が白熱して、先から飛び出すは魔法。

 瘴気を払いのける一筋の光は、違うことなく竜に突き刺さった。


「神性『玻璃聖域――白炎』」


 彼女らは、そうして燃え上がる。

 燃え上がって、浄化の炎に身を焼いて。

 そして、それで、



 その先だ。


  

「勇者ヘレナ、時にあんた、悔悛する気はあるかい?」


 サニャがその目を細めた。





 まどろみのなかでララ=リオライエンは目を覚ます。


 そこには、灼熱の氷塊があった。

 巨大な壁。氷で隔てられたその部屋。

 透き通るその向こう側には、愛した男が閉じ込められている。


 なぜ?

 どうして、ハルトがここにいる?


 はっきりと理由は分からないが、考えることはできる。

 

 一つ。

 スーリアの魔法で、私とハルトが氷に閉じこめられた。


「これはない、です。それなら魔法が使えるはず」


 魔法は使えない。

 ゆえにこれは現実ではない。


 一つ。

 これは死の間際の走馬燈、夢のようなものである。


「可能性が高い、です。でもその割には鮮明すぎるというか、幻という感じが……」


 ない。試しに頬をつねるとひどく痛い。

 魔法は使えないが、どうやら、痛みは本物らしい。

 となると、これは現実に酷似した世界だ。


 ならまさか、異世界?

 ララはそう考えて、すぐに頭を横に振る。


 ハルトが来たという異世界……が氷でできた部屋のわけがない。


 では。


 一つ。

 私とハルトは何かの理由でたましいが繋がっている。


「信じたくはないですが、それ、ですね」


 氷の外が見えたその一瞬のことをララは覚えていた。

 ハルトの、横たわるその頭のない姿。

 溢れ出る黒い血。竜と化したその勇者の、死体。

 

 あれはいつのことだ。

 あれはどの時点での、本当だったのだ。

 もしもあれが夢ならば、どんなにか良かったことだろう。


 だけれども、あれは夢ではない。


「ハルト……」


 言葉に答えるものはいない。

 いや、いないのではない。

 そこにいるけれど、答えられないのだ。


「竜となって、ハルトが私を食べた、のです?」


 だがそうだとすれば、私の意識が残っているのはおかしい。

 身体を失ってしまえば、早晩に意識なんてものも解体されるはずだ。

 私という存在など、残っているはずもない。


「じゃあ、ひょっとして、ハルトが私を、取り込んだのです?」


 というよりは、ハルトが成り果てた竜が。

 その身に巣くった黒蛇が、少年のたましいを連れて、私の肉を食った。

 そして、私の意識はふかいふかいところへと沈んだ。


「でも、黒蛇が入ったなら私のたましいだって無事では済まないはず」


 と、そう考えたララは、またしても首を横に振った。


 ――違う。


 壁だ。この氷の壁が、私を黒蛇から守ったのだ。

 これはいわば、私のたましいの領域に張られた結界なのだ。

  

 すぐさまに壁の前に戻って、その奥を見通してみる。

 すると、その向こうに無数の蛇が蠢いているのが見えた。

 間違いない。私はいま、黒蛇の包囲のなかにいるのだ。


 壁を砕いて、その向こうに出てみれば自由になれるのだろうか?

 自答してすぐに、身体をぶるりと震わせた。


「無理無理無理です、蛇があんなにたくさん、気持ち悪いです!」


 とりあえず叫んでみたものの、やはり誰からも反応がない。

 反応がなければ、叫ぶなど時間の無駄だ。

 それよりは頭を回せ。氷の壁は、誰が生み出したのだろうか。


 己を救い、ハルトを閉じこめたそれ。

 まさか、スーリアがいるわけでもあるまいし。

 

 であるならば、きっとこれを生み出したのは、自分だ。

 

 その推測は正鵠を射ている。

 スーリアの氷をその身に受けて、炎をも凍らされたララ。

 いまや彼女は、凍った炎を生むことすらもできる。

 

 だが、それを誰が使ったかは、知らない。

 無意識のうちで魔法を使ったはずはないのだから。


「ハルトが、助けてくれたのです?」


 などと聞いても、やはり答えはない。


「待つのです。ここで、二人で。」


 言ってみても、やはり答えはない。


「きっと助けは来るのです。私は、信じているのです」


 そう鼓舞しても、蛇の圧力は消えてはくれない。

 きしきしと、絞めつけられるような音が外から聞こえていた。


 この氷の炎の結界は、ひどく強固なのだろうけど、絶対ではない。

 もしも、蛇が力を増せば、あるいは氷が脆ければ、砕けるのだ。

 そうなれば、私はまさか竜になってしまうのだろうか。


 ハルトと同じように。

 いや、ハルトと同じが嫌なのではないけれど、

 

「折角、救われた命なのです、から」


 救われた?

 誰に?

 

「ハルティアに」


 ハルト、じゃなくて?


「ハルティアって、誰、なのです」


 私の呟きに、私が答える。


 耳を澄ませ、と。

 澄まして、氷の向こうの、炎の向こうの、声を聞けと。


 それは言っている。

 私は知っている。


「――ハルティア=ラング、それがあなたの名前」


 歌はそれを告げるために、響き渡っていた。


 


 

 ひとすじの炎と歌が、レーザーのように伸びている。


「ハルティア!! ララ!! 聴こえるか!!」

「エラ、どうだい、通じているかい?」


 レイエル=レシュカが汗を拭った。

 杖先から出した輝きは、竜の鱗をめらめらと焼いている。

 だが、その黒鱗の内側までは、はるかに遠い。


 火炎は、竜を包みこそすれ、その内奥までは浸透していないのだ。

 エラミスタの呪唱も、効いているのかいないのか、分からない。

 息を切らした女の肩を叩いて、アールヴは歌うのをやめた。


「駄目だな。浄化の魔法も、効いていないとみえる」

「ダメか」


 レイエルがため息を吐いた。

 竜の身を火で包み、動きこそは封じたものの、ララは取り戻せていない。

 このままでは、そのうちに彼女の魔力がつきてしまうだろう。


「レイエル、お前が歌わねば無理だ」

「歌うだけで取り戻せるという話、私はかなり懐疑的なんだよ!」

「でも! 事実、お前は戻ってきただろう!」

「私は竜じゃなかったし、それにエラの声は、特別だったから!!」


 女はそう言って顔を赤くしたが、エラミスタはその目を細めた。

  

「レイエル、恥じらうな」

「なんだって?」

「アイナ=レシュカになったつもりでやってみろ」

「え」


 素っ気なくエラミスタがそう言うと、レイエルは眉根を寄せた。

 そして、深いため息を吐いて、彼女に背を向ける。


「おい?」

「最悪の気分だ。最低だ」

「レイエル?」

「嫌だ、もう話したくない」


 拗ねてしまったレイエルを信じられないという表情で見つめたエラミスタは、その顔のままで、エルマンの肩をばしばしと殴った。こうして、はるか年上である美女二人に挟まれるとなると、流石の吟遊詩人にも語るべき言葉のひとつもない。


「ちょっと、ふざけないでくださいよ」


 そう言ったとき、地響きとともに、土が盛り上がる。

 足元のちいさな土ではない。

 瓦礫の山そのものがずずりと動いて、それから扉のように開いたのだ。


 もちろんその中からは、身を屈めたサニャ=クルーエルが現れた。


「まったくそうだ。そういうのは流石に、後でおやりと言いたいね」

「サニャさん、どうして」

「ちょっくら用があるからね、前を通るよ」


 サニャは、ずかずかと二人の間に割り込むと、レイエルをちょいと見上げた。


「うん……?」


 少し驚いた顔をしたものの、元賢者は、すぐにその正体に気付いた。


「サニャ=クルーエル? なるほど、時の流れというものかい」

「あんた、急に真面目な顔を取り繕っても無駄だよ」


 レイエルは苦笑した。

 目の前のたくましい女性に痛いところをつかれたから、だけではないだろう。

 彼女がまだ小さかったそのときの記憶しか、レイエルにはないのだ。

 それが彼女を微笑ませたのだと、エルマンには思われた。 


「まいったな、すっかり大人だね」

「待ちくたびれたよ」

「ありがとう。随分とかかったようだね」

「いや、これだけの手練れがいて、恥ずかしいことさ」


 サニャはバツが悪そうに頬をかいた。

 

 実際、サニャ=クルーエルらがレイエルとララを救うタイミングがこれほど遅くなってしまったのは、まさに恥ずかしい偶発的事態がいくつも生じたためであるのだが、それについては、エルマンとしてもあまり語りたいものではなかった。


 特に、フィーラとオーステンの馴れ初めについては聞かれると非常に困るのだ。アホな夫婦漫才のせいで、ララとレイエルが衝突するこの瞬間にしかチャンスがなくなったなどと言われれば、どれほど上機嫌な彼女だって、怒り出すに違いない。


 サニャは両手を打ち鳴らした。


「かかか。さて、じゃあ本題に入ろうか」

「本題。なにか策があるんだね?」

「そうさ、流石は大賢者だねぇ」

「いまの言い方はフェルマにそっくりだったよ」

「紹介したい相手がいるのさ、レイエル」


 にこりと女が微笑み、きょとんとした顔をレイエルが浮かべた。

 その隙に、サニャがあけた穴のなかから、一人の女が顔を出した。

 身には薄いローブをまとっているが、脚は醜い竜と化している。

 そして、彼女の美しい顔は、レイエル=レシュカと瓜二つ。


 エルマンの頬が思わず引きつる。

 レイエルにも、すぐにその正体は分かったらしかった。

 こうなるともはや、なんでそいつを連れてきたのか、などとは聞きづらい。

 案の定、レイエルは眉間に最大限の皺を作って、唸り声をあげた。


「まさか……ヘレナ様……?」

「久方ぶりだな、レイエル」

「貴女が今さら、どの面を下げて私に会いに来たのです?」


 問いに、しかし悪びれもせずに竜脚の女は口の端を歪める。

 傲岸不遜な態度を変えることなく、彼女は言った。


「私も――手助けをしてやろう」

「手助けだと。悪いけど、私は貴女をララに近づけるつもりはない」

「レイエル。でもこいつなら、ララさんを救えるかもしれないんだよ」

「なにを、こんな、諸悪の根源みたいな方に、頼る気は、ない!!」


 諸悪の根源、と言われて、勇者ヘレナはひゅっと息を呑んだ。

 エルマンは知っているが、レイエル=レシュカは、彼女の子孫なのだ。

 そこに特別な感情がどれほどあるかは、ともかくとして。


 彼女は一拍の沈黙を造った後、端正な顔に余裕の笑みを貼り付けて腕を組んだ。


「後悔するぞ、大賢者レイエル」

「その称号は貴女にもらったものだ。謹んで返上するよ」

「ならば何度でも授けてやるとも。お前、一体なにがそんなに不満なのだ?」

「端的に言うが、貴女に何かができるとも思えなくてね」


 ヘレナはそう言われると、得意げに片眉をあげた。

 なにせ、レイエルは、彼女が初代勇者ヘレナであることを知らないのだ。

 圧倒的なる情報格差があるとなれば、もはやヘレナが言い負ける余地はない。


 彼女はその右手を、大きく開いて突き出した。 

 輝く手のひらに宿るのは、神性のその根源。

 女神より賜ったという『万物聖剣』である。


「やはり、貴女もその力を使えるんだな」

「そう。私は、黒蛇にさえ万物聖剣をかけられる。ララ=リオライエンに巣くう蛇だけを引き剥がすこともできる。それについては以前に一度だけ、実証済みだ。私が蛇さえ剥がしてしまえば、おそらく浄化の魔法も通じるようになるであろうよ」

「……ッ」


 相変わらずのしかめ面に、レイエルは更に、苦々しい顔を重ねた。

 彼女の胸中に渦巻く思いは図りかねるが、しかし想像はつく。

 多くの勇者を死に追いやった神の力だ。信じられるわけがない。


 その反応に、勇者ヘレナの目が泳ぐ。


「おい、嘘ではないのだぞ」

「能力というよりも……貴女のことが信じられないだけです」

「私がお前にウソを吐いたことがあるか?」

「ありません。でも、真実を隠したなら、それは嘘よりも不誠実だ」


 レイエルはそう言うと、サニャへと向き直った。


「信じるのかい。君の兄上ならなんというかな?」

「レイエル、それを決めるのはあんたでもいいだろうさ」

「……むぅ。言うようになったじゃないか」


 唇をへの字に結んで、彼女は顎に手をやった。

 選択はそう難しいものではない。

 勇者を、ヘレナを信じるか、それとも信じないか。

 あるいは、許すか、許さないか。


 エルマンには勇者ヘレナという人間がいまだ理解できてはいなかったが、彼女がただ単なる邪悪ではないということは分かっていた。世界を救う方法を追い求め、その結果として、多くの人間を貶めた人物。それを善悪だけで量るのは難しい。


 それはレイエルにも分かっていることだろう。

 だが、だとしても、その所業は簡単に許せるものではない。


「レイエル」


 エラミスタが言った。


「我が思うに、この女の半分は竜だろう。ならば、我の浄化が通じるはずだ」

「ほう。いざとなれば、この私を殺そうというのか」

「そうだ。貴様がすこしでも妙な真似をすれば、歌い殺してやる」

「構わんさ、好きにすればいい」


 そうは言いながらも、ヘレナの顔は非常に厭そうだった。

 アイナ=レシュカの結界魔法で苦しんでいた女だ。

 直接に呪文を向けられれば、流石に無傷では済まないのだろう。


「レイエル、どうだ。お前が信じるか、どうかだ」

「……エラ。分かったよ。それじゃあお願いするとしよう」

「ふん。よかろう。私がララの黒蛇を引きずりだしてやる」

「引きずりだすと言うけど、それはどの程度の効果があるんだい」

 

 サニャの問いかけに、ヘレナはふたたび自信満々な笑みを浮かべた。

 浮かべたが、その直後に言い淀んだ。


「うむ……まぁ、それなりだな」

「はっきり言いなよ」

「深淵を覗く者は、深淵からもまた覗かれているというだろう。つまり黒蛇に干渉すれば、黒蛇もまた、私のたましいを侵食するのだ。ゆえに、ララ=リオライエンのたましいから蛇を引き剥がせるのは、まぁほんの一瞬だけのこととなるのだ」


 一瞬。

 エラミスタの表情が曇った。


「それでは、歌えるのは、ほんのわずか」

「それでララを呼び戻せっていうのかい?」


 無理だ、とでも言いたげな声色でレイエルが言った。

 エラミスタが彼女を引き上げるのにかかった時間は、一瞬ではなかった。

 アイナ=レシュカですら相応の時間を要したのだ。ましてや竜なら。


「できっこないよ」

「できる」


 エラミスタは、しかし、そう言った。


「深い心のつながりがなくては、そのような離れ業はできぬが、しかしレイエル、お前の歌ならばその可能性がわずかにあるのだ。アイナ=レシュカでなくとも、お前の声には、人を引っ張りあげる力がある。我は、お前を信じて、ここまで来た」

「でも」

「ならば私を信じろ」


 アールヴの柔らかな眼差しがレイエルを照らした。


「エラ……やはり私の声など信じてはいないのだけど、でも、ララのことは信じるよ。竜のなかでまだ生きているのなら、私の声で思い出してくれるなら、それを信じる。そしてエラのことも信じるよ。歌おう、一緒に、歌ってくれると言うのなら」


 彼女が、にこりと微笑んだ。


「もちろんそうしよう」


 エラミスタがそう答えた瞬間、魔竜を覆っていた炎が解けた。

 浄化の炎を破り、魔竜が雄たけびをあげる。


 見上げる間もなく、自由になった竜がその翼を大きく打つ。

 雷を降ろしたフィーラのけん制さえすり抜けて、竜は一気に急降下をした。


 その刹那、脳裏をよぎるは、勇者ハルトと魔竜スーリアの戦い。その二度目の戦いにおいて、竜はほんのまばたきほどの間で、パーティの全員を壊滅させしめた。そして、眼前にいるのは、スーリアの才覚に匹敵する勇者ハルトの因子を持つ竜。


 であれば、予想されるものは当然、ひとつ。


「くるぞ」

「今度こそ!! 神性『玻璃聖域』!!」


 レイエルが広げた結界が、魔竜と衝突する。

 高空からの落下による戦域の支配、面の制圧をまずは防いだのだ。

 同時に、空間魔法を無力化するために、その結界は展開される。

 広がっていく光の網のなかで、魔竜はいらだたしげに呻いた。


「サニャさん、『竜厭』でも歌いましょうか?」

「坊やのが効くとは思えないねぇ」

「エラミスタ、喉の調子はどうだい?」

「万全」


 と、うめき声から、その閉じられた牙から炎が漏れる。

 火炎の息吹。


 オレンジの灼熱が膨張して、一筋の光線が地表を裂いた。

 それはまるであらゆるものを斬り裂く邪竜の憤怒。

 エルマンは、必死に地面に転がって、熱線を避けた。


「あぶない!クソ、勇者ヘレナ、急いでください!」

「勇者? エルマン、どういうことだい」

「その話はすべて終わってからにしましょう」

「うむ。私としても、そのほうが良いだろうな。さて、やるぞ」


 困惑するレイエルを尻目に、ヘレナの背から四枚の翼が生える。

 黒と白、竜と人間が混じりあった歪な翼。

 それを堂々と広げて、彼女は思い切り大地を蹴った。


 一瞬でヘレナの姿が天に昇る。


「すごい出力だ。聖翼をあそこまで使いこなせるなんて」

「長くは持たないだろうさ。あたしらも最善を尽くすとするよ!」

 

 サニャはそう言うと、人差し指と中指を竜へと向けた。


「さて、生泥『泥縛』」


 泥の糸が無数に伸びて、竜の身体をぐるぐると締め付ける。

 胸元にある小さな手と竜魂の剣で、竜がその魔法を斬り伏せようとする。

 だが、その剣を躱すようにして、泥の糸は絡みついた。


「ははぁ、本当に上手くいくとはね」


 サニャがうそぶいた。


 勇者から産み落とされた竜の剣は、確かに最強だ。

 あらゆるものを斬り伏せる剣だ。


 だが、至極当然のことだが、それを振るう竜の腕には可動域の制約がある。

 オーステン=エリオットは竜の腕を調べ尽くして、その死角を見つけ出していた。


 であれば、どれほどに強大な剣も、おそるるに足らず。

 またたく間に泥が絡みつき、竜の腕も翼も、その動きを鈍らせた。

 翼だけではない。顎も、脚も、すべてが鈍っている。


 そこへ飛び込むは、輝く翼の勇者。

 ヘレナ。

 彼女が竜に触れさえすれば、呪文さえ唱えれば、竜という存在が綻びる。  


「いけ!」


 サニャが思わずそう叫ぶ。


 無論、鈍ったとはいえ、竜の腕はまだ健在だ。

 最凶にして万物を斬り裂く剣が、堕ちた英雄の魂が、鋼と化して振るわれる。

 それが、勇者ヘレナを掠めて、ぴたりと、彼女は動きを止めた。


 警戒か、恐れか。

 いやそうではない。


 ふぅ、とひと呼吸吐き、その手が、腰に伸びる。

 何が狙いか。竜がいぶかしんだそのとき、無敵の剣が弾かれた。

 驚愕。エルマン=エリオットは驚きにその眉を歪める。


 勇者ヘレナの右手に握られたその剣を、見間違えようはずもない。


「――竜魂剣」


 なぜ彼女がそれを、などと考える必要はない。

 あれは、赤月竜アダロに拝借されたフィーラのそれだ。

 ヘレナはこの数十年のあいだに、竜魂剣を回収していたのだろう。


 差し込む陽光にも火炎にも照ることなく、剣が闇を映し返す。

 そして、闇に差し込むはひとすじのかがやき。万物聖剣。

 竜魂、すなわち、勇者を勇者たらしめた聖なる剣の残滓に、更に力が宿る。


 破裂音と、歪曲音。

 虹の光がアッパーカットのようにララの持つ剣にぶち当たったのだ。

 粉々に砕けた竜の剣が、二振り、塵へと変わった。


 もはやヘレナには武器がない。

 いや、もはや、竜には武器がない。

 いずれの竜にも、剣はない。

 

 ゆえに。

 触れる。


 勇者ヘレナは、竜のふところに飛び込んだ。





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