たったひとつの鈍いやり方 12
咳払いが一つ。
ようやく終えたその語りに、彼女は小さな謝辞を付け加えます。
「失礼。発音が難しくてね」
そしてレイエルは、プロディウス、という言葉を繰り返します。
言い慣れないようで、どこか、気持ち悪そうに。
「旧い言葉で、神話を造り上げるという意味だそうだ」
「その神話って、」
「あぁそうだよ。君の大好きなアイナ=レシュカという、アイドルさ」
もう青年にも、話の先は読めていました。
学院は、旧い勇者の代わりとなる新時代の勇者として、彼女を考え出したのです。
そしてオーステンやサニャのような間抜けが、まんまと引っかかったのです。
アイナという幻想に。
アイドルという理想像に。
竜退治のために造られた、その贋作の勇者に。
「アイナ=レシュカは、これまでの勇者とは違って、本物の愛と信仰を集めるために描き出された理想像なんだ。端から瘴気なんて通用しなくて、愛と応援があればあるほどに強くなる。まさに現実に存在する神様だよ。会いに行ける、神様だ」
そういう話が聞きたいんだろ、とレイエルは笑みを浮かべました。
しかし、オーステンはやるせない様子で首を横に振りました。
たしかにアイナの話は重要でした。
だけれども、今はそれ以上にすべきことがありました。
アイナよりも、アイドルよりも大事な人間がいました。
それは、まさにこの現実に生きている、人間でした。
だから青年は、レイエルの語りを遮ります。
「――待ってください。僕はそんなことを聞きたいわけじゃないんです」
「じゃあ何を知りたいんだい」
オーステンは言いました。
己の友人たちを、その名を言いました。
「僕は、ハルトとララさんを助けて欲しかったんです」
「無理だ。ハルトは死んだし、ララは、もう」
うっすらとあった笑みが、見る間に消えていきます。
その姿には、まるで覇気が感じられません。
先ほどハルトを殺した時のような迫力が、もう溶け消えていました。
オーステンは、かつてみた彼女の、その瞳を思います。
この人は、そうだ、この人も悪人ではない。
ただ、死ぬほど疲れ切っているだけなのだ、と、気付きました。
それゆえに、ため息を吐く女の背中を、オーステンは思い切り叩きました。
「やめてください、そんなことを言うのは! 諦めないでください!」
「――ッ!」
「あなたならできます、ハルトは無理でも、ララさんなら、きっと、」
「そうだ、そうだね、ララならまだ救えるかも、そうだ。そうじゃないか」
眠りから覚めたような顔で、レイエルがそう言いました。
彼女は杖を抜き放つと、その先に輝きを集めます。
「私が、時間を無駄にしていたようだね」
「いや、まだ。僕は信じています」
「ララの氷を解かす。それから蘇生させる。下がっていてくれないかい」
巨大な炎のオブジェに向けて杖が光ります。
とてつもない量の神性。光の洪水が、ララを閉じこめた氷を飲み込んで、
そして、みるみるうちに水晶の牢獄は、溶け消えました。
「神性『万物聖剣――解』」
どさり、と崩れ落ちるのはララ=リオライエン。
ぐったりとはしているが、心配していた黒爪による傷跡はありません。
レイエルは、女の頭に杖を当てると、ゆっくりと爪先まで滑らせました。
「ララさんが、」
「無事だ。温度低下を調節して、仮死状態に入っていたようだね」
「じゃあ、蘇生できるんですか」
「そもそも死んでいなかった。朗報だよ」
笑みが浮かびかけて、青年の頬はしかし凍りつきました。
なぜなら、ハルトがもう死んでいるからです。
あの少年の首は、もう斬り落とされているからです。
蛇に魂を食われたのだから、蘇生もできないから、です。
「さてあとは私が、どう説明するか、という問題だけか」
あはは、と乾いた笑いをこぼす彼女は、やはり疲れていました。
理想像であるはずなのに、信仰の結実であるはずなのに、輝きがありません。
まるでくたびれた人形のような女は、その顔を手で覆います。
「ああ、オーステン、見ないでくれよ。余所行きの顔なんて、常には無理さ」
「アイナ=レシュカ」
「だから違うんだよ。私はアイナじゃない。ただそのイメージを降ろして、竜と戦うことができるだけだ。君たちがライブで見ている彼女は、いつも元気でシワもシミもクマもないあれは、学院が作った立体幻像。たんなる幻想魔術の類なんだよ」
言い放たれたその真実は、オーステンにとっては、勇者にまつわる真実それ以上に、痛みを伴うものでした。己を救ってくれたそのすべてが、仮にレイエルであったとすれば、それでもよかった。彼女が自分を救ったのだと思えば、良かったのです。
だけど、本当はそうですらない。
アイナとは、どこかの誰かが生み出した、単なる幻像にすぎないのです。
ただの魔法の産物。理想を目指して作られた、まがい物。
であれば、己を救ったのは一体なんだったのでしょう。
自分はただ、誰かのあくどい思惑に騙されただけだったというのでしょうか。
それこそが、オーステンにとって最も重要なことでした。
「この私は、アイナが竜と戦うときだけ、彼女の身体として、その依り代として呼ばれるんだ。あ、歌声はエラミスタが言ったとおり、それだけは自前だよ。ここ数年は、私とエラミスタが声を出しているんだ。だからそれは、安心してくれないかな」
乾いた言葉と乾いた笑い。
レイエルの疲労が、青年にも伝染します。
いまや、ララに対して言い放った言葉たちが、牙を剥いて彼を襲っていました。
『で、オーステンが歌姫を好きであることに彼女だけの特別さが、あるですか?』
『……声と顔』
『わ、私が魔法で声と顔を変えれば、好きになるですか?』
『……心がきれいで、頑張っているところ』
『が、頑張っている人は世界中にたくさんいるですよ』
『……仕草とか! 口調とか! 僕に元気をくれることとか!』
『そ、そんなのいくらでも真似できるです!』
『真似なんてしょせん真似事だっ!!』
アイナ=レシュカは、本当に、真似事でしかなかったのです。
『好きなものを好きだと思っていて、何が悪い!』
『ご、合意しましたね! 好きは好きなのです! 特別なんて後付けなのです!』
『くっ、くそ。合意だ合意。それでも、アイナ様は僕には特別なんだ!!』
特別であるように、ただ造られたものだったのです。
アイナなどどこにも、いなかったのです。
好きだと思っていたものには、本当は影も形も、重さも、なかったのです。
呼吸を忘れたオーステンに、それでもレイエルは淡々と呟きます。
「本当のアイナはどこにもいない。騙していて、本当にすまないね。君を救った希望は、今のところ幻想なんだ。だけど、これからはずっと、私は幻想そのものになる。だから安心してほしい。私は、もうちゃんとアイナ=レシュカになるから、ね」
その言葉がどれだけの重さを持つものなのか、オーステンには分かりません。
だが、彼女がまたなにか一つ、大切なものを失おうとしていることは分かります。
手を伸ばしました。彼女に向けて、その腕を今度は己が掴むように、手を。
動け。せめて、足、身体。いや、唇、舌。なんでも。
彼は、必死で、乾いたその舌を動かしました。
「そ、そんなもの、ならなくても、いいんです」
「それを君が言えるのかい? 胸を張って言えるのかい?」
「アイナは好きだけど、僕は、」
「君の話じゃないんだよ? この世界を誰が救うかっていう話なんだよ?」
「いや、僕は、」
「じゃあ私の代わりに竜を倒してくれるかい!?」
まるで爆発したかのような大声でした。
レイエルは、ありったけの声で、オーステンを怒鳴りました。
その言葉で青年は、思わず泣いてしまいました。
己がいかに愚かであったか、このときようやく分かったのです。
これは、これは己の物語ではないのです。
勇者レイエル=レシュカの物語なのです。
「私はね。この世界が好きだ。君や、ハルトやララが、フィーラが、エラミスタが、いやもうなんでもいい。この際、この世界のすべてでもいい。好きなんだ。失ってはいけないと思っているんだ。だから、誰かが、竜を倒さなきゃいけないんだ」
