たったひとつの鈍いやり方 13



 雷が消え失せ、エルマンは懐から一本の剣を取り出す。


 短剣。サリア=クルーエルの折れた剣。

 魔法剣など使わずとも、鋭利なそれだけで十分だ。

 男はそれを、白磁のような首に軽く当てた。 


「ライドの遺言。一番悪い奴にこれを返してやれ、とのことです」

「聖別された短剣か? くだらんが……」


 刃が触れたその箇所が、真っ赤に腫れあがっている。

 どうやらこの女は、本当に竜と成り果てているようだった。


「どうやら、あんたはもう人間じゃないみたいですね」

「慇懃無礼はどうした、エルマン。それがお前の素なのか?」

「お互い様ですよ。あんたもこの世界に来た当初とは、随分違うみたいですし」

「ほう、貴様は何を知っているつもりなのだ?」


 竜めいた怒声でも唸り声でもなく、鈴のような澄んだ声で彼女は言った。


 勇者ヘレナ。

 教会を造り、魔法学院を築いた齢200歳を超える女。

 まったく歳を取っていないはずのその姿は、どこか幼くも見える。

 下手をすれば、アイナと同年代にも見えた。

 

 なぜ彼女が歳を取らないのかと言えば、おそらくそれは竜だからであろう、とエルマンは結論付ける。竜とは、たとえその半身が人間であるとしても、ただ成り果てるだけで、この世の理から外れてしまう、そういう生き物なのかもしれない。


 そしてその彼女のことについて、エルマンは誰よりも詳しく知っていた。

 その自負があった。それゆえに彼は、わずかに笑みを浮かべる。 


「一体、私たちがどれだけ調べたと思ってるんです。アールヴの里もサウラの王宮もリオライエンの蔵書さえ漁りました。四十年近くの時間をかけて、見つからないように手がかりと情報を集めていったのです。あんたと同じく、この日のために、ね」

「なるほど。賞賛だな」


 頸の短剣を一瞥して、そしてエルマンの獅子髪を一瞥して、

 しかしそれらを嘲るでも罵るでもなく、ヘレナは首を傾げた。

 その何気ない仕草にも剣は滑り、彼女の首には傷がつく。


 エルマンは息を呑んで、女の顔を見た。

 怒り狂ってしかるべき彼女の顔には、しかし、好奇心の色が浮かんでいた。


「さて。エルマンよ、それでなぜお前たちは、私に目をつけたのだ?」


 女が囁くように問うて、

 エルマンがぶっきらぼうに返す。


「学院長ヘレナ、明らかに黒幕じゃないですか」

「否。どうして初代勇者である私の存在に気付いたか、と訊いておるのだ」

「痕跡を残しすぎなんですよ、あんたは」


 たとえば、フィーラ=クレオンディーネがこよなく愛する酒。

 転生勇者がいないのだとしたら『酒』というのは何であるのか。

 200年前の聖教会は、そんなフレーバーから勇者伝承を造り上げたのか。 

 いや、そんなナンセンスな話はあるまい。


「疑って調べてみれば、初代勇者ヘレナ、その固有能力の記述が見つかりました」

「『万物聖剣』のことか」

「なんでもその対象――無機物だけじゃないらしいですね?」


 にやり、とエルマンが笑う。

 ヘレナもまた、楽しそうに呟いた。


「生物」

「ウィ。それです」


 そのヒントが、『彼』を導く。

 ヘレナに目をつけたとき、すでにかの青年は胸中に疑問を抱いていた。

 説明にそぐわないそれ、矛盾したその、ピース。


 エルマンは得意げに語った。


「かつて、アールヴの呪唱で焼き付けられたものが解けることで、勇者は竜となってしまうと、レイエルは言いました。だけど、アールヴの呪唱ははずのもの。人間の行動をそこまで支配できるとは、到底思えません」


 そう。

 少なくとも、勇者を縛る枷とは呪唱ではないはずなのだ。

 アールヴの里で、そのことを『彼』は確かめた。

 その調査には信頼のおける人物も同行していて、間違っているはずはない。


「であれば、何が、勇者を本当に縛り上げているものなのか」


 もちろん、レイエルの話のすべてが嘘だったわけではないだろう。『神降し』は確かに、勇者という存在を、ハルトたちに降していたはずだった。浄化の不完全さで溜まった黒蛇が、神降しの不安定さで暴れるということも、嘘ではあるまい。


 だがそれでもそこに不整合な点があるとすれば、そこには何が隠されているのか。その点をうまく説明するためには、やはり初代勇者というピースが不可欠だった。あの人たちはきっと、そのようにして、ヘレナという人物を追い始めたのだ。


 収拾と推理のなかで、『彼』が辿りついたひとつの答え。

 エルマンが、その言葉をようやく口にした。


「勇者を縛っていたのは、、ですね」


 勇者ヘレナが楽しそうに目を細めた。


「万物聖剣は、それを付与した物体を思いのままに操っていました。操られる剣、追尾する結界。では、あれを人間に付与した場合には、一体どうなるんですか?」


 人間を聖なる剣とする。

 聖なる武具そのものとして、扱う。

 

 レイエル=レシュカの言葉のなかにその片鱗はあった。

 『女神の武器』。聖教会において、勇者とは武器なのだという。

 それは比喩ではなく、文字通りの武器だったのではないか。


「記述がありました」


 女の眼を見ながら、エルマンは言う。

 サウラ王国で読んだ古い日記の文言を思い出して、

 いや、『彼』が読んだというそれを、思い出して。


「貴女の力を人間に使えば、」

「そうだ――人間に使えば、そやつは、私の使役する人剣となるのだ」

「潔いではないですか、勇者ヘレナ」


 使役する人剣。

 わざわざ何かを言うまでもない。

 文字どおり、人を武器とするということだ。

 己の思いどおりに動く器物と、することだ。


「勇者はみな、あんたの聖剣なんですね」


 勇者の竜にだけ黒爪がある。

 これも当然の話だった。

 あれこそまさに、黒蛇によって変質させられた聖剣、その魂の残滓なのだから。


「そうやってあんたはずっと、勇者を支配していたんです」


 なにがハーレムだ。

 ハーレムなどとんでもない。

 鈍感など、ひどい欺瞞。


 自己暗示も、呪唱による植え付けですらも、嘘だ。

 そこにあったのは、ただひたすらにシンプルな真実。


「そうだとも。それが私の、チートだ」


 女が噛みしめるように笑った。

 エルマンの手に力がこもる。


「レイエルの説明とは逆なんでしょう。まず『聖剣』と『理想化処理』があって、それから『神降し』が必要になった。そしてそのことを、ひた隠しにしてきた」


 なんのために。

 なぜそんなことをしたのか。


「この理由も単純なものですね」

「なんだろうな」


 ヘレナがとぼけるが、エルマンは睨みつける。


「素知らぬふりはおやめ下さい。ハルトの『万物聖剣』を付与された物体は急速に劣化して粉々に砕けました。あれは、適性のない物体を破壊してしまうんですよね。だから、魂が壊れないように、あんたは『神降し』を行わせたんです」


 いまやすべてが明快になっている。

 勇者ヘレナがアリュオランに蒔いたすべてが、白日の下に晒されている。 

 あとはそれらの情報を組み合わせるだけ。

 それだけで、真実が見えてくる。


「勇者でなくなると、『万物聖剣』が魂を急速に劣化させます」


 そうすれば、勇者はどうなるのだ。


「竜になる――破魂の竜になるんです」


 すなわち、聖剣によって勇者となったが最後、その末路は三つしかない。

 竜となって死ぬか、竜となる前に死ぬか、勇者のままで死ぬか。


 その最低な三択だ。


「レイエルの説明とは、プロセスがまったく違います。勇者は、決してその任から降りることができないんです。もしもなにかのイレギュラーで神降しが解けたり、あるいはスーリアのように、あなたの支配から逃れられそうになれば、その瞬間に、」

「魂は砕ける」


 その時はいつか来る。必ず来る。

 黒爪など受けなくても、勇者の心はいずれ壊れてしまう。

 勇者ヘレナの魔法も絶対ではない。

 そして、万物聖剣の力は当人の状態に係わらず、確実にその魂を壊す。


 勇者は、決して勇者以外にはなれないのだ。絶世の美女に囲まれようと求愛されようと、愛する人がいようと、なれない。他の者になろうとすることそれ自体が、聖剣としての逸脱、理想的な剣であることへの、裏切り行為そのものだから。


 ゆえに、いくら浄化で黒蛇を減らしても、同じ。

 何をしようが誰に願おうが、そこに勇者がいようが。

 瘴気から離れようが、竜を倒そうが、愛に目覚めようが、同じ。


 あり方を疑ってしまったその瞬間から、誰にも、


 助けることはできない。 

 できなかったのだ。


「あんたはその手で、竜を、造りあげていたようなものです」

「黒蛇の責任まで負わされるのはたまらぬが」

「というより、あんたはワザと、竜を生んでいたんじゃないんですか」

 

 女の口の端が吊り上がった。


「竜を産まずに世界を救う方法は、きっとあったはずです。勇者たちにちゃんと事情を話して、神降しが解けないようにすることもできただろうし、聖剣を生み続けてそれを英雄たちに渡す、なんて方法もあったかもしれません、なのにあんたは、」


 瞬間、女の尾がしなって、寝台の半ばを砕いた。


「――そんな方法など、ない」


 初めて。

 そのとき初めて、苛立ちのこもった声色で、女は呟いた。

 エルマンが小さな声で問うた。


「それでも……他にやり方はあったはずです」


 すると、女は笑みを浮かべる。

 そして、片手指を一本ずつ折り曲げはじめた。

 一、二、三、いや、まだまだ。まだまだ。

 小指までいけばまた戻り、二桁の中ほどまで差し掛かって、止まる。


 その指の意味は、なぜだかすぐに分かった。

 それは彼女が失敗した、その別のやり方の、数だ。

 数なのだと、エルマンは直感した。


「私は、無様にもそのすべてに失敗したのだ。そして最後に、この世界の呪術である『神降し』を元にして理想的偶像を生み出すことを思いついた。『神造り』だよ。だが神話を完結させるには、この現実に、真の奇跡を起こす必要があった」


 奇跡。

 それが何を指すか、エルマンには分かっている。

 それは、世界の趨勢を決めるような、闘争だ。


 すなわち、最強の竜の討伐。


があれば、弱者でも竜を倒せるようになるのだと触れこんで、まずは憎しみを持つ者を集めた。苦行に耐えられそうな者たちを集めたのだ。そして彼らが十分に実るのを待つ。その心が小枝のように折れるのを、待つ」


 待つだけ。それだけで竜は生まれる。

 ただの英雄の竜ではなく、勇者の竜だ。

 真の勇者でなくては倒せないような強大な竜だった。


 それを倒すことができれば、理想はさらに現実に近づく。

 絶対無敵の勇者を、生み出すことができる。 

 

「ハルティア=ラングもそのために誑かしたのですか?」


 エルマンが問うた。


「あれは、自分から来たのだ。スーリアに故郷を滅ぼされ、強烈な憎しみを携えて、私に力を乞うたのだ。私はあれに可能性を与えて、そして強大な竜として実るまで、放っておいたにすぎぬさ。まぁ少々の甘言は、あったかもしれぬがな」


 女はそう言って、ほくそ笑んだ。


 ハルトについての顛末は、そして彼の来歴は、エルマンの心をすこしだけ慰めるものとなった。あの少年はすくなくとも、己の本来の目的である竜殺しは達成できたのだ。たとえ魔竜スーリアが手心を加えており、少年自身が竜になったとしても。


「幸いにも、ハルティアとララは、この世に例のない魔竜として完成してくれた」


 ふざけるな。


 ぎり、とエルマンは歯ぎしりをした。

 眼前の女の邪悪さに、反吐が出る思いだった、


 すべては、アイナが世界を恒久的に救いうると、確信するため。

 そのために彼女は、歴代で最強の竜を生み出そうとしたと、言うのだ。

 最凶の竜をアイナ=レシュカが倒すという、そんなプロセスが必要だったから。


 女は、そのために、数多の勇者を造ったのだ。

 弄んだのだ。


「この世界の人間は、あんたの駒じゃありません」

「はは。だがエルマン、貴様の語りによって、抜け落ちた物語も埋まったのだぞ。あのような、つたなくなまくらな言葉であっても、アイナには必要な物語だった。彼女が自らで選び取り、レイエルという人間を捨てた、その意思と、その神話がな」


 詩人は、短剣を押し込みそうになる己の手を必死で押しとどめる。

 この勇者は、信じられないほど邪悪だったが、まだ殺すわけにはいかなかった。

 女は、そんな剣を恐れる様子もなしに、舌を振るう。


「このために私は、200年を生きたのだ。アイナ=レシュカという最高の勇者にこの世界を託すことが、私の目的だった。各地に伝承を残した。この世界の人間が最も理想的だと感じる似姿を調べあげてきた。最高の歌声を持つ種族を探し、子をなして、まぼろしのなかにアイデアルなものを造り上げる。理想であるものは決して壊れない。決して滅ばない。この世界は、今日ようやく永遠のものとなるのだ」


 女が、寝台の傍らに置かれていた何かに手を伸ばし、掴み上げる。

 それは、黄金に輝く聖正十字の首飾りであった。


「わたしの目指したもの、わたしが願ったもの、それはすべてこの世界の平和だ。とこしえの安寧だ。勇者どもに握らせたこの十字飾りは、わたしと理想を共有するというその証。かれらもまた、殉じたのだ。理想と復讐に、身を捧げたのだ」


 女の瞳が、潤む。

 己の言葉に心底から酔いしれているのだ。

 こいつは、本気なのだ。


「すべてを失い、鈍麻し、愛も欲も捨て去ってもなお、選ばねばならなかった。お前には分からぬだろうが、ハルティア=ラングもそうして自ら選んだのだ。かの少年の旅路は、お前が語りだしたその旅路は、その覚悟によって齎されたものなのだ」


