たったひとつの鈍いやり方 10
はてさて、竜退治とは甘露のように血肉沸き立つ絶世のものではございますが、それとて、いつまでも夢を見るように続けるわけにはございません。竜退治、その最後の一戦は、激しく、そしてあっけなく終わりました。終わってしまいました。
勇者ハルトによって、魔竜スーリアのその首は、ついに落ちたのです。
決め手となりましたのは、泥の魔女と呼ばれた老女の魔法でした。
寸分の狂いなく放たれた泥の杭は、竜の腕を貫いて剣を封じてしまいました。
泥の膜は、竜の翼を絡めとり、泥の鎖が竜の骨を折砕きます。
恐るべき金縛りの鳴き声も、喉に泥が詰まっては放つことができません。
多くの魔法が矢継ぎ早に撃たれました。
竜の腕も脚も、どうにも動かなくなってしまいました。
いえもちろん。
それはちっとも、予想していた流れなどでは、ありませんでした。
スーリアならば、きっと泥などすべて凍りつかせるだろうと、そう、誰もが考えていたのです。事実、そのはずだったのです。ですがその戦いでは、竜は甘んじて泥に捕われてしまいました。囮もはったりも使うことなく竜は止まってしまいました。魔竜スーリアは、なにかを言いたげに、ただ悲しげなうめき声をあげるだけでした。
そしてそこに勇者ハルトが飛び込みます。
四枚の輝く翼をもってして、少年は竜の鼻面へ。
振り下ろされた剣が、いよいよ、醜い竜の顔面をまふたつに割りました。
頸だけを動かしてスーリアは氷の吐息を放ちましたが、
大賢者の張った結界は、今度ばかりはしっかりと少年の身を護りました。
ハルトの剣がきらめいて、氷が。首が。差し出されて。
すぱり。落ちました。
死にました。
スーリアはこうして。
あっけなく。
なんのひねりもなく。
殺されるべくして死んだのです。
このような偉業、成した者には夢にも思われるものですから、剣を降ろして近寄りました少年の、その顔は、訝しげに歪んでいます。まるで奇怪なものでもみるかのように、いえ、事実、竜とは奇怪な生物ではございましたが、少年は呟きました。
「死んだのか」
ハルトがそう言って、竜の死体の傍らに立ちます。
いや、死体ではありません。
それはもはや遺体でした。
魔竜スーリアはその命を失したことで、人の姿へと戻っていました。
全身にはいくつもの傷があり、特にその顔はまともには見られないほどでした。
かつて英雄とされた男の、その末路がこれでした。
「間違いないよ、君はきっと最強の竜を倒したんだ」
レイエルが言います。
彼女の言葉には含みがあるようにも聞こえました。
このスーリアは、今回のスーリアは、まるで戦いの化身のような二度目のときのような動きを見せませんでした。フィーラもエラもララもいない、そればかりか足手まといのサニャがいたというのに、竜はその隙を突かなかったのです。
無論、フェルマの力は大いに竜の力を削いでいましたし、合間合間に放たれた勇者の剣――オーステンの売れ残りの剣たちは、聖剣となって竜の鱗を削ぎました。だがしかし、だけれどもしかし、それらすべてを甘んじて受けた竜の振舞いに、竜らしくもない勇者らしい振舞いに、疑問が残らないといえば嘘になります。
オーステンは小首を傾げましたが、その謎は解けませんでした。
ライドが歩み寄って、死んだ勇者の顔を横に傾けます。
おぞましいその傷跡が隠されて、陰となりました。
「ようやく死ねたか、こいつも」
その声にはどこか優しさと悲しみがあり、憎しみは微塵もありませんでした。
竜が死んだことに一番安堵しているのはきっと、ライドだったのでしょう。
「最初に会ったのは、サウラ王国に剣を納めたすぐ後だった。こいつは立派な勇者で、何千人もの命を救ってた。サリアもそれを誇らしげに話してたよ。勇敢で謙虚で、情には薄かったが、悪い奴じゃあなかった。そんなときも、あったんだ」
男の遠い目は、かつての日々を思い出しているようでした。
親交はあの日終わった。
けれど、終わったことは今でも、終わったままで。
