2 いつか誰かに手を引かれたくて

10. 選択肢




 私はいつも選択肢を間違える。しかも、間違えたというその事実に気づくのは何日も経ってからのことで。だから私はいつも、ああ、私って馬鹿だなあとしみじみ思うのだ。


「ねえ、波川さんさあ、いつの間に篠原さんと仲良くなってたの?まさかクラスのど真ん中であんな恥をかかされるなんてさ。あたしにちゃんとお詫びしてよね」


 女子トイレに入ると、後ろからクスクスと小さな笑い声が聞こえてきた。不思議に思って振り返ろうとしたその瞬間、背中に衝撃が走り、気づけば目の前に床があった。


 どくん、と鼓動が飛び跳ねて気持ち悪さが込み上がってきて、無意識に唾を飲み込み、喉を締めた。


 どうし、———よう。


 何かを考えようとしても、その先がぐしゃぐしゃに書き殴られて真っ黒になる。



「あんたのそのびくびくした態度、前から嫌いだった」


 中村さんの顔が頭の中で黒く塗りつぶされる。彼女のその嫌悪と怒りに満ちた、ざらついた声からその表情が怒りで染められていると容易に想像がついた。


けれど、私は中村さんの顔を見れず、ただただ俯いて床に落ちていた制服の繊維らしき糸を見つめて、頭の中にこの状況を映し出した。けれど何度想像してみても、中村さんの表情が作り出せない。だって、中村さんが怒った顔をしているところなんてクラスで見たことがないから。



 真っ黒な思考の中——頭の中に篠原さんの弱々しく柔らかい笑顔が思い出される。篠原さんは、私に言った。


「波川さん、あの、よかったらなんだけど、お昼一緒にどうかな?」

 と、恥ずかしそうに何度も目を逸らしながら、遠慮がちな声で。それで、私は言った。


「ごめん、今日のお昼はちょっと都合が悪くて」


 これを三回、繰り返した。


篠原さんは、いつも「そっか。いきなり誘ってごめんね」と、毎回口にしていた。


四回目は訪れなかった。都合が悪いと言って私が行く先はお昼の時間に影になってしまう校舎の端っこ——体育で使う備品類が置いてある物置小屋の近くのベンチ。



 部活で使うものが置いてある物置小屋は運動部の部室近くにあって、此処とは少し離れた場所にある。故にお昼休みにこの場所に来る人はほとんどいない。私はそのベンチに座ってお昼ご飯を食べていた。一人で。





「ねえ、桃子、爽詩くん達にチクられないようにちゃんと釘刺しておかないと」



 中村さんの他にも何人か女子がいるらしく、その声は不安に揺れていた。みんな、司波くん達が怖いんだ。


 でもさ。でも、私は彼らと何の関係もない。ひとりぼっち。だから、釘を刺しても刺さなくても私は彼らに、篠原さんに、助けを求めるなんてことはしない。できない。


 だって、私は彼らが苦手だ。だから篠原さんの誘いも断った。


「そうね。ちゃんと言っとかないと。ねえ、爽詩くんたちにチクったらあのクラスで息なんてさせないから」



 鋭い金切り声を上げた中村さんのその言葉に、思わず自分の喉に触れた。息が、できなくなる。それはきっと、生徒会長が篠原さんを守ったあの日と近い感覚に支配されるってことなのかな。そんなの、怖い。



 嫌な汗がふき出してくる。

 私、あの時、篠原さんの言葉に頷いていたらきっとこうはなっていなかったはずだ。選択を間違えた。



 篠原さんの、一生懸命に黒板を消す華奢な背中が思い出される。本当は、篠原さんと話してみたいと思ってしまった。でも、私は生徒会長が直感的に苦手で、あまり近づきたくない。それにあの人達は私とは住む世界が違いすぎる。


 他のクラスの女子がトイレに入ってきたことで私は中村さん達から解放され、私は気づけば自分のクラスに戻ってきていた。此処まで戻ってくるまでの記憶が曖昧で、自分の内側がゆらゆら揺れている気がした。




「じゃあ楓、またね。また放課後に」


「うん、わかった。またね、爽詩」


 司波くんはまた篠原さんに会いにきていたようで、教室の中にいた。ふわふわの柔らかそうな髪は、彼が歩くたび微かに揺れていた。


私は司波くんとすれ違う瞬間、彼の顔を、少しだけ見たくなってしまった。けれど顔は上げなかった。司波くんの少しだけ緩められたネクタイを視界に入れて、ああ、私ったら司波くんに近づきすぎだ、とぶつかってから気づくのだった。



「っと、悪い。大丈夫?」


「あ、はい。大丈夫、です」


 司波くんの視線を感じて、私は自分のつま先を見ていた。そして、気づいた。つま先のその先に銀色の——。


 彼が私の横を通り過ぎていくその刹那に、そういえばさっき何かが落ちる高い音が聞こえたと時間差でぼんやりと思い出された。


 それは鍵で、鍵はきっと持ち主にとってとても大切なものに違いなくて。


「し……っ」


 司波くん。私の喉はきゅっとしまって、彼の名前を呼ぶことすらままならない。



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