鎮守の森の糸

たいらごう

鎮守の森の糸

 いつの頃からなのか、わからない。


 蜘蛛を見ても怖いとは思わないが、それは、蜘蛛が実は益虫であるとか、あの究極的生物兵器Gすら食べてくれるとか、小さな蜘蛛はからかうと結構ラブリーだとか、そういう現実的な理由があってのことではない。

 ただ、大小にかかわらず、いわゆる家に棲みつく蜘蛛を見ると、あの姿にある種のエロティシズムを感じるようになっていた。


 もしかしたら、子供の頃に読んだ漫画『宇宙戦艦ヤマト』の一シーンに影響されたのかもしれない。

 主人公が難破した宇宙船を捜索している時に、人間の女性に化けていた蜘蛛型の宇宙怪獣に襲われるシーンがあったと記憶している。

 それを読んだ時に感じたのは、恐怖よりも、体の中心を突き抜けるような性的興奮だった。


 学生時代には、文学の講義で『蜘蛛女のキス』というラテン文学を読んだ。

 題名を見ただけで、エクスタシー一歩手前まで行ったなどとは誰にも話さなかったが、書店で購入してから本のページを開くまで、頭の中ではおよそあらゆる種類の性的快楽が妄想されていた。

 しかし、その期待自体は見事に裏切られた。

 いや、先にあらすじを読むべきだったのかもしれないが、あらすじを読んでしまうとまるでネタバレを読まされたように感じて冷めてしまう性格だった以上、その『不幸な遭遇』も致し方ないことではあった。


 その本の内容は簡単に言ってしまうと、こうだ。

 ノンケの男性が刑務所暮らしの中でゲイの男性と肉体関係をもってしまう。

 実際は、もっと複雑な状況が主人公を取り巻いていたのだが、そんなことはどうでもよくなるくらい、物語はその二人の男性を中心に描かれていた。


 期待が裏切られたというのは、何も男性同士の肉体関係を読まされたから、ではない。俺にとって肉体関係などと言うものは精神的邂逅の付属に過ぎないのだから。それゆえ、それがLだろうがGだろうが、はたまたBやTだろうが、気にしたことは一度もないのだ。

 何を隠そう、今まで読んだ漫画の中で一番心を動かされたものは『風と木の詩』である。あれほど美しい漫画を読んだことは、今になってもまだない。


 裏切られた期待とは、蜘蛛に関することである。

 蜘蛛という存在にエロティシズムを感じるのは、そこに人間では持つことが到底不可能であろうと思えるほどの魔性を感じるからなのだ。その点、『蜘蛛女のキス』では、作中の登場人物に蜘蛛が持つような魔性を感じることは一切無かった。

 だからこそ、裏切られたと感じたのだった。


 しかし俺は今、目の前にいる女性に魔性を見ている。

 これは極めて危険な兆候だ。


 彼女を見たのは今日で三回目だった。

 最初は一昨日だった。二回目は昨日。そして今日だ。


 同じ女性を三日連続で目にするというのは、決して珍しいことではない。

 では、なぜその女性に魔性を見ているのか。

 それは今が深夜の二時であり、彼女がいるのは、人気のない神社の敷地に設けられたベンチだからという状況のせいでもない。


 唯一と言っていいその原因は、彼女の表情に有った。


 深夜までの仕事が終わると、少し離れた駐車場まで車を取りに行くのが俺の日課だった。

 その途中で神社の鎮守の森の中を通るのだが、通り道に休憩スペースとベンチが設けられていた。

 これまでにそこで人に遭うということがないではなかったが、三日連続で同じ人物となると話は変わる。


 初日には、深夜そんなところに女性が座っていることに俺は少し驚いたものの、できるだけ気にする様子を見せずに傍を通り過ぎた。

 二日目には、少し横目で見てしまったが、相手がこちらを向くことは無かった。


 しかし、三日目、つまり今日も彼女は同じベンチに座っていた。さすがに気になって顔を向けると、彼女はうつむいていた顔を上げ、俺を見たのだった。

 街灯に照らされた彼女は、その細く長い眉をやや八の字にして、口を真一文字に結んでいた。何かを訴えかける様な目を見て、俺の足が自然に止まったのだ。


 そして今、その女性と目を合わしてしまっている。俺は声を掛けずにはいられなかった。


「あの、すみません、少し気になったもので。こんな深夜にここで何をされているんですか? こんな時間にこんなところで女性が一人でいると、危ないと思いますよ」


 深夜、人気のない場所、そこを通る見知らぬ男性。そんな状況で声をかけられたら、普通どうするだろうか。いや、もちろん、そのような状況で女性が一人でいるということ自体が異常だとは思うのだが。

 しかし彼女は、俺に警戒心を見せることもせず、自然な態度で、しかし不自然な返事をした。


「ありがとうございます。実は……いえ、なんでもありません。ごめんなさい」


 女性は意味有り気な様子で目を伏せる。


「あ、いえ、こちらこそ、突然すみませんでした。お気をつけて」


 そう言って俺はその場を立ち去ろうとした。

 この女性は俺を試している。なぜかしら、それが分かってしまった。まるで、駆け引きを望んでいるかのようだ。

 だから俺は一度引くことにしたのだ。


「あの……」


 立ち去りかけた俺を、彼女が引き留める。


「はい、なんですか?」

「それが……」

「なんでしたら、私でできることなら力になりますよ」

「いえ、ただ、見ず知らずの人にこんなことを言うのもどうかとは思うのですが……」


 女性はまたそこで言葉を止めた。


「そこまで言ってしまったのなら、全部聞かせてください」

「すみません、実は、事情が有って家に帰れなくなってしまって」


 まるで誘い水のようだ。


「んー、それはお困りでしょう。どこかホテルかネットカフェにでも泊まるお金はお持ちですか?」

「それが、お金を持たずに出てきてしまって」


 俺の中に警戒心のようなものは存在しなかった。何かを失うことを心配するには、俺は人生に倦みすぎていたのだ。深夜一人で真っ暗な鎮守の森の中を歩くことに何の躊躇いも恐怖もない俺が、今更何を怖がるというのか。


「とりあえず、これで三日くらいはしのげるでしょう」


 俺は鞄から財布を取り出し、万札を三枚取り出した。別に金持ちではないが、お金に対する執着心もない。

 しかし女性は首を振り、受け取ろうとはしなかった。


「お気持ちだけ、いただきます。お優しいんですね」

「どうでしょうか、偽善かもしれませんよ。でも、お金も無しにどうされるんですか?」


 そう返した俺の言葉に、彼女はうつむいて口をつぐんでしまった。


「えっと、では、家に帰れるようになるまでにどれくらいかかりそうですか?」

「……帰るところはありません」


 女性はそう言って、俺を上目遣いで見つめた。

 背筋に走る戦慄のようなものは、一体何だろう。一重瞼のこの女性が上目遣いに見る姿は、どちらかというと「怖い」という感情を見る者に与えるかもしれない。しかし俺にはそれが限りなく妖艶に見えた。

 それと同時にふと思う。彼女の眼に、俺はどう映っているのだろうか、と。


「んー、もし良かったらですけど、私の実家が今空き家になっています、使いますか?」

「実家、ですか?」

「ええ、ここからすぐです。以前、母親が住んでいたのですが、三年前に他界してしまって、今ではとりあえずの事務所として使っているだけですので」

「いえ、でも、迷惑でしょうから……」

「何もないところですから、それは一向に構わないのですが、まあ考えてみたら見ず知らずの男性の家に泊まるというのも、そりゃできないですよね」


 そう言って俺は笑うと、頭をかいた。


「さて、どうしましょうか」

「あの……」

「はい、なんですか?」

「泊めていただいても、いいでしょうか」


 俺は改めて女性を見る。

 歳は二十代半ばといったところだろうか。ストレートのロングヘアを眉のあたりで切りそろえていた。街灯の灯りでは分かりにくいが、やや暗いグレーのワンピースを着ているようだ。

 一重の瞼の切れ長の目が、やや気の強そうな印象を醸し出しているが、話した感じではそんな様子はなかった。


「私は構いませんが、大丈夫ですか?」

「はい、実は本当にどうしていいかわからず困っていましたので」

「そうですか。じゃあ、案内しますよ。私は、棚橋真史と言います。売れないデザイナーをやってます」

「ありがとうございます。えっと、木谷亜耶音と言います。本当にすみません」

「いいですよ」


 そういうと俺は来た道を実家の方へと引き返す。彼女は俺の後をついてきた。

 鎮守の森を後にし、アスファルトの車道へと出る。しばらく歩くと実家に到着した。


「ここですよ」


 俺は三軒並びの真ん中の家を指さした。

 もちろん明かりはついていない。二階建ての普通の一戸建てだった。

 家の中に入り、電気をつけた。ダイニングの時計は深夜の二時半を指している。


「来客用の布団を敷きますが、部屋は母親が使っていた部屋しか空いてないので、そこでもいいですか? えっと、木谷さん」


 そう言って彼女の方を振り返ったが、彼女は部屋をぐるりと見渡していた。


「すみません、男一人だとあまり片付いて無くて」

「いえ、そんなことないですよ。奥さんはいないのですか?」

「ここは実家ですので。嫁は大阪の家にいます。説明が面倒なので、嫁には内緒ですよ。とりあえず座って待っていてください。用意してきますから」


 俺は元々母親が使っていた二階の部屋へと向かったが、彼女は俺の後をついてきた。


「待っててもらっていいですよ、木谷さん」

「それでは悪いので手伝います。あと、亜耶音と呼んでください、真史さん」

「分かりました、亜耶音さん」


 一体彼女がどんな思惑で俺についてきて、今何を考えているのかいまいち分からない。何かを期待していないといえば嘘になるが、何かが起こると期待するほど楽観主義者でもない。ただ、何の変哲もない今の日常から俺をすくい上げてくれるような蜘蛛の糸が空から垂れてくるのを待っているだけの人生には、本当に倦んでしまったのだ。

 どんなことであれ、何も起こらないくらいなら、何か起こってほしいと思うのは間違いなのだろうか。


 俺は彼女を部屋に通し、押し入れから布団を取り出した。


「ベッドじゃないけど、我慢してください」

「いえ、私は布団の方が好きです」


 その言葉通り、彼女は慣れた手つきで、布団にシーツを被せた。


「これじゃ、私の出る幕がないですね」


 まるで旅館の様に綺麗に敷かれた布団を見て、俺は苦笑した。

 そして入る時に使った家の鍵を彼女に差し出す。


「出るときはこれを使ってください。ポストに入れておいてもらえれば。明日の昼にはここに来ますので、それは承知しておいてください」


 差し出された鍵を彼女はしばらく見つめていたが、おもむろに手を出すと、俺の手を包み込むように両手を添えた。

 彼女はまた俺をあの上目遣いで見ている。まるで、俺に対して極めて効果的な表情であると知っているかのようだ。

 彼女はしばらく、そのままの状態で、俺を見続けていた。

 俺は我慢できなくなり、彼女の手を取ると、少し力を入れてこちらに引き寄せる。彼女は抵抗することなく、いやそれどころか、自ら飛び込むように、俺の胸へと顔をうずめた。

 彼女を軽く抱きしめる。そして髪の毛に軽くキスをした。

 彼女の髪の毛からは、何か、雨が降る直前に大地が放つ芳香のようなものがただよってくる。

 いつまで嗅いでいても飽きない、そんな匂いだった。


「あの……」


 胸の中で彼女が小さくつぶやく。


「はい、なんですか?」

「電気を、消してもらえませんか」

「いいですよ」


 俺は彼女を抱いている腕を緩めると、立ち上がり、天井から垂れさがる照明のスイッチのひもを二回引いた。

 オレンジ色の非常灯だけが灯る。


「それも……消してください」


 言われるまま、もう一度引く。部屋は外の街灯の灯りが薄く差し込むだけの暗がりになった。


「これでいいですか?」


 そう言うと俺は彼女の傍にまた座る。すると、彼女は俺の首に腕を絡め、俺を引き寄せた。

 俺はただ欲望のままに、彼女を抱き寄せ、口づけをし、彼女の服を脱がせる。そして、お互い、生まれたままの姿になって、抱き合った。

 さっき会ったばかりだということが信じられないくらい、お互いを求め、むさぼり合う。


 と、彼女の中に入ったまさにその時、今までにないくらいの力で、彼女は俺を後ろへと押し倒し、俺を上から押さえつけた。


 俺はその拍子に部屋の壁に目を向ける。淡い光に照らされて、彼女の影が壁に映っていた。


 俺を押さえつける女性は、上半身の艶めかしいシルエットとは対照的に、腰から下が異様に大きく丸くなっており、そこから伸びた何本かの足が、山形の影をそこに加えていた。

 一、二、三、四、五、そして六本目。両手を加えると……


「こ、怖い、ですか? 私のこと、怖い、ですか?」


 彼女は俺にそう尋ねながら、激しく喘ぎ、悶え、腰をふった。


 俺の顔にかかる彼女の長い髪が彼女の表情を隠していて、見えない。しかし、彼女とつながった部分から下は、もはや人間のものではなくなっているのが見て取れた。


 ああ、これが、一度でいいから感じてみたかった、エクスタシーなのか。


 俺は、声にならないうめき声をあげながら、そのまま彼女の中へと欲望を吐き出す。同時に彼女も、息がつまるような苦し気な声を出した後、俺の胸へと倒れこんだ。


 しばらく荒い息を吐きながら、俺は脳を貫くような快感の余韻に浸る。

 そして、俺の上に倒れこんでいた彼女を、強く抱きしめた。


「亜耶音、君はとても美しいよ」

「ああ、うれしい……私を追い払ったりしませんか?」


 まるで怯えるように、俺の胸でつぶやく彼女に、俺はもう一度優しくキスをした。


「居たいだけ、ここに居るといい」


 そして、狂気じみた宴が、また二人の間で始められた。


※ ※


 朝起きると、亜耶音はいなくなっていた。ふと視線を感じて天井を見上げる。やや小さめのアシダカグモが部屋の隅の天井にへばりついていた。

 俺は少し微笑むと、嫁に昨夜帰れなかった謝罪のメールを送った。


「今日の夜はさすがに帰らないと嫁に怒られそうだ。とりあえず夜まではここで仕事だけどね」


 俺は天井に向かってそう言うと、仕事部屋で仕事を始めた。

 しかし、今日はほとんど仕事に手がつかず、締め切り間近の仕事をなんとか終わらせたのが、深夜の一時頃だった。


 気が付くと、アシダカグモはいなくなっていた。少し落胆したが、今日は家に帰らないといけないのだから、いたとしても相手はしてあげられない。

 仕方なく帰り支度をして、車が置いてある駐車場へと向かった。


 鎮守の森を進み、昨日、亜耶音が座っていたベンチに差し掛かる。

 と、今日もそこに人が座っていた。今度は、十代半ばくらいの少女のようだ。やや長めのおかっぱ頭が、うつむいたままピクリとも動かない。


「こんな深夜に、そこで何をしてるんだい?」


 俺がそう声を掛けると、少女は少し顔を動かし、物憂げな表情で俺を横目で見た。


「……家を、追い出された」


 少女が発した言葉は、しかしまだ声変りをしていないくらいの男の子のものだった。


「追い出されたって、親御さんにかい?」


 そう訊き返した俺の言葉に、少女は黙ったまま軽く頭を振る。


「そんなところで夜を明かすのもなんだろうから、とりあえず一晩、私の家にいるかい? 親御さんには連絡してあるのか?」


 俺がそう言うと、少女はまたうつむいた。

 俺は返事をせかすことなく、少女が何か言うのを待つ。しばらくして、少女はうつむいたまま口を開いた。


「ボクはそんなつもりじゃなかったけど、アヤ姉が一回会ってみろって言うから」

「アヤ姉? ……亜耶音さんのことか?」


 少女は俺を見ると、軽くうなずいた。


「なるほど。君も人間に追い出されたのか」

「ボク、何も悪いことしてないのに」


 少女は下唇を噛んで、横目で地面をにらんだ。


「そうだな。とりあえず、家においで」


 俺はそう言うと、また元来た道を戻ろうとした。


「あ、あの」


 そう言って少女は立ち上がり、俺の袖をつかんだ。


「ん? どうかしたのかい?」

「ボク……男なんだけど、いいのかな」


 その言葉に、改めて『少女』を見たが、着ている服は黒を基調としたレースの飾りがついているゴシックなワンピースで、どこから見ても女の子にしか見えない。


「ああ、いわゆる『男の娘』なのかな。寝る場所を貸すだけなんだから、良いも悪いも無いよ。まあ、そういうのも嫌いじゃないけどね」


 そう言って俺は笑ったが、その男の娘は俺の言葉を聞くと、俺の腕を抱えてぴったりと体を寄せてきた。


「名前は?」

「伽牟呂」

「そっか。俺は」

「真史さん、でしょ」

「ああ、よろしくな」


 伽牟呂は年齢に似つかわしくないほどの艶っぽい眼で俺を見つめている。


 俺は……糸に捕らえたのか、それとも、捕らわれたのか。

 もう、どちらでも構わなかった。


 俺は伽牟呂と腕を組んだまま、今夜のエクスタシーに思いを馳せ、背徳の住処へと向かった。

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