8. 対立
黒板には、私の名前と様々な言葉が隅っこの方にまで書かれている。
しょうがない。しょうがない、よね。
こういうこと、篠原さんだってされてた。それを私は今まで見てたじゃない。自業自得。しょうがない。
身を、任せ、て。
「このクラス、本当、腐ってんな」
その溜め息まじりの声は私の耳にすっと入ってきた。その声だけが明瞭に聞こえてきた。それはきっと私に対して悪意のない声だったから。
無意識に俯いていた私は顔を上げた。すると、頰を伝っていた涙が床に落ちていった。
私は泣いていた?いつから?これは本当に私の涙なの?
視界がぼやけるその中で、司波くんを見た。
背が高くて、すらりとしていて、ふわふわのミルクティー色の髪。どうして彼がうちの教室にいるんだろう。さっきの声は、司波くんなのかな。
「つーか、皆、このお嬢さんに逆らえないんだよね。ははっ、このクラスの男子どうなってんだよ、弱いにもほどがあるでしょ」
司波くんは呆れたように笑って、教室の真ん中で机の上に座っている中村さんに近づいていく。その間に、私の横を篠原さんが通り過ぎて行った。女の子の優しくて柔らかい甘い香りがした。鼻をすすって、自分で涙を拭いながら篠原さんを目で追うと、彼女は黒板の前まで行って真ん中から文字を消し始めた。
「えっ、篠原さん……。」
自分の声はひどく掠れていた。
「爽詩くん、なんで怒ってるの?だって篠原さんのことは傷つけてないじゃん」
「今まで傷つけてきたんでしょ。中村の、お前の中身が腐りすぎてることに怒ってんの」
司波くんは、にっこりと笑って抑揚なく静かにそう言った。
中村さんは一瞬、傷ついた顔をしたがそれでも司波くんを鋭く睨んで、脚を組んだ。
「私の中身がどうであろうと司波くんには関係ないんじゃない?」
「楓がこのクラスにいる限り、関係あるんだよね、残念ながら。お前みたいなのがいると困るんだよ。今だって楓のやつ泣きそうなんだから。自分よりも友達が傷つけられる方が痛い、ってやつ」
「はあ?友達?」
中村さんは眉間にしわを寄せて苛立ちの声を発した。
司波くんが私をちらりと見て、一瞬、柔らかい笑みを浮かべた気がした。
友達って、私のