たったひとつの鈍いやり方 5



 ふむ。と首を傾げて、女の視線が重ねられた手に注がれる。

 そこにやましいものがないことを見て取って、ようやく剣は降ろされた。

 いや、剣ではない。振り向いてみればそれはただのフォークだった。 


「なにを、騒いでいるのだ?」

「ふ、フィーラ! これは違うのです、ただ、見張り番が盛り上がって、」


 ララの取り繕いに眉をひそめることもなく、女はフォークを口に咥えた。

 左手には野草の炒め物が盛られた皿がある。大量の野草だ。

 それを塩とにんにくで味付けたものだ。それをこんな時間に食べているのだ。


 なぜ? なぜなのだ? 精神集中ではないのか?

 疑問は尽きないが、オーステンはひとまず触れないことにした。


「ええと。フィーラさん。これは、なんでもないんです」

「いや、何もやましさは感じないが、声が大きいと眠れないだろう」

「は! ハルトをもしや起こしてしまったです?」

「大丈夫だ。ハルトは夜はしっかりと眠るタイプだろう。ちゃんと寝ていたよ」


 にこりと笑って、獅子髪姫が言う。

 どうやら、オーステンが即斬られる、ということはなさそうだった。

 ララも安堵したようで、バンバンと青年の背中を叩いた。


「あぁぁ、危なかった。バカ騒ぎを聞かれていたら死ぬところだったです!」

「おいおい、僕との会話は死ぬほど恥ずかしいものだったのか!」

「当たりまえです! ハルトに聞かれたら私は恥死してしまいます、です!」

「それは流石にひど……」


 なにか言い返そうとしたとき、眼前を雷光が走る。一瞬の横切り。つられて背後を見れば、顔のすぐそばを飛んでいった何かが、木に突き刺さっている。野草だ。にんにくと、それに魚介のような匂いがする。イカか何かとでも炒めていたのか。


「もう少し、静かに話せないか?」

「ご、ごめんなさいです、もう喋らないです」

「喋るなというのではないが、ララ、すこし休め」

「私が、です?」


 フィーラは、言いにくそうに頭を掻くと、テントのひとつを指差した。


「ララが興奮すると、この野営地の気温が上がるようだ。かなり寝苦しかったので目が覚めてしまったし、熱を持った防具で野草まで炒められてしまった。腹が空いていたので丁度よかったが、ハルトたちが休むには暑すぎるかもしれんぞ」

「そんなに熱くなってるんですか!?」

「うむ。ララ、見張りと火の番をすこし代わろう。明日のこともあるのだからな」


 嘘か真かよく分からないことを言いながら、しかしそれでも近接特価の戦士特有の圧力を感じさせながら、フィーラは赤髪の少女を離れたテントへと追いやった。すこし不思議そうではあったものの、やはり疲れがあったのだろうララは、さして逆らいもせずに、そしてすこしばかり寝ぼけまなこの様子で、去っていった。


