たったひとつの鈍いやり方 14
まどろみ。
ずっと長い夢のなかにいたようだった。
どす暗い膜を通りぬけた後、わたしは輝きに満たされたからだ。
うす黄色、山吹色、オレンジ。
色とりどりのぬくもりと、レーザーの三原色が混じりあう。
点滅と光線のなかで、わたしは幸福にたどりついた。
「ここまでおいで、レイエル」
それは優しげな女の声。
生まれた時から見ていた緑のなかに、突然舞い降りた黒。
黒のドレスとわずかに覗く白。
「ママ?」
「わたしはママじゃない、ヘレナ=レシュカという人間だ」
「でも、お顔が」
「似ているんだ。同じ、勇者だからね」
女はそう言って、わたしの頬に手を当てる。
髪に、肩に、そして柔らかく抱きしめた。
「勇者? 勇者ってなに?」
私が問うと、その人はすっと森の奥を指差す。
彼女はそこから来て、わたしはそこへ行くところだった。
その場所に、わたしのはじまりが、ある。
木漏れ日が休む場所。
このアールヴの里の、小さな丘のうえ。
このときのわたしはまだ知らないが、
この日、竜が襲ったのだ。
だから彼女は、こう言ったのだ。
「きみの、きみの両親を殺した竜を殺すための戦士のことだ」
血濡れた手がわたしを掴む。
よくみればドレスは汚れている。
赤く。紅く。どす黒く。
きっとそれは、元々は純白のドレスだったのだ。
わたしは幼いながらも、その瞬間に悟った。
平穏も安寧も、永遠にわたしの元を去ってしまったのだ。
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それゆえ、
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こぼれ出ていた血が、顎を伝う。
それが草のうえに落ちて、緑に弾かれて、黒になる。
わたしの麻のドレスは、もうすでにびしょびしょに濡れて、黒いけれど。
髪から滴る水を眺めていると、太い木の枝が、また、額を打った。
わたしはのけぞって、そのまま雑草たちに横たわる。
草が死ぬ。虫が死ぬ。
わたしがこの身体で無意味に殺したいのち。
罪のないいのち。
「きったねぇ、どうせお前も、竜に、なるんだろ」
わたしはなぶられている。
罪深いわたしは、なぶられている。
竜とは、元々は人間だ。
その人間の血を引いている私は、竜も同然なのだ。
だから何をされても、当然。
みな、竜に親を殺されてしまった子どもたちなのだから。
かわいそうな子たちなのだから。
わたしは、顔を拭わない。
泥だらけではいつくばって、血まみれで赦しを乞うて、
それが正しいことだと、ちゃんと知っていたから。
けれどその日は、違っている。
声がして、その日は、その一日からわたしは変わる。
わたしは無意味じゃなくなる。
「お主、やり返さないのか」
声がして顔を上げれば、そこには背の低い少女がいた。
目つきはとても鋭いけれど、その声は優しくて、わたしは目を逸らす。
まぶしい。彼女の声は、わたしを焼いてしまう。
「聖域の姫様、混血なのです、そいつは人間との、混血、」
はは、とその子が笑う。
教わったその言葉をくだらないと嘲笑う。
きたない声を、追いやってしまう。
世界のそとから来た彼女。
埒外の、彼女。
わたしは、おもわず問いかける。
「あなたは?」
「深森の氏族。夜明けのラングイラの娘、しめやかなるエラミスタ。お前は?」
「わたしは、竜を生む人間だから、名前は棄てたの」
「馬鹿馬鹿しい。アールヴとて瘴気で黒獣と成り果てることもある」
そう言って、彼女はわたしの肩に手を触れた。
言葉にならない歌が流れ込んで、まるで、水流。
初夏の水に浸かったように、どこまでも透き通っていく。
わたしの目から、歌がこぼれだして濡れるように、響いた。
「わたしは竜の子どもだから、だから、」
「信じてもいない言葉を信じるな」
「信じなきゃいけないの、わたしは、」
その女の子は、己の白い長髪をゆるりとなびかせて、微笑む。
「やり返さないなら、せめて歌え」
「歌……?」
「生き物は誰しも、自分だけのそれを歌っているものだ」
わたしには彼女が、とても輝いてみえる。
純白のあの人のように、強く、輝いてみえた。
だから、呟いてしまった。
「教えて」と。
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それゆえに、
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束の間の平穏が――訪れる。
竜をおそれながらも、ゆるやかに続く平和な日々。
それは美しくてそして、何もない日々だ。
無為にして、純粋にして、残酷。
何者でもないわたしの、何者でもない時間。
望んだつもりはない。
願ったつもりはない。
だけども叶えられてしまったささやかな――夢。
かつてもっとずっと幼い頃に、夢想したもの。
それはこのうえなく柔らかい、まどろみだった。
わたしはエラミスタに学び、
エラミスタは私の歌を噛みしめるように聴いてくれた。
彼女とわたしはいつしか、この聖域の歌い手となる。
それを信じて、疑わない日々のなかで、摩耗していく。
忘れ去っていく。
憎しみも、悲しみも、怒りも。
竜など、忘れてしまえばいいと、思った。
忘れてしまえれば、よかったのに。
なのに、あの人はふたたび現れたのだ。
「――レイエル」
呼ばれたその一瞬で、わたしはわたしの使命を思い出す。
勇者。
竜。
この世界を救う者。
純白ではなく、もはや血濡れでもない。だけども、籠のうちからわたしを呼んだその声は、やはり、郷愁と恐怖をいっしょくたにもたらす、あの人のものだった。
舞い落ちる木々の葉のなかで、わたしは跪く。
わたしの命の恩人、世界の救世主、この世界の本物の勇者。
その人の前では、なにも忘れることなどできない。
わたしの命は、ずっと彼女の、ものなのだから。
「――ヘレナ様」
こうべを垂れた。
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それゆえに、レイエルは、
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森の、最も高い木のうえにわたしたちは座っていた。
はるか先まで、真っ暗闇が広がっていて、輪郭すら分からない。
月さえ出ないその日には、星明りだけが頼りだった。
この先の。
これからのわたしの。
「なぜ顔を見せなかったのだ、レイエル」
ぽつりと嘆くように彼女が言った。
「わたしは学院に行くことにしたのよ」
星々が降り落ちるような景色のなかで、わたしは答える。
いまや泥ひとつ、血ひとつ、汚れていないその顔。
エラミスタが、わたしの顔を眺めているが、わたしはその目を見つめない。
「そうすれば、わたしは、竜さえも殺せるようになる」
喜びと興奮を隠して、わたしは言う。
顔をしかめる女の子は、その白髪をかすかに揺らす。
「殺して何になる、何を救えるのだ」
問いかけの答えはもうはるか前から決めている。
あの日から、決まりきった答えだけがあった。
「わたしは。わたしを救えるようになる」
そう言って、わたしは木の枝で空を指す。
枝から溢れた輝きが、夜を満たして、はじけた。
「エラ、あなただけに教えてあげる――これが勇者の力なんだよ」
「お前は、」
「――『玻璃聖域』」
喉から言葉が漏れて、わたしは己の力を、見せる。
あの日、あの人が見せたその力を、わたしはすでに自分の物にしていた。
結晶のような膜が広がって、天から地上に降りてくる。
それはまるでわたしを歓迎する舞台の、幕が降ろされるようで。
半透明のかがやきに、わたしの頬は恍惚となった。
「お前は、異世界より現れた存在でもなければ、勇者でもない」
エラミスタがわたしの肩に頭を乗せながら、呟いた。
冷水を浴びせたがっているとばかりに、呟いた。
「いいえ」
わたしは頷かない。
わたしは、エラミスタの言葉を聞き入れない。
「ヘレナ様が言うには、わたしは特別なの。わたしにはすごい素質があって、異世界からやってくる本物の勇者様とおなじような魔法が使えるのよ。他のどんな勇者ともちがうんだって、誰よりも強くて気高い勇者になれるんだって、そうなのよ」
本物の勇者という言葉に、わたしは疑問を抱かない。
このころ、世界中にいた勇者というものがなんなのか、わたしは考えない。
ない、ない、ない。
考える必要が、ない。
知る必要も、ない。
必要なことはただひとつだけだった。
わたしが、竜を殺しうる、ということだけだった。
白髪をくるくるとねじりながら、エラミスタは顔を顰める
「お前の、歌は、まだ途中だ。それはもう、いらないのか?」
「学院でも練習は続けるわ、竜を封じるのにも、歌は有用になるものね」
「ふん。歌は、竜退治の道具などではない。あれはお前のためのものだ」
むっとしたその声に、わたしはしかし耳を傾けない。
エラとの三年のあいだに、わたしは力を得ている。
あの人と出会って、その途方もない願いを、聞いている。
その声の前では、歌も彼女も、ちっぽけに思えて。
竜を殺して人を救うことが、素晴らしく思えて。
だから、
「それでも、歌では誰も救えないもの」
救われたわたしがそう言う。
張本人の、その口から呪いがこぼれて、エラミスタは嗚咽する。
「我を信じろ。行くな。ここにいろ」
「ここに居たとして、あなたに何ができるの?」
わたしはそう問うて、それからすこし思案したエラが唇を震わせる。
おそれるように、何度もためらって、ためらって、ついに溢れる。
彼女はわたしの耳元に口を寄せた。
「 」
柔らかく甘美なその声。
やさしく、とろけるような言葉だった。
この数年間ずっと待ち望んでいた言葉だった。
だけど、それは、この夜のわたしに必要なものではなかった。
わたしは立ち上がって、エラから一歩離れる。
「無理よ、あなたには救えない、竜からも、過去からも、」
「レイエル、それなら我は、誰が救ってくれる」
「――きっとそれは、わたしじゃないわ」
恥ずかしさと、屈辱のために。
エラの頬が赤らんでいる。
それですら、あのときのわたしには何でもないことだった。
この世界のためには、幼いころの、あのわたしを救うためには。
だから、別れの言葉を告げて、樹上から飛び降りた。
輝く羽が広がって、わたしの身体を浮き上がらせていく。
勇者のように。
どこまでも行ける、鳥のように。
あるいはまた、竜のように。
飛べるとおもった。
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それゆえに、レイエル=レシュカは、
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20年が過ぎている。
多くのアールヴがそうであるように、わたしの容姿も22歳のときのまま。
わたしは、勇者アダロとともに旅をしている。
彼はある日、わたしを呼び出しておいつめた。
よく晴れた日のことで、蝉が鳴いていた。
少年勇者の、その4人目。
付き合いはもう、3年にもなる。
壁にわたしの身体を押しつけながら、アダロは熱っぽく問いかけた。
「レイエルさん、どうして、僕を避けるんですか」
「君が贈り物をしてきたからだ」
わたしにはもう、熱はない。
ずっと、凍りついている。
彼のパーティには、女が二人。
なにも起きないように、勇者が勇者のままで死ねるように。
そのために、わたしは傍にいたのだ。
なのに、この状況はなんだと、そう思っている。
そう思って、あるいはそう思ってはいないけれど、冷えている。
いつからかは分からないけれど、凍てついている。
土に埋められた骨のように、凍っている。
「言ったはずだ。私は誰のものにも、ならないと」
「別に、好きになったんじゃありません」
「そうだね。君が知っているとおり、勇者には恋などできないもの」
このころのわたしには、もう彼らがなにか、知れていた。
少年は、勇者などではない。
わたしが憧れたあの人のような、勇者ではない。
それでもわたしは、建前上、彼を勇者と呼んだ。
そう呼ぶことが、彼を本物の勇者に作り替えるかもしれないから。
そう信じていれば、嘘だって本当になるかもしれないから。
いや、それだってもうわたし自身が信じてはいなかった。
だから、わたしの言葉は軽々しく、表層を滑る。
滑りながらいろいろなものを落っことして、削りきっていく。
わたしは、髪をかき上げて少年をにらみつけた。
「アダロ、君は自分の使命にもっとまじめになるべきだよ」
「別に、ふざけているつもりはないんです、ただ、あなたを見ていると心が熱くて」
「熱くて?」
「とても、勇者なんてやっていられそうも、ないんです」
栗毛の少年はそう言って、目を伏せる。
わたしは、彼の両腕をはがして、その胸を軽くつつく。
魔力が渦を巻いている。
降ろされた『勇者という神』が、蕩けはじめている。
その先にあるものは、あるものは。
それをわたしは知っている。
知っているから、知らないふりはできないけれど。
できることならば知らないでいたい。
知らないことにして、身を投じていたい。
「竜が……」
呟きを、アダロは聞き逃した。
だからその数日後に、少年は竜と化して、わたしは彼を逃がす。
月が赤く染まったように見える夜だった。
赤月の竜アダロ。
そう、誰かが呼んで、わたしは思う。
竜を、わたしは殺さねば、ならない。
だからあの少年もまた、殺さねば、ならないのだ、
なんて、そんな風に思って、落とせなかったその首を思い出す。
細く伸びた宍色のその頸。
鎖骨のあたりにちいさな傷跡があったりなんかして、
怒ったときには、筋がしっかりと浮き上がる。
まだ途上の、その頸のことを思い出して。
刃を横なぎに振るう。
鮮血が飛ぶ。
骨を断つ。
わたしは、妄想にふける。
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それゆえに、レイエル=レシュカは、アイナと、
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大雨が降りつづいた。
雪が変わったようなざらついた雨だった。
ヘレナ様に呼ばれていたわたしは、城門のまえで、聴いたことのある声を聞いた。
それは歌だった。
手あそびのようにほんの戯れに漏らした声が、城のなかから響いていた。
わたしは、その声を知っている。
知っていた。
エラミスタ。
隠されたその真名さえ知っていて、そして思い出すことができない彼女。
その声だと知って、わたしは駆けだした。
迂遠にめぐらされた階段を二段飛ばしで昇って、声を追いかける。
前と同じに、透き通っている、その声。
前と違って、透き通りすぎている、その声。
小さな広間の扉の向こうから、心臓を貫いていた。
そっと開いて、おそるおそる、わたしは彼女を探す。
いた。すぐ目の前に、窓辺に。
その目はあった。その声は、垂れ流されていた。
しかし、窓のそばに立っていた女は、まるで別人だった。
ゆるやかな長髪を切り落とし、女は、男のように刈り込まれている。
その白い色にはいささかの変化もないのに、まるで初対面のようだった。
彼女の目は、すこし遠くを見ていて、わたしを見ていない。
「何用だ」
と、彼女は言った。
答える。答えなきゃ。
「エラミスタ、わたしだ、レイエルだよ」
「あぁ。それで何用だ」
用などない。
ただ、声を掛けてみたかった。
彼女に自分の存在を、知ってほしかった。
「どうして、ここに?」
「知らぬのか」
「エラ、里でなにかあったのかい?」
「いいや。そうではない」
声を潜めることもなく、憚ることもなく。
エラミスタはわたしへとその澄んだ声をぶつける。
憎しみでも怒りでもない、無関心。
「アイナ=レシュカという名前に覚えはあるか」
彼女が言った。
「レシュカ? それはわたしの母方の家名だけれども――いや、待ってくれないか。そんなことじゃない。わたしが聞きたくて、話したかったのはそういうことじゃないんだよ、エラ、こんなに時間が経っているのに、あなたとこうして出会えるなんて、おもわなかった。まずはそのことを、この再会について話させてくれないか」
差し出した右手を一瞥して、白髪のアールヴは口を開く。
「不要。我はアールヴの姫にして深森の氏族の語り部、夜明けのラングイラの娘としてこの場にやってきた。偉大なる聖教会の導主であるヘレナ殿のお招きによってな」
「――――エラミスタ?」
拒絶された。
無理もない。
最初に、わたしが拒絶したのだ。
無理もない。
言葉を受け取らなかったのだ。
無理もない。
エラミスタは唾棄する。
「勇者の神降ろしにまつわる秘密と、勇者に施される特別な呪唱については、父であるメリシアスから聞いている。魔法学院は、もう何百年以上にもわたって、人々を騙してきたのだな。そして魔竜を殺すために、勇者たちを、操ってきたのだな」
怒りよりもかなしみ。
かなしみよりも、問いかけ。
エラミスタはわたしに尋ねていた。
「いや、私たちは、」
それは違う、騙してなどいない、
そう言わなければいけない場面だった。
だが、わたしの喉はそんな風には動かない。
動いてはくれない。
「お前たち学院は、クズだ。諸悪の根源だ。誇り高き戦士をうすぎたない嘘で塗り固めて、偽りの希望を掲げて、そのうえ送りこんだ勇者が竜になることを、問題だとも思っておらん。それで誰かを救うなどというのなら、我は願い下げだな」
死にたくなった。
わたしはもちろん、竜を殺さなければならない。
復讐を果たさなければならない。
エラミスタの冷たい目と声が、わたしをどんなに蔑もうとも。
わたしはもう、そうする以外には生きてはいけない。
だけど、わたしたちの、ヘレナ様のしていることをどれだけ肯定しようとしても、そうしきれない自分がどこかに去ってくれない。勇者を弄んで、都合のいい道具として使っている自分が、勇者の力を持ちながら誰も救わない自分が、邪悪に見える。
ヘレナ様は、どうしてわたしを勇者と呼んでくれないのだろう。
どうして、わたしを剣として使ってくれないのだろう。
いや、あの人じゃない。
わたしだ。わたしはどうして、エラミスタの元を去ったのだろう。
わたしは。
「おい。うつつを抜かすな。己のしている悪行くらい知らぬはずがなかろう」
「……エラミスタ、それならどうして、あなたはここに来たんだい」
「招かれたと言っただろう。我がここに来たのは、アールヴと魔法学院の同盟関係によるものだ。なんでも、お前と二人でやらねばならぬことが、あるそうなのだ」
――二人で?
「何と言ったかな、あれは」
エラミスタが冷たい表情で眉根を寄せたそのとき、
「プロデュースだ。そうであろう?」
声がした。
あの人の、声が。
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それゆえに、レイエル=レシュカは、アイナ=レシュカと、
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城壁のいちばんうえ、どこよりも高いそこで、エラミスタは囁いた。
「――もっと、張り詰めた声を出せ。肩の力を抜いて、喉をやさしく撫でるように歌え。力は不要だ。ハープを弾くように、必要なものだけを鳴らせ。心を乗せようなどと思うな。息をぶらすな。感情を込めるな。ただ、まずは歌声を、鳴らせ」
彼女の手はわたしの腰に回されていて、痛いほどがっちりと固定している。
良い歌を歌うにはまず姿勢が大事なのだ、彼女はいつも言っていた。
「驚くほど、上手くなったと言って欲しいのだけど」
わたしが息も絶え絶えにそう言うけれど、エラミスタは鼻を鳴らす。
「世間でお前がどれほど人気であろうと、神格化されようと、我にとっては単なる未熟な生徒にすぎぬ。アイナ=レシュカの歌声は、我の補正がなければ対竜呪唱としては不十分であろう。お前の声は呆れるほどノイズが多くて、ぐちゃぐちゃすぎる」
自覚はあった。
わたしの歌声には色々なものが乗ってしまう。
怒りも悲しみも憎しみも喜びも。
わたしの、いちばん深いところにある欲望も。
すべてが剥き出しになるから、今のエラミスタのようには歌えない。
彼女の声はフラットで、水晶のように透明だ。
濁りもしないが、重みもない。
それは、わたしがかつて聴いたものとは違う。
わたしが愛したその声は、水のように揺れ動いていたのだから。
きっと、わたしが去ってから彼女は歌を変えたのだ。
あるいは、変えざるをえなかったのだ。
アールヴの姫として、求められた歌声がそれだったのだ。
わたしが答えずにいると、エラミスタが首を傾げる。
「拗ねるか、レイエル=レシュカ」
「いいや別に。アイナのファンが増えていればそれでいいのだし」
「まぁ、あの女の考えは知らんが、お前の歌のほうが適してはいるようだな」
短髪を撫でつけながら、高慢ちきに彼女は言った。
わたしは、その言葉の意味を考えながら答える。
「つまり、ノイズが多い方がいいということかい?」
「というよりは、共感性が高いほうが良いということだ。我の呪唱とは違って、アイナ=レシュカの声には、人々と繋がり合うためのゆらぎが必要なのだろうな」
「君の声じゃだめなのかい」
わたしはもちろん、そのほうがよいと思う。
だけど、エラミスタは眉根を寄せて苦悩に満ちた声を出す。
