たったひとつの鈍いやり方 9
日が高く昇る数時間前に、時は遡る。
彼らの運命を決定づけるあの刻に致る前に、まだ語るべきことが残っていた。
時は夜。
フィーラ=クレオンディーネがようやく目覚めたその時だ。
彼女の眼がうっすらと開いたことに、レイエルがまず気付いた。
室内にはたくさんの人影。だがそこにララ=リオライエンの姿はない。
身を起こしたフィーラは、苦々しい顔でその意味を悟った。
「ララを助けにいかないのか」
「侵食性の凍結魔法だ。竜を倒して魔法を解かないかぎり、砕かざるをえない」
もちろん、砕いてしまえば蘇生などできようもない。
結局、ララを助けるにはスーリアを倒すしか、ないのだ。
だがそんなことが、本当にできる相手なのか。
獅子髪姫は、先の戦いを思い出して、その顔を曇らせた。
だが、ララを放置して逃げるわけにもいかない。
そのこともフィーラはちゃんと分かっていた。
そして分かっているからこそ、この状況が絶望的であることも理解できていた。
ぼそり、と告白するように彼女は口を開く。
「竜討伐はもう無理だ、私が戦えない」
「フィーラ。君なら回復できているかと思っていたんだけど」
「神降ろしが使えないのだ」
彼女の声には悔しさが滲んでいた。
立ち上がった彼女が何事かを呟く。
しかし、その身に雷は宿らなかった。
あの輝きは、ほんの少しも宿らなかった。
「なぜ、だ?」
ハルトが困惑した顔で問う。
フィーラが悲しげに答えた。
「ラズ=サウラという神は扱いが難しいのだ。竜退治を使命とする雷神であるというのに、すでに二度も敗北を喫している。もはやその神性自体が揺らいでいると言ってもよい。今のスーリアがいるかぎり、私はラズ=サウラにはなれない」
そう言って、獅子髪は己の拳をぎゅっと握った。
いつもならば爆ぜるその動作にも、わずかな雷さえ鳴かない。
雷を纏えない彼女は、ただの剣士。
オーステンと同じく、単なる人間でしかない。
「いわば資格の問題だ。今の私には神をこの身に降ろす資格がないのだ!」
敗北による資格のはく奪。
神が、彼女を巫女として認めないという残酷。
肝心なときに役立てないことへの憤り。
フィーラが舌打ちをする。
「この戦いには、サウラの戦士を連れてくるべきだった」
「その人たちも神を降ろせるんですか?」
女は、こくりと頷いた。
「うむ。神の解釈は微妙に違うが、今の私よりは役に立つだろう。ラズ=サウラの力を降ろすのに長けた一族ならば、雷撃を矢のように放つこともできるのだ。私はこの身に神を降ろせはする。だが神を降ろすことは、神に縛られることでもある」
その言葉の端々から、悔しさが溢れていた。
もはや声にもならない悲しみがフィーラの瞳を満たす。
満たすが、彼女はそれを決してこぼさなかった。
「ないものねだりは仕方ない。ありもので片を付けるしかないよ」
沈黙する彼女を一瞥して、レイエルが口を開く。
勇者ハルトがその言葉に頷いた。
「泥の魔女とお前がいれば十分に戦える。そういう作戦を立てたんだろ?」
「計画が計画通りにいくなら、こんなことにはなっていないけどね」
「それでもだ。それでも、俺は一人で大丈夫だ」
「待て! まだいるではないか!」
ハルトの言葉に、獅子髪が立ち上がった。
「ライド殿! ライド殿であれば代わりとなるのではないか!?」
レイエルの眼がぱっと輝くが、その直後、彼女は男の傍にいた少女を捉えた。急速に光が失われていく。あの場にいなかった彼女にも、男が娘と和解したことは伝わった。そんな男に、命をかけて戦うことなどを、求められるわけもなかった。
ライドは、しかめ面で首を振った。
「お嬢ちゃん、あんまり俺を買い被るんじゃねぇぞ」