ライドのなかから消えてはいないのでした。
「こいつの旅は途中から一人だった。サリアも他の仲間も少しずついなくなって、西方遠征のときには兵士どもしか連れていなかった。これは俺の勝手な推測だがな、そのときにスーリアの心は折れちまったんじゃねぇかと思う」
男はようやくその念願である復讐を果たしたというのに、晴れ晴れとした顔をみせませんでした。復讐に意味がなかったのではないでしょう。彼にとっては、この復讐とは始めから気持ちのよくなるようなものではなかったのです。ただそれだけのことなのです。それでも、やらないままでは生きてはいられなかったのです。
「サリアはいつも、竜を倒したあとのことを考えろって言ってたんだ。あいつはずっと気にかけていた。あの狂った年だってそんな話をしていた。竜を倒すための人生なんて虚しい。恋人でも作ればいいとか、そんなこと。あいつには、たぶんなんの助けにもならなかったんだとは思うが、それでも、サリアはずっと後悔していた」
やっとその心残りを果たせた、と彼はそう思ったようでした。
見る間に、スーリアからぶすぶすと黒煙が上がっていきます。皮膚が溶け、肉が落ちて、小さな羽虫のかたまりのような塵へ変わっていきます。失せていきます。罪も罰もなにもなかったかのように、その身体は雪の空へと消えていってしまいました。
あとに残ったのは、まるで背骨のような一本の黒い爪。
そして、ライドが打った竜魂剣のみ。
解体するまでもありませんでした。
オーステンはその二つの品を拾い上げて、ハルトに手渡します。
少年は、緊張も笑顔も見せず、冷えた目で呟きました。
「こんなものしか残せなかったのか。これが勇者の末路なのだとしたら、勇者なんてロクなもんじゃないな。命を削って、使命を果たして。また分からなくなってきた。俺はどうしてこんな、こんな、ふざけた勇者なんかやろうと思ったんだ?」
それは最初に会ったときからは想像もできなかった言葉でした。
あの夜の会話からしても、これがハルトだとは思えません。
一体、なにが彼を変えてしまったのだろう、とオーステンは驚きました。
しかし少年は驚きを意にも介さず、遺物を無量箱にしまいこみました。
そしてどこかはるか遠くを、光のうすい瞳で見つめました。
「いや、違う、それより、俺にはしなきゃいけないことがあるんだ」
ハルトはそう言って、呆然と歩き出します。
そのうちに降っていた雪はやんで、光が射し始めていました。
地面にも水が混じり始めて、太陽がきらきらと輝いていました。
結果だけを見れば、なにはともあれ、魔竜スーリアは倒れました。当初の目的は達成されたのです。城壁で眠っているフィーラとエラミスタも報告を聞けば喜ぶに違いなかったですし、命を賭した彼女だってきっと誇らしく思うに違いありません。
そう、あとはララだけでした。
彼女を氷のなかから助け出して、それで物語は終わるのです。
愛を知ることができない人間が愛を知る。
それはまったく素晴らしい物語でした。
ハルトはきっとこの後、勇者をやめるでしょう。
そして、スーリアと同じ轍を踏まないように瘴気から離れるでしょう。
黒蛇も獣も竜もいない、平和な世界を望むでしょう。
彼の横にはララがいるかもしれませんし、あるいは彼女であれば、また戦場へと出て行くかもしれません。ララ=リオライエンはそういう人間でした。そこに己の使命があるのならば、なんとしてでもそれを守ろうとする人間でした。ですから、少年がもしも勇者の使命を投げだすのなら、彼女は愛想をつかすかもしれません。
だけども、たとえそうだとしても、
それがなんだというのでしょう。
そのことでかつてのハルトが消えるわけでもなければ、
恋をしていたララが消えてしまうわけでもありません。
それは恐ろしいことであっても、忌み嫌うことではないのですから。
ハルトは走ります。
少年の足取りは軽く、使命感に急かされるようでありました。
凍りついた彼女がそこにいるのです。
もうすぐようやく、助けることができるのです。
急がないではいられません。
「いた」
街のある一角、山のふもとへと通じる道の最中。
凍ったひとつの頭部を見て、彼は微笑みを浮かべました。
「よかった、本当に」
ハルトがそう言って、氷を撫でました。
ぽたぽたと水が滴り落ちて、赤黒い水のシミができます。
閉じ込められていた血肉が流れ出ているのです。
「ハルトくん、それは」
「いや、分かってる。俺には分かってるんだ」
少年の手のなかで氷が溶けていきました。
香りたつそれは、
もちろんララ=リオライエンではありません。
赤髪の小柄な、あの女性ではありません。
いえ、それは誰でもありませんでした。
誰にも、その氷像が誰なのかを知ることはできませんでした。
なぜならその頭は、判別不能なまでに損壊していたのですから。
あの、スーリアと同じように。
嬉しそうにぽろぽろと涙をこぼすハルトの眼には、もはやララのことすらも映ってはいないようでした。ほんの数十歩離れたところで彼女は凍り付いているというのに、そのことさえもすっかり忘れたかのように、ハルトは肉塊を閉じこめた氷に十字の首飾りを向けていました。そうすれば蘇るのだと心から信じていました。
「――ようやく蘇生させられる。ああ! ああ! 本当に、良かった!」
「ハルトくん、それは誰なんだい?」
レイエルが不思議そうに問います。
「ララだ」
「うん? それが? それのどこが?」
レイエルが首を傾げます。
少年も首を傾げました。
「え、あ、いや、これは、これは誰だ?」
「それはララではないよ」
「あれ、じゃあララはどこだ、いや、これがララか?」
「あそこにいるよ」
そう言って彼女が指差した先には、高々と伸びる凍りついた炎と、その中心で固まったままになっている女性の姿がありました。それこそララです。あれこそが、勇者ハルトがその命を賭してまで、救う覚悟をしたララ=リオライエンなのです。
もちろん勇者は頷きました。
「そうだ、あれがララだ、彼女を蘇生させないと、氷から出して、頭を直して、」
「どうしたんだい? 大丈夫かい?」
ハルトは大きく横に頭を振りました。
頭のなかで、胸の奥で、なにかが蠢いているかのように、
少年の身体がびくびくと脈打ちます。
「いや違う。俺はそのために勇者になったんじゃない」
「おやおや」
「俺は、」
「君は?」
「みんなをたすけるためにゆうしゃになったんだ」
幼げな、少年の声でハルトは言いました。
いえ、事実そうなのでした。ハルトは少年なのでした。
まだ生まれてからほんの十数年しか立っていないのです。
勇者など、背負えるような歳ではないのです。
ハルトは、片手をレイエルに伸ばして微笑みかけました。
「ママを助けにいかないと。レイエル、手伝ってくれ、」
「これは、由々しき事態だね」
レイエルが周囲をちらりと見回して、呆れたように息を漏らします。
彼女の魔力は、少しずつその輝きを強めていました。
女は、至極当然のことを言うとばかりに、無感情に言いました。
「ハルトくん、君が誰を助けたいのかはしらないけれど、蘇生限界は約一日、日が昇ってそして沈むまでの時間くらいのものさ。だから、君が救えるのはララだけだよ」
少年は困惑した顔で首を横に振りました。
「そんなわけない。蘇生できる、みんな蘇るっていったじゃないか、あの人が、」
「学院とそんな話をしたのかい?」
「ぼくのママも生き返るっていったじゃないか」
ハルトが憤怒をあらわにして詰め寄ります。
オーステンもライドも、それを止めようかと悩みますが、
その瞬間に、レイエルは杖をさっと抜き放っていました。
「レイエルッ!! あいつらは、ぼくにうそをついたのかっ!?」
そう言ってハルトの背中に翼が輝きます。
その足元に、ぽたぽたと鮮血が落ちました。
赤黒い血は彼の背中からじんわりと垂れ堕ちているようでした。
「なるほど、そういう、ことなのかい」
ようやく合点が言った、とばかりにレイエルが指を鳴らしました。
女は、この山に降り積もったどんな雪や霙よりも冷たい目をしていました。
彼女の心は、凍てついてしまっているのです。
いよいよ迎えたその局面に、もはやいささかの情も加えません。
「分かったよ、ハルトくん。あのときに受けた爪で理想化処理が剥がれたんだね。記憶の混濁もひどいし、勇者としての使命すらあやふやだ。まったくこんなときに、エラミスタがいないなんて本当に厄介だね。私のはそんなに上手くないんだから」
女は心底から面倒くさそうに言いました。
いえ、それが本心だというのは単なる傍観にすぎません。
もしかするとレイエルは面倒くさげに言っただけかもしれません。
しかし放たれた言葉そのものは本当で、
嘘偽りのない、真のセリフでした。
ハルト、その身に勇者としての使命をおびた少年は、勇者という偽りの被り物を脱ぎ捨てて、あるいは脱ぎ捨てざるをえなくなって、いよいよその失われた記憶を取り戻しかけているのです。そうして、その、本来の在り方へと戻りつつあるのです。
なぜ急に、仲間の女たちへの態度が変わったのか。
なぜ急に、竜への恐怖心が生まれたのか。
なぜ急に、ハルトの心は不安定なものとなってしまったのか。
それは竜の爪によるものでした。
魂を傷つけるという黒い爪の呪いには、レイエルの浄化では不十分だったのです。
そしてまた、オーステンから受け取った爪が呼応しました。
無量箱のなかに収められたとはいえ、呪い同士が引き寄せられ、強まります。
勇者の資格を失っているハルトには、これはもう耐えられませんでした。
傷口は開き、勇者の勇者らしさは死に、記憶は蘇り、
そしてハルトという少年は、元の姿に。
勇者でない、聖なるでもない、ただの子どもに。
成り果てた。
「お前たちのしてきたことを思い出したぞ、お前たちは、ぼくを、」
「ハルトくん、君は選ばれし勇者だったんじゃないのかい」
「僕だけじゃない、いや、僕だけしか、なれなかったんだ、」
こぼれる声に響くのは絶望。
ララもフィーラもいない今、慰める者はおりません。
あるいはエラミスタならば、彼を和らげることができたでしょう。
ですが、その彼女も、今はもうここには。
「――成り果てる前に終わらせるしかない、のかな」
と、レイエルは言いました。
オーステンが引きつった顔でサニャを後ろに隠します。
その前ではライドが戦槌を握りしめて、立っていました。
「レイエル、あんたは勇者の仲間じゃないのか」
「ちょっと君たちは動かないでくれないかい?」
「なにをするつもりだい、大賢者」
フェルマの杖はすでに光り輝いています。
違和感があったとはいえ、竜を完封した魔法使いの力です。
正面から受ければ、レイエルといえども一たまりもありません。
しかし彼女は、眼鏡をかけたアールヴの女は、言いました。
己の行いを嫌悪するように、気だるげに、苦々しく。
言いました。言い放ちました。
「竜退治さ」
そのとき、ハルトの翼がどす黒く染まりました。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
貴人は言葉を発しない。
反応のなさに、思わずエルマンは声をかけた。
「聞いておられますか?」
「もちろん。竜の死にざまについて考えておった」
詩人はその目を細める。
彼女の言葉が意味するところは知っていた。
「勝つのか? 負けるのか? と私は問うた」
「えぇ」
「竜はしかし、己から首を差し出して死んだのであろう」
頸の長い影がエルマンの前で動いた。
ずるりと長く、それは伸びていた。
「ではなぜ、竜はそんなことをしたのか」
「私は語りません。余白を考えるのも物語の妙ではありませんか」
エルマンがそう言うと、向こう側でため息がする。
「では私が考えを披露しよう」
ほんのすこしの喜悦が漏れた。
女は恐るべき邪悪にして怪異であったが、人間性も失ってはいない。
彼女は、あくまでも今のところは、人間であった。
ぽつぽつと声が御簾より語られる。
女は言った。