「あいつの目的は、勇者という存在を絶対とすること、いわば、神降ろしの神を再構成するというものなのだろう。そのためには、人々のあいだで共有される強固なイメージが必要であるのだ。ただ美しくて強いだけでは、誰もには、響かない」
彼女はわたしの問いに、えらく真面目な顔で答える。
そんなに真面目に聞いたつもりなんて、なかったのに。
そういうところは、実ははるか昔からさっぱり変わっていない。
エラミスタは困り顔でため息を吐くと、わたしの腰からようやく手を離した。
腹筋に入れていた力を抜いて、わたしはぜえぜえと喘ぐ。
床に座り込んだわたしに、エラミスタは水瓶を渡して、そして言った。
「そうだ。新しい勇者が、来るそうだな」
わたしは小さくうなづく。
ハルティア=ラングのことは知っていた。
詳しくは知らないが、そういう名の少年が来るということは。
彼は、アイナが完成するまでの、最後の、勇者となる。
エラは呆れたように、下あごを動かした。
「あの女主人が計画するアイナ=レシュカが完成すれば、もう、勇者などいらなくなるだろう。素晴らしいことだな、レイエル。だが、お前はそれでよいのか?」
よいとか、わるいではないと思った。
わたしには、そうするしかないのだった。
「良くないなんて台詞があるわけないじゃないか」
なんでもない顔を貼り付けて、わたしは答える。
エラは、このときはじめて、心配そうな顔でわたしを見つめた。
「レイエル、アイナと成れば、もうお前ではなくなるのだぞ」
「構わないさ。いつだって私は、そうやって選んできたんだよ」
「勇者であることをか。お前自身であるよりも、」
「そうさ、わたしは、」
投げやりに答えるのは、それしか言えないからだ。
わたしは選んできたのだ。
選ばされてきたのではなく、きっと選んできて。
だから、いまさら後悔なんてできない。
してはいけないのだ。
なにとは言えない心苦しさと重みに、わたしは言葉を詰まらせる。
エラミスタは、そっとわたしの肩を叩いた。
「ふむ。それでは、我は――望みを託すとしょう」
「なんのことだい」
「最後の勇者が、アイナ以上の勇者として世界を救済することを、願うのだ」
エラは少年を馬鹿にするようにそう言ったけれど。
その口ぶりはまるで。
まるで、わたしがアイナになって欲しくないみたいだった。
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それゆえに、レイエル=レシュカは、アイナ=レシュカと、成り果て、
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彼が、ため息を吐く。
ふてぶてしい態度で差し出された右手を、わたしはすばやく掴んだ。
剣どころか、岩か丸太でも振っていたのだろうか。
その手は鋼のように硬い。
「ハルト――だね。よろしく」
「ほう。ハーフ=アールヴは初めてみたな」
「私もこれほどに才能ある少年を見たのは初めてさ」
わたしは、目を輝かせて言う。
実際、ハルティア=ラングの才能は群を抜いていた。
これまでにいた多くの勇者のなかでも、別格。
彼ならもしかすると、本物に、なれるかもしれない。
たとえ勇者でなくとも、それに匹敵する英雄になれるかもしれない。
わたしは、希望を見つけてはそれに縋る。
彼の首にかけられた十字と同じものを、わたしは杖に埋め込んでいて、それを使えば彼と同じことができるというのに、わたしはそんなことを言わない。ただ、魔法学院という隠れ蓑をかぶって、勇者の援護をするだけ。それだけの役割だった。
「ハルトくん、君はどこから来たのかな」
「さぁ。異世界だと聞いているが、そんなことはどうでもいい。俺は竜を殺す。それさえできればなんでもいい。レイエル。そのための仲間を、集めてくれないか?」
「流石は勇者だね。話が早いや」
お決まりのやり取りも回数を重ねれば、慣れたものだ。
もはや茶番でもなんでもない、仕事。
ルーティンに組み込まれた勇者との会話。
集める仲間は誰がいいか。
サウラ王国から誰かを見繕うのもいいが、それよりは、もっと。
そう思った時、少年の腕を掴んだその手に、わたしは釘付けになる。
「ハルト。我が付き従おう」
短髪白髪の女が、その背に弓を背負って立っている。
その姿を、わたしが見間違えるはずがない。
少年が彼女に、エラに、訝しげに問うた。
「理由を教えろ」
「うむ。我はお主に期待しておるのだ。まぁその、一目惚れと言ってもよい」
そんな一目ぼれがあるか。
と思うけれど、ハルトには疑問に思うことができない。
少年はすこしだけ首を傾げて、そして頷いた。
「宜しく」
なんで。
どうして。
などと、言葉はかたちにならない。
わたしは、エラミスタが舌をべっ、と出したのを見た。
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それゆえに、レイエル=レシュカは、アイナ=レシュカと、成り果
それゆえに、レイエル=レシュカは、アイナ=レシュカと、成り
それゆえに、レイエル=レシュカは、アイナ=レシュカと、成
それゆえに、レイエル=レシュカは、アイナ=レシュカと、
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「成り果てる前に、確かめないといけないことがある」
暗転。
「ひとめ惚れ? 嘘だ。そんなわけがない。あのエラミスタだよ。そんなことあるわけない。当てつけだ。絶対にわたしへの当てつけだ。エラはあのときのことを未だに根に持っているんだ。だから、ハルトにべたべたとして、それで、」
暗転。
「いや、本当にそうなのだろうか。ハルトというあの少年は、本物の勇者でこそないけれど、今までの勇者とはどこか違うのかもしれない。戦闘力は素晴らしいし、空間を操る魔法の才能だってある。容姿もいいし――いや、同じだよ。今までと同じ」
暗転。
「でもエラが本当にハルトを好きなのだったらどうしよう。いや、それは祝福すべきことなのだけれど、わたしはそれをどんな気持ちで受け止めればいいんだろう。いや、そうだ。ハルトは人を愛するなんてできない勇者だよ。エラが本気のはずがないさ。あの子はやっぱり、わたしに見せつけたいだけなんだ。真に受けちゃ、ダメだ」
暗転。
「うんうん。あんないけ好かない子どもに惚れるわけないもの。騙されたわね、レイエル。わたしは大丈夫。ハルトは敵じゃない。あくまでも勇者。それも本物の勇者になってしまいそうな勇者。それだけ。そう、だからこそわたしは心配なんだ。エラミスタの好みが年下だったりしたら――十分にありえることでしょう!?」
暗転。
「こんなのダメだよね。でも、考えれば考えるほど、わたしにはエラを振り向かせるものが何一つない気がしてくるの。こんなとき、アイナならどうするのかしら。ヘレナ様がわたしに与えた、あの理想像なら。虚像なら。何を、エラに言うのかしら。アイナ=レシュカなら、わたしがもっと、こんな人間じゃなかったらいいのに、」
暗転。
「いや、違う。忘れていたよ。何を言っているんだ、わたしは。そうだよ、このわたしは、もう随分前からアイナなんだ。わたしが、アイナ=レシュカなんだった!」
暗転。
それゆえに。
レイエル=レシュカは、
アイナ=レシュカを、真似る。
「エラ! 大丈夫かい! 君ともあろうものが、この程度の竜に狼狽えていてはいけないよ。ハルトくんを信じるんだ。ハルトくんならきっと竜を倒してくれるさ。さぁだから歌ってくれ。君の呪唱で、あの魔竜を鈍らせてしまうんだ! さぁ!!」
暗転。
「フィーラ=クレオンディーネ。まさか、サウラの姫君がパーティーに加わるとね。これでまた、ハルトくんの理想化処理が怪しくなった。エラ、わたしも見張ってはおくけれど、あまりフィーラが近づかないようにしてくれ。お願いだよ」
暗転。
「ララ=リオライエン!? そんな、ハルトくんの魅力という奴は本当に底なしだね。エラ、これで女が四人のパーティだ。いよいよ危なくなってきてしまった。そろそろ、名のある竜でも倒して、誰かを家に帰らせたほうがいいんじゃないかい?」
暗転。
エラ、
暗転。
エラ、
暗転。
エラ。
暗転。
真似ても真似ても、本物にはなれない。
わたしはどうあがいても、
レイエル=レシュカでしかない。
「次の竜だね。赤月竜アダロ、うん。分かったよ。やろう。ちゃんと、殺そう」
そして、ハルティア=ラングの運命は、定まる。
ララ=リオライエンの運命も、定まって、
レイエル=レシュカとアイナ=レシュカの運命も。
あるいは。
暗転。
「エラ、もしあなたがいいのなら、わたしは帰りたい。あの森に帰って、それからあの日のように歌を歌いましょう。アイナ=レシュカの歌を二人で歌うのでもいい、何の変哲もない歌を、二人で。はじめて聞いた日の、あの歌声を、聞きたいのよ」
もちろんそれは、
暗転する。
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それゆえに、レイエル=レシュカは、アイナ=レシュカと、呼ばれ、たがった。
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まどろみ。
今ひとたびのまどろみ。
もう二度と帰ってこないはずの幸福が、レイエルを包んでいた。
森の樹上。歌声と満点の星空。
わたしが失ったもの、捨てたもの。
その代わりに手にした勇者の皮は、いまはもうない。
勇者の剣が、足元に落ちているだけだ。
一面の真緑のなかで、わたしは、それを踏みつけた。
もちろん折れない。
折れたりなんかしないから、勇者の聖剣なのだ。
だからこそ、竜の首を切り落とせるのだ。
だけども、聖剣はまるで薄氷のように砕け散った。
あちらこちらに散らばって、それは無数のちいさな剣となる。
そんな。
剣の刃は、いまやわたしへと向けられていた。
お前などいらないとばかりに、わたしは切っ先に囲まれていた。
ああ、
このまどろみのなかでも、わたしは自由にはなれない。
アイナ=レシュカも演じきれないまま、わたしは消えるのだ。
だけど、それが正しいのかもしれなかった。
最初からわたしなどいなくて、アイナ=レシュカしかいなければ、悩み苦しむことなどただのひとつもありはしないだろう。アイナの歌は、そして彼女の勇者としての力は、世界中のたくさんの人を救えるだろう。そのほうが良いに決まっている。
だってわたしは竜の娘なのだ。
アールヴの里で、黒竜はどれだけ多くの人生を奪っただろう。
世界中で竜はどれだけの幸せを奪っただろう。
わたしには、それを止める責任があるのだ。
誰かがやらないといけないことを自分ができるなら、わたしはそれをする。
そのために自分が消えてしまうなんて、些細なことでしょう?
やっと、役に立てるなら、
「そのほうが、憎まれるよりいいに決まっているさ。誰かを犠牲にしないと救えないこの世界を、本当に救えるチャンスが、わたしの手のなかにあるのだよ。レイエル=レシュカ、覚悟を決めただろう。こうなることは、分かっていただろう!」
オーステン=エリオットの最後の言葉が、いまだに胸のうちに響いていた。
「わたしを、君は救えないと言った、それは至極正しいことだ。君にはきっとわたしを救う力など、ただのひとつもなかっただろう。だから、力のないものがそう言うのは当然のことなんだよ。力のあるものが、すべて背負えば、それでいいんだよ」
鼓舞。
しても、心は震えない。
あはは、と夜の森のなかで彼女は舞い踊る。
依り代としてアイナを降ろしたその身には様々な型が染みついている。
思い返せば、対竜ライブだのアイドルだのも、そんなに悪いものではなかった。
また生まれ変わっても、わたしはまた、アイナになりたがるかもしれない。
一人では、流石にごめんだけれど。
「エラミスタ、ハルト、ララ、フィーラ、死ねばまた会えるだろうか」
とても長い時間が経っているような気がするのだった。
だとしたら、きっと、わたしよりも先に救われているだろう。
わたしは、草のうえに寝転がって、星空を見上げる。
赤色、青、白、オレンジ、緑。
レーザーのような輝きがわたしに降り注いでいる。
この場所が、アイナという存在に飲み込まれたわたしの、かすかな拠り所ならば、きっといつかと同じような夜が、まだわたしのなかには残っているのだ。大切な思い出が、わたしにまだ、存在することを許してくれているのだろう。
だけど、そうは言っても、ただ眠りにつきそうになっているだけのわたしを、聖剣はしっかりと殺そうとしていた。その向けられた切っ先を指で弾いて、指先から真っ赤な血が漏れこぼれて、わたしは安堵する。黒い血ではない。竜にはならない。
「浅ましい願いだ、この期に及んでも」
わたしがそう言うと、同意するように剣の輪が狭まった。
わたしは、いよいよ訪れるそれに、笑みをこぼして、立ち上がる。
これが最後なら、最後だと言うのなら、
歌わずにはいられない。
独唱、かすかにふるえるわたしの声が、暗闇をどこまでも奔る。とおく、この他愛もない思い出からもっとずっととおくへ、エラミスタのところへと届くように。透き通っても明るくもない、濁ったわたしの歌声なら、夜にはちょうどいいだろう。
草木がざわざわと揺らめいて、星々が眩しいくらいに光って、
明滅。光点が降り注いで、その瞬間、
わたしを囲む剣が、一斉にその切っ先を天へと向けた。
懐かしい声が聞こえた。
レイエル=レシュカは、呼ばれた。
その水晶のような声に呼ばれた。
その透き通るような、糸のような声は、今度はわたしを掴んだ。
あの夜のように通りぬけるのではなくて、わたしを結んだ。
「エラ……?」
馬鹿な。
君は死んだはずだろう。
あなたは細切れになってしまったんだろう。
これはわたしの心が、思い出がみせる幻なんだ。
わたしが、あまりにも、エラを求めていたから。
わたしの声が作り出したものなんだ。
「一度歌ったなら、最後まで歌え」
彼女の声は、そう言った。
そんな、歌えなんて言われても困る。
もう歌っているのだから。
「もっと歌うのだ、力強く、誰よりも大きく!」
無理だ。
これ以上はもう声が出ない。
ファルセットが裏返る。
わたしには無理だ。
これ以上はできない。
エラがたとえ幻でも、その言葉には応えたい。
だけど、わたしはこれ以上に歌えない。
アイナのようには歌えない。
「なぜだ! あんなに二人で歌っただろう!」
誰もに愛されるには、とても多くのものが必要なんだ。
混血で、竜になりそうな心を抱えて、もういっぱいなんだ。
あんな風に歌うなんて、できないんだよ。
もしもわたしが生まれたときからアイナなら。
そしたらもっと元気よく、みんなを幸せにできる歌を心から歌えたのだろう。
レイエル=レシュカがアイナ=レシュカなら、わたしはみんなを救えたのに。
「おい、信じてもいない言葉を信じるな」
信じてるさ。
わたしは心から、みんなを救いたいんだ。
だけどそのための力が出ない。
嫌われ者のわたしには、そんな力がない。
「なれば、オーステンの思いはなんだ? わたしの応援はなんであるのだ?」
それは、すべてアイナ=レシュカへの思いだ。
そうだろう。ぜんぶ、それは彼女のものだ。
「違う。我らはお前を、レイエルを連れ戻しにきたのだ」
わたしを?
そんなわけがない。
このわたしに、一体なにがあるというんだ。
「お前の歌が必要なのだ。竜を殺すための神様じゃなくて、竜を殺すことを恐れてしまうお前の歌が。お前がいなくては、この世界では、誰ひとり救われないのだ」
意味が分からない。
わたしの歌が、どうして、そんなに?