「そうじゃ。このボケの身体は酒と鈍りでぐずぐずじゃ」
「あんだとっ! フェルマ! 撤回しろ!」
男のあげた怒号に苦笑いしつつ、フィーラは目を伏せた。
「いや、すまぬ。私にデリカシーがなかった。気にしないでくれ、ライド殿は己の人生を歩まれるといい。私に戦いを強要する気などない。本当に私が、役立たずなだけなのだ。その責任を転嫁しようなどと、まったく私はどれだけの恥を、晒すのか」
「謝るんじゃねぇ。必死になるのは当然だ。お前の気持ちは分かる」
ライドが短くこぼす。
「あのときこうしていれば、俺があそこにいれば、とかな。そう思うのは正常の感情だ。恥じたり落ち込んだりするのは当然。助力を求めるのも当然だ。俺だって、できるかぎりの力にはなるさ。スーリアの野郎は、やはり俺の手で葬りたいんだ」
利害はまだ一致している、と暗に男はそう言った。
その言葉に、老女も少女も、小さく頷く。
フィーラはそれを見て、深々と頭を下げた。
「ありがとう、ライド殿。サニャ殿」
「こんなパパでも役に立つなら好きにしていいですよ!」
「必ず、無事に返す。私が責任を持って、父上を守ろう」
「んー。うん。それはお願いします」
照れ臭そうに少女が言った。
が、そのとき、どん底のように暗い声でハルトが唸り声をあげる。
「フィーラ、ダメだ」
「ダメ? ダメってなにがダメなの、ハルトくん」
サニャの問いに、ハルトは唇を震わせた。
「フィーラは、連れて行かない。戦いには足手まといは連れていかない」
「なにを! 雷神がいなくとも私は剣士! 無駄にはならぬ!」
「俺の動きが、鈍る。ララのことを思い出して、戦えなくなるんだ」
切実な願いではあるが、当然フィーラとしては受け入れられるものではない。
少年に反論しようとした矢先、レイエルが手でそれを制した。
「私はそれに賛成だよ。エラミスタはどうかな」
「呪唱はもはや通じぬ。我も足手まといになるだけだ」
「あの、弓とかは打てないんですか」
「ぶち殺すぞ小僧。我の弓は、若草の歌い弓。矢に音を伝えるための呪具である」
それは知らないが、役には立たなさそうだった。
「まぁそんなわけで、我と獅子髪は無用であろうな」
「そんなことはない! 私は!」
「獅子髪、お前になにができるのだ。その人の身で、何ができる?」
「ライド殿だって人の身ではないか!」
「だが我らと違って、あの男を守るためにハルトは身を尽くさぬだろう」
フィーラは悲愴な顔でオーステンを見るが、彼に言える言葉も特にない。足手まといだから下がっていろ、と言われて下がらないのは戦士ではなく、単なる意固地だ。ましてや、勇者自身が助力を望まないのであれば、単なるわがまま、である。
獅子髪は頬をすこし膨らませると、不機嫌そうに背を向けた。
「頭を冷やしてくる」
「フィーラ、すまないとは思っている」
ハルトの言葉に、彼女はひらひらと片手をあげて答えた。
性格からかなり怒っていると思うのだが、その素振りは見せなかった。
女はそのまま振り返ることなく、建物から出て行った。
エラミスタが小さく息を吐いて、レイエルを睨む。
「だがしかし、雷神なしで本当に上手くゆくものなのか」
ひゅっと肩をすくめた眼鏡の女は、杖を持った老女をちらりと見た。
女、フェルマ=アングラムは軽く頷く。
「ワシから今一度、説明しよう」
そう言うと、老女は手のひらから一匹の鳥を生み出してみせた。
それは竜に見立てられた、泥の人形である。
「これが竜じゃ」
鳥のかたちの人形がふわりと浮き上がって、部屋を飛び回る。
存外に軽そうなそれに、フェルマは次に指先を向けた。
浮き上がった泥の鳥に、無数の棘が伸びて、そしてぴたりと止まる。
棘はすべて砕け散り、大量の土煙が、鳥もろともを覆い尽くした。
「物量じゃ。まずワシが『泥杭』を数百ほど打ち込んでやる。奴はそれをすべて迎撃するじゃろう。無論スーリアであれば、泥などものの数秒で砕け散ってしまうはずじゃから、これはあくまでも、目くらましの手段、じゃな。本命は、こっち」
その瞬間、鳥の真上に幾本もの鎖と、泥水のかたまりが現れる。
「うむ。ワシが同時に空から落とす泥の膜と、鎖じゃ」
「それも凍らされるだけであろう?」
「アールヴの姫様、そうならんようにハルト君の力が必要になるんじゃ」
勇者の少年は、そのときすでに、フェルマの肩に手を置いていた。
彼は十字の飾りを握って、そして小さく呟いた。
「――神性『万物聖剣』。俺は、泥の鎖も聖剣化できる」
「そうか、あの力の範囲は剣に限らない……」
「なるべく小さいほうが効力は高くなるが、大きくても付与自体は可能だ」
「『玻璃聖域』も、広域空間に対して聖剣化を実行しているだけだものね」
ハルトから流れ出る輝きが、女の腕を伝い、指先から伸びる鎖を覆っていく。
輝く鎖、それは止まることなく泥人形に至り、一瞬で縛り上げた。
「聖剣化されたものは使い終えると脆くなるが、奴を地面に叩き落とすくらいの時間は持つだろう。それで魔竜を地面に張りつける。そこからは俺の、剣の出番だ」
その言葉と同時に、泥でできた小さなハルトが、鳥に斬りかかる。
鳥は必死に飛ぼうとするが、ハルトが奮戦するので動くことができない。
「ハルト殿には、スーリアが空へと逃げるのを防いでもらうつもりじゃ。その間にワシは奴の座標に生成魔術を使う。こりゃあ要するに、スーリアの体内のことじゃな。魔竜の身体のなかに、ワシが操作可能な泥を大量に生成してしまうんじゃ」
みるみるうちに鳥の腹のなかに魔力が集まり、あっという間にそれは広がった。
泥の鳥の内側から、数えきれないほどの泥杭が突き出してくる。
「奴の体内に泥を仕掛けたら、あとは奴が鈍るのを待つだけじゃ。身体のなかまでは流石に凍らせられんじゃろうから、ワシからは攻撃し放題になる。それまでの時間を、ハルト殿には全力で稼いでもらわねばならん。囮としての役回りじゃよ」
少年は、こくりと頷いた。
「スーリアの動きが止まれば、あの竜魂剣もおそらくは動かせなくなる。そうなれば、その後は俺も、この命を気にする必要はない。魔竜の首を落とす、それだけだ」
「そんなに上手くいくんでしょうか」
「いかん可能性は当然にある。最も可能性が高いのは剣が止まらんことじゃ。奴の前腕は竜魂剣と一体化しておるでな。魔法耐性が非常に高いことも考えられる。そうなると、ハルト殿にはあの剣をかいくぐって、首を落としてもらうことになる」
かいくぐるなどと簡単に言うが、それは大変な難事である。
レイエルの玻璃聖域を容易く裂いた剣なのだ。当たれば一たまりもない。
「安心せい。ワシには、泥人形の魔術もあるんじゃ」
「いざとなれば空間魔法もある。連発はできないが、一度は離脱できる」
「穴のない作戦、というわけじゃよ。まぁ考えたのはそこの大賢者じゃがのう」
得意げに微笑む。
「そんなに魔力が持つのか?」
「ワシにはサニャがおるからそこは心配いらん」
と、それを聞いて、ライドが血相を変えた。
「おい、待て待て。さっきの作戦にはサニャも出るのか?」
「うむ。サニャはなかなかに使えるのでの」
空気が凍りついた。
男は、無言で戦槌を握りしめる。
そしてそのまま、
サニャが、男の服の裾を掴んだ。
「ストップ! パパ、私のことを信用してないと思うから一応言っておくけれど、私はもう魔力が使えます。泥の魔法もちょっとなら使えます。いや、ホントだから!」
「フェルマ」
「無論本当じゃ。ワシの泥を正面から打ち消せる程度の魔力は持っておる」
「危ないことはさせられないぞ」
泣きそうなほどに真面目な表情であった。
というか、ライド=クルーエルはすでに泣いていた。
困り顔でフェルマは、男の肩を掴んだ。
「分かっておる。サニャには、じゃからワシの魔力補助をしてもらう」
「補助?」
「知ってのとおり、ワシは老体で、魔力量が非常に少ないからの」
「そう! 私はおばあちゃんに触ってるだけでいいの!」
魔法使い同士であれば、触れるだけで魔力の移動くらいはできる。
老魔法使いの明確な弱点を埋める良手であった。
ライドはしかめ面でうんうんと唸るが、最終的には首を縦に振った。
「……分かった。頼んだぞ」
「ワシとスーリアは相性がいい。いざとなりゃ、お前さんをおいて二人で逃げるよ」
「ハァ、奇遇だな! 俺も同じことを考えていたところだが!」
笑い飛ばすその顔にはもはや涙はない。
この戦いのあとのことを、すでにライド=クルーエルは考えていた。
レイエルがその手をぱんと叩き、全員の顔を見る。
「よし、これで人員は揃ったかな」
こうするのも、もう何度目だ。
竜との戦いは三度め。これで最後になるはずだった。
オーステンは妙な感慨とともに、息を吐いた。
ララもフィーラもエラミスタも不参加となるこの戦い。
作戦もあり、敵の力量も知れている。決して不利ではない。
だが、こちらも万全というわけではない。
「体勢を整えてから挑むのはダメなんですか?」
「いや、それも一つの手ではあるんだけど、」
思わず出たオーステンの問いに、レイエルは目を細めた。
が、間髪入れずにハルトが話をさえぎった。
「絶対にダメだ。ララを蘇生させないといけないんだからな」
「そう。蘇生限界にはまだ余裕があるけれど、いつまでもあるわけじゃない」
そのことを思い出して、青年は顔をしかめた。
つまり、別の仲間を連れてくるとかそういうことはできない、というわけだ。
「本当ならこの夜のうちにでも竜を補足したいのだけど、スーリアはこれまでのところ正午にしか現れていない。となると、これはかなりのスピード勝負になるよ。蘇生限界が丸一日程度だとして、ララを救い出すための時間は、もうほとんどない」
やはり整理すると、この状況は絶望的なのだ。
どれほど取り繕っても、ララを助けるというのは困難がすぎる。
竜は倒せるとしても、その戦いに時間はかけられないのだ。
フェルマが、首を傾げて問うた。
「蘇生限界じゃが、本当に丸一日しかないのじゃろうか?」
「まぁ前後はあるさ。ララくらいの魔法使いなら生命活動だけは守っているかもしれないし、勇者クラスの蘇生術ならば、たぶん追加で半日くらいは大丈夫だろう」
最長でも一日と半日。それでも完全に蘇生できるかは分からない。
機能不全が残る可能性は高い、とレイエルが言う。
蘇生術とは言っても、死者の身体を極限まで回復させるだけの回復術だ。
失われたものが、本当にすべて帰ってくる保証は、ないのだ。
「あやふやだからね。もちろん急ぐに越したことはないけれど、も」
レイエルがそう言った。
その総括は、まったく正しいように思われた。
彼女は、そう言いながらも何かを信じるような眼で、己の手のひらを見た。
よく見れば、その顔はひどく疲れているように見えた。
今のレイエルはどこか、勇者ハルトに似通った雰囲気をまとっていた。
力のない声で、レイエルが言葉をこぼす。
「そう。私の在り方も、ハルトの未来も、まだ決まったわけではない。私たちはまだ負けると決まったわけじゃない。まだきっと大丈夫さ。諦めるにはまだ早いよ」
「レイエル、故郷に戻ったらすこし休め」
「あぁ、分かっているよ。だけども、学院の使命は果たさなければ」
そう言って、女がどしゃりと座り込む。
つられて、オーステンも座り込んだ。
正面に座る彼女の顔が見える。
その目は、眼鏡の反射でよく見えない。
だが、唇は見える。
それは震えているのだった。
エラミスタが、彼女の背をゆっくりとさすった。
と、そのときである。
入り口から足音が響いて、一人の人物が顔を出した。
フィーラであった。
彼女は両手に大きな瓶を掴んでおり、それには見覚えがあった。
酒だ。異世界から持ち込まれたという蒸留酒とやらだ。
とんでもない。
この女、こんなときに頭を冷やすために酒を持ってきたのだ。
「あー……こんなときになんだが、すこし飲まないか?」
フィーラがすこし頬を赤くしてそう言った。
照れているからなのか、すでに飲んできたのかが分からない。
ハルトが珍しく頭を抱えて、獅子髪を睨んでいた。
「ララなしでか? お前、正気なのか?」
「ララがいないからこそだ! 頭を冷やすには酒が一番だろう!」
それはない。
ないが、フィーラの動きは非常に素早い。
気がつけば酒の栓が抜けており、酒器に少量が注がれている。
彼女は手早く器に雪を放り込むと、人差し指でステアした。
「雪割の冷酒、いや、ショーチューの雪割だったかな」
「んくっ」
「烏賊とにんにくの、あー、炒め物だ」
合わせて渡されれば、ハルトも飲むしかない。
ということもないとは思うが、フィーラの妙な勢いに飲まされてしまう。
「どうだ、ハルト。葡萄酒とどちらが美味い」
「にんにくが美味い」
「やはり、お前には安酒で十分だな」
けっ、と音の出そうなほどに吐き捨てると、フィーラは酒を皆に振る舞った。もちろん、サニャだけは蚊帳の外で、腹立たしげに雪を貪り食っている。飲めばいいのに、とは思わないでもなかったが、未成年の飲酒を推奨するつもりもない。若い葡萄酒ならともかく、この異世界の酒は、なんだかやけに度数が高いのだ。
「オーステン、どうだ。いけるか?」
「うーん。竜の鼻はどうなんでしょう。にんにく臭を感じられるんでしょうか」
「そりゃそうじゃろう。たぶん、キレるじゃろうて」
「えぇ!?」
飛び上がりかけたオーステンは思わず、フィーラの顔を見つめてしまう。
流石の彼女も、老魔女の言葉に唖然としていた。
咥えていた烏賊がぽろりと落ちる。
この人、どうしてこんなにやることなすこと裏目になるんだ……、
とその瞬間、フェルマ=アングラムは、破顔した。
「冗談じゃ。そんな心の隙間はないじゃろ」
「あ、安心しました」
なかなか性格が悪い。
悪いことは知っていたが、まさかここまで悪いとは。
フィーラが、動揺を取りつくろうように烏賊を拾って食べる。
そして、皿のにんにくをオーステンの口に放り込む。
「というか、そもそも、サウラの白蛇にんにくは臭いが残らんものな!」
「あいや、そっちはどうでもいい、こともないか」
皆で皿を囲んで酒盛りをしていると、竜退治のことがほんのすこしだけ軽く感じられる、とオーステンは思った。氷漬けとなっているララのことも、今だけは楽観的に考えられる。そう思えば、フィーラの行動もさほど悪くないものに思えた。
彼女なりに、皆の心労を和らげようとした結果なのだろう。
獅子髪も今は、ずいぶんと光に乏しい茶色となっていた。
やはり彼女も、悪い人間ではないのだ。
と、どん、と彼女が瓶を叩きつけて、それをまた空ける。
四本目だった。やはりその内の二本は己で飲んでいる。
オーステンは、前言を高速で撤回したくなった。
「やっぱり貴女は自分が飲みたいだけなんじゃないですか」
「人聞きの悪い! オーステン、皆に振る舞っているのだぞ! この希少酒を!」
くるりと向けられた酒瓶には色々と宣伝文句が書かれている。なんでもこの酒は、200年前の初代の勇者が、その竜討伐を祈願して造らせたものらしい。彼女は大変な酒豪であったらしく、異世界の酒を造ることに情熱を燃やしたそうだ。
さきほどのにんにくも、探しだしてきたのは初代の勇者、だという。
「サウラには、名産品が多いんですね」
「この国にも多いさ。ララの生まれたリオライエン領は宝飾品の名産地であるし、アールヴの里は杖木の名産地だろう。いずれも異世界から来た最初の勇者が発展させた地域で、あちこちにその偉業の片鱗が残っていると聞いたことがある」
エラミスタが不愉快そうに鼻を鳴らした。
「ふん、里の杖木は元々、売り物ではなかったのだがな」
「まぁいいじゃないか。お陰でアールヴは潤ったのだからね」
すこし頬を赤らめて、大賢者が言う。
里、という言葉に引っかかり、オーステンは首を傾げて問いかけた。
「あの、レイエルさんとエラミスタさんは、同じ里の生まれなのですか?」
「私は少し違うよ。私の父親が同じ里の生まれなのさ」
「レイエルは、純潔のアールヴではない」
そんなことを聞かれるとは、とでも言いたげな表情でエラミスタが言う。
レイエルも、すこし驚いたような顔つきで、己の生まれについて答えた。
「そうだね。私は、ハーフだよ」
「それって、アイナ=レシュカと同じ、ですか?」
「ああそうさ。うん。そうさ」
なるほど。オーステンのなかでひとつの謎が解けた。
レイエルはずっと、アールヴだという感じがしなかったのだ。
おそらく彼女は、人間の母親とのハーフなのだろう。
歌姫アイナ=レシュカはハイアールヴであるが、その存在の源は女神である。女神フロールから生まれた勇者と、アールヴのハーフ。故に、人でもなく、単なるハーフでもない、ハイアールヴ……だそうだが、アイドルのプロフィールというものがどこまで真実を語っているかは、オーステンといえども明言を避けたいものだった。
もっとも、その独特な顔立ちから、ハーフというのは事実ではあるのだろうが。
「私もハーフだからね。それでアイナのファンになったのだよ」
「へぇ。歌姫との付き合いも長いんですか」
「もう、ずっとだね」
うふふとレイエルが笑う。
その、ふとした仕草が、似ている。
アイナ=レシュカに。
顔はやはり違うようにも見える。
高貴さは並ぶべくもない。
だが、どこかが、似ている。
もしかすると、アイナとは、レイエルの親戚なのではないだろうか。
アールヴは長命種だと聞く。あるいは、娘、かもしれない。
母親だと、それはちょっと微妙に知りたくないような気もしなくもないが。
オーステンはちょっとした好奇心からお願いしてみることにした。
「レイエルさん、試しにアイナ=レシュカの歌を歌ってもらえませんか?」
「へ!? 私がかい?」
素っ頓狂な声で、彼女は己を指差した。
オーステンは、ここぞとばかりに推しを強める。
「絶対、めちゃくちゃ良い感じになると思うんです!」
「あ、いや、私は歌が苦手でね、その、エラミスタが歌えばどうだろう!」
「エラミスタさん? そうか、その手もあったか」
それはそれで良いものだ、という気がした。
短髪のアールヴは、苛立った様子で片手を振るが、その頬はかなり赤い。
これは酔っぱらっている。まんざらでもない顔をしている。
「やめろー、レイエル。私の声は、超絶に強い呪いなのだぞー?」
「そうは言っているが、彼女の声は天性のものさ」
「お前たちなぁー、ふざけてる場合かー? どうなんだー、おいー?」
「エラ、景気づけだと思ってやってくれ。こんなときだからこそ、ね」
はぁーとため息を吐いて、エラがちらりと後ろを見る。
そこにはちびちびと雪割を飲んでいるハルトがいた。
彼は完全に意気消沈しており、死にそうな顔をしていた。
あれを元気づけると思ってさ、とレイエルが言う。
「我はぁ、我の使命はー、彼奴を守ることなのだぞー? 決して、あんな顔にな、させることではないのである……だというのに、あのクソガキと来たら、この世の終わりみたいな顔をしくさりおってからに。我は彼奴にとっての、なんなのじゃ」
ぶつくさと、彼女が言葉を吐く。
彼女は彼女で、意外にも鬱憤が溜まっていたらしかった。
「そんなに聞きたいなら、呪歌でも聴かせてくれようか」
「エ、エラミスタさん?」
「チィ――、」
舌打ちをしながらも彼女は立ち上がる。
すぅ、と息を吸って。
とたん。
エラミスタの喉からすがやかな音がこぼれ出た。
それはまるで水晶のような透明な歌声。おそろしく透き通っていて、なみだが出るほどに輝いている。それはこれまでに聞いたどんな声よりも清らに澄んでいて、美しさ以外のすべてをそぎ落としたかのように、ひたすらに無垢なものであった。
傷一つない、冬の空気のようなはりつめ。
歌というよりも、それは完成された音、そのものだった。
女の、旋律のひとつひとつが、心のみえない部分を安らかにしていく。そのような歌声のもとでは、ハルトでさえも落涙せずにはいられなかった。彼のいまや燃え盛る火のような心よりも、その怒りと焦燥よりも、エラミスタの歌ははるかに強い力で、彼の肉体に働きかけたのだ。それが呪唱。あるいは、聖唱であった。
だがしかし、
誰もが涙を流しているなかで、オーステンだけは、ただ静かだった。
その女の声のなかに、いささかのよどみもないことに震えていたからだ。
彼がよく知る、アイナ=レシュカの歌声もこのように強力無比な力を有してはいたのであるが、しかし、これほどに純粋そのものを形にしたようなものではなかった。もっと歪んでいて、混ざっていて、汚くて、喜びも悲しみも苦しみも、そのすべてを閉じこめたかのような、されどもそれゆえに力強い、そんな声色だったのだ。
エラミスタの声が絶頂に至るに連れて、そこにあるべき穢れや掠れがないことが気にかかってくる。一並べにしてアイナと比べれば、おそらく、この短髪のアールヴのほうが、より素晴らしく、同じ歌を歌えるのだろう。だけども、だけれども。
きっと、この歌はオーステン=エリオットを救わなかっただろう。
そう、彼は思った。
ライドがサリアを失ってからの数年間、まだ幼いサニャの面倒を見ながら、鍛冶を続けていた。あの日々のなかで、何度も、オーステンの心は折れそうになった。それが今日の日まで折れずにいられたのは、苦しいときや辛いときに、彼女の歌声を聞けたからだ。いつか王都に行ったときに、その歌声を耳にしたから、なのだ。
そのことを思い出して、思い直して、
オーステンはすこしだけほくそ笑む。
エラミスタの声が、高々と響き渡った。
最高に至り、そして、終演する。
万雷の拍手。むせび泣く者たち。
素晴らしい歌声だった。
だが、違う。
不遜にもそして無礼にも、彼はそう思った。
やはり、自分は生きてもう一度、アイナ=レシュカに会わねばならない。
恍惚とする彼の腕を、またしても、彼女が掴んだ。
レイエル。
その瞳が濡れている。
彼女もエラミスタの歌に震えたのだろう。
「どうだったかな、オーステンくん」
「あの、いえ、とても良かったです」
「それだけかい?」
彼女が小首を傾げる。
偉そうにふんぞり返っているエラミスタは、こちらを見ていない。
オーステンはなぜだか、そんなことが気にかかり、
「いいえ。それだけじゃありません」
そう言った。
「何が、君は何を言って、くれるのかな」
「足りませんでした。あの歌声には、祈りが、足りなかったんです」
「祈り?」
レイエルが小さく問う。
「苦しい人の願いです。救われたいとか、救いたいとか、もっと世界がこうあってくれたなら、というそういう思いのかたまりです。アイナの歌には、そういうモノが重たく乗っているんです。澄んではいないけれど、彼女の声は、人間を背負っている」
言うつもりのないことまで、すらすらとこぼれ出る。
言えばそれは形になる。
形になって、音になって、耳まで届く。
オーステンは己が恥ずかしいことを言っていることを自覚しながらも、そしてなぜかレイエルに言っていることも自覚しながら、己の思ったことをすべて、あますところなく伝えた。途中からレイエルは笑い出し、腹をよじって笑い転げていた。
馬鹿にするのではなく、恥じらうように。
「オーステンくん、君は、いいリスナーだよ」
「レイエルさんこそ、こんなに聞いてくれた人は初めてです」
「ふふ。興味深い話を有難う、本当に、力になったよ」
夜が明けて、竜を倒せば、そのあとはもう会うこともないだろう大賢者。
もしかすると、アイナのライブでは会えるかもしれないが、それとて。
いや、それなら。
「レイエルさん。一緒に、また、行きませんか」
「――ああ、そうできればね」
彼女はそして、笑みを消して、朝がくる。
その日がやってくる。
オーステンはこの数日のことを一生涯忘れなかったが、とりわけ、この日のことだけは絶対に、その細部に至るまで、なにもかもを覚えていた。なぜならその日、彼らの物語は終わり、そして、オーステンの物語もまた、終わってしまったからだ。
続いていくのは、レイエルの物語のみ。
彼女だけが、この凄惨な竜討伐を終わらせることが、できなかったのだ。
それでは、竜退治の話をしよう。
それがいかにして終わったのか、それを教えておこう。
お前に。君に。君たちに。
〇
戦いはやはり、日が真上に昇った時間に始まった。
魔竜スーリアは昨日と同じく頭上から降り立ち、
エラミスタとフィーラ、それにララのいない勇者の前に降り立ち、
そして、巨大な翼が一行を呑むように広げられた。
すでに竜は降りてきた。
それでもやることは同じ。
作戦に変更は、なし。
竜の持つ剣が日の光できらめき、
その瞬間、泥で濁る。
「生泥『泥杭』」
老女が杖を掲げた。
そのとき。
「なんじゃ――動きが、止まった」
と、フェルマ=アングラムは言った。
眼前の竜は、眩しそうに眼を細めており、その身に動きは皆無。
ライドが、信じられないとばかりに、だが、叫んだ。
「今だ! フェルマ、腕を落とせぇ!」
「言われんでも、分かっておるわい!」
老女が杖を向けると、地面を突き破るように二本の杭が伸びあがった。
それは風のような速度で竜に迫ると、その小さな両腕を貫いた。
同時に変幻自在の泥はかたちを変えて、竜の腕と剣に絡みつく。
もちろん、そんな攻撃は数秒と持たない。
はずだった。
スーリアの氷の魔力は、ものの一瞬で泥を砕くのだから。
そのはずなのだから。
だがしかし、泥はみるみるうちに竜の身体を覆いつくして、
そして、スーリアは止まる。竜はついに、封じられる。
飛来させた聖剣は、そのすべてが鱗を貫いて、突き刺さっている。
ここぞ、とばかりに勇者が飛んだ。
跳んだその勢いのままに、剣が奔る。
輝く聖剣が閃いて、ぱかり。
「スーリア――!!」
黒血が噴き出して煙が噴き出して、返す刃が、ひらり。
数瞬の後に堕ちるのは首。
竜のその頸に開いた切傷がみるみるうちに広がって、
きらきらと舞い散る氷と雪片のなかで人面が舞う。
断末魔ひとつなく、それは死んだ。
と、彼は言った。
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