たったひとつの鈍いやり方 7
目覚めると、窓の外で雨音がしていた。
バルコニーに出てみると、外はまだ暗い。夜のようだった。
靴下を履き、パジャマを着替え、階下に降りる。
「おや、ようやく起きたのかい」
台所の小さな椅子に、フェルマ=アングラムが座っていた。
編み物をしている手は相変わらずしなびている。
だが、この歳とは思えないほどにしっかりと、きびきびと動いていた。
いつもどおりの、フェルマだ。
だが、いつもなら、フェルマはここにはいない。
工房から少し離れた一軒家で隠居しているはずなのだ。
それがどうして、今日はここにいるのか。
少女は、サニャ=クルーエルは、おずおずと尋ねた。
「おばあちゃんだよね……何があったの」
「うむ。ライドから面倒を見るように言われての」
「パパと兄さんはどこ」
「あやつらなら少し遠方に買い出しに行くそうで、つい二日ほど前にここを出て行ったわい。それよりあんた、アールヴの女に眠りの呪いをかけられたんだって?」
呪い?
知らない言葉に胸がざわめき立つ。
私が眠りの呪いをかけられたなんて記憶にない。
それに、パパとオーステンが出掛けたって?
サニャは台所の丸テーブルをどん、と叩いて乗り越えた。
降り立った先には、ひどい形相をしたフェルマがいる。
「なんだい。いきなりだね!」
「おばあちゃん、それなんの話?」
「だから勇者の仲間に食ってかかって、魔法で眠らされちまったんだろ」
「それ、パパが言ったの?」
「いんや、オーステンの坊主が」
オーステン。じゃああの後だ。家に帰る途中。
いや、家に帰ってしばらくしてからだ。誰かが部屋の扉をノックして、
それから、何か声が聞こえたと思ったら、そこから記憶がない。
やられた。サニャは己の額を叩いた。
「勇者の仲間のアールヴって……じゃあハルトはどこ!?」
「あいつらもこの前、街を出て行ったそうじゃが」
「マ、ジ、か!!」
少女は確信した。
置いていかれたのだ。
腹の底でぐつぐつと熱が沸き起こる。
それは魔力の発現であったが、力が暴発する前に、少女は大きく深呼吸をした。
ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。いつつ。
「落ち着いたかい」
「全然ダメ。たぶんパパたち、竜を倒しに行ったんだ」
「竜? 勇者のお仕事見学にでもいったのかい」
「勇者の竜を倒すんだって」
サニャは呆れた声で言った。
すると、フェルマが血相を変えた。
今までに数回しか見たことのない、怒りの色が老婆の顔に満ちる。とても大きな歯ぎしりの音とともに、すこし漏れ出た魔力が両手の編み棒を灰にした。サニャも流石にあとずさるが、ありがたいことに、怒りの漏出はわずかな時間で終わった。
「……ライドは諦めの悪い奴だよ」
「きっとパパは、勇者を自分の手で倒すつもりなんだと思う」
「そうかい。娘は置きざりかい」
吐き捨てるように老婆が言う。
そこにはやはり怒りと苛立ちが混ざっていた。
フェルマは、眉間に皺を作ったまま少女をじろりと見た。
「おきき。サニャ、あたしはちょっと家を空けるよ」
「おばあちゃんまで私を置いていく気なの?」
「お黙んなさい! ライドとオーステンの坊主と二度と会えなくなるよ!」
泣き言にフェルマ特有の大声が浴びせられる。
サニャは、ハッとして呟いた。
「……2人が死ぬってこと?」
「あの子らだけじゃねぇ、勇者もその仲間もお陀仏さ!」
「おばあちゃん、それどういうこと」
「まぁ、勇者スーリアには、勝てないってことさね!」
奇妙な自信に溢れたその物言いに、サニャは小首を傾げた。
「どうしてそんなことが分かるのよ」
「……そりゃ、あたしとライドが、もう何度も倒そうとしたからさ」
フェルマは疲れた声でそう言って、肩をすくめた。
老婆は重たそうに椅子から身体を起こすと、立てかけていた杖に手をかけた。
傷だらけで、ぼろぼろになった杖だ。
「アレには勝てないよ」
ふとみれば、杖を持つフェルマの手は小さく震えていた。
「パパたちを助けなきゃ」
サニャはそう言ったが、老婆は首を横に振った。
そして、微笑み。それはいつかも見たことのある笑みで。
だが、少女はそれを拒むように、握りこぶしを固めた。
速い。
今にも呪文を唱えようとしていた老婆の唇が止まり、
そして、
〇
そして、竜の巨翼が、落ちた。
堕ちた、
はずのその竜は、まずはじめに、うぉんと鳴いた。
直後、オーステンの身をなにか得体のしれない力が覆った。
金縛り。動きを封じる咆哮か。
魔竜はそれから、満足げに、にたりと笑った。
「まずい、ハルトたちが危ない!」
レイエルが叫ぶが、時すでに遅く、身動きの取れない空中でハルトとフィーラは動きを止めて、そして落下を始めていた。全身にまとっていたであろう魔力も加護も輝きを失ってしまっていると見えた。あの輝く剣さえも光を失ってしまっている。
すかさず、ララが援護の魔法を撃ち込む。
「生炎『朱火散華』!! ハルトに触らないでくださいなのです!!!」
幾弾もの熱球がスーリアに突き刺さり、その表鱗を爆ぜ溶かす。巨大な四枚の翼はすでに落ちている。まるで鱗のある獅子のような姿の人面竜は、それでも笑みを消すことなくその腕を上空に向けると、長すぎるその爪をひょうっと振るった。
黒のもやけた力場が空を奔った。
オーステンはその悲鳴を確かに聞いた。勇者ハルトの背中に、醜い傷跡が浮かび上がり、鮮血だけが落地する。その痛みを思うより先にスーリアのかけた金縛りが解け、雷を纏うフィーラは、レイエルの傍へほとんど瞬時に現れていた。
その腕には、血濡れの勇者ハルトがしっかりと抱きかかえられていた。
赤毛の少女が駆け寄って、その背中の服をはぎ取る。
そこには見るも無残な傷跡が、そして溢れる肉と鮮血が、あった。
「おっと、破魂竜のつけた傷だ。浄化しきらないと治らないよ」
「ハルト! ハルトは大丈夫なのですか!?」
「奴の爪はただの刃ではなく、魔力を帯びた呪いのかたまりなんだよね」
「レイエル! 御託はいいのです! 血は止められるの、ですか!?」
「鍛冶師とフィーラが時間を稼いでいるからね。浄化くらいはできるさ」
女はそう言いながら、勇者の胸元をまさぐった。
ララの口が不機嫌そうに開く前にレイエルは目当てのものを掴み取る。
「聖正十字。これだ。さぁいくよ、神性『天青礼賛』」
正十字に注ぎ込まれたレイエルの魔力が、浄化の光となってあふれ出し、勇者ハルトの身体を覆う。その直後、ハルトの背中から黒煙が抜け出し、少年はゆっくりと目を開いた。傷口の血はいまだに溢れ出ているが、その量は減っている。
気付けば、ハルトの瞳にレイエルの姿が映りこんでいた。
「……迷惑をかけたな」
「なぁに、想定内さ。あの竜の攻撃でハルトくんが傷つくくらいはね」
「オーステン、剣を二本無駄にした。すまない」
「大丈夫ですよ。それよりライドさんとフィーラさんを助けないと」
「は、ハルト!私の炎じゃあんまり効かないみたいなの、です」
ララが泣きそうに言う。彼女の炎はスーリアの表鱗を溶かしていたが、その鱗はどうやら、竜の氷の魔法によって造られたものらしかった。つまり、ララの生み出した魔法は、魔竜の身体そのものにはいささかのダメージも与えられていないのだ。
ハルトはララから目を逸らして、男装のアールヴを見た。
「エラミスタ、歌をやれ」
「やれやれまったく。私がこの呪を、勇者に使うことになるとはな」
「スーリアはもはや勇者ではない」
「無論そうであるがな」
悲しげにそう言うと、エラミスタは背中の弓を構えて、空に向けて軽く放った。だがその矢は竜までは届かず、なぜか、空中で静止する。だが、それでいいのだ、それが目的なのだと、オーステンはすぐに思い直した。矢は奇妙に震えて、そして歌う。
エラミスタの声が空気を震わせた。
歌い出す。アールヴの旋律が矢を通じて、はるか高空から響いていた。
「古呪唱、『竜厭』。手足を失ひて尚もうねり歩く蛇のごとき情念に身を焼き、心中をあなぼこに食らいつくす蚯蚓のような憤怒と憎悪と欲望にまみれてヘドロの涙を流している。おのが手指からのがれ出る髪をちぎり殺して子を喰らい、いかなる慈愛も届かずに塵となりて忘却し、蔑まれ、嘲られ、罵られ、愚鈍のままになおも無様にすがりつく。凡百なる苦しみ一つの苛みにさえ耐えられぬ魂の何たるを高潔にして勇猛なる竜だと誇れようか。刺々しく尾を振るい、毒々しく爪を研ぐ、この身の何たるを高邁にして清浄なる竜だと語れようか。否。その身は浅はかなる化生、浅ましき瞳の底の沼の魔物。蛇でなく竜でなく、醜悪を身に纏う、人でなしである」
エラミスタがそう詠うと、魔竜スーリアの動きが途端に鈍った。
灰色の長髪が黒々と染まり、伸びる爪がいくぶんか縮む。
すかさず、フィーラが斬りつけると、その輝く刃はあっさりと肉を裂いた。
どす黒い煙のような血が漏れ出して、スーリアがうめき声をあげる。
斬撃は一度で七つ。フィーラの剣は、すさまじい勢いで魔竜をずたずたにした。
止めどなく煙が溢れて、ついに魔竜は地面に崩れ落ちる。
「やった……か?」
オーステンは己の吐いたその言葉が間違いだったとすぐに知った。
ぶるりと身震いをした。
踏み出そうとした足にも、力が入らない。
凍気。
いやそれだけではない。
空から、無数の粉雪が舞い始めていた。
それはもののうちにみぞれとなり、降り注いでいく
「雪が……」
「来やがったか」
ライドが、己の鎧からフードを引き出して被った。
「これはなんなんです」
「スーリアは氷の魔法を使う勇者だった。竜となった奴の力は天候をも変える」
「ライドさん、よく知っていますね」
「奴とは何度も相まみえている。フェルマのババアと一緒にな」
「ど、泥の魔女フェルマ=アングラムです?」
ララが驚いたように問うた。
すかさず張られた炎の結界で、周囲は熱に覆われている。
そのゆらめきを維持しながらララは顎に手を当てた。
「た、たしか泥の魔女は対竜戦闘の達人だったはず、です」
「そうだ。だがフェルマでもスーリアを封じることはできなかった」
「生泥『泥杭』でも、だ、ダメだったのですか?」
「泥は生まれ出るそのうちから凍りついて砕かれ、そして斬られた」
信じられない、とばかりに炎が揺れるが、それが如何ほどのことなのかは、フェルマと付き合いの長いオーステンにもよく分からなかった。たしかにフェルマ=アングラムは他国でも畏敬をもって迎えられる魔法使いだと聞いていたが、オーステンにとってあの老婆は、サリアの母親であり、サニャの祖母でしかないのだ。
ララはここに来て、心底から戦慄しているように見えた。
「い、一体、スーリアとはどれほどの竜なのです」
「建国以来の魔竜かもしれないね。200年前の勇者であったとしても、彼を倒せるかどうかは怪しい。実際、この地が捨て置かれたのだって、そりゃ隣国ということも事情にはあるけれど、一番には、魔法学院が討伐を諦めたからなんだよ」
レイエルがぽつぽつと語る。
彼女はそれを知っていてなお、ハルトをここに連れてきたのだ。
「勝てない可能性は十分にある。撤退の準備は整えておこうか」
しかしその言葉を待つまでもなく、眼前の竜は、ずずりと動き出していた。
傷ついた身体はそのすべてが凍てついており、もはや流血はない。
氷が皮膚を、鱗を、まるで鎧のように覆い尽くしていた。
そしてその目は、憎々しげに、こちらを睨みつけている。
しなやかで太い筋繊維を持つであろうその両脚が地面にどしりと突き刺さり、頭部が起こされると同時に、その首、前脚、背骨、肺、肋骨、心の臓が持ち上がる。それはまるで二足で立つ人間のような構え。竜は、いまや大きく立っていた。
驚嘆すべきはその両手。
竜の身体を支える剛腕剛脚とは別に、胸から生えるその二腕。
そのうちの片方、右手、その利き手には得物が握られている。
凄まじい業物。
勇者の用いた剣が、そこにはあった。
「剣、まるで勇者のような構えをするじゃないか」
「レイエル、俺が相手をする。手を貸せ」
大賢者のほうをちらりと見もせずに、ハルトがそう言った。
レイエルが胸元から、杖と一体になった十字の魔道具を取り出す。
「そうだった。こちらにも勇者がいるんだったね」
「そうだ。俺がいる。神性『万物聖剣』」
ハルトが己の胸に手を当てて、呟いた。無量箱から取り出されたオーステンの剣が二本、宙を舞う。またたく間に剣は輝き、その質量を増していく。竜の剛腕に並ぶほどの巨剣が二本、予備動作もなく、音もたてずに竜へと斬りつけられた。
だが、スーリアはそれをただ一本の剣で受け止めた。
氷の張りついたその剣は、小さいながらも尋常ではない硬度で、聖剣を砕いた。
わずか一息で、オーステンの二本の剣は、砕け散ったのだ。
「そんな。聖剣が」
フィーラが息を呑み、そして呑むだけではなく、雪を蹴った。
雷光とともに魔法剣がスーリアに迫り、その首を落とす、
刹那、やはりまたしても堕ちた勇者は、剣でもって、女の技を止めていた。
だがそれは想定内の動作。元より己で魔竜を斬るつもりは、女にはない。
己の攻撃は、単なる布石だったのだ。
――そして一秒。二秒。
フィーラは首を傾げた。
来るはずの援護が来ない。
ララの魔法でもエラミスタの呪文でもない。
それは、ここにいるべき、戦っているべき、
勇者ハルトの剣撃である。
「いまだ! 何をしているのだ!」
呼ばれた。
その勇者は、なにかを失ったように雪のうえに倒れていた。
うつろな目でぶつぶつと呟いたまま、子どものように震えている。
「ハルト!?」
直後、魔竜の剣がより一層の冷気を放った。
ばちん、と何かが爆ぜる音がして、フィーラ=クレオンディーネは落ちる。
ハルトが受け止めようと手を伸ばすが、その足は動かない。
獅子髪の姫は、あっけなく落下して、そのまま雪のなかへと沈んだ。
「ガキ勇者! なにをしてやがる!」
ライドが駆け寄って、呆然と立ち尽くす少年を押し倒す。
その頭のわずか上を凶悪なスーリアの尾が通過していった。
「は、ハルト! 大丈夫なのです?」
「神性『玻璃聖域』! フィーラはエラミスタが回収した! 一旦、退こうか!」
「あ、あぁ。分かっている。すまない、俺のせいだ」
おどおどと、少年は言った。
こうして。
竜との一度目の邂逅は、敗北という結果に終わったのである。
〇
ハルトの動きは、明らかに精彩を欠いていた。
そのことはフィーラやララだけではない、彼自身も分かっていたことだった。
なんとか竜をやり過ごして、街の片隅、原形をとどめている城壁に戻ったのち、まずはそのことについて、ハルトは問い詰められることとなった。フィーラを助けに行けなかったこと、援護ができなかったこと。そしてそもそも、四本の聖剣がたやすく折られてしまったこと。それは明らかに、ハルトが責を負うべき事柄だった。
夜になれば竜も眠る。それまでじっと身を潜めていたのだから、辺りはまた暗くなっている。ララによって作られたぬくもりと炎の中、肉を食いながら、一同はお互いと顔を突き合わせていた。話さねばならないことがたくさんあるように思えた。
レイエルが眼鏡を拭きながら、少年に問うた。
「何があったんだい、ハルト」
「変なんだ」
そう言って、目を閉じたままで少年は言う。
「何がヘンなんだい」
「わ、私たちには、そ、それが分からないのです」
「勇者ハルトよ、我が知恵を貸してやる」
「なんなら私が手料理を振る舞ってもよいのだぞ」
口々に彼女たちが言うが、ハルトは、固く目を閉じたままでその首を振った。
ぎゅっと握りしめられた手は、やはり子どものように震えてしまっていた。
オーステンには一つだけ心当たりがあった。
「あの、街のなかで何かを見つけたのかい」
「……それもある。あそこから何かが心に引っかかっているからな」
「教えてくれ。あの人は誰なんだい」
ハルトはぶんぶんと首を横に振った。
「分からない。なんとなく見たことがあるような気がしただけだ」
「ふぅむ。そんなので竜を前にして動けないなるような男ではないぞ、ハルトは」
フィーラが不思議そうにそう言いながら、肉と木の実の汁を啜る。あの高さから落ちたわけではあるが、雪がクッションになったのか、それとも雷神としての頑丈さなのか、その身体に傷はほとんどなかった。意識をすこし飛ばしただけだった。
「ハルトは、私の攻撃にいつも合わせてくれる。最高のタイミングでそういうことができる男なのだ。最強の勇者なのだ。だから解せない。あのとき、どうして、」
「俺が、動けなくなったのか」
「そうだ! 教えて欲しいのだ!」
少年は、目をうっすらと開けて、それから眩しそうに顔を顰めた。
「狂っていると思ってしまったんだ」
そう言った。
「狂っているって、なにが?」
「すべてだよ。竜と戦うっていうのも狂っているよ。怖いし、恐ろしいし、斬るのだって怖い。呪われそうだし、とても正気の沙汰だとは思えなくなってしまったんだ」
それは年相応の少年としての言葉であるように思えた。確かに、彼の言うとおり、竜と戦うなど尋常の精神でなし得ることではない。オーステンやライドといった一般人がしれっと参加しているから勘違いしそうになるものの、本来は竜など、歴戦の英雄ですら、その身を震わせて、鼓舞して、ようやく戦えるものなのだ。
「それはちょっと、今さらすぎるのではないか?」
フィーラが正論を言った。
だが、ハルトは理解できないとばかりにまた目を閉じた。
「今までがおかしかったんだ。俺には別に、そんなに勇気があるわけじゃない」
「ハルト、一体、どうしてしまったのだ?」
「は、ハルトはもう、戦えなくなってしまったのです?」
ララがそう言うと、少年は深いため息を吐いた。
「それだ。その、みんな戦うのが好きすぎるだろ。それに、なんていうかさ、」
「な、なんなのです」
「服装も言動もどうかしているよな。可愛すぎるし、目に毒だからやめてくれ」
「か、可愛すぎる? な、なに言ってるのです?」
困惑するララが正しいのかと言われれば微妙なところではあるが、これまでのハルトの言動から考えれば、これは明らかにおかしな事態だった。オーステンがあの夜に気付いたように、ハルトには男女的な関わりというものが理解しえないはずなのだ。この男には、可愛いだとかそういう甘い感情は、起こらないはずなのだ。
「ハルトくん、一体どうしてしまったんだ」
尋ねると、少年は恨みがましい目を向けた。
「オーステン、お前が昨日にあんな話をしたせいじゃないのか。俺の心がどうにもおかしくなっている。今までどうでもよかったことが、すごく大切に思えてしまう。もう気付いてるかもしれないが、俺はさっきから、フィーラたちの方を見られない」
なんだと。うずくまる少年の顔をよく見れば、火の揺らめきのせいで極めて分かりにくくはあったが、それはどうも、本当の意味で紅潮しているように見えた。
オーステンは驚きのあまり、言葉を失くした。
「ダメなんだよ。何かがおかしいんだよ」
「どうしたというのだハルト」
「フィーラ、お前はもっと露出の少ない服を着ろ!」
「露出……服……? 何を言っているのだ? 私は戦士だぞ?」
「エラミスタも、もっと似合う服があると思う!」
「小童が何を。お主は好きだが装束に触れられるのは虫唾が走る。殺すぞ」
反撃を喰らい、ハルトがまたうなだれる。
ララが慰めようと傍に寄ったが、そうすると少年はすごい表情をした。
「ララは来るな!」
「え、え、なのです、」
「ララを見るたびに胸の奥が妙に温くなる!」
「は、ハルト!? どうしてしまったのです!?」
「俺に寄らないでくれ、危ないから。俺から離れていろ」
「そ、そんな。なんなのです、これは」
愕然とするララの表情に、逆にショックを受けたらしく、ハルトの顔も歪む。
とてつもない痛みを勇者が感じているらしいということは確かだった。
「分かっている。これは俺の気持ちの押しつけだ。許してくれ」
「ハルトくん、君はどうやら、今まで知らなかった感情を知ったらしい」
「いらんわこんなもの」
「理由は分からないけど、おめでとうと言っておきたい」
「なにを! 俺の頭がおかしくなっているんだぞ!」
「いや、良かったよ」
「オーステン! 黙れ! 俺のなかの疼きをどうにかしろ!」
青年は生暖かい笑みを浮かべて、ハルトの肩を撫でてやった。
これでいいのか悪いのかはいまいち分からないが、どうやら彼は失ったものを取り戻したらしかった。それは勇者としてスーリアという魔竜を倒すとかいうことよりも、よほど素晴らしいことなのではないか、とオーステンは思ったが、
満面の笑みでそう言……えるわけもなく、
とりあえず苦笑いでその場を濁した。
「さて、しかし参ったね。ハルトがいないとスーリアには勝てないよ」
「レイエルさん。ハルトが仮に治ったとして、それで奴に勝てるんですか?」
「鍵を握っているのは、スーリアの持つ剣だろうね」
がたがたと震えるハルトを一瞥して、レイエルが言った。
すると、酒をらっぱ飲みしていたフィーラも両手をばちんと打ち鳴らす。
「そのとおりだ。奴の剣、アレをなんとかしなければ聖剣も雷剣も通じないだろう。しかし打ちあってみて分かったが、あの手ごたえにはどうも、覚えがある」
「覚え? どういうことなのです? あ、あれは勇者の剣なのですよね?」
ハルトから離れたララが、そう問うた。
フィーラもライドに器を差し出して、にこやかに問いかける。
「うむ。これについてはライド殿にお尋ねしたい」
「……」
「あれは、貴殿が造られた剣であろう?」
「そんな馬鹿な。どうしてそんなことが分かるんですか」
「わかるぞ……」
思わずオーステンは言ったが、それに被せるように声がした。
ぼそぼそと小さな声が、うずくまった少年から漏れていた。
「……見れば分かる。奴の右腕と一体化しているのは凄まじい業物だ。奴からこぼれる瘴気が刃に触れて斬り裂かれていたが、あれはフィーラが失った剣と同種の効力だ。信じがたいが、あれも、ライド=クルーエルに打たれた竜魂剣なのだろう」
心の在り方が変わっても、勇者としての力に変化はないらしい。
彼の目は変わらずに瘴気を捉えていて、状況を正確に把握していた。
少年の言葉を、オーステンは心中で反芻する。
そして、理解が追いついた。
「そうか。じゃあスーリアもライドさんの造った剣を、」
剣を。
オーステンは言葉を失った。
「まさかサリアさんを斬ったのは、」
ふと振り返れば、ライド=クルーエルはその手に刃を握っていた。
懐から取り出したのであろうそれは、折れた剣。その刃先。
磨き上げられたそれに柄がついて、短刀のように、なっていた。
「ライドさん」
「サリアを殺したのは俺の剣だ」
鬼のような眼を昏く沈めながら、男はそう言った。
「オーステン、お前は昔から、ひとつ勘違いをしていた」
「……なんのことです」
「剣を打たなくなったのは、サリアが戦う切っ掛けになったからじゃない」
そうだ。ライドの性格で、そんな責任を感じるわけがない。
剣を欲する者には与えてきた男なのだ。戦いには出向くことは己の責任だ。
それを後押ししたから、などと屁理屈をこねるような男ではない。
ライドは、ひとり言を言うように、語った。
「サリアは死んだ。この山のなかで竜と化したスーリアと打ち合っている最中、彼女の剣が折れたんだ。俺が作った剣だった。それが折れて、勇者の剣が腕を斬ったんだ。その勇者の剣も、かつて俺が勇者スーリアに乞われて、造ったものだった」
「戦いはサリアが優勢だった。本当なら、何事もなければ勝てる戦いだったんだ」
「勇者の剣がサリアを殺した。俺の剣が殺した。俺が、あいつを殺したんだ」
「俺は崩れ落ちるサリアを庇おうとした。だが、サリアは俺を突き飛ばして、」
そして、刹那。
女の首は飛んだ。
ライドは生き残ったのだ。
「俺はそれから」
「――ッ!ライドさん!!」
オーステンは壮年に差し掛かった男を強く抱きしめていた。
まるで子どものように、ライドの瞳から涙がこぼれていたからだ。
それはとうに終わった物語の結末を信じられない、子どものように。
〇
「さぁて、朝までに慣れていただこうか。ハルトちゃん!」
「くそ! 馬鹿にするなよ、フィーラ=クレオンディーネ!」
ハルトとフィーラが叫びながら剣を交わし合う。
どちらも本調子ではないとはいえ、手加減もしていない。
特にフィーラは、少年が少年らしくなったことに喜びを隠さない。
思う存分に彼女らしさを発揮して、剣を振るっていた。
劣勢に追い込まれるハルトを見て、のほほんとレイエルが言う。
「安心したまえ。ハルトの力は健在。あとは心の問題だけだよ」
「許せん! これが俺の心だということが!」
「は、ハルト、頑張るのですー!!」
炎のリングを器用に作りながら、ララが言った。
彼女なくしては、この夜のなかで剣を交わすことなどできない。
その意味では最大の功労者なのだが、
「う、うるさい! ララは俺の十歩以内に近づくな!」
返しの一撃を剣の腹で弾き、勇者ハルトは叫んだ。
苛立ちに溢れてはいたが、どこか照れ臭そうにも聞こえる。
ララは不服げでもない。
まんざらでもなさそうだった。
「いいんですか」
「は、ハルトがハルトならそれで、い、いいです」
ライドがそれを聞いて鼻を鳴らす。
ひとしきり泣いたあと、男はいつものように胡乱げな眼を周囲に向けていた。
だが、フィーラが薦めてくる酒だけは全力で断っていた。
それが剣を打つためか、竜を倒すためかは分からない。
「ところでオーステン、1万はナシだ」
ライドが言った。
「……何の話ですか」
「サニャを勇者から遠ざけろと言っただろぉが。契約を忘れたのか!」
「いやその、もうその話忘れてると思ってました」
「馬鹿野郎!」
男は、ぱこん、とオーステンの頭をはたく。
お返しにライドの頭に雪玉をぶつけてやると、男もまた雪玉を作り始めた。
本当に大人げのない人である。
「というか、サニャちゃんはちゃんと遠ざけたでしょうが!」
「いや、今のガキ勇者の調子じゃ、サニャに惚れちまう可能性は、むしろ高まった」
「サニャちゃんは別に絶世の美女ではないですよ」
「俺とサリアの子どもだぞ」
「尚更ですよ」
直後、大きめの雪玉が飛んできて、オーステンの頭を真っ白に染めた。
にたにたと笑うライドが、両の手にまだ二つの雪塊を持っている。
青年はすかさず十ほどの雪玉を練って、放り投げた。
が、それは大暴投で、樹上のエラミスタを直撃してしまった。
「貴様ら殺す」
懐からパチンコのような道具が取り出されて、雪玉がまるで弾丸のようなスピードで飛びだす。たまたま逸れた一つが城壁に当たり、そこの石がぱかんとはじけ飛んだあたりで、ライドとオーステンの背中にじんわりと汗がにじんだ。
「こうなりゃ仕方ねぇ……クルーエル流の操鎚術を見せてやるしかねぇな」
大人げない男がハンマーを抜き、エラミスタがパチンコを構える。
そこへフィーラとハルトが突っ込んできて、
レイエルが呆れた顔で杖を取り出して、
ララが炎の壁を作って、
オーステンは述懐する。
とても楽しかった、と。
〇
翌朝、ハルトは冷えた水で顔を洗って、現れた。
そこにはライドがおり、オーステンがおり、レイエルがおり、
フィーラ、エラミスタ、そしてララがいる。
勇者は、全員の眼をしっかりと見て言った。
「竜を倒すぞ」
その心に、もはや揺らぎはないらしかった。
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