戸惑いのなかで足がすくむ。
だけどそのとき、もうひとつの声が空から落ちてきた。
「レイエル。あなたは勘違いしているんだろうけど、あの日、オーステンを救ったのは、アイナ=レシュカの歌声じゃない。あなたの声なんです。まだアイナ=レシュカが王都に知られる前、城壁のうえから聞こえたという、その戸惑った声なんです」
だけどだけど、
わたしは唇を噛む。
そうだ、この声は、
「オーステン?」
「その息子、エルマン=エリオットと言います」
息子。
では、オーステンは。
「今はもういない。けれど、ある意味では生きて、ここにいるんです」
死んだのに、生きている。
どうして、
「我らは、お前を連れ戻しにきたのだと言っただろう」
エラミスタの声がして、天のかがやきが一層に強くなる。
「さぁ時間がない! レイエル! はやく、ここまで上がってこい」
ここまでだって?
それはまさか、この星空まで?
無理だ。そんなことできるわけがないよ。
わたしには翼もなにもないんだから。
そう言おうとした、その瞬間だった。
不安げに飛び回っていた聖剣たちが、ぴたりと止まった。
その鋭さが増していく。
いよいよ、その標的を星空に定めたのだろうと思えた。
そう、標的を、星空に?
焦った声が響く。
「レイエル! 急げ!! 我と、来い!!」
「エラミスタさん、ダメです、歌弓にヒビが入っています!」
「五月蠅い!! それなら治せばいいだろう!」
「馬鹿言わないでください! このままじゃ聖剣が逆流してきますよ!?」
エラ。
わたしは息を呑む。
このまま、このままだとどうなるのだ。
エラがもしも本当に幻でないのなら、
エルマンという男が、この星空の向こうにいるのなら。
わたしの聖剣は、邪魔をする彼らを、殺すのか?
そんなことはさせない。絶対にもうさせない。
わたしは、アイナではない、ないけれど、
それでもなにか、できることが、なにか、なにか、
反射的に掴んだのは、すぐそばに落ちていた木の枝だった。
杖木。
そうだ、里の木々はそのすべてが魔力を高める媒体なのだ。
だからわたしは、魔力をその杖先に籠める。
聖正十字は埋まっていない。
勇者の力はない、アイナ=レシュカでもない。
だけど、それでもわたしは、知っている。
わたしの歌い方は、知っている。
ちゃんと、教わったのだから。
教えてもらったのだから。
「呪唱『梦訣』」
お腹から胸へ、喉へ、肩へ、
そして指先へと声を流し込む。
「――わたしは失われた願いに立つ蜃気楼、その笑みに沈めらるるは、儚き人間の悲哀にして、盲目をあざむく呪い。モグラのように輝きを恐れて、蚯蚓のように地の底をめざした臆病は、夜のひかりのもとに向かうことさえも許さない。いかなる慈愛も忘れ果て、塵になるべきだと忘却し、蔑まれ、嘲られ、罵られ、愚鈍のままに生きることにすがりつく。凡百なる苦しみ一つが世界のすべてであるかのように語り、そのくだらなさに唾を飛ばし、それでも痛みがなくては生きていけないと呟いた。竜にもなれず、人にもなれず、ただ在りえたもの、在りはしない鏡像を望んでははい回り、浅ましく嗚咽しているだけのこの身の何たるを、理想だと語れようか。否。この身は浅はかなる願望、浅ましくも星空になろうとした凡百の名残。神でも聖者でも勇者でもない。ただこのわたしを身にまとう、レイエル=レシュカだ。」
途端、聖なる剣のそのすべてが凍りついたように動きを止める。
わたしは、その剣たちを階段のように駆け上がった。
わずかな足場。
落ちればきっと死んでしまう。
わたしは鳥ではない。
竜でもない。ただの人間だ。
ただの人間で、そして、
ずるり。足が滑る。
「っあ」
落ちる。
落ちる。
落ちる。
「――ッ、エラミス……タ!」
喉からこぼれたその声が、透き通った彼女の魔力に結ばれる。
天がゆがんで、思い出の星空が渦を巻いて、その向こうに、雷が光る。
わたしの身体が落ちる刹那、その光が、たましいを貫いた。
「いまです!」
「呪唱――『生きろ、レイエル=レシュカ』」
声が、わたしの皮をほどいた。
まるで精巧な細工物から糸を抜くように、黄金のアイドルが消える。
降ろされていたその神が、ばらばらに霧散した。
そして、この手が掴み止められる。
その、愛すべき声の持ち主に。
「……レイエル」
エラミスタが長い髪を揺らして、立っていた。
その姿は、まるでいつもと変わらない。
わたしは彼女のその手を、ほんのすこしも離さずにそのまま抱きしめた。
「わたしは、あなたを愛してやまない。やまなかったんだと分かったよ、だからこうして、またこうして会えたんだね。まるで、奇跡かなにかのようだと、思うよ」
「馬鹿馬鹿しいことを言うな」
ほくそ笑む。
そうして彼女は、わたしを連れ出したのだ。
また、あの頃のように。
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