 さて。

 そうなると、この篝火のそばにはオーステンとフィーラの二人だけになる。

 それは青年にとって、非常によくない展開であった。


「あの、僕もそれでは、テントに戻ります」

「待て。オーステン=エリオット。お前と話すためにララを払ったのだ」

「げぇぇぇ」


 思わず出た声に、フィーラはしかめ面をして、右手の金属をまた突きつけた。

 ひどいにんにく臭がする。オーステンはまたしても「げぇ」と言った。


「げぇとはなんだ、げぇとは」

「サウラ王国では言わないんですか、お休みの挨拶ですよ、挨拶」

「ほう。知らんな。私と会話するのが吐くほど嫌という意味合いかと思った」


 そりゃ嫌に決まっているが、オーステンはなんとか笑みを浮かべた。


「まさか! 冗談です。美人と話すのに気後れしただけですよ」

「そうか、この国の人間は美人と話すたびに吐いているのか」

「酒だって飲みすぎれば吐くでしょう。同じですよ。美人は名酒のようなものです」

「ふむ。下らん言い訳だと思うが、オーステン、貴殿はいける口か?」


 どこか嬉しそうに、フィーラは言った。その声色には大した抑揚も喜悦もなかったのだが、その口調は、ライドが嬉しそうに酒を飲むときとどこか似ていた。


「貴殿は、飲めるのか? ん? どうなんだ?」

「あー……いや、職人はあまり酒を飲まないんですよ。手が命なので」

「では、ライドは例外ということだな」

「あの人は、別にお酒のせいで手が震えているわけではないので」


 一応断ってみると、フィーラは真面目な顔で頷いた。


「なるほど。しかし、酒もなしにこの冷気に夜を明かすとは、時化てしまうな」

「フィーラさん、あなた飲み食いしたいだけなんじゃないでしょうね?」


 試しにそう言ってみると、獅子髪がバチバチと光り、火花が飛んだ。


「ば!ばかを言うな!」

「反応がもうなんというか、酒飲み、そのものというか」

「嫌いではないが、まぁそこまで中毒ではない!」

「あの炒め物、かなり味が濃いと見ました。あれもアテじゃないかと、」

「違う違う! あれは夜食だ!」 


 野草とイカのにんにく炒めなど、とても深夜に食うようなものではない。よしんば食べたくなったとしても、この内陸でイカだのタコだのを手に入れるのは至難の業であるのだ。そうなるとこれはもう、持ち歩いているのだと考えざるをえない。


 オーステンは、サウラの姫の酔狂にため息を吐く。

 

「サウラ王国人は毎深夜にあんなものを食べているんですか。勘弁してください」

「なるほど、そういうことか」

 

 フィーラは然りと頷いて、野草を一刺し口に放り込んだ。


「食べたことがないのだな。では、一緒に食ってみるか?」

「飲み食いさせる気が強すぎて、全然引く気配がない!」

「酒をとってくる」

 

 そう言うと、彼女はすさまじい速さで夜闇へと消え、そしてまたすさまじい速さで戻ってきた。言うまでもなく、その両手には計4本の酒瓶が掴まれていた。どれも見たことのないものではあるが、なんでも異世界の酒を模して、学園が造りだしたものらしい。葡萄でも麦でもなく、米という食物からできた蒸留酒なのだという。


「その辺の雪で割ろう。そうすれば害は少なかろう」

「雪割の蒸留酒とは風流なのか、雑なのか」

「ぬははは。サウラ流だ。サウラに雪は降らないのだがな」


 これまたウソか真か分からないが、ひどく楽しそうに見える。

 どうやら、お堅い武人の姿は、仮初のものらしかった。

 オーステンは雪で割られた酒を手に取り、それを一気に飲み干した。

 なるほど。強いことは強いが、甘みがあって非常に柔らかい。


「それで、何の話なんですか」


 美味い酒だ、とは言わずに、オーステンはそう切り出した。

 ここで酒の話をすれば完全にタイミングを逸してしまいそうだったからだ。

 フィーラは、瓶をラッパ飲みしながら野草炒めをつまんで、そして答えた。


「ララのことだ」

「もしかしてさっきの話を聞いてたんですか?」

「雪で酒を冷やしていたのだ。取りに行ったら聞こえてしまった」

「そうですか。それで、ララさんがどうしたんですか」


 竜戦を明日に控えているとは思えない言動だと思われた。

 だが、相応しさで言うならば、この後に続く言葉のほうがもっと場違いだった。


「オーステン、頼みがあるのだ」

「はい」

「ハルトの、ララに対する気持ちを探ってきてほしいのだ」


 青年は言葉を失って、そのまま空になっている酒器に手をかけた。

 目ざとく、フィーラが蒸留酒を注ぎ入れる。

 今度は雪割りではなく、ストレートであった。

 オーステンはそれも一息に飲み干した。


「ぷはぁ。うっわ、これなかなかキツイな」

「一本も飲めば癖になってくるぞ。鼻から抜ける甘みがたまらないのだ」

「いや、すみません、キツイのは酒じゃなくて、さっきの話です」

「そうか? 男同士なら何かと聞きやすい話だろう?」

「あの、僕とハルトはほとんど初対面ですし、印象も最悪よりなんですよね」

「酒でも酌み交わすといい。それで大抵の問題は解決する」


 わけがない。


「ララ、いいえ、ララさんが告白したときに、何とも言えない違和感がありました。あの勇者ハルトって、もしかして、本当に誰にも恋愛感情を持たないんですか?」

「というと?」


 質問を質問で返されても困るが、こうなると、あの話をするしかなかった。


「レイエルさんから少しだけ話を聞きました」

「なるほど。大賢者め、話したのか。あいつはなんと言ったのだ」

「ハルトは、『高潔にして完全無欠の勇者』だと。間違いは犯さないのだと」

「それは随分と押しつけがましい言い草だな」

「あと、性欲なんて持っていないとも言っていました」


 フィーラはそれを聞いて舌打ちをした。


「それは事実なんですか。それが本当だとすれば、勇者ハルトという存在はあまりにも人間離れしていて、異常です。色恋沙汰なんてものじゃない。そんな個人的で密接的な関係を結ぶ前に、まともな人間的感情を取り戻したほうがいい気がします」

「性欲が必ずしも人間に必要かはともかく、ハルトが私たちの誰も、いや、私たち意外であっても、女性も男性も誰も抱いたことがない、というのは本当のようだ」


 つまりハルトは童貞だということである。

 そのことについては、オーステンも条件は同様であり、動揺することはない。

 むしろ、歌姫アイナがいる現代では、童貞こそが真のファンの証である。


「しかしそうなると、ララさんの恋愛なんて成就する可能性はありませんね」

「そうだ。だがララは、どうにも諦める気がないようなのだ」 

「ついさっき、熱い思いを聞いていたばかりですよ。あれは諦めないでしょう」

「だろうな。ララの恋愛感情は、彼女の生きざまと深くつながっているのだから」

「ふむ。そこまで分かっているのなら、一体、僕に何を探ってこいと?」


 フィーラは、恥じるように目を伏せた。

 そして、篝火をじっと見つめながらまたも瓶をあけ、

 ぴったり二本を開けてからようやく答えた。

 

「ハルトの過去だ」

「過去?」

「あいつがどうして、私たちを好きにならないか、その原因を探ってほしい」


 それは予想外ではあったが、通常の恋愛相談の範疇内ではあった。

 オーステンにはいまいちその経験がないが、推測することくらいはできる。 

 恋人というものは、相手をより深く知るために、その過去を求めるものだ。

 恋人でなくとも、難攻不落の片思い相手を倒すためには、情報がいる。


 奇妙なのは、それを、片思いの当の本人ではなくて、他人が言ったことである。

 どうして、ララではなく、フィーラがそれを頼むのか、が分からない。


 オーステンは単刀直入に尋ねた。


「フィーラさんもハルトが好きなんですか?」

「いや違う」


 動揺することもなく、答えられる。

 酒のペースも上がらない。


「私も、勇者ハルトという少年に命を救われた人間だ。そこに恩義の感情のみならず憧れの思いが混じっていないといえば、それは嘘になる。だがしかし、竜殺しの私が倒せなかった相手をあっさりと斬り伏せた者への思いが恋ということはない。私にも矜持というものがあり、言うならばあの少年は、私にとっての目標なのだ」


 目標。矜持。ララと同じだ。

 隣国とはいえ王族であるフィーラにも、誇りがあるのだ。

 それでも、だからこそ、彼女は恋という感情を選びとらなかった。

 これは、フィーラとララの、戦士としての生き方の違いなのだろう。


「私は、その力と技と精神を学ぶために、国を離れてハルトの旅に同行することになったのだが、半年も一緒にいれば、あの少年の異常さというものも見えすぎるくらいに見えてくる。私の頼みごとの動機がなにかと、あえていえば、その理解、だな」


 オーステンの頭のなかで声が響いた。


 『類稀なる力とカリスマ性を持ち、優しくて勇敢な心を持っているだけのね。誰にでも分け隔てなく接し、それでいて、情に流されない強さがある』という少年。大賢者の言葉は、確かに、異常者の形容だった。まるで、人間のことではない。


「たしかにそうだ。たしかにハルトは年頃の子どもとは思えないですね」

「うむ。当初は、召喚されたばかりの彼が、聖教会で、あるいは魔法学園でそのような教育を受けたのかと思っていた。だが、教育というには、あまりにも不自然すぎる。不自然すぎるくらいに、ハルトはボロを出さない。欲望を見せないのだ」


 二年だか一緒にいたらしい彼女が言うならば、きっとそうなのだろう。


「一度だけ気の迷いで、ハルトに迫ったことがある」

「ぶっ、」

「無論相手にはされなかったが、信じられるか、オーステン。この私だぞ。サウラの姫であり、獅子髪と類稀なる美貌をもったこの私が、石ころ扱いをされたのだぞ」


 これを真顔で言うのだから恐ろしい。

 実は酔っているんじゃないかと思ったが、顔はいたって素面に見える。

 ほんのすこし赤い頬でさえ、酔いなのか怒りなのか判別できない。


 フィーラは、眉根を寄せて、口をへの字にした。


「私は不思議なのだ。そして、心配なのだ」

「ハルトのことがですか」

「それもそうだが、ララのことがそれ以上に心配だ。あの子はハルトのことを素っ気ないだけの少年だと信じている。ハルトがピンチになれば、命だって捨ててしまうだろう。だが、ハルトにそれを受け止めるような感情があるのか、分からない」


 なるほど。オーステンはフィーラという女性を理解した。

 もちろんそれは、己に分かる範囲でだけ、ではあったが。


 おそらく彼女は、ララという女性をすこし侮っているし、だからこそ本気で心配しているのだ。工房でララが告白をしたときに、心底から不思議そうな顔をしていたのは、ララがハルトの異常性にまったく気づいていないと思ったからに違いない。


 だが、たしかにララはハルトをぞっこんであるとは思えたが、異常性を認識していないとは思えない。むしろ、その異常なカリスマ性や勇者らしい行動に惹かれている節すらある。自分と同じ、アイドルに本気で恋をするようなタイプなのだ。


 それが悪いわけではない。

 だが、フィーラのような人には危なっかしく映るのだろう。


 もちろんそこに悪意はないと見えるが、ハルトと話せ、というのは実際のところ、ララと打ち解けたであろうオーステンに、ハルトという人間の実態を掴ませ、そこから間接的にララを醒めさせようという迂遠な、そして安直な策略なのだ。


 オーステンはそう解釈して、大きく頷いた。


「話は分かりました。ハルトと一度話してみますよ」

「本当か! ありがたい! 秘蔵の酒を出してきた甲斐があったぞ!」


 満面の笑みを浮かべていたが、酒の八割方を飲んだのは彼女である。 


「しかし、明日は竜退治でしょう。話す時間もありませんかね」

「安心しろ。ハルトなら夜明け前にいつも起きる」

「なんでですか?」

「練習だ。暗闇でも敵と、黒獣や竜たちと戦うためのな」


 いかれてる、と言わんばかりの呆れた口調で、フィーラは言った。

 

「ひとまず、オーステンは寝ろ。明日もあることだし、その酒は強い」

「フィーラさんももう寝るんですか?」

「私は、大切な戦いの前には酒を飲んで一晩を明かすのだ」


 そういうことらしい。フィーラ=クレオンディーネという女性も、ハルトに負けず劣らず、ネジが外れているような気がしたが、青年はもう気にしないことにした。


 器のなかに、ほんのわずかにまだ米酒が残っている。

 オーステンはそれを舐めとり、甘みを堪能したのちに、一掴みの雪を食った。

 酒で火照った顔が一気に冷める。


 これならば、よく眠りにつけそうだった。

 が、夜明けはもう、そう遠くはなさそうだった。





 確かに少年はそこにいた。


 フィーラに教えられたとおりの場所、彼のテントのすぐそばだ。当然と言えば当然なのだが、この勇者に限ってはそうでもない。超人的な肉体をもつ彼ならば、山向こうなどすぐだろうから。今回、彼が、竜の山に来るまでに三日ほどの時間をかけたのは、単にライドとオーステンという足手まといがついてきていたからなのだ。


 というかそもそも、勇者は、空間を移動する類の魔法も使えるらしいのだが。


 寝ぼけまなこで足がふらつく。

 実際の睡眠時間はほとんど一瞬というところだったから、疲労はすこしあった。

 だが、小気味いい素振りの音を聞きながら、その見えない剣筋を見ながら、


「ハルトくん、すこし話をしないか」


 オーステンは小さな声で、勇者を呼んだ。


「なぁ、ハルトくん、休憩しよう」

「鍛冶師の弟子。オーステン=エリオットだったか」

「そう、君が今振っているその剣の造り手だ」

「悪くない剣だ。癖がなくて使いやすい、前回の得物に匹敵するな」


 ハルトは正面から目をすこしも逸らさずに答えた。

 前回の得物、というのが何かは知らないが、とても光栄な話だ。

 ぶっ、と斬りつけられた小さな岩が、見事に斬れる。

 本当にオーステンのもので斬ったとは思えない、すさまじい剣筋だった。


 ハルトは、一拍おいて答えた。


「俺は剣を振っているから、その辺に座って、適当に話せばいい」

「わ、わかった」


 言われるがままに座った。

 もちろん勇者の方から声などかけてこない。

 であらば、オーステンから話題を振るしかない。


「なぁ。君は勇者なんだよな」

「そうだ。世界の危機を救う勇者だ」

「いつから、そうなんだい」

「さぁな。忘れた。だがここ数年のことだ。スーリアが狂った後だからな」


 スーリアの消えた後ということは、オーステンがまだ子どもの頃だ。

 おそらくそんなころはまだ、ハルトだって幼い子どもだろう。

 そんなときから、勇者をしているなど、とてもではないが信じられない。

 異世界人というのはみな、それほどに勇猛果敢で早熟なのだろうか。


「君は異世界から来たんだろう? その話を教えてくれないかな」

「異世界ね。ほとんど記憶はない。召喚のときに消えてしまったらしいからな」

「それはごめんよ。じゃあ君は、異世界のことを知らないんだね」

「そうだ。俺が知っているのはこのアリュオランのことだけだ」


 ということらしい。

 つまり、ハルトとは実質、この世界で生まれたようなものなのだ。


「元の世界に大切な人はいなかったのかい」

「いたかもな。だがどうでもいいことだ。この世界では俺は勇者なのだから」


 この世界しか知らないというが、しかしハルトはこの世界のことだってそれほどよくは知らないだろうとオーステンは思った。そんな記憶のない彼が、どうしてこの世界をこれほどまでに守ろうとするのか。愛するのか、それが分からなかった。

 

 オーステンは薄暗がりに目を凝らしたが、少年の顔は、翳って見えなかった。

 ただ、一文字に閉じられたその口だけが見えた。


「誰が、君のことを勇者だと呼んだんだい?」

「レイエルとエラミスタに出会う前だったと思う」

「大賢者はともかく、どうしてアールヴまで?」

「勇者にはアールヴの仲間がつくことが決まりだからだ」

「僕が知りたいのはその理由なんだけど」


 剣を振る音が止まった。

 足音と少年の影が近づいてくる。

 冷たい声が響いた。


「しつこいぞ。オーステン。俺は、俺の過去になど興味はない」

「だけど、それがないと君は一生、勇者以外の誰にもなれないじゃないか」

「……勇者以外?」


 ハルトが呟く。

 それが、呆れたような、バカにしたような、

 泣きそうに疲れたような、そんな声であったからだろうか。


「勇者以外は、勇者以外だよ」


 オーステンの舌は思っていたよりも饒舌に動いた。

 まるでずっとそう思っていたかのごとく軽快に。


「君には、勇者じゃないものになる自由だってあると思うんだけど」

「俺が望んで、勇者という役割を選び取ったんだ。それ以外などはあり得ない」

「でも君は、それを君自身の過去から選んだんじゃないんだろ」

「過去が俺のかたちを決めるのではない。理想が、俺の生き方を決めるんだ」

「でもそれじゃあ、君はその理想にしかなれないよ。その辺の鉄をただ固めるだけでも真っすぐモノを斬るだけの剣は作れるさ。だけどそれじゃあ、打ちあったり、斜めに斬ったりすることは絶対できない。固めただけの剣は、すぐに真っ二つに折れてしまう。本当に強い剣を造るには、鉄の純度を高めて、それがどんな形になっても壊れてしまわないように、しっかりと鋼に打ちあげていかないと駄目なんだよ」


 饒舌が止まらない。まずいと思ったときには話し過ぎていた。

 ライドの受け売りである、つたない精神論であった。

 が、それはハルトに憎しみをこぼれさせるには十分すぎるものだった。

 

「俺は、粗雑な鉄をただ形にしただけだと、そう言いたいのか」

「ち、ち、違うよ! 君が勇者以外のものになるのなら、まず自分自身の一番根っこの部分をちゃんと固めておかないと、何になっても、崩れちゃうって話だよ!!」

「俺は、勇者以外にはならない。安心したまま一人で怯えていろ」


 そういうことではない。

 と思いながらも、オーステンは反論できなかった。

 なにせ、ハルトというのは完璧な勇者なのだ。

 それを溶かして打ち直すことなど、ありえないほどの。


「でも、それでも、思い出なしで生きてはいけないよ」


 オーステンはそう言うしかなかった。

 勇者ほどの才覚と力があれば、そんなことはないだろう。

 己の言葉は、大嘘だろうとも思えたが、そう言うしかなかった。


「だって、僕は助けられたんだ。たくさんの人に。孤児だった僕にライドさんもサリアさんも、愛情を注いでくれた。だから僕には、成りたいものができたんだ」

「鍛冶師に育てられればそう望むのは当然だ。お前も選び取ったわけじゃない!」


 ハルトがはじめて声を荒げた。

 皮肉を呟くように言葉を吐き捨てていた少年は、今や苛立っていた。

 そして、オーステンも己のなかに、ひとつのざわめきを感じていた。

 それは怒りでも悲しみでもなく、祈りのような感情だった。


「そうかもしれない。けれど、僕はいつだって、それから逃げることができた!」

「逃げるなど、臆病者のすることだ。俺は選ぼうとは思わない!」

「だけど逃げられないのは、逃げる道がないのは、きっと不自由ってことだろう!」

「俺はそんなもの、自由なんてものを求めたことはない!」


 求めたことがないはずがない。

 むしろ求めていてほしい。

 

 そんな青年の気持ちが傲慢でないといえば嘘になるだろう。

 だが、


「だけど、やっぱり僕にはそれが君の本当の望みだとは、思えないんだ」

「それならもう言うことはない。勝手にそう思っていればいい」


 少年はそう言って、背中を向けた。

 終わりだ。もう話すことはない。

 対話はもうできない。会話ももうできない。

 離れていく少年に向けて、かけられる言葉はもはやない。


 はずだったが、しかしながらそのときオーステンの脳裏に浮かんだのはハルトでもライドでもはたまたオーステン自身のことでも、サニャのことでもララのことでもなく、フィーラ=クレオンディーネの赤ら顔であった。その困り顔だった。