 晴れた声でそう言うと、女はエルマンをちらりと見上げた。

 美しいその顔に、邪気のない輝きが浮かぶ。


「エルマン、私は多くの人間を騙した。だがその信念を裏切ったことはない」

「綺麗ごとを言わないでください」


 そんなものを聞くために、皆は生き残ってきたわけではなかった。この女を倒して、そしてその上で世界を救うために生き残ってきたのだ。エルマンは、竜をいっそ一思いに殺したい思いを抱きながらも、レイエルの顛末を聞くために語ったのだ。


 エルマンは、剣を突き付けてヘレナを立たせた。

 彼女にはまだ役割がある。

 彼女にしかできないことがあるのだ。


「初代の勇者よ。勇者たちにかけた万物聖剣を解除してもらいましょう」

「それは、アイナ=レシュカのためか?」

「えぇ」


 女は嗤った。


「ならばその必要はない。数刻もしない内に、万物聖剣の魔法は解ける」


 確信に近い声。

 彼女は吊り上げた口の端から割れた舌を覗かせる。

 得意げでありながら悲しみを帯びた顔。

 勝ち誇るというよりも、ただ満たされた者の顔で彼女は言った。 


「私はもう、アイナの玻璃聖域で力を奪われているのだ。早晩に、死ぬだろう」

「死ぬ……?」

「だから貴様に、ひとつだけ頼みがある」


 青年の沈黙に、ヘレナは懇願するような表情を浮かべた。


「その窓まで私を連れて行き、アイナが勝利する瞬間を拝ませてくれ」

「馬鹿にしないでもらいたい」

「頼む。それだけが私の、私の最期の願いなのだ」


 エルマンは逡巡した。

 この女の表情にも声色にも嘘偽りは感じられない。

 しかし、彼女は数えきれない勇者を陥れてきた張本人だ。

 そんな人間を、信用してもよいのか。


 青年は窓の外を見る。


 一層強まる、彼女の輝きが見えた。

 恐ろしく明るく響く、その声が聞こえた。

 そのあまりの神々しさに、青年は己の邪悪を恥じた。


 たとえ竜であり、敵だとしても、この女にもアイナ=レシュカの晴れ舞台を見る資格はあって然るべきだった。これほどの舞台を見られることは、きっと、勇者ヘレナの毒を消し去ることにもなるだろう。そう、エルマンは己を納得させる。


 短剣が首元から離れて、詩人は流れるように寝台から降りた。

 勇者ヘレナが、それにエスコートを願うように手の甲を向ける。

 エルマンが顔をしかめて、己の手を引いた。


「どうぞひとりでお進みください」

「うむ、結構」


 と、女はその手を翻し、

 ごく自然に、サリアの短剣、その刃に。

 触れた。


「――それでよい。発動『万物聖剣』」


 まずい。

 と思うのも束の間、サリアの短剣が光り輝いた。

 勇者の魔法は、あらゆる物体を操り、聖なる剣と化す。

 剣が、エルマンの手を離れて、舞った。


「エルマン=エリオット、貴様の語りは存外に面白かったぞ」 


 ヘレナの白い皮膚がぱきりと崩れる。

 彼女の歪められた口角が、表情全体に、ヒビのように皺を走らせたのだ。

 上半身は人だなど、とんでもない。彼女は、竜以上に化生じみていた。

 


 殺られる。






 そう思ったそのとき、


 ぱきり、と音がして、短剣が粉々に砕けた。

 宙に飛び散るは浄化の聖水。

 それが勇者ヘレナの左脚に見事にかかった。


「なんだ、これは、」

「聖水仕込みの短剣さ。上手いこと割れてくれたね」


 窓に、一人の女が立っていた。


「女。お前が仕込んだのか?」

「いかにもそうさ。絶妙な細工だったろ」

「生意気な。こんなものが通じるとでも思っているのか」

「まさか。ちょっとした嫌がらせだよ」


 逆光を背に、彼女は右手をぐっ、と握りしめる。

 そうすると、女の足下からまるで蛇のように何かが奔った。

 魔法。生き物のように操られているのは、


「土――いや、泥か!」

「生泥『白蛇』」


 放たれたそれは滑るように動き、瞬く間に、竜女ヘレナの身体に巻き付いていく。一匹一匹は非力であれど、数が尋常ではない。数百を超える泥のちいさな蛇が生ける鎖のようになって、頑強な竜の鱗にがっちりと食い込んでいった。


 しなやかな尾が振るわれるが、その数の前では無力。

 あっ、という間に、ヘレナは蛇に囚われていた。


「ご自慢の聖剣だの魔法だのはどうしたんだい。それでも勇者なのかい」

「黙れ、」

「子供だましの聖水にかかるなんて、ほんとに無様な竜だね」

「私は、竜ではない」

「いんや、あんたは竜だよ。中途半端な、竜の成りそこないさ」


 そう言うと、女は悠々とヘレナに至り、その顎をちょいと摘まんだ。

 身じろぎできない勇者は、ただされるがままに歯を軋ませる。


「ふん。若々しくて良いこと」


 ヘレナの頬が、憤慨するように紅潮した。

 しげしげとその面を眺めたのちに、彼女は振り返って、エルマンを睨む。

 びくり、と震えた青年の前に立つと、女はいきなりその腹に拳を打った。


「このアホ」

「な、なにを、」

「この女は200年生きた化け勇者だ。油断するんじゃないよ!」

「すみ、ません、でも、」

「ま、あんたのママには言わないさ」


 さぁーっと青年の顔から血の気が引いた。

 逆立っていた髪の毛が一気にぺたんこになり、女が微笑む。


「エルマン坊や、あんたやっぱりオス兄とそっくりだよ」

「ぐ、サ、サニャ婆」

「婆!? あんた殴られ足りないみたいだねぇ!」


 ドス。


「あたしはまだそんな歳じゃないよ」

「ごじゅっ……」


 ドス。


 サニャ婆と呼ばれた女は筋骨たくましいその拳でもってエルマンという青年を殴りつけたのち、拳骨をぱきぱきと鳴らして、半裸の女へと向き直った。その名を耳にして、竜女も目を見開いていた。その双眸に、驚きと怒り、そして恐怖が映る。


「馬鹿な。ララ=リオライエンが竜と化したとき、」

「フィーラが神降しを取り戻したときのことかい?」


 ヘレナの眉根が寄せられた。


「スーリアが死んで、フィーラがラズ=サウラになって、それからあたしらを間一髪で逃がしたときのことだろ? ありゃ確かに危なかった。レイエルが爆発を抑えてくれなきゃ、オーステンもあたしらも、あのときに死んでたかもしれないね」


 さらさらと流れるように女は言った。

 エルマンは、竜の女に睨みつけられないよう、目を伏せる。

 語りにおいては多くの嘘を吐いたが、その最たるものの一つがこれであった。


 ヘレナが、犬歯を剥き出しにして問う。


「死にぞこないどもめ」

「黙りな。あんたがハルトを殺したようなもんだろうに」

「ハルティア=ラングは己で生き様を選んだ」


 ドガン。石にヒビが入る。

 サニャ=クルーエルが拳を壁に叩きつけた音だった。

 

「ハルトが自ら選んだだって? ちゃんちゃらおかしいね!」

「あの少年は勇者として、私の前に立ったのだ」

「馬鹿言うな。ハルトが選んだのはララだよ。あんたでもこの世界でもないさ!」


 サニャはそう言いながら、勇者ヘレナの首を掴んだ。

 女の細首に、すこし老いたその指が食い込む。

 爛々と光る大蛇のような眼で、サニャが囁いた。


「――なぁ、化け勇者。あんたを殺したら一体どうなるんだい」

「なにも変わらぬな。もはやアイナは信仰を確立している」

「はぁーん。ほんとかねぇ?」


 余裕の笑みを浮かべた女は、指を二本立てて、それをひらひらと動かした。


「たったの二回負けただけでおっ立たなくなった竜殺しの神様がいたじゃないか。アイナ=レシュカだって、彼女を支える物語なしでは、神様のままではいられないんじゃないかい。この世には永遠の覚悟も、醒めない夢もないよ、勇者ヘレナ。」

「はははははは。大言を吐くものだ」

「ちゃんと吐けるように、そりゃたくさん飲んできたからね」

「軽口を叩くはよいが、外の光景を見てみろ。いよいよ、竜が死ぬときがくる」


 頸を絞められてなお、くぐもった声でヘレナが言った。確かに窓のむこうの光景は、幾分か落ち着いているように見えた。恐るべき魔竜ララも、その魔力は無尽蔵ではないのだろう。出し尽くしたであろうその魔法の数も勢いも、衰えていた。


 そしていまだ、アイナ=レシュカの輝きは、消えない。


「ピンチになればなるほど、アイドルは輝きを増す。このステージが、綿密に計算された演出だとするならば、どれだけ敵が強かろうとも、負けることが決まっている竜という悪役には万に一つの勝ち目もない。これはそういう、呪術だということだ」


 勝ち誇った声でヘレナは言った。

 彼女の悲願であるアイナの完成は、もうすぐそこまで来ていた。

 もはや、それを止めることは誰にもできない。


「まったく、醜き竜にも、世界は素晴らしい役割を与えてくれる」


 女は、愉快そうにうそぶいた。

 が、それでもサニャは、諭すように呟いた。

 

「醜いだって? そうじゃない、竜は尊い存在だよ」


 女の声色は静かだった。

 落ち着いたその目にはかすかに滴ができていて、口元には微笑み。

 されど、力強い口調で、彼女は宣う。


「竜となったすべての勇者たちを、私は尊敬する。あの人たちは竜と成り果てた。己を縛る勇者という役割を破り、勇者ではないものになろうとした。己の心のままに生きようとした。そのことを、私は心の底から素晴らしいことだと思うよ」


「それで竜と成り、あまたの人間を殺したのだ!」


 高慢な態度をすこしも抑えずに、ヘレナがげらげらと嘲笑う。

 サニャの眉間には一瞬だけ皺が生まれたが、あっさりとそれは消えた。

 彼女は、もうすでに、己の言うべき言葉を見つけてしまっていた。


「違うね」

「なにがどう違うのだ?」

「殺したのはお前さ。人をじゃない。自分をだ。あんたは竜に成り切れなかった。半人半竜で、勇者ともそうでない存在ともなれないまま、みんな圧し殺したのさ」


 言い放たれたそれに、ヘレナは声を詰まらせる。


「貴様が私のなにを、知っていると、」

「色々さ。男との駆け落ちも、そこに子どもができたことも」


 男、その名はどこにも残されていない。

 だというのに、ヘレナはその顔面を青くして震えていた。

 唐突に現れたその存在に、彼女は怯えを隠さなかった。


「やめろ」


 無論、冷たい目をしたサニャはやめない。

 彼女は言う。


「子どもを産んだあんたは、勇者をやめたくなった、」

「違う、あれは、女神の力を継承するために」

「すると、あんたの足は竜になり、尾が伸びて、下半身は人でなくなった」

「サニャ=クルーエル、黙れッ!!」


 絶叫が響き渡るが、女の声は淡々と続く。


「あんたは、恐ろしくなって、我が子を殺そうとした」

「そんな、物語は、嘘だ、どこにも記述はない、お前の騙りだろう!」

「だけどその子は生き延びて、とある村に逃げ込んだ」

「大嘘だ、そんな大嘘は、」


 暴露は止まらない、

 言葉が止まらない、


「あんたがその居場所を見つけ出した時、彼女はもうすでに死んでいた」

「嘘の物語で、私を縛るな、私には子どもも子孫もおらん、私は、」

「レイエル=レシュカは、その直系、五代目の子孫だった」


 設定が、その開示が、記述が、止まらない。

 物語がサニャの口から溢れ出て、


「いいや、あれはただの混血の、道具にすぎぬ、もので、」

「あんたはレイエルに、自分にできなかった本物の勇者を、託したくなった」


 それは、しかしやはり、真実となる。

 なぜならば真実で、あるがゆえに。


「違う、大嘘、だ」


 竜の女はだらだらと汗をかきながら、浅い呼吸で取り繕う。

 だが、その行為そのものが、記述を真実めいたものに変えていた。

 女は言う、女は言う。


「アイナの姿は、なりたくてなれなかった己なんだろ?」


 女は言う。


「それとも、その手で殺そうとした娘の、見られなかった晴れ姿かい?」


 女は、


「違う、わたしは勇者だ、この世界を救済するために、」

「嘘つき」

「黙れ、アイナが完成すれば、なにもかも、なにもかもが、」


 憔悴したヘレナは随分と年老いたように見えた。

 終わる、終わる。すべて終わる。

 そう呟く唇はかさかさに乾いていて、生気を感じさせない。

 サニャが首を横に振った。


「終わらないよ」

「終わりだ、お前たちの手に入れたいものは、もはやどこにもない」

「あるさ。まだ手の届くところに、残されたものが、ある」


 彼女が見るのは、窓の外。

 そこに、やはりそこに、彼女らが望むすべてがある。

 その可能性を孕んだまま、アリュオランはここまで保たれた。

 このために。この日のために。


 サニャはその手を竜へと伸ばして、空を掴む。


「ララさんは、その魂を食われたわけじゃない。ハルトを食った蛇が、別の身体を乗っ取っただけなのさ。それならもしかするとまだ、救い出せるかもしれない」


 エルマンは語られた物語を思い出す。


 ハルティア=ラングの身体から抜け出した蛇は、彼女の体内に滑り込んで、その肉体を竜へと変えてしまった。であれば、ララの魂もハルトと同様に蛇に食われてしまったと考えるのが妥当だろう。サニャの願望は、希望的観測ですらないものだ。


 ヘレナが馬鹿馬鹿しいと吐き捨てる。


「ありえない。仮にありえたとしても、助ける方法などない」

「あるさ、アイナ=レシュカが竜を浄化すれば、黒蛇は抜け出るかもしれない」

「ならば願ってみるがいい。そして心を取り戻してみるがいい」

「ふん。ひどく自信満々だねぇ」


 苦々しい表情でサニャが言うと、ヘレナは口をすぼめる。


「レイエルをこの世に引きとめるものはないのだ。ハルトやスーリアとは違う。彼女が勇者をやめようとする理由など、ただのひとつもありはしないと、思わんか」


 女の眼に怪しい輝きが戻った。


「レイエルには、心残りなどいささかも――いや、そうか、」


 途切れ、思考が繋がる。

 女は力なく笑って、問いかけた。


「――オーステン=エリオットだな。あの男はどこにいる?」

「目の前にいるのがその息子だよ」

「ひどい話だ。オーステン=エリオットはレイエルを裏切ったのだな。そして、フィーラ=クレオンディーネを選んだ。関係などなくとも、心で繋がっていた二人がそうして別れるとは、まるで、サリアとスーリアの焼き直しのようではないか」


 かすかな嗜虐の色がヘレナの目に浮かんでいた。彼女の心を満たす、最も素晴らしいものはやはり、スーリアの失敗なのだと、エルマンは直感した。己がかつて失ったように、愛や、愛から生まれるものを取りこぼした人間を、求めているのだ。


 ゆえに、レイエルとオーステンの物語の結末であるエルマン=エリオットを、舐めるように彼女は眺めた。彼女にとって、エルマンとは悲劇の象徴なのだろう。自分と子ども、スーリアとサリア、そして、レイエルとオーステン。その、悲劇の。

 

 だがしかし、

 サニャ=クルーエルは呆れかえったようにため息を吐いた。


「馬鹿馬鹿しい。エルマンならともかく、私にはそんなもの効かないよ」


 サニャもあの話を聞いていたらしかった。

 彼女は、動けない女の眼を見て、そしてそこに映る己に向けて語りかけた。


「母さんとスーリアが愛し合っていただの、私が父さんの娘じゃないだの、こいつのアンポンタンに惑わされるんじゃないよ。こいつは他人の失敗を見て、溜飲をさげたいだけの愚か者なんだ。あんな話をしたって、真実なんてどこにもないさ」


 そう言って、サニャは笑う。

 笑い飛ばした。

 

 真実は残酷なものだと、美しさなどない汚らわしいものだと、そうヘレナは語ったが、サニャにとってはそれは一面の真実に過ぎなかった。物事の邪悪な解釈、失った過去への暗いまなざし、それ自体を、サニャは持ち合わせていなかったからだ。


「信じるべきものは信じたいものさ。それを無理やりに疑う必要なんてない。それでいいと私は信じていて、それゆえに迷わない。それに、私が疑いたいのは汚れていたかもしれない過去じゃなくて、壊れてしまいそうな、今のことなんだ」

「そうやって自分を守っていればいい」

「うん。正しい。私は、ちゃんと私を守れるからね」


 勇者ヘレナには、女の安堵がいささかも理解できない。

 サニャは、とぼけたような口調で言葉を続ける。


「さて、そうそう、なんの話だったかね。ええと、オス兄のことだったね」

「そうだ。貴様らはオーステンを用いて、レイエルの心を取り戻す気なのだな」

「うん。オーステン兄なら死んだよ」


 あっさりとサニャはそう言った。


「――な、なに」

「死んだって。三年前の暮れに病気で眠ったよ」

「馬鹿な、では一体なにをする気なのだ?」


 ヘレナが問うと、サニャは、半開きになっていた窓を開け放った。


 爆音、轟音。それらはもう止んでいる。

 聞こえるのは竜の鳴き声。金属をこするような翼の音。

 むなしく響きわたるアイナ=レシュカのメロディ。

 そのバックミュージック。


 そして、それらすべてと調和しない、独唱。


「んーとほら、耳を澄ましてみな、聞こえてくるだろう、歌が」


 それは――絶唱。

 

「いつ聴いても、泣けるね」

「サニャさん、また射たれますよ」

「いいんだよ、褒めてるんだから」


 音楽ではない、言葉でもない。

 ただ単なるたったひとりの歌声が響いていた。

 ヘレナは訝しんで首を傾げる。


「これは――『竜厭』ではない。ならば、対勇者の、いや違う、これはなんだ?」

「そんな大そうなもんじゃないよ。これはただの流行歌さ」

「くだらん、そんなものがアイナに効くものか」

 

 吐き捨てる。

 その言葉はしかしアイナの耳には届かない。

 仮に届いていても、何の影響も及ぼさなかっただろう。

 あの音の、歌の前では、言葉など、意味をなさない。


 水晶のような透明な歌声。なみだが出るほどに輝いている清澄。美しさ以外のすべてをそぎ落としているかのような、ひたすらにはりつめた音律で作られた絹糸。だが、それほどに純粋でありながら、音というよりも、それは声そのものだった。


 旋律のひとつひとつが、心にもぐりこんでくる。

 冷えるのではなく、日の光を幾筋にも散りばめたような、ぬくもり。

 やはりそこには重さも苦しみもないが、それでも、

 それはもはや、救いえる歌声であった。


 アイナ=レシュカはいまやその声に耳を傾けていて、その翼を止めていた。

 竜、魔竜ララも空中から動かない。

 窓の外の景色は、まるで静止画のように、凍りついていた。

 

 城壁の、勇者である女の身体から泥の蛇が落ちる。

 聴き入っていたサニャが無意識に解いたのだ。


 ヘレナはしかし、逃げるそぶりなく、ふらふらと窓辺に寄った。

 窓枠に身を乗り出して、混沌と壊滅がまき散らされた王都を一瞥する。

 そして、彼方の膠着を見やって、呟いた。


「なぜだ? なぜこんなことが、」


 答えるのはサニャ=クルーエル。


「オーステン兄さんがレイエルの歌の大ファンであったように、レイエルもまた、『彼女』の歌の大ファンだったからだよ。きっとずっと、他の誰よりも、ね」


 竜女がその尾で床を叩いた。


「そうか、この声、まさか――」

「エラミスタ。彼女の歌だよ」

「ふざけるなッ!! 貴様らこの私を愚弄しおって!!」


 振りかえって怒りをあらわにする女に、サニャは飄々と肩をすくめる。

 もはや泥の魔術など使わない。

 窓辺に立つ勇者には、ただ言葉だけがあればいいと思われた。


「エラミスタは確かに、細切れになって死んださ」

「嘘を吐け!」

「それからあいつは蘇生したんだよ」


 ヒビが、シワが、女の顔いっぱいに広がった。

 単なるくだらない流行歌を、聞き入れたくないとばかりに、女は叫んだ。


「馬鹿を言うんじゃない!! 細切れの状態から蘇生など、」

「できるさ。稀代の勇者アイナ=レシュカならね」


 はっ、とヘレナが息を呑んだ。


 できる。

 確かにアイナ=レシュカにはそれができる。

 


 あのとき、レイエルが蘇生不可能だと判断したのは、彼女自身が持っている力がそう多くなかったからだ。だが実際には、レイエルがアイナ=レシュカと化して、その自我を失ったその瞬間、膨大な神性が放たれた。勇者が竜と成るときのように勇者が神と成るときにも、激しい光が溢れて、細切れの肉片に降り注いだ、


 だとすれば。

 そういう可能性があるのだと、すれば。


 ヘレナが後ずさった。


「死んだ直後だったのが良かったね。まさに奇跡、さ」

「この日のために、ずっと、待っていたというのか?」

「アールヴの加齢は緩やか。いつでも恋した頃の姿のままだったからね」


 祝福するようにサニャが言う。

 ヘレナはまたしても理解できないその言葉に、舌をもつらせる。


「恋? なに? なんだと?」

「あんたも鈍いやつだね。レイエルとエラミスタは、恋仲じゃないか」


 眉根を寄せて、そしてサニャが言った。


「何を言っている?」

「レイエルが生涯で愛したたった一人の相手は、エラミスタだよ」

「あれは、女だぞ」

「女が女を愛していて、何が悪いんだい」


 サニャがそう吐き捨てた。

 それでも勇者は首を横に振り続けた。

 無論、己の知らぬことを知りたくないのではない。

 ただ、なぜ己が知らぬかが、分からないのだ。


「待て。エルマン、エルマン=エリオット、説明しろ。お前の口から説明しろ。レイエルとオーステンの関係性を私に誤認させたな。いや、レイエルとエラミスタの関係性も隠していたな。そうして私に語って、私の認識を、物語を――作り出しのか?」


 エルマンは乾ききった舌に唾を舐めさせる。


「勇者ヘレナよ。確かにあんたに語った言葉はいくつも、その原典とは異なっていたものです。私がオーステン=エリオットから語り伝えられたそれとは、細部も語り口も、異なります。本来あるべき真実を覆い隠して、あえて見えないようにしたところさえあります。あんたに流れを砕かれないように、邪魔をされないように、あんたを釘付けにできるように、凝らされた無数の創意工夫。私はそういうものを語りました。先ほど、私の語りがなまくらだったと仰いましたね。ですがそれは、なまくらでなくては、鋭いあんたを斬れなかったからです。今に至らなかったからです」


 流れるように青年が言い、深々とお辞儀をする。

 その芝居がかった仕草にサニャ=クルーエルがため息を吐いた。

 

「レイエルにこれ以上、仲間の首を落とさせないと、私たちは誓ったのさ」

「こんなことが、上手くいくと思うなよ!」

「勇者ヘレナ、それも――あんたが決めることなんです」


 エルマンが言う。


「なに?」

「言葉通りの意味です。さぁ、決めてください。アリュオランの行く末を。」


 ヘレナが振り返り、呆然とはるか彼方を見上げた。

 小さな光点が、ちかちかと、明滅し始めた。



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