たったひとつの鈍いやり方 8



 戦いはやはり、日が真上に昇った時間に始まった。


 魔竜スーリアは昨日と同じく頭上から降り立ち、しかし今度はララに落とされたのではなく、おのずから降り立ち、その一瞬の混乱をついて、フィーラの身体を翼で打ち据えた。雷神の巫女は強靭ではあるが、竜の凍気は彼女の両手両脚を封じ込め、そして、棘のついた尾でもって、魔法剣ごと街の向こうまで吹き飛ばした。


 すかさず呪唱が行われたが、やはり一度聴いた呪は効力が薄くなってしまう。竜の動きは期待ほどには鈍らない。むしろ、歌に合わせられた咆哮によって、今回はエラミスタが金縛りの状態に陥ってしまうこととなった。レイエルが即座に、神性魔術による結界を展開したが、このことすらスーリアには既に予想されていたらしく、魔竜はその強力無比な竜魂の剣でもって、レイエルの聖域を容易く裂いた。


 辛うじて斬撃は避けたものの、このことが彼女の警戒心を高めた。

 レイエルは前衛から数歩下がる。下がってしまう。


 その隙を見逃すほどスーリアは甘くはなかった。


 守りを失くした勇者ハルトは、まさに翼を展開しており、今にも飛ばんとするところであったが、そこに放たれたのが魔竜の凍てついた息吹である。魔竜の攻撃に対して、ハルトはすかさず翼を丸めたが、その翼もろとも、彼は凍りついた。


 右腕に握ったオーステンの剣、

 その最後の一本が苛烈な冷気によって粉々に砕け散った。


 壊滅。それはまさに完膚なきまでの壊滅だった。


 ライドが槌を振るうまでもない、

 オーステンが勇者たちの動きに驚嘆するまでもない。

 壊滅であり、敗北だった。

 

 ここまでの攻防で、誰の眼にも明らかなことがある。

 それは、魔竜スーリアは学習している、ということだ。


 戦いからほんの数十秒で勇者パーティのそれぞれに的確な攻撃を行い、戦闘不能の状態に追い込んでしまう戦闘のセンス、それはまさに前代勇者に相応しいものであり、とてもその理性を失ったケダモノ同然の竜だとは思えない。


 成り果てても彼は勇者だった。

 残されたオーステンは、死を覚悟した。


 だがそのとき、落下した勇者ハルトの前に、

 そしてライドとオーステンの前に、炎の壁が立ち上がる。

 女、ララ=リオライエンが立ちはだかったのだ。




 ――さて、このスーリアという竜を倒すにあたっては大きな問題が二つあった。


 一つは、ライドが与えてしまった恐るべき剣の存在。

 そしてもう一つは、スーリア自身の尋常ではないその力である。


 いわく、仮に剣がないとしても、あの竜を殺すのは容易ではない。ライドが記憶を頼りに言うところでは、前代勇者の氷の魔法は、真正面からであればララの炎でさえ凍らせることができるほどのものであった、ということであった。


「不意打ちだね。エラの呪歌が今ひとたび通じるかは疑問だけども、動きを止めさえすれば、ララの魔法で竜の身体を貫くこともできるだろう。狙うのは奴の二本の腕がいいね。あれを落とせば、スーリアはもう剣を振るえなくなるかもしれないよ」


 剣さえなければ、勝てる可能性は高い。

 それゆえに、完全な死角から炎の光線を腕に当てなければならない。


 その、レイエルの言葉を思い出しながら、

 しかし今、ララ=リオライエンは真正面から魔竜スーリアに相対していた。

 竜の口からは凄絶なる冷気が漏れ出ており、ララの髪を凍らせている。


 彼女は、それでも退くわけにはいかなかった。

 なぜならば、彼女の背後には、翼の凍りついた勇者ハルトがいたからである。


 これと同じような状況を、彼女は何度も経験してきていた。それが民衆でも勇者でも、守るべきものは守らねばならない。そのためには眼前の敵を打ち払わなければならない。己の命が残っているかぎり、なんとしてでも。私はそうすべきなのだ。


 彼女はありったけの魔力を用いて、スーリアの頭部に魔法を撃ち込んだ。

 周囲の雪がすべて溶け、溶け落ちていない瓦礫すらも溶けついた。


 されど、ゆらめきの向こうには未だ、魔竜のその人面があった。


 スーリアは、泣いていた。

 少なくとも泣いているようにみえた。


 そしてその口がめかめかと開き、青白く輝く息吹が漏れ出る。

 真正面からの攻撃ではララの炎さえ通じない。

 それがライドの予想だった。

 

