たったひとつの鈍いやり方 6



 夜が明けた。

 支度をしてすぐに出発する。


 昨晩のことには誰も触れない。ララは、すこし気まずそうにオーステンから目を逸らしたし、フィーラは不敵な笑みを浮かべるばかりである。そしてあの勇者、愛を知ることのできないハルトに至っては、こちらをわずかに睨んできていた。


 それは己の鍛錬の時間を削られてしまったからかもしれないし、あるいは、やり取りに不満があったのかもしれない。もちろんオーステンだって、己の寝不足について並々ならぬ不満を抱えていた。まったく、これで竜と戦うなど酔狂すぎる。


「オーステンくん、昨日は随分とお元気だったようだね」


 と、話しかけてきたのはレイエルだった。

 小声でオーステンを呼びながら、皆と離れた方向へ手招きされる。

 信頼できない大賢者、ハルトの秘密を知るかもしれない女性。

 歌姫アイナのファンでなければとてもじゃないが、気は許せない。


「なんですか」

「なぁに、昨日の夜のことについて、釘を刺しておきたくてね」


 その目が猫のように、まるで獲物を見るように細められる。

 オーステンは、ぞっとしながらも言葉を返した。


「真夜中に、ララさんとフィーラさんに絡まれたんですよ」

「だろうね。私の天幕にまですこしだけ声が聞こえていたよ」

「それはすみません」

「謝ることはないよ! むしろお礼を言いたいくらいだ!」

「お礼?」

「あぁ。竜退治が終わってからにはなるが、君には話してあげよう。ララにもフィーラにも、もちろんハルトくんにも、私とエラミスタの、小さな秘密のことをね」


 そう言って、彼女はにっこりと笑みを浮かべた。


 そんな不穏なものはいらない、と言いたかったが、彼女の瞳にはそんな言葉を封じるほどの底知れなさがあった。まぁその秘密とやらが『実は歌姫の正体は変装したレイエルで、声はエラミスタが担当している』とかであれば良いのだが、


「いいかい、だからあまりハルトのことを詮索しないことだ」


 そういう類の秘密ではなさそうだった。

 オーステンは、こくこくと頷いた。

 大賢者は満足げに微笑んでいる。


 怒ってはいないらしい。が、それ以上に怖い。正直今のオーステンには、竜よりもレイエルの方が怖かった。ハルトのことがバレるとそんなにマズいことがあるのだろうか。確かに勇者があの状態では、いささか格好がつかないだろうが、それでも戦えるのなら、女を知れない呪いがあろうとも、勇者には代わりないだろう。 


 と、そこまで考えてオーステンは気付いた。


 いや、違う。

 呪いだ。呪いだからこそ問題なのだ。


「そうか、聖なる勇者が呪われているなんて、とても明らかにできない――」

「良い嗅覚だな人間」


 ふと見れば、レイエルの背後からエラミスタが青年を見つめていた。


「レイエル、勇者の件をそこの坊主に知られたのか?」

「あぁそうさ。ハルトの秘密を知られてしまったよ。マズいと言えばマズイけれど、まだなんとかなる範囲だね。幸い、知っているのはオーステンくんだけだし……」


 し、と言葉を切って、流し目でちらりと青年を見る。

 レイエルは意味深な顔で、青年をじっと見つめていた。

 オーステンは思わず飛び上がった。


「ま、待ってください。ハルトの秘密って言いますけど、あいつに性欲がないとかそういう話は、この旅に出る前に、レイエルさんが話してくれたんじゃないですか」

「そりゃ、下手に違和感を持たれても困るからね。先手を打ってみたのさ」


 余計すぎる心遣いだった。


「確かに遅かれ早かれ、変だなとは思ったでしょうけど」


 そのせいでフィーラのお願いをまともに聞く羽目になったのだ。これがフィーラだけから聞いた話なら、酒の席での冗談くらいのもので、それほどまともに取り合わなかったのかもしれないのに。その意味では、悪いのはレイエルだとも言える。


 エラミスタは、不服そうな青年を一瞥してから問うた。


「レイエル。それでどうする気だ?」

「どうもしないさ。オーステンくん、安心しなよ。今回は取って食べやしないから」


 なるほど。次回は取って食べられるかもしれないのか。

 オーステンは苦虫を噛み潰したような顔をした。

 だがまぁ、なにはともあれ、今回はなんとか丸く収まりそうで一安心だった。

 と、思ったの束の間、舌打ちの音がちいさく響き、一陣の風が吹いた。


 エラミスタがレイエルの胸倉を掴んでいた。


「はぐらかすな。その坊主じゃない。我が案じているのはハルトのことだ」

「あはは。エラミスタ、君ともあろうものが何のつもりなんだろうね。勇者の行動に対してのあらゆる妨害行為は、禁則事項にあたるよ。そうなれば大神院はもちろん、聖教会も、学院も、君たちとの関わり方をずいぶん見直すことになるよ」