 ゆえに青年は、振りほどかれたその言葉を伸ばす。


「……あのさ、わざわざ聞くつもりもなかったんだけど」

「なんだ」

「ララさんのことはどう思っているんだい」


 問うと、特に所感もなさげにハルトは振り返った。

 考えることもない、そんな時間も必要ない、決まりきった答えを返すためだ。

 そこに情はなく、考慮はなく、懊悩はない。そんな風にハルトは口を開いた。 


「ララか。優秀な魔法使いだ。すこし先走ることもあるが、魔法に揺らぎはない」

「好意は?」

「当然ある。俺はパーティの仲間全員を大切に思っている」

「それならどうして、ララさんの告白を無視したんだよ!?」


 しらじらしい言葉に思えた。

 少なくとも、オーステンが声を荒げるほどには。

 意外なことに、少年は訝しげに眉根を寄せた。

 理解不能とでもいわんばかりに歪められた眉は、明らかに不快を示している。

 オーステンはその態度に、わずかばかりの違和感を覚えた。


「僕がヘンなことを言っているとでも言いたげだな」

「いや待て、告白? なんの告白だ」

「好きだよ! 好きとか嫌いとかの告白だよ!」


 そう、その告白以外にないだろう。

 それ以外にあるわけがないだろう。

 あの、あのときの、あの瞬間の告白以外にあるわけがないだろうに。

 なのに、それはどうしようもなく共有されない認知だった。


 眉間に皺を寄せながら、本気の表情で勇者は顔をしかめる。


「……ん? あのララが誰を好きなんだって」

「君さ。ララさんは君のことが大好きなんだよ」

「……え? なんだって?」

「いや、ララさんは君のことを愛してるんだよ!!」

「……え? なんだって?」


 なんだって? ではない。

 何度も照れ臭いセリフを言わされたせいでオーステンの顔は紅潮していた。

 仄かに明るくなった空の元、青年は、少年の胸倉を掴んで睨みつけた。


「おい、ハルト、お前ふざけてるのか」

「いやそのつもりはない。本当にお前の言葉が理解できないだけだ」

「またララさんを馬鹿にする気かよ!」

「違うそうじゃない。俺には、お前の言葉が、聞き取れないんだ」


 聞き取れないというのならば近づけばいい。 

 オーステンは少年の耳元に口を寄せて、優しく囁いた。

 冷えた耳がくちびるに冷たい。だから言った。


「ララさんは君が好き」

「……なんだって?」


 馬鹿な。


「好き好き好き好き好き好き」

「……え?」

「オーステンはハルトを愛してる」

「……なんだって?」

「俺はハルトが好きだぁぁ!」

「……なんだって?」

「やっほー! ハルト君! 君のことが大好きだよぉ!!」

「なんだそのポーズは。言ってることも意味が分からん」


 本気の表情である。

 本気の困り顔である。

 オーステンは愕然としてピースを降ろした。


「ハルト、君は、まさか、愛の言葉を、聞き取れないのか」

「……なんの言葉だと?」

「愛」

「……?」

「……いや、もういい。大丈夫。ちょっと落ち着こう」


 オーステンはここに来て、一番の疲労を感じながら座った。

 というかへたりこんだ。

 青年の剣幕に顔色を悪くしている少年も、その横に座る。

 どこか遠くを見つめながら、オーステンはぼそりと言った。


「僕が思うに、ハルトくんはたぶん愛を知ることができない」

「ふむ。俺が、なにかを知ることができない、と」

「ハルトくんは完全無欠の勇者だけど、愛だけは分かれない」

「俺は完全無欠ではない。欠点がすくないだけだ」

「でも、最大の欠点として、人を愛する能力を失っている」

「なんだと?」

 

 愛する能力。


 それは人が人たりえるために大抵は必要とされる力だ。もちろん、愛などなくても人は生きていけるのだろうが、それなしには他人との真に深い関係は結びえない場合が多い。なぜハルトがそれを持っていないのかは分からないが、少年のこの状態が健全極まりないものだとは、オーステンには思うことができなかった。


「一体どうして、こんな風になったんだ?」

「こんな風とはどんな風だ」

「童貞だ! いや童貞以下のことだ!」

「オーステン、年上とはいえ、その品性のなさには呆れかえらざるをえないぞ」

「はぁ。これは分かるのか。なんだよ、これは参ったなぁ」


 転生のショックで性欲を忘れたとか、性欲がなくなったとかそういうレベルではない。愛が聞き取れないとか、理解できないとか、それはもう忘却の範囲を超えている。明らかにそれは、認識にロックがかかっている。つまりは、なにかの呪いだ。


 それはきっと、ハルトの失われた記憶に関係があるに違いない。


 たとえば、たとえばこれは本当にあり得ない妄想でしかないが、ハルトという勇者はもしかすると、この世界にやってくるときに、その完全無欠のパワーと引き換えに「愛」や「性欲」みたいなものを神様に奪われてしまったのかもしれない。


 オーステンはなんとも言えない気分になった。


 いけすかない勇者がそういう状態にあることは喜ばしいが、ひとりの少年が健全な精神を奪われたとなると、とても気持ちのいいものではない。むしろ、これだけ己よりも能力の高い無欠の勇者であるというのに、憐れみすら湧いてくる。なにしろハルトは、折角のハーレム状態を、そもそも認識できていなかったのだから。


 はぁ、と長いため息を吐き、不思議そうな顔の勇者を眺める。

 整った怜悧な顔であるが、こうしてみるとアホに見える。


「さて、どうするべきか」


 助けてやりたいが、言葉も通じない以上、もはや助け方も分からない。

 考えてもすべてが無駄になってしまうような気もする。

 レイエルに助けを求めるのも、正直あまり気乗りがしない。

 彼女は、あまり信用することが、できない。


 考えあぐねた結果、オーステンはわざと明るい声を出した。


「よし。竜退治をとにかく終わらせよう。それから考えよう」

「そうだな、それがいい」


 ハルトが安堵したように言う。

 日が昇る。朝がくる。

 青年は、隣の勇者を横目にみながら呟いた。


「僕がなんとか、君を救ってみせるからね」

「ふん。世界を救うのは俺だ。何もかもこの俺に、勇者に任せておけ」


 ハルトはオーステンの剣を天に突きつけてそう言った。

 得意げだ。相変わらず、その言動は変わらない。

 だが、カッコいいはずのその言葉たちは、今となっては、やけに空しく響いた。

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