 なるほど、吹き出された雹のような礫は、ララの炎の結界をやすやすと突破し、彼女の左肩と右足太ももの骨を打ち砕いた。崩れ落ちる彼女に、オーステンは駆け寄ろうとするも、その彼もまた、凍気によって凍りついてしまっていた。隣を見れば、ライドも同様に、その動きを封じられている。完璧と言えるほどの動きだった。

 

 炎を集めながらララ=リオライエンは言った。


「ハルトを連れて逃げるのです」


 オーステン=エリオットは答えた。


「そんなことはできない! 三人で戦えばまだ勝ち目が、」


 ララ=リオライエンの炎が青年の足下を舐めて、その氷が解ける。

 同時に、赤髪の女性の片腕が青白く凍てついていく。


「ハルトは仲間を救ってくれたけれど、私にはできませんです。私はそんなに器用じゃないもの。助けるべきもののために優先順位をつけるしか、できないのですよ」


 そして、炎が叫ぶ。


「生炎『百花艶嵐』」


 ララ=リオライエンの指輪が眩く輝いた。

 その光に一筋の亀裂が入り、なにか、砕けるような音が響く。

 渦巻く魔力は膨大にして甚大。

 一面の赤と熱波のなかに、彼女の姿は一瞬で消えてしまい、

 そして、ライドがハルトを引っ掴むことに成功する。


 だがその背後では巨大な炎が、すでにぴきりと凍りつきはじめていた。

 長くは、長くは持たない。

 今にも、今にもそれは、


 一瞬立ち止まりかけたライドは、しかし、振り返らずに跳ぶ。


 それは間違いなく正しい行動だった。

 力なきものの、振舞いとしては。





 砕くまでもなく、ハルトを覆う氷はすぐに溶けた。

 聖なる翼がおのずから竜の力を破ったらしかった。


 這うように、ハルトが転がり出る。その表情からは怒りと恐怖と悲しみが見て取れた。少年は、おのれが生きていることを信じられないとばかりに自らの顔をぺたぺたと触る。そして、そのまま顔を覆って、ぐすぐすとむせび泣いた。


「氷のなかから見ていた。ララは竜の息吹を正面から受けた。炎ごと凍りついて、俺を逃がすためにあの人は死んだのか。ララを救うことができない俺なんかを、」


 ハルトの瞳から大粒の涙がいくつもいくつもこぼれる。

 もしも彼が勇者でなければ、これまでにも数えきれない涙を流していただろう。

 救えなかった人たちや、犠牲になった人たちのために泣いていただろう。

 その流れなかった涙がいま、堰を切ったようにあふれ出していた。


「おかしい。おかしいな。俺じゃないみたいだ」

「ハルトくん」

「俺なんかのためにララが、死ぬことはなかったんだ」


 少年はいつしか、ぞっとするような暗い目をしていた。

 まるで魔竜スーリアのような蛇が棲んでいるかのような瞳だ。

 無価値と虚無を湛えた、暗闇のような瞳孔だ。


 オーステンが思わず、彼に触れることを躊躇したその時、

 ライドが、己の弟子に対してするように、少年の頭を叩いた。


「馬鹿が。後悔する前にやるべきことがあるだろう」


 男は口をきゅっと閉じて、ハルトを見つめていた。


「――フィーラとエラミスタ、それにレイエルを助けに行かないと」

「まずはお前自身がまだ戦える状態なのか、それを確かめろ」

「あ、あぁ。大丈夫だ。俺はまだ、戦える、戦える、」


 ハルトが震えた声で言うと、男は重々しく頷いた。

 『鬼の手』ライド=クルーエルは、まだ諦めてはいなかった。


「竜からは距離をとった。立て直すことはできるはずだ」

「レイエルさんは恐らく無事だろうと思うんですが」

「俺が十字で、呼んでみる」


 そういって少年が己の首飾りに手をかけたそのとき、


「無事さ」


 瓦礫の向こうからレイエルが現れた。罪悪感を覚えているらしき表情はこれまでに見たことがないほどのものだ。案外、この大賢者は、心底からスーリアを討伐できるだろうと信じていたのかもしれない。それほどの憔悴であるようにさえ見えた。


「すまないねハルト。これは私の援護が失敗したその結果だよ」


 レイエルは、オーステンらが逃げ込んだ廃屋に上がり込むと、輝かせていた杖をなおした。おそらく、ハルトの十字飾りかなにかを追って、この場所まで辿り着いたのだろう。服や肌に目立った傷はなく、一応は無傷のようだった。


「今は最悪の状況だ」


 彼女が言った。


「手の内をすべて読まれ、仲間のひとりを失った。剣は折れて、魔法もなくした。だが――朗報もないわけじゃない。まず、フィーラは生きている。命に別状はない。それからエラミスタも無事だ。彼女は、私が隙をみて回収した。竜の息吹を吸い込んでしまって喉を痛めてしまっているから、きっと呪唱は使えないだろうけどね」


 ライドが首を傾げた。


「それが朗報なのか?」

「もちろん違うともさ。これは単なる前振りだよ」


 無神経な突っ込みだったが、レイエルは同様なく切り返す。

 彼女は右手の指を二本立てて、そのうちの一本をまず折り曲げた。


「その一。フィーラを救ったのは私じゃないよ」


 言うが早いか、廃屋にもう一人の人物が足を踏み入れる。

 肩に担がれているのは、獅子髪の女の身体だ。

 オーステンは驚いた。


 というのも、現れた人物は齢七十を超える老女、

 いや、老女ではない。彼女には名があった。

 フェルマ=アングラム、という名前が。


「なんとか間に合ったよ。ここまで死ぬ気で飛んできたんだから、労うんだね!」

「フェルマのババア……呼んだつもりはねぇが、正直助かったぜ」

「ああそうさね。私なしで勝つ気だなんてドアホもいいところじゃないかい」


 ライドが苦々しそうに言うと、フェルマも刺々しく言い返した。


「ここまで来るのに、どれだけ力を使ったと思っているんだかね」

「俺は勇者と一緒だ。老いぼれ一人なんて助っ人にもならねぇのとは違ってな」

「おやぁ、あたしも一人じゃないさ」


 じゃり、と小さな足音がして、老女の背後から少女が現れた。

 サニャ=クルーエル。ライドの一人娘。

 少女はその手に何本かの剣を持っている。


「オーステン兄さんにパパ。ちょっとだけ久しぶり」

「おっと、怒るんじゃあないよ、馬鹿ライド」


 ライドの眉間にしわが寄ったのを見て、フェルマが笑みを浮かべた。


「サニャが自分で説明するさね」


 少女は放心状態のオーステンに持ってきた剣を渡すと、どてどてと己の父親に歩み寄り、そのどてっぱらに自慢の拳を喰らわせた。大した威力ではない、などとは言えない。なにせ少女は、サリア=クルーエルとライドの娘なのであるし、そもそも実の娘に本気で殴られるというのは、心にも、ひどく痛く感じられるものだった。


 ライドは、よろめいて膝をついた。


「う、サニャ、なんで殴るんだ、」

「置いていったこと。ちゃんと説明しなかったこと」

「お前に心配をかけたくなくて、」

「ママを死なせたこと。誇れるパパでいてくれなかったこと」

「サニャ」


 仁王立ちの少女は、じろりと己の父親を睨みつけた。

 その立ち居振る舞いはライドにはないものだが、堂に入っていた。

 まるで歴戦の戦士のような風格が、サニャにはあった。


「あのね。パパがどういう奴かっていうのが大体分かってきたの。超々過保護で、それなのに自分が死んだあとに私が一人になることはどうでもよくて、自己中でアホで酔っ払い。それなのにやっぱり私には父親面をしてくる、そういう奴のことがほんのちょっとだけ分かってきたの! 見えてきたの! 理解、できてきたの!!」


 !マークひとつごとに少女の拳がライドに刺さる。

 しかめつらをしながら、しかしうめき声は出さずに、ライドは甘んじて受けた。

 少女は泣いてはいなかったが、それ以上に、情動豊かな顔をしていた。


「たぶんパパは、私じゃなくてずっとママを見てるの! ママが残していった私を、ひたすら傷つけないように守ってきて、でも自分が心から欲しがってるものじゃないからさ、ママと私が天秤にかかったら、最後には、私なんて見捨てちゃう!!」


 言い訳をしようとして、ライドは口を噤んだ。

 図星だったからか? いや違う。そうではなかった。

 サニャの視方は、それはそれで歪んだものなのだ。

 ライドだって、絶対にサリアを助けるとは言わない。


 ただ、迷うだけだ。

 迷うくらいにどちらも大切なだけだった。

 たとえその片方がもうすでにこの世にいなくとも。


 答えられないライドの頭を、サニャがぽん、と叩いた。 


「でもそれでいい、とかも思うんだけどね」


 はぁーぁ、と深いため息。

 呆れかえったものではなく、どこか嬉しそうなそれ。

 サニャの声にわずかな笑みが混じる。


「パパがママのことを大好きなのはよく分かった。おばあちゃんに話を聞いて、嫌になるくらい分かった。私のことがどうでもよくなっちゃうのは、ママが負けたことが許せなくて、いまだに信じられないっていうのは、そういうことなんでしょ」


 そういうことだ。

 大人として、親として、失格だということだ。


 だがライドは、その生き方以外はきっと。 

 きっとできない。


 なんどやり直しても、なんど生まれ変わってもできない。

 サリアと出会うかぎりライドは、きっと、そういう風に生まれつくのだ。


「パパとママの娘だもんね。立派に育っても私の根っこは同じなの。たぶん私もそうするんだろうな、そうしちゃうんだろうな、って分かっちゃって仕方ないんだ」


 あははと少女が自嘲して笑って。

 その笑顔に、ライドは顔をあげられない。


「だから聞かせてよ。竜を倒したあとでいいから、ママのこと、もっといっぱい」

「いくらでも俺は話せるぞ、一晩でも二晩でも、ずっと、」


 なんだ。

 もうずっと、ずっとこの俺より強くて優しい人間じゃないか。

 俺のほうが、守られているんじゃないか。


 サリア。

 俺は、 


「生き残ってよかった。生かしてくれて本当に良かった」

 

 ライドがそう言って、顔を起こす。身体を起こす。

 その震えていない手には、今はまだ何も握られてはいない。 


「パパ」


 差し伸べる。

 サニャの手はしっかりと、堅い手のひらを掴んでいた。

 そうして、ライド=クルーエルは立ち上がった。





「それだ」


 と、その瞬間、レイエルが指をぱちんと鳴らす。


「そう、それだよ。朗報その二、『生きている』だよ」


 彼女は一同をぐるりと見回したのち、ハルトに目を止めた。

 やつれたその顔は、少年のその目は、廃屋の床をぼんやりと眺めている。

 レイエルは気合を入れるように、小さく息を吸って言った。


「――ハルトくん、ララ=リオライエンはまだ蘇生できる」


 うつむいていたハルトが、顔を勢いよく上げた。

 泣き腫らしていた少年の目に、わずかに光が輝いている。


 レイエルが言葉を信じ込ませるようにゆっくりと語る。


「私たちは聖教会の使いだ。蘇生術を使えばいいだけさ」

「いや、あの竜に傷つけられた魂は治せない」

「いいや。私が見たかぎり、ララは凍らされただけで呪いを受けてはいないよ」


 ハルトの眼が途端に見開かれた。

 瞳孔に光が輝いて、反射する。

 少年は拳をぎっと握りしめて呟いた。


「そうか。爪か。ララは竜の攻撃を直接受けたわけじゃない……」

「そうだよ。だから氷さえ解かせば、蘇生はできる。丸一日経つ前であれば、ね」


 となれば話は早い。

 あとは、昨日と同じ議題に巻き戻る。

 どうすれば、魔竜スーリアを倒せるのか。


 老女が一番初めに口を開いた。


「レイエル、いや大賢者と呼んだ方がええのかの」

「これは泥の魔女様、光栄にございます」

「かしこまらんでもよい。今のワシは街のしがない付呪士だよ」


 そう言って、フェルマは手に持った杖を一振りした。そうして開陳されるのは魔法の数々、泥の鎖に大穴に、泥の獣。老女の手のひらのうえで行われたパーティをレイエルは興味深げに鑑賞する。彼女はそれらの魔法すべてを脳裏に焼き付けていた。


「と、まぁこれがワシの手の内の半分くらいじゃ」


 四十ほどの技を見せた後に、フェルマは汗をぬぐってそう言った。

 ほんの小規模な魔法だからこそ、すさまじい集中力と体力を要するのだ。


「これをどう使うかは、お主に任せる。スーリアは聡い奴じゃ。ワシの呼吸では読まれてしまうじゃろうからな。意表を突くには、異常な手を使うしかあるまい」

「流石の魔術でした。素晴らしいものを拝見致しましたよ」


 レイエルは、出来のいい玩具を与えられた子どものようににんまりと笑った。

 

 そしてそれから彼女とフェルマとハルトが中心となって、竜退治の手が練られた。これまでの二度の敗北を踏まえると、四度目はもはやない。勝ち目がないと言っていいだろう。この三度目でなんとか想定の埒外から、攻撃を当てねばならない。


 だが、それには大問題があった。

 レイエルが深刻な表情でハルトに向かって言った。


「今のパーティではハルトくんしかまともに攻撃できる奴がいない。勇者が決定打にならざるとえないが、同時に、勇者が囮役にもなるわけだ。つまり君にすべてが掛かっていて、君にすべての危険が集中するわけだ」


 レイエルの眼が眼鏡の奥で光る。

 彼女はハルトの身を慮っているように見えた。


「構わない。俺はかならず竜を倒し、そしてララを助け出す」


 少年は間髪入れずにそう言った。

 迷いのない言葉に、レイエルがしかめ面をした。

 学院の意思を受けている彼女としては、苦いことなのだろう。

 きっとララを見捨てて退却するのが最善であるに違いない。


 だけれども、ハルトの決意はまったく揺らぎそうになかった。少年から溢れだす熱量に、レイエルはとうとう根負けし、少年の安全を二の次として、作戦を組み立てることにしたのだった。


「ララ、か」


 サニャがぼそりと呟く。

 オーステンは率直に己の所感を述べた。


「あの人は、思っていたよりいい人だったよ」

「オス兄がそういうなら多分本当にそうなんだよね」


 少女はハルトを見て、なにかの合点が言ったように頷く。


「オーステン兄。1万5千レルクは諦めてね」

「ちょっと待って、それ何の話だっけ?」

「言ったじゃん。ナイスアシスト一回につき、ってやつ」

「忘れてた」


 そうだ。

 エリオット鍛冶店ができるとかいう話もあったのだ。

 ライドさんの勘が鈍っているうちに、それもアリかもしれない。

 試しに一ヶ月だけとか、二ヶ月だけとか。

 そしてそのうちに、名を知らしめてしまうのだ!


 オーステンは目をきらきらと輝かせて、サニャに食いついた。


「ここからだよ、ここから巻き返すんだよ!」


 だが、サニャは呆れた顔でため息を吐いた。


「あのさ、もう勝ち目ないじゃん」


 分かってないなぁ、という声色で少女はそう言った。

 



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 


「そうか。ララ=リオライエンが勇者ハルトの心を射止めてしまったのか」


 この段になり、貴人は感慨深げに言葉を漏らした。

 その言葉には嬉しいとも悲しいともつかない微妙な感情の色がある。

 エルマンは、できるだけ平静を装って相槌を打った。


「はははははは。射止めるといいますか、ただ惚れたといいますか」

「それは同じことではないのか」

「ララ=リオライエンは計算づくで思慕を勝ち取ったわけではありませんから」


 そう言ってエルマンが続きを話そうとしたとき、

 窓の外から、一曲の音楽の、かき鳴らすような調べが聞こえてきた。

 話のなかに出てくるアールヴの唄とは違う、弦を強く速く、弾くような音だ。


 エルマンはそれがなにか知っている。


「歌姫の対竜ライブがはじまったのですね」


 それは、王都の広場で開催される対竜儀式呪術のひとつであった。尊敬と敬愛を一身にあつめるアイナ=レシュカ、その彼女が歌う新呪唱は、呪歌としてのみならず、老若男女を問わずに心を鼓舞するメロディとして、非常な人気を博していた。


 その調べ、そのイントロを聞きながら、エルマンは言った。


「たしか、アイナ=レシュカの声はその年で最も歌の上手いアールヴが行うのだと聞いたことがあります。勇者ハルトのパーティにいたエラミスタも、そんな歌い手の一人でしたよね。そしてもちろん、レイエルというアールヴも、そうでしたよね」


 御簾のうちの蛇が訝しげに頭をもたげる。


「よく知っているな。調べたのか?」

「いえいえ、ハルトの物語の最初の語り部から聞いたにすぎません」

「そうか。まぁよいが」


 女は言った。


 外のざわめきが大きくなる。ライブの熱狂はもうすぐ最高潮に達するだろう、とエルマンは思った。そのときこそ、この国を守護する最強の力が起動する。これまでのすべてがそのための布石だとするなら、この貴人は本当に化け物だと思えた。


 エルマンは、天蓋の人物に思いを馳せながら、

 そしてアイナ=レシュカに思いを馳せながら、

 続きを語るための、口を開いた。


 歌姫の響かせる音色のように、かるがると。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 戦いはやはり、日が真上に昇った時間に始まった。



 魔竜スーリアは昨日と同じく頭上から降り立ち、

 エラミスタとフィーラ、それにララのいない勇者の前に降り立ち、

 そして、巨大な翼が一行を呑むように広げられた。

 

 ライドの打った剣が日の光できらめき、

 その瞬間、泥で濁った。


「生泥『泥杭』」


 老女が杖を掲げる。


 スーリアはそれを、眩しそうに見ていた。

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