 アールヴを見もせずにレイエルが言った。

 まるで、何かの代弁者のような言い方だった。


「今のところ、我らに学院と対立するつもりはない。ただ、あの勇者にお前たちが懸念を有しているというのであれば、話は変わってくる。それは承知のことだろう」


 エラミスタが鼻を鳴らす。


「レイエルよ。アールヴはこの世界全体の奉仕者なのだ。我々は、貴様らの所業を黙っておいてやっているだけなのだ。貴様らの首魁がこの世に害をなすなら、我らは躊躇なく敵に回るだろう。黒蛇なんぞより、よほど食い甲斐がある獲物だからな」


 冷ややかにそう言って、胸倉から手を放す。

 絞めから解放されたレイエルは、わざとらしく肩をすくめた。


「ひどい言われようだね」

「それが嫌なら、此度の竜退治を必ず成功させよ」

「当然だよ、勇者ハルトは、必ずこの世界を救うための礎になる」


 確信めいた口調は、この竜退治の前に彼女が漏らしたものと同じだった。

 レイエルはそれから、ちょい、と青年に向き直った。 


「さてそれではオーステンくん。なにか言葉が欲しそうな君に、私からちょっとしたヒントなるものをあげよう。そして、君なりに、この世界を救ってみればいい」

「……レイエルさん。意味が分かりません。あなたは何をさせたいんですか」


 オーステンが困惑気味に尋ねる。

 ここまでのレイエルの言葉にはあまりにも謎が多すぎた。

 ハルトの振舞いをあえて問題にしてみたり、その逆に釘を刺してみたり。


 いや、本当に釘を刺すつもりだったのか?

 禁止されるとより深く探りたくなるのが人情だ。

 その点、オーステンに特別に強い自制心があるというわけではない。

 

 つまり、レイエルの狙いは、本当にヒントを与えることだったのではないか。


「あなたは僕に何をさせたいんです?」

「オーステンくん。勇者ハルトは世界を救えない。世界は、彼には救えないんだ」

「その、あなたの言葉の意味が分からないんです。あなたはハルトに関わられたくないのか、ハルトを助けてほしいのか、僕に、どっちを望んでいるんですか?」


 望み。


「あははは。望んでるとか望んでないとか、そういうことじゃないんだ。厳然たる事実なんだよ。ハルトは竜を殺すことはできるけれど、勇者としてこの世界を救うことはきっとできないだろう。だから君には、ハルトを刺激してほしくは、ない」


 刺激。


「そう、刺激だ。だから君にはハルトと宜しくやっていてほしいのだけど、同時に、あまり彼を追い詰めないで欲しいんだ。それは彼にとって、よくないことなんだ」

「よくないってなにが」


 彼女は小首を傾げて、やれやれとため息を吐く。


「ハルトがあの呪いについてそれをどうにかしようだとか、おかしいことだとか、そんな風に思ってしまうと、竜退治に支障が出るだけじゃなく、彼の勇者としての在り方に問題が生じてしまう。そうならないように、君には協力をしてほしいんだ」


 レイエルはいつしか真顔になっていた。

 どう答えるべきか。


 考えあぐねたそのときである。


「おーい!」


 女の声がした。

 声の方を見れば、やけに興奮した様子で、フィーラが手を振っていた。

 嬉しそうに声を張り上げて、こちらを呼んでいる。

 

「レイエル! エラミスタ! そんなところにいたのか!」

「おっとフィーラ、すまないね。すこし用を足していたんだよ」

「オーステンと連れションか? じゃあ仕方ないな!」


 仕方ないとは思えないが、獅子髪の女は納得したように頷いている。

 もしかするとまだ酒が残っているのかもしれなかった。


「と、そうだ! 三人とも早く来てくれ! すごいものが見られるぞ!」

「すごいもの」

「ララとライドが潰す前に来い! あれはそう見られない!」


 何だか知らないが、ララとライドが争っているようだった。

 それはいつでも見られそうな気がしたが、二人が潰したがるものとはなんだ。

 あんなのでも一応は師匠である。大人げない真似はやめてもらいたい。

 オーステンは、ひとまず、呼ばれてみることにした。


 その、青年の腕をぱしりと細腕が掴む。

 レイエルだった。

 