「まず、大事なのは違いだ。先の二度の戦いと勝利した戦いの、その差異を考えてみたのだ。いや、戦いの手順や方法ではない。思うに、スーリアを自死に追いやったものは、言葉でもなければ思考でもなく、とある人物の存在だったのではないか」
人物。
それはそう多くはない。
脱落した人物でいえば、フィーラとエラとララ。
だが、脱落したから手心を加えるというのは妙な話だ。
であれば、むしろ増えた人物。参加した人物。
それでいえば、泥の魔女フェルマ=アングラム。
だが、泥の魔女はいままでにも何度か、スーリアと戦っていたはずだった。
つまり、今回の戦いでだけ存在があったわけではない。
そうなると、誰だ。
誰が加わったのだ。
思い出してみると、エルマンは容易に一人の人物に辿り着いた。
あの少女。
ライドの娘である。
男の表情の変化を見て、貴人が嬉しそうに言う。
「そう、その違いとはサニャ=クルーエルの参戦だった」
だが、それで何が変わるのか。
それが繋がらない。見えてこない。
エルマンは問う。
「あの少女がいったい何だと言うのです?」
「サニャ=クルーエルは、サリアの娘だった」
「ですからそれが何だと?」
少しばかり残念そうに、竜身の女は答えた。
「竜はサリアを愛していたのだよ」
愛。
くだらなく馬鹿らしい話にも聞こえた。
あの勇者という存在が、
それも、サリアという女性を愛していたなど。
エルマンは上ずる声を抑えて問いかけた。
「勇者は性欲も愛情も、持たないでしょう?」
「だが――勇者スーリアはライドが打った破魂竜の剣を得物としておったはずだ。それが黒爪と同じようにスーリアの枷を取り払っていたのだとすれば、どうだろう。サリアへの恋慕が、あるいはサリアとのあやまちがあったとしても不思議はない」
確かにここまでの話から、その可能性を否定することはできない。
可能性とはあくまでも可能性であって、どんなにわずかでも消し去りえない。
だが、これはあまりにも証拠もなにもない空想ではないかと思われた。
なにしろ、あやまち、なのだ。
となると貴人の想像にも予想がつくというもの。
エルマンは思わず、くすりと笑った。
「ではまさか、サニャ=クルーエルがスーリアとサリアの娘だと?」
「さてな。スーリアがそう思っていた可能性はあるだろう」
「それがゆえに、己から首を差し出したのだと?」
「サニャを傷つけられないがゆえに、咆哮も凍気も使えなかったのだ」
筋が通っている、というには飛躍がすぎる。
突拍子もない考えではあった。
たとえば、竜の魔力が尽きていた可能性も捨てられないし、
ララを凍らせたことで罪の意識が芽生えた可能性もある。
本当に単なる実力で、フェルマが竜をねじふせたという可能性もあった。
もしくは、ただただ、サニャにサリアの面影を見ただけかもしれない。
なにせ、又聞きなのだ。
真実など分からない。
だが、まぁ一考に値する仮説ではあった。
「仮にそうだとすると、スーリアが竜になった理由も、」
――サリアのせいなのか。
エルマンの言葉に被せるように、貴人が言う。
「彼は遠征の最中に、心が折れてしまったのだ、と言われているが折れた理由は誰にも分からぬ。もしかするとそこには、サリアへの思いもあったかもしれぬ。オーステンと同じように、サリアはおそらく、スーリアの説得を試みただろうからな」
オーステンの討伐前夜のように。
サリアも、スーリアの前で彼の潔癖さに驚いたのだろうか。
愛の言葉をささやいてみたりしたのだろうか。
その妄想には、若干の嫌悪感が湧く。
エルマンとしては、ライドとサリアの物語は、美しいものであってほしかった。
それが素晴らしく満たされた物語というものではないか。
なにも、そこに薄汚く人間らしい情念など、なくてもよいではないか。
「そんなものは推測にすぎません」
その思いが否定の言葉となって口から洩れるが、
貴人は、心底から不思議そうに言葉を返す。
「だが、昔の仲間というだけで勇者の竜を倒しに行くなど、それも幼い娘を残して竜退治に行くなど、とても正気であるとはいえまい。サリア=クルーエルという人物はもしかすると、ライドなどよりもずっと熱狂的な女だったのであったかもしれぬ」