使命に燃えるまなざしは、最初に見たものと同じでした。
彼女は本気だった。本気で世界を救おうとしていたのです。
だから、
「僕には、貴女を、救えない」
〇
「おい」
オーステンの傍らから、女が声をかけました。
それは、エラミスタでした。
すでにライドたちは建物のなかにでも移動させたようでした。
彼女は、呆れた声色で言いました。
「レイエル、熱弁を振るっているところすまぬが、ララの救出はなったのか?」
「そこに、寝かしてある。別状はない」
嬉しそうに、彼女の片眉が上がります。
こうしてみるとエラミスタは、レイエルよりも余程分かりやすい人間でした。
彼女は、ララの真っ青な頬に手を当てると、満足げに頷きました。
「――呪唱『生きろ、ララ=リオライエン』」
彼女がそう唱えると、ララの顔にわずかに赤みが差します。
無意識に対しても、彼女の声は通用するようでした。
規則正しく上下する赤毛の女の胸を見ながら、エラミスタは悲しく呟きました。
「この女はハルトのおらぬ世界で生きておっても、しょうがない、かもしれぬぞ。レイエル、お前であればもっと早期に手を打てたはずであろうにな。初日の夜、二日目の夜。いずれも竜化の徴候はあったはずであろうに、見逃したのだな?」
エラミスタは背を向けたままで問いました。
その顔は見えないが、鼻汁まじりの声から予想はつきます。
彼女はひどく、怒っていました。
「もしやお前、最初から願っていたんじゃないのか?」
「なにを、馬鹿なことを、」
「ハルトという勇者が失敗すれば、勇者の製造は止まる」
「違う、そうじゃなくて、」
レイエルが取り繕うように笑いますが、その顔は引きつっています。
エラミスタが、歯ぎしりをしながら、言葉を重ねました。
女の声は、どんどんその力を増していました。
「お前はアイナ=レシュカそのものになり、苦しみも悲しみもすべて消える。新しい勇者だってもう生み出されない。何もかも、お前が抱えている問題は解決される。そんなに世界が大切か? そんなにあの女に、大賢者に、気に入られたいのか?」
レイエルは、何も答えなかった。
「――『謝れ、レイエル=レシュカ』」
「すまない」
その瞳からは何もこぼれません。
エラミスタは背を向けたままで、泣き笑いのような声をあげました。
「なにも、ハルトを殺すことはなかったであろう、お前なら」
「私の失敗だよ。私が引き際を見誤ったんだ」
「なぜもっと早く、私に相談しなかった」
「浄化できると思っていたんだ、首を落としても、エラなら、できると、蘇生も、」
そのたどたどしい返事に、短髪のアールヴは肩を落としました。
どうしてこうなったのだろうか、と言わんばかりに。
どうして分からないのか、と言わんばかりに。
「できるものか」
エラミスタは悲しげにそう言いました。
そのときです。
オーステンの眼の端に、なにか奇妙なものが映りました。
それはうねる液体のようなもの。
黒っぽい魚のようなぶよぶよの固まりでした。
ハルトの首から流れ出たその黒血の海を泳ぐように、進んでいました。
意外にも速いその生き物は、あっという間に、血を渡り切り、
そこにいるのは、エラミスタと、ララ。
泳ぐのは、黒い、蛇、でした。
「まさか、黒蛇がまだ、」
「黒蛇?」
レイエルが問うた、その刹那に、黒蛇はララに到達していました。血を泳ぎ、その女の足首にまで辿りついていました。音もなく染みこむように、固まりは女のなかに入り、そればかりか、みるみるうちにハルトの血も、吸い込まれていきます。
尋常な事態ではない、とすぐに理解されました。
あのハルトの黒蛇がまだ生きていたのだとしたら。
そしてそれがララの身体を奪ったのだとしたら。
「まずい!」
真っ先に危険に気付いたレイエルが、杖を聖剣に変えます。
竜の首を落とす。黒蛇を殺す。世界を救う。
それこそが彼女の使命でした。そうであるはずでした。
だけれどその瞬間、彼女の手は確かに、止まっていました。
「首を!――首を落とさねば、ならない! 私は、」
「レイエルさん、」
「私が私のままで、ララの首を、落とさねばならない、私が、」
「レイエルさん!!」
ダメだ、と直感します。
そしてそれは、青年は、正しい。
一瞬の判断の遅れが致命的なものとなりました。
まばたきするほどの時間に、ララの髪が黒々と染まっていきます。
そして、彼女が浮かび上がりました。
溢れ出るものはおぞましく、呪われています。
闇そのものとでも言うべき毒が、レイエルの生身の身体を退けます。
「しまった、仕損じて、しまった、」
女が、髪をほどいてはためかせながら呟きます。
切り替わったその顔に、もはや動揺はないように見えます。
いえ、それは単なる取り繕い、にも見えました。
「私の、アイナ=レシュカとしての力は、対竜ライブを以てして最高潮に達する――いまここで、オーステンが信仰源となってくれているとしても、勇者としての力は、上の下程度。無理だ。あの魔竜はざっと見て、スーリアの倍の魔力量がある、から」
当然です。2人分の肉体を摂取しているのですから。
レイエルは、杖を手に持ち、逃避のための呪文を唱えようとします。
だけどそれよりもわずかに速く、ララがその指を伸ばしました。
紅。
灼熱の、糸。
光った。
「逃げろ! エラミスタ!」
「――ッあ」
一瞬でした。
無数の光線が閃き、アールヴの肉体をばらばらに引き裂いたのは。
雪に散らばる細切れは、蘇生さえ諦めるほどの所業。
女の生炎魔法は、竜となって、その力を更に増していました。
「エラ! エラ!?」
「結界を張ってください! ここから逃げないといけません!」
しかし、レイエルの足はもう微動だにしません。
「――エラが。」
「逃げましょう!」
「エラが死んだ、逃げられるとも思えない、あれは、私を憎んでいるようだし」
「だからなんだって言うんですか!」
ぼんやりと彼女は、竜と化していくララの肉体を見ています。
その異形はまず眼から形となり、恐ろしい形相で、レイエルを睨んでいました。
憎しみ。怒り。恐怖。悲しみ。綯交ぜになった感情が溢れていました。
あれは、いや彼らは、確かに心を持っているように見えました。
レイエルが漏らします。
「竜になった英雄にも、意識というものは、案外あるのかもしれない」
「観察してる場合ですか! 羽と結界を出してください!」
彼女は何も言いません。
言えません。
ただ、決断します。
「――オーステン、ここでお別れだ」
「レイエル!?」
「どう考えても君を逃がす手立てが見つからない、あの火炎を止める、ほかには。」
魔竜の全身をすでに緋が包んでいました。
どす黒い血のような炎を混ぜながら、高々と火が立ちのぼります。
オーステンは思い出しています。
スーリアが竜となるときに、その衝動のままに街一つを凍らせたことを。
であれば、ララは、この炎が放たれれば、ここはどうなるのでしょう。
おそらく、なにひとつ残らない。
焼け跡さえも。なにひとつ。
ゆえに、レイエル=レシュカは呪文を唱えます。
結界が青年を守り、彼女の肉体が輝きます。
「私がララを止めるから、君が皆を連れて逃げてくれ」
「ダメです」
「ダメじゃない。子どもじゃないんだ、早く、行ってくれないかな」
「分かってるんだ。それが最善だというのは、分かってます」
「そうかい。素晴らしい、じゃあはやく、そうしたまえよ」
青年の手は、ようやく、今度はレイエルの袖口を掴みました。
うっとうしげに女がそれを振り払おうとしますが、オーステンは離しません。
あるいは、どうしても離すことができません。
「でも、できないんだ! 貴女を置いては、」
「違うな。君が欲しているのは、アイナ=レシュカだよ。けどまぁそれなら、」
そう言って、レイエルは青年の右手に己の手をそっと重ねました。
四枚の翼となびく髪。眼鏡が雪のうえに落ちます。
「どこかで応援していてくれないかい。私が、勝てる、ように!」
「君は……」
女の顔がすこしだけ変わりました。
神々しい輝き。元気いっぱいで弱点のない最強の歌姫。
それはずっと愛しくて、そして今は恨めしい、笑顔。
「残念! レイエルじゃありません、私は、」
その瞬間、劫火が氷を飲み込みました。
右手が優しく、そして強く。
引き剥がされて。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
轟音と歌が響くなかで、最後の言葉がもたらされた。
「二人の願いも虚しく、魔竜ララの生んだ炎は、聖域を容易く溶かしてしまいました。氷に覆われた街は一瞬にして蒸発してしまい、勇者レイエルとその仲間たち、そしてクルーエルの一家は、皆、そこで死んでしまったのでした――ちゃんちゃん」
エルマンはようやく、その最終段を語り終えて息を吐く。
御簾のうちの女は、拍子抜けしたように高い声をあげる。
「ふむ? 終わりなのか?」
「いかにも。長い物語が終わるとあって、理想的な結末を期待されましたでしょうが、物語が必ずしも、よく終わる、とは限りません。予想を裏切り、悲しい結末のあとに何も残らない、ということもあろうものではございませんか」
ベールの向こうで女が、首を傾げた。
先ほど喜悦まじりに自説を披露した彼女のことだ。
おそらくは腑に落ちぬことがあるのだろう。
エルマンが沈黙すると、その予想どおりに、女は唸り声をあげた。
「しかし、私にはまだまだ解かれぬ疑問が残っておると思われる」
「どうぞ」
「まず貴様、この話は又聞きだと言ったろう」
「はい」
「皆が死んだというのに、誰から聞いたというのだ?」
初歩的な質問。
この問いについては、エルマンはもちろん予想していた。
ゆえに焦らない。ゆえに悩まない。
「まぁ伝聞とは不確かなところもあるものです」
「伝聞ときたか。それゆえの不知ときたか」
「いかにも。物語は紡ぐもの。そして紡がれるものですから」
事実、先の語りは伝聞であり、脚色である。
小さな嘘やあやまりは入りこんでしかるべき、物語である。
「まぁよい。では、もうひとつ」
「どうぞ」
「レイエル、つまりアイナ=レシュカは死んでおらぬ」
「おっとそうでした」
ぎゅるりと伸びる尾が窓の外を指して、小さく輝くあの女性を示す。
エルマンはわざとらしく驚いて、そして逆に問いかけた。
「いやはやしかし、今戦っているのは本物のレイエルなのでしょうか」
「どういう意味だ」
「神降ろしによってアイナを降ろしているだけの、別人なのでは?」
詩人の問いかけに、竜は笑い声をあげた。
「ははは。まさか。レイエルはあの日、満身創痍で生きて戻ってきたさ」
「それはレイエルとして? それとも、」
「無論、戻ったのはアイナ=レシュカという神、アイドルだったとも」
なるほど。それで埋まらない物語が、埋まった。
あの戦いで、彼女は魔竜ハルティア=ララを退けたのだ。
あれほどに強大な竜を追い返し、少なくとも40年余りは遠ざけた。
結局レイエルは、当時でそれほどの力を有していたのだ。
当人にその自覚がなくとも、彼女はやはり世界が始まって以来の勇者だった。
エルマンが感慨深げに頷く。
「では、レイエルが死んだというのは、私の誤りだったようですね」
「ふはっ。大嘘だな、エルマン」
「物事は見る角度によっては事実すら変えてしまうものです」
「そうか、だが大嘘は、まだあるかもしれんぞ?」
舌なめずりするような音がして、眼前の陰が大きくなった。
好奇心と邪心を併せ持つような怪物の前では、エルマンの心臓も縮み上がった。
実のところ、エルマンはまだそれほどの歳ではないのだ。
女が心底から不思議そうに、問う。
「ハルトはサニャ=クルーエルに何を約束していたのだ? ハルトが拾い上げた首は誰のものだったのだ? 勇者の黒蛇は、どうして完全には死んでいなかったのだ?」
エルマンのなかに、その答えはない。
代わりに青年は答えた。
「お得意の想像力で考えられてはいかがですか。たとえば、ハルトはサリアの蘇りを約束していたとか、あの首はハルトの母親のものだったとか、勇者の黒蛇は、レイエルの聖剣でも浄化しきれぬほどに強力だったとか。いくらでもありましょう」
「ふん。あますところなく、という言葉はやはり偽りであったか」
「いいえ。私は、伝え聞いた話をあますところなく、お伝えするだけでございます」
けらけらけら、と竜は嗤った。
物問いたげな唾液を呑む音が響いて、竜は御簾へと顔を近づける。
その向こうにいるエルマンの姿を、その顔の仔細を見るように。
「最後の問いだ。エルマン」
「どうぞ」
「お前はこれらの話を、誰から聞いたのだ?」
「誰からか」
「はぐらかすな。こう聞いてもよいのだぞ、」
「どうぞ」
「お前は、誰だ?」
にたりと音が聞こえそうなほどの愉悦。
生殺与奪を握る竜は、いよいよエルマンの首に手をかけていた。
彼とて丸腰でここにいるわけではない。
ただ一振りの剣をたずさえて、彼はここにやってきたのだ。
だが、それを振るうべき時がいつであるのか、
それまでは分からない。
窓の外では、まさにこの世の終わりのような光景が繰り広げられている。アイナと魔竜ハルティア=ララの戦いはどちらの勝利で終わるのだろうか。おそらくはアイナの勝利で終わるだろう。あの魔竜も並ぶものがないほどに強いが、それでも、強大な信仰と『血』によって強化されているレイエル=レシュカには及ばない。
前回とは違い、今のレイエルには対竜ライブによる後押しもあった。王都全体を守る結界には未だ、いささかの揺らぎも見られない。史上最強にして完全無欠の神であるアイナ=レシュカを降ろした勇者には、竜であるかぎり、勝てないのだ。
そればかりか、エルマンの語りが、そのことを後押ししていた。
あの魔竜の来歴を開示してしまったことで、今や竜の存在は丸裸となっている。
竜は呪術を使えないが、眼前の女にはその手段があるのだ。
かつてエラミスタがそうしたように、古呪唱『竜厭』を組むことができるのだ。
であるならば、魔竜がアイナを倒し、この竜女に至る可能性は、すくない。
であるならば、誰が、この女を倒すのか。
誰が、この勇者に、一太刀浴びせることができるのか。
エルマンがすくりと、立ち上がった。
「なんじゃ?」
「私からも御聞きしたいことがございまして」
「詩人風情がこの私に?」
「ええ。恐れながら、」
一歩。
それは間合いの外。
「勇者の資格、とはなんです?」
「なぜそれを私に聞くのだ」
「貴女が知っているからです」
二歩。
これも間合いの外。
「この私が? 醜い竜身の化け物が何を知っていると?」
「私は貴女の正体を知っている。最初から、知っていて、ここへ来たのです」
「ほう……」
三歩。
間合いの、内。
エルマンは右腕を背中に隠して、左足をすこし斜めにずらす。
前かがみとなった、その上体から言葉が、漏れる。
「貴女の名はヘレナ」
「チッ」
「旧き傭兵団の長にして、聖教会の最高導主、魔法学院の院長、そして大賢者、」
「私の肩書を並べあげてなんとするつもりだ」
「貴女こそ、ハルトを勇者に仕立てあげ、アイナを造ったというその発案者、」
ほんの少しだけ腰が沈んだ。
エルマンのこめかみから汗が一滴落ちる。
轟音の響くなか、青年の声はそれでも、明朗だった。
「その正体は、」
一瞬。すべての音がやんだ。
「200年前に現れたという初代勇者だ」
と、その瞬間、詩人の髪が黄金に閃く。
雷が手指に奔り、背に現れたるは稲妻の剣。
舌が火花を散らして、呟く。
「――神降し『雷光簒奪』」
消えた。
20歩の距離を消し飛ばして、エルマンは御簾に迫る。
迫り終えたそのときには、ベールは見事に裂けていた。
雷の剣が、パーティ最速の剣が、竜女の喉に当てられる。
かすかでも動けば、首が飛ぶ。
その位置を、ついにエルマンは取った。
そこには一糸まとわぬ女がおり、その半身が竜と化した女が、いる。
「まったく無礼な詩人もいたものだな――こんにちは、エルマン=エリオット」
二つに割れた赤い舌で、彼女はそう言って微笑んだ。
やはりというべきか、その顔はどこか、アイナ=レシュカに似ていた。
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