「さぁ先に進もうじゃないか、オーステンくん、立ち止まっては何も始まらない」

「あの、じゃあ離してもらえませんか」

「あはは。つい、つい、掴んでしまったよ」

「どうしてです」


 眼鏡の下の目は、見えない。

 オーステンが何の気なしに尋ねると、彼女は苦笑いをした。


「それは君が、私の――」

「お前たち、急げと言っているだろう! こっちだ!」


 フィーラが嬉しそうに言った。

 だからレイエルの苦笑いの意味は分からなかった。


「なんでもないよ」


 レイエルがそう言って、掴んだ手を離した。

 そこにはじんわりとした、痛みにも似たぬくもりが残っていた。





 森を抜けると、そこには一面の銀世界が広がっていた。


 針のような木がまばらに生えており、雪原に影を落としている。だが、どこまで見渡しても、そこには一点のくぼみも、足跡もなかった。ただただなめらかな白が、先にある街のちいさな城壁までずっと、続いていた。まるで未開の地のように。


 これか。これが見せたかったのか。

 確かにここでライブをしたらひどく幻想的だろう。

 オーステンは心の中でフィーラに感謝する。


「綺麗……なのですよ」


 ララ=リオライエンがそう言って、瞳を輝かせた。

 昨日のことがウソのように柔らかい表情だ。

 と、思ったら、その瞬間に眉間にしわが寄った。


「て、ていうか、そのせっかちな鍛冶親父からこの景色を守るのに苦労したです」

「ライドさん、争ってるってそんなことだったんですか」

「雪なんざ、山のてっぺんにでも行けばいつでも見られるだろうがよ」


 この辺り、街出身ではないらしいライドと街育ちのララの違いだと言えよう。ライドに至っては若い頃にあちこちを旅していたとも言うから、たしかに雪原など珍しくもなんともないに違いない。しかし、それで争うのはやはり大人げがない。

 

 実のところ、オーステンは雪原を見るのが初めてだったので、その景色に感じるものは少なからずあった。ララとライド、どちらに味方するかと言われれば、今回ばかりはララのほうである。雪原ライブという夢を守ってくれた、彼女である。


「ララさん、ありがとう」

「ふ、ふふふ。は、ハルトのためなのです」


 一方、そのハルトはすでに雪原に足を踏み入れていた。

 興味もなにもないどころか、汚い足跡をもう伸ばし始めている。

 しかも腹立たしいことに、ちょっとだけ嬉しそうに口元を緩めていた。

 まるで年頃の子どものようなその素振りに、オーステンは安心した。


「き、記念すべき第一歩、な、なのです」


 それはララにとっても特に残念なことではないらしかった。第一歩をハルトが踏んだことはどうにも喜ばしいことらしい。愛されていてなによりだが、まったく、こういうときに一歩目を譲るのが正しいハーレム勇者というものだろう。


 ハルトという少年にはそのあたりが欠けている。

 これではただの少年である。

 もっとも、昨晩のことを踏まえるとそうした部分にも納得がいくが。


「雪を目の前にすると、みんなまるで子どもですね」

「当然だ! サウラでも、こんなにたくさんの雪を見たことはない!」


 嬉しそうなフィーラが、手をさすりながら雪に触れる。

 そう言われて、レイエルが空を仰ぐ。


「あはは。この国でも滅多に雪なんて振らないんだけどね」

「ふむ、そうなのか。ではなぜだ?」

「ここから既に縄張りだということだろうね?」


 それは、竜の。


 暗黙のうちに身が強張る。


 だがそれは竜のことゆえではない。

 レイエルが何の陰りもなく話したことに恐ろしさを感じたのだ。

 彼女ただひとりが、にこにこと微笑んでいた。


「さてさて、ライドさん、縄張りについては、どうなんだい?」

「俺に聞くな。俺こそ、竜退治の勇者じゃないんだからな」

「知ってることがあるなら、教えるの、です」


 ララが凄むと、ライドがすこしだけ怯む。

 焙られたことを忘れてはいないのだろう。

 男は、少女から視線を逸らすと、己の弟子に向けて語りかけた。


「チッ、俺はかつてスーリアと友人だった」

「ええ、知っています」

「奴とは一緒に旅をしたこともあった」

「だ、だから、なんなんです?」

「……奴の始末は、他の誰でもなく、俺がつけるということだ」


 沈黙。


 冗談か本気かも分からない言葉にオーステンが黙り込む。 

 大体、ララに直接言わずに、オーステンに向けて話すところが情けない。

 情けないが、意外にもライドの瞳は暗く光っていた。


 だがその一拍ののち、笑いを堪えていたレイエルが噴き出した。


「あはははは!」

「笑ってんじゃねぇ」

「無理だ! 勇者の竜を殺せるわけがないよ!」

「んなこたぁねぇ。俺だって昔はそれなりに戦ったもんだ」

「愚者の戯言に耳を傾けるほど暇ではない」


 ハルトが冷ややかに言う。彼は心底から興味がないというそぶりで、ライドを睨みつけた。昨晩のことを鑑みるといささか緊張感に欠けるやり取りだが、師匠はそうではないらしく、その額にばっちりと冷や汗を掻いている。


 雪原のなかとは思えない奇妙なほてりを、青年は覚えた。


「ライドさん、ライドさん、なんか言い返さないんですか」

「言わせとけ。どうせスーリアに出会ったらちびっちまうさ」


 その理屈で言うならば、こちらも条件は同じかそれ以下だろう。

 と、思ったがオーステンはそれを言わないことにした。

 それならどうして自分が連れてこられたのか、聞くのが恐ろしかったからである。

 

「ライドさん、ちょっとは僕の命も保証してくださいね」

「安心しろオーステン、秘伝の技術は教えてやる……俺が生きて帰れればな」


 ライドがくたばるときは自分もくたばる可能性が高い。

 青年は密かに、一番安全圏にいそうなレイエルと行動を共にすることに決めた。

 レイエルとエラミスタならば、万が一があっても上手く生き残りそうだ。


「それで縄張りはどこからなのだ?」

「縄張りというならとっくに入っている。姿を見せないのは、ガキ勇者のことをまだ認識していないか、あるいは、朝早いこの時間はまだ、眠っているからだろう」

「なるほど。では動けるうちに動いた方がいいな。助かるぞ!」


 フィーラが得心したとばかりに言った。

 その素直さのようなものに罪悪感を覚えたのか、ライドがぽつりと言う。


「……だがまぁ、奴をよく見るのはあの山の頂だ。麓の街から山に登れるようになっていて、俺は廃墟になったあの街でいつも休息を取っていた。おそらくだが、そこまではスーリアも姿を現さないんじゃないかと思う。奴も戦いにくいだろうしな」


 よく見る、という言葉に引っかかりを覚えたものの、誰も詮索はしなかった。もしかすると、このライドという男は、勇者スーリアについて誰も知り得ないことをもっとずっと多く知っているのかもしれなかったが、少なくとも、勇者ハルトがいる以上、竜と化した元勇者に苦戦することなどないと、そう思っていたからだ。


 口ではどのように言っていようとも。

 その心の内では、誰もがそんな油断をしていた。


 ゆえに歩き続けてしばらく。


 日が斜めよりすこし上に昇る頃には街の城壁に辿り着いた。


 迎えてくれたのはそれなりに立派な門ではあったが、数年間手入れをされていないらしく、あちこちにガタが来ている。かつてはそびえ立っていたであろう大扉も、砕けたままで凍り付いていて、植物すら生えていないものの、たくさんの亀裂が走っていた。この異常な寒さのなかでは、石も木も、すぐに壊れてしまうのだろう。


 吹きさらしとなった城壁のなかも荒れ果てていて、ひどいことになっている。おそらく勇者スーリアが狂ったときの犠牲者であろう人々が、その遺体を回収されないままで雪に埋まっていた。傷一つなく、死んでいる。どうやら凍死したらしかった。


 その数は、もう数えられないほどに多かった。


 街の大広場まで出ても、見える光景に変化はなかった。

 凍り付いた彫像のような人々があちこちで砕けている。

 その顔は一様に、ひどい驚きと苦しみに満ちていた。


 同じといえばどれも同じ。

 代わり映えしない苦悶の風景だ。

 そんなものが街中に溢れている。


「ライドさん、今のスーリアに罪の意識はあるんですか」

「ねぇな。奴はこの氷柱を見ても、もはや何も思いはしねぇよ。いや――今のスーリアじゃねぇな。竜になる前のあいつだって、そんなに情に厚い奴じゃなかった」

「情が、ない?」

「ガキ勇者とおなじくだよ。常に冷静沈着で、いけすかない野郎だった」


 悲しげに男はそう言った。

 勇者スーリアがそうであったとするなら、ハルトもまたそうなのか。

 彼はもうすでにこの大広場に興味を失くして、さっさと先に進んでいた。

 雪原を踏みしめたときとは違う、冷たい足取りだった。


 オーステンはそれが悪いとか、欠けているとか思うつもりはなかった。

 だが、ただ単に、彼自身としては、この場から動く気にはなれなかった。

 このおびただしい氷の牢獄を放置していく気にはなれなかった。


「これが竜と黒蛇の災厄だ。世界中で私たちはこういう地獄のような終末を見てきた。私は運よくハルトに救われたが、そうでない街も、国も、人々も数知れないほどに多い。この世界は、誰かが救わなければ、どうしようもないのだ」


 フィーラが言った。


「僕たちの町とはあまりにも違いすぎて、何と言えばいいのか」

「そうだろう。オーステンたちの住む町は、いや、あの国は特別なのだ」

「特別?」

「そうだ。聖教会に魔法学院に、貴殿らの国には力あるものが多すぎる」


 確かにそうだ。教会の聖騎士や学院の魔法使いたちなら、きっと勇者スーリアがこの街で虐殺を始めた時点でもう少し食い止められていただろう。その違いについては誰が悪いというものではない。ないが、少なくとも不平等ではあった。


「下らん。世界など不平等で不均衡で不公平なものであろう」

「エラミスタ、だけども、力ある者にしかできないことはあるのだ」

「それで力及ばずの責任と悔恨まで背負うのか?」


 勇者のパーティは常にそうした疑問を抱えてきたに違いない。

 煩悶を抱いてきたに違いない。


 切り捨てるものを切り捨てて、残すべきものを残して。

 

 それはやはり悪ではない。

 ないが、不満足ではある。


 スーリアにもそうした不満足が、苦しみがあったのだろうか。それゆえに彼は竜となってしまったのだろうか。いや、黒蛇による魂の侵食は、心の在りようなどとは関係がないとレイエルは言った。だが、それが本当だとは思ってはいなかった。


 勇者の資格、それを失うことが黒蛇の侵食を許すことだとすれば、

 浄化をできなくさせるものだとすれば、

 資格とは果たしてなんであるのか。

 

 竜になった勇者は、一体、何を失ったのか。


「スーリアはめぼしい人々の首を刎ねたのち、その悲しみを放出した。それでこの地域一帯は凍りついてしまったと言われているよ。彼が殺してしまった人々は、実際は300人だかよりも、もっとずっと多い。本当に災害のような男だったのさ」

 

 悲しみですら、人を殺してしまうなんて、どうしようもない奴さ。


 レイエルが、オーステンの心を読んだように、無感情に言った。

 フィーラが己の顎を撫でて、不思議そうにつぶやく。


「どうしてスーリアはそんなことになったのだろうな」

「まぁそれは鍛冶師さんが詳しいだろう。なにせ惨劇直後にここに来たんだから」

「俺に話を振るな。思い出したくもない」

「りゅ、竜退治に役立つことなら、は、話せなのです」


 ライドはララに弱い。

 しかめ面が一瞬で胃痛をこらえるような表情になって、彼は言った。


「俺も分からんことは多いが、スーリアは己を制御できていなかった。身体が竜になる前に死のうとしたが、それよりも先に心が黒蛇に侵されてやがった。奴は泣きながら剣を振るって、人々を殺し尽くした。逃げる子どもも女も、老人も家族も等しくな。運良く生き残ったのは、ほんの少数だが、それも大半が凍死しちまった」 

「では、それをこの街で食い止めたサリア=オーステンこそ、真に勇者的だな」


 そびえる氷柱と取り残された人々を見ながらフィーラが感慨深げに言った。

 ライドが苛立ったように雪を蹴飛ばす。


「あいつは、ただ己の古い友人の心を止めたかっただけだ。英雄じゃねぇよ」

「そうか。そして、鍛冶師さんはそれに付き合って、付き合い続けているのだな」

「黙れ」


 ライドの心中を推し量ることは、オーステンにも難しいことだった。


 サリアを止められなかった己に憤りを覚えているのか、あるいはその戦いの場でスーリアを殺せなかった自分を許せないのか。戦いを見たわけではないのだから、オーステンが語り得ることはあまりにも少ない。実際のところ彼も、サリアがどのように死んで、ライドがどのように負けたのか、それは伝聞でしか知らないのだ。


 たとえば、サリアがスーリアを討つ、その絶好のチャンスをライドは台無しにしてしまったのかもしれない。そうした悔恨が残り続けて、かつて鬼の手とまで呼ばれた男を、剣嫌いの飲んだくれの、一人の復讐者にしてしまったのかもしれない。


「ララさん、また竜退治が終わってからでいいんですが、その」

「わ、分かってるです。ほ、葬るです」

「溶かして、それだけでいいんです。お墓は僕が造ります」


 こくこく、とララが頷く。


 偽善めいた行いだ。

 これで誰かが救われるわけではない。


 己は勇者とは違う。本当に世界を良くすることはできない。それでもせめて、たとえ嘘くさい営みでも、オーステンにはそれをすることが重要なことだと思えた。


 誰が言うともなしに、パーティは動き出す。

 街の半ばまで進んだところで、日がちょうど頭上に昇った。


「竜が目覚める」


 エラミスタが言った。


「では、ハルトを探さないといけないね」


 レイエルがそう言って、一行が凍てついた通りを曲がったその先、

 何の変哲もない民家の前で、勇者ハルトは見つかった。

 ひざまずき、まるで信じられないとばかりに、ぶるぶると震えていた。


 それは信じがたいことだった。


 冷徹無比にして冷静沈着、何事にも同様せず、女にも心を乱さない勇者が、その少年が、砕け散ってばらまかれた氷像のその頭部を覗き込んで、ぽろぽろと涙を流しているというのは、およそこれまでの旅路で、誰も予想しなかったものに違いない。


 少年は強張った顔で泣いていた。

 驚愕の表情を浮かべ、彼は泣いていた。


 少年は、地面に倒れた彫像の顔を、おそるおそる確認していた。それはまるで、大事な本をつぶさに読むように、何らかの大切な文言を、探し出すかのように。


「俺はこいつを知っている」


 ハルトが言った。


「そりゃそうだろうさ。君は何度もこういう人たちを救ってきたんだから」

「いやそうじゃない。レイエル。そうじゃないんだ」


 その声には確信があり、緊迫があった。

 ただの印象や感覚ではない。もっと真に迫るもの、確かな記憶だ。

 ハルトは明らかに、この街に己の記憶の片鱗を見つけていた。


「俺は、俺はな、この街を知っているんじゃないか、そんな気がするんだ」

「教会の資料かなにかで見たことがあったんじゃないのかい」

「見聞きしただけ、という感じではないんだ。ここに住んでいたことさえあったような、そんな感覚なんだ。――なぁ俺は、前にこの街に来たことがあるのか?」


 もちろん、その質問に答えられるものはいない。

 レイエルですら本当に知らないらしく、その首を傾げるだけだった。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「待て」


 舌打ちではない、鞭でなにかを叩くような音がした。

 寝台の御簾のうちから、彼女が苛立ちをあらわにしたのだ。


「――随分と勿体ぶるではないか、エルマンよ」

「おやおや、ついに痺れを切らしますか」


 詩人は語っていた言葉を止めて、その口を閉じて、歩み寄った。

 臭気。甘ったるい瘴気と、そして蛇の生臭いにおいがする。

 それは、このベールから漏れている、女の発する香りだった。


 影がぎゅるりと動き、女が口を開く。


「私の時間もお前の時間も、永劫にあるわけではないのだぞ」

「ほう」

「まるで竜など些末な事態にすぎないと言わんばかりに語るではないか」


 エルマンはカラカラと笑った。

 蛇を目の前にして、その額にうっすらと汗がにじむ。


「それは慧眼でございましょう。私は竜について、その怪物の怪物性についてなにがしかを語ろうというのではありません。そうではなく、スーリアという勇者、ハルトという勇者について、その物語をお聞かせしているにすぎないのです」


 吟遊詩人とて、常に平常に語りうるわけではない。

 命が危ういときには誰だってそうであるように、エルマンも声が震える。

 それに気づいたのか、女は語調をすこしだけ弱めた。


「だが、竜こそが、ハルトの敵ではないのか」

「なるほど。しかしそれでは、勇者の敵が、勇者ということになりますまいか」


 影となった女の身体がねじ回り、考えあぐねる。

 彼女とてエルマンを食らおうというつもりはない。

 ただ、その心のままに、欲のままに詩人の首をへし折りたいだけだったのだ。


 女は、貴人は、しかし一息を吐いたのちに問うた。


「では黒蛇か。人を竜に変える邪悪の根源が敵なのか」

「それでは、邪悪そのものを打ち倒すまで物語は終わらぬことになりましょう」

「ではなんだ。お前は何について語ることを望む?」


 蛇のような女の問いに、エルマンはひるむことなく答えた。


「ご安心ください。貴方様がそこまでおっしゃるなら、私もそう意地悪ではありませんゆえ、竜を呼びつけましょう。物語のなかに竜を呼び降ろしましょう」

「そんなことができるのか?」


 訝しげな声色。

 しかしエルマンは自信満々に頷く。

 彼にとって、物語とは自由自在なものである。

 吟遊詩人である彼にとって、物語とは――


「はい。あと、一行をいただければ」


 男はそう言って、口を開く。


 瞬間。

 硬質のなにかが寝台を叩き、そしてひっかいた。

 凄まじい憤怒が、貴人から立ちのぼっていた。

 エルマンは思わず、後ずさりをする。


「茶番だ」


 彼女が言った。


「それは茶番だ」

「お望みの竜退治が気に食いませんか?」


 エルマンが震える右手をしっかと左の手で掴み止める。

 男は、己の命の綱渡りをするつもりなどなかった。

 ただ単に、あるがままを語っただけなのだ。


 だが、それが時として、逆鱗に触れることもある。


「私は一切をあますところなく伝えよ、と言った。竜を呼べ、などとは言わない」

「仰るとおりです。しかし、これが事実であり史実なのです」

「事実だと? 呼び降ろすと言って呼び降りるものが、茶番でないものか」

「茶番ではございません」


 エルマンはすこし早口に言った。


「この私は、語り口を変えただけにすぎません。私は物事の語り方を変えることはいかようにもできます。百行を一行に縮めることも、一行を百行に延ばししめることもできます。それは物語が、人の心の内を言葉にあらわしていく営みだからです」


 そこまでで一度、水を飲む。

 御簾のむこうの怒気も多少は和らいでいた。

 エルマンは落ち着きを取り戻して、自信たっぷりに語った。

 

「竜は確かに、このように現れ、憔悴するハルトの前で翼を広げたのです。家屋をぺしゃんこにして落ちた巨体が、土煙の中からすこしずつその姿を現していきます。巨大で肉厚な翼にはいささかの傷もなく、変わらずその威容を誇っておりまして、」


 男の舌が、うねる。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 そのときである。


 甲高くそれでいて地響きのように低い、けだものの鳴き声が空に響いた。


 見上げれば、空にほんの小さな粒のようなものが浮かんでいる。オーステンは見間違いだと思って目をこすったが、それは消えない。そればかりか、みるみるうちに大きくなっていく。四枚の翼に長大な尾、身体を支えるための大きな四つの手足と胸元から生える二本のちいさな腕、そして、腕には不釣り合いの長い爪。


 ハルトが口元をきゅっと閉じた。


「チッ。竜だ。奴が来たぞ」


 なるほどそれは竜だった。縄張りを犯した勇者を見逃すことなく、その怪物は現れた。ライドが嬉しそうになにか叫ぶが、聞き取りづらくて仕方ない。いまや、はばたきが、轟音となってパーティを包んでいた。ララが、魔力を練りながら呟く。


「さ、早速おでましとは、舐めた奴なのです!」

「いやはや、休憩もなしとは参ったねぇ」

「……撃ち落としてくれ、ララ」


 疲れた声でハルトが言った。


「はい、なのです。生炎『天蓋華絶』!」


 少女が両掌を暗雲に向けると同時に、まばゆい閃光が空を奔った。

 火球ではない。光線だ。

 圧縮された炎が一筋の糸のようにすさまじい速さで伸びたのだ。

 それが、一、二、十、二十、三十、五十、百と、繚乱する。


「降りてこい」


 勇者がそう言うと、百本の輝く糸が竜の羽に突き刺さった。

 空の魔物とはいえど、これほどの攻撃には対処のしようもないのだろう。

 ぎちりと身もだえしながら、あっさりと魔竜スーリアは地に堕ちた。


 うねる、


 その土煙のなかから、巨体がすこしずつ姿を現していく。

 巨大で肉厚な翼には傷一つ残っていないようにすら見えた。

 鎖のような尾が振り回されると、煙はすぐに、晴れきって、


「怪物め」とハルトが言った。


 異形というにふさわしい姿であった。


 蛇腹の首には人頭がついており、その容姿は人と蛇の丁度半ばであるかのようにゆがめられていた。金色の目はうろんげに地をねめつけており、くねくねと頭が動くたびに、その灰色の長髪が揺れた。まるで人のようなその面。まるで蛇のようなその動き。そして竜に相応しいどす黒い魔力の放出。ライドはそれを知っている。


「スーリア」


 男がそう言うと同時に、担いだバトルハンマーを抜き放った。


 ぼひゅ、その膝が沈み込み、流れるように弾けた。

 一瞬でライド=クルーエルは邪竜の頭上を取っていた。


「ぬぅうううううううんん!!」


 凄まじい威力で叩きつけられたハンマーは、スーリアの頭部を地面にめり込ませる。その地鳴りのような震動で我に返り、ようやく、勇者とその仲間たちは各々の武器を抜くことができた。勇者の右手には、オーステンの剣が握られていた。


「おい下がれ、鍛冶師。ここからは俺がやる」

「黙れクソ勇者! お前はただの餌だ! こいつは俺が殺すッ!」

「チッ。竜に神性のない攻撃が効くものか!」


 フィーラが吐き捨てる。


 ところが驚くべきことに、ライドの打撃は確かにスーリアの表鱗を削っていた。

 ハンマーがぶち当たる度に閃光が走り、鱗を覆う瘴気も弱くなっている。


「効いてる……?」


 ハルトは興味深げに口の端をゆがめた。


「聖水かもな。あのハンマーの内部に蓄えられているんだろう」

「へぇ。やるじゃないか、君の師匠は」

「だがまぁ、ここまでだな」


 ハルトが表情を硬くして呟く。


 ライドを見てみれば、確かに、その攻撃の勢いは明らかに衰えていた。なぜか、など解説するまでもない。瘴気だ。溢れる瘴気がライドの身体を痛めつけていた。どれだけ熱意があったところで所詮はただの人間。恐るべき竜の毒には勝ちえない。


 ライドが息を切らして膝をつく。

 竜がその翼をふたたび広げ、風の鎧をまとって浮かび上がった。


「じゃあ、出番だよハルト。神性『玻璃聖域』」


 レイエルの身体がまるで妖精のように神々しく輝いた。

 杖の先端から光が出て、彼女とオーステンを覆った。

 瘴気を払いのける女神の加護。浄化の力を持つ結界だ。


 ハルト自身も、胸元から聖正十字の首飾りを引き出して、何事かを呟く。それはおそらく祈りの言葉。唱えると同時に背に翼が生えた。輝く四枚の翼は、竜に相対するように広がって、黄金の粉をまき散らす。瘴気に対抗するための聖教会の武具。あの、歌姫アイナでも年末ライブでしか使用できない魔法学院製の聖翼である。


「神性『万物聖剣』」


 宙に浮かんだハルトが言った。

 その手に握られたオーステンの剣が、魔剣のように輝きだす。


「そんなバカな」


 青年が狼狽えたが、レイエルは冷静にほくそえんだ。


「ハルトの神力『万物聖剣』は己が望んだものすべてに神聖性を付与する力なんだよ。長く使えば壊れてはしまうのだけど、どんな武器だって彼にかかれば、聖剣さ」

「すべてに!? それじゃあ本当に何でもいいってことじゃないか!!」

「まぁそうだよ。前なんてその辺に転がっていたぼろっちいほうきでね」


 ふざけるな。

 前の得物ってその辺のほうきか。

 匹敵もなにも用途が違いすぎるだろう。


「ははは。聖剣は物理的特性ではないからね。振りやすければなんだって、」


 幸いにもレイエルの言葉は、右方より響いたバチバチという音にかき消された。

 はぜる魔力を身にまとうフィーラが、その手に稲妻色の剣を握っている。

 それはまるで雷そのものを握っているようにまばゆく、熱い。


「あれも、聖剣ですか」

「クレオンディーネ家の姫君にして、サウラの雷神ラズ=サウラを宿す巫女。竜殺しの宿命をもつ獅子髪の姫さ。彼女の魔法剣からは、どんな竜も逃れられないよ」


 フィーラがその瞳を燃え上がらせ、溢れる火花が雪さえ焦がす。


「神降し『雷轟簒奪』」

 

 その名を叫ぶとともに、ハルトとフィーラの姿が消えた。

 光にも迫る速度でかき消えた二人は、はるか高く。

 かすかな輝きを追っていたオーステンは、その光点が空で交差するのを見た。


 稲妻と真っ白な光の交錯。

 一瞬閉じた視線の向こうで、二振りの剣が振り落とされる。


 音がした。

 雷のような音がした。

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