サニャを残して魔竜を倒そうとしたライドが、サリアへの愛で動いていたのだとするならば、サニャとライドを残して魔竜を倒そうとしたサリアは、一体なにをその原動力として動いていたのか。貴人はそう言いたげに身体をうねらせる。
御簾の向こうの竜に対して、おずおずとエルマンは告げた。
「では、サリアも勇者スーリアを愛していたのですね」
「可能性。あくまでも可能性にすぎぬ話だとも」
だが、だがきっと、
「彼女は、スーリアにとっての、ララ=リオライエンだった。だがサリアの場合はその報われぬ恋に疲れ果てて、そしてライドという男をも愛してしまった。そうして二人は離れ離れになり、勇者スーリアは孤独になった。孤独に、されてしまった」
沈黙。エルマンは口を開くことなく、耳を傾ける。
貴人はもはや喜悦でもなく、事実を述べるように言葉を発していた。
がらんどうの部屋。天蓋以外になにもないこの場所に声が響いた。
「サリアにはずっと、そのことに対する負い目があったのだろう。だからスーリアが竜と成り果てたとき、なりふり構わずに彼の元へと行こうとしてしまった。自分が壊したかもしれない男に対して、その責任を取りたいと、思ってしまった」
「奔放な想像力です」
皮肉を言うが、その皮肉が通じないほどに貴人の仮説には説得性があった。
昔の友人を救うために命をかけるなど、肉親を置いていくなど、狂気。
どれだけ賞賛されようとも、そこには一線がある。
他人への愛と家族への愛、そのどちらを優先するかと問われたときに、他人を迷わずに選べるような人間は狂っている。その意味では、サリアという人間は、狂人であったか、あるいはどこまでも正しく人間であったか、そのどちらかだ。
もちろん、それはすべて可能性にすぎない。
確定しない過去の、語られる過去の見えない心など誰にも分からない。
「推測だとも。だがこうなると、サリアを突き動かした使命感すら、英雄性でも正義感でもなかったのかもしれぬな。きっと、ライドならばもっと詳しい事情を知っていたのだろうが、今となってはそれも知り得ぬ話、ひとつの可能性にすぎぬか」
そう言って、貴人は己の考えを語り終えた。
素晴らしく美しい話に、泥を塗りたくるようなかたちで。
エルマンはかすかに歯ぎしりをしながら、立ち上がった。
「それでお話はお仕舞いですか」
「ああ。これからは其方の、貴様の話を聞こう、詩人よ」
「竜の、ハルトの、」
ベールがふわりと揺れて、彼女の陰が大きく伸びた。
竜は立ち上がって、その姿を見せていた。
その上半身は人間に見えるが、下半身は明らかに竜。
蛇のような尾がひゅるひゅるとしなって影となっていた。
「さぁ語れよ。封じられていた感情を取り戻した少年、理想的な勇者という在り方を失った少年、そしてそれがゆえに竜に変じた少年の話を語れ。ハルトは、果たしてどうなったのだ? 竜となりて使命を忘れ、取り戻した心をも失ったあの少年は」
貴人は、この答えに関しては間違いなく知っているはずだった。
あれから、あのときから既に長い月日が経っている。
物語の結末など、当に知れているのだ。
だがこの女が知りたがったのは、竜がどうなったかではない。
竜とハルトにまつわる、その勇者がどのように生きたか、なのだ。
それを知って何とするのか、エルマンには予測がついていた。
だから、彼はまた、淡々と語りを始めるのであった。
「ご存じのように勇者ハルトは、ハルティア=ラングというひとりの少年は、竜と成り果てました。その記憶を語ることはなく、その腕に愛する女性を、ララ=リオライエンを抱くこともありません。物語は悲しみに呑まれたままで決するのです」
悲劇。
その悲劇をエルマンは予告する。
「それでも良いのでしたら、勇者の物語をようやく語り終えると致しましょう」
貴人とて、悲劇を望んだわけではないだろう。
だが、彼女にはそれを受け止めるべき理由があった。
彼女はすべてを知らねばならない。
己が手から放たれた聖剣。その旅路を知らねばならない。
燃え上がるような声が、しかしかすれそうに小さな声が、言った。
「構わぬ。あの小僧がなぜ死んだのか、なぜ世界を救えなかったのか、私はそれを知っていなくてはならないのだ。お前が聞き知ったそのすべてを、私に余すところなく伝えよ。お前が教わったその物語を、そのすべての人物の最期に至るまで。」
エルマンがうやうやしく首を垂れる。
そうして、
彼が口を開く。
こぼれるのは歌。
「レイエルはアールヴの女と同じように、その透き通った声で歌い始めました。勇者は苦しげに頭を抱えて、その動きを止めてしまいます。しかし崩れ落ちるには至りません。彼女自身が語るとおり、その歌は不十分な力しか持っていませんでした。女は、ため息を吐くと眼鏡をはずし、うしろでくくった長髪をさっと、解きます」
窓の外ではいよいよ、歌姫の最後の歌が響き渡っていた。
それは呪唱。竜を退ける歌声。
理想の勇者と成り果てた歌姫アイナ=レシュカの戦いのときが迫っていた。
エルマンの口が開く。
「レイエルが杖に埋め込まれた聖正十字に唱えると、彼女の背からも神々しい翼が広がりました。大賢者、いや今はもう勇者となったレイエルはその杖に向かって、神性の聖剣魔術を唱えます。まばゆい輝きとともに、ひとふりの剣が現れました。それはハルトのものと寸分たがわぬ、勇者そのものの証。世界を救うための剣。レイエルはそれを間髪入れずに振るって、そうしてハルトの首は飛びました」
夕闇に広がるは輝く四枚の翼。
両手には、おそらく、聖剣が握りしめられている。
彼女もまた、女神から与えられた武器、その勇者。
彼女の一声で、民の声がひとつとなる。
そして強大な神性『玻璃聖域』が、その直後、王都全体を覆った。
御簾のうちの女、貴人が呻く。
半竜である彼女にとって、この聖域は呪いであるのだ。
それでも彼女は、この場所に留まることを願った。
遠い空から舞い降りる、四枚の黒き翼。
恐るべき八本の腕脚とは別に、胸元には二本の細腕が生えている。
その手に握られたるは、一本の剣。
ライドがスーリアのために打ったあの剣。
大空から聖域を破り斬った竜は、その一瞬で魔法を振るう。彼の燃える眼が王都とアイナを睥睨したと同時に、街の人間がどこかへと消え失せて、そして巨大な岩がどこからともなく空に現れて落下する。歌姫は地を蹴り、翼を駆って、岩を斬り飛ばすが、その瞬間にも、無数の岩が、水が、炎が、川が、海が、山が、獣が、無秩序に乱雑に、無法図に、気でも狂ったかのように混沌に、生じては打ち捨てられる。
空間を自在に移動するという少年の魔法は、竜となりて更にその凶悪さを増していた。自由自在に物体が現出し、ありとあらゆる人造物を破壊する。これまでで最も邪悪で強大な竜は、悲しげにうおおんと鳴いて、一息でアイナを斬り飛ばした。
その魔竜は、縄張りを持たない。
しいて言うならば、この王都が唯一の標的であった。
城壁の外で轟音と震動が大きくなる。
恐るべき竜との決戦だった。
だがそれですら、最後ではないことは明白だった。
この瞬間など、ただ数知れぬ戦いの、そのひとつにすぎない。
竜と戦い続けねばならないことなど、子どもにも理解されていた。
それはこの世界の宿命。永遠の苦行なのだから。
ただし、今回の勇者だけは、彼女だけは、そうではなかった。
この世界に生み出された最高の勇者アイナ――レイエル=レシュカ。
彼女は、本当の意味で特別な存在だった。
「レイエル、彼女の姿は今や、オーステンが知るあの歌姫とほとんどたがわないものでございました。あの姿とあの声、誰にも屈さない、元気いっぱいで、麗しくて美しくて可愛くて、竜さえも昇天させる絶大なる神性の女、アイナ=レシュカと。」
詩人がそう告げる。
そう、これよりエルマンは、語らねばならないのだった。
勇者ハルトではなく、レイエルというあの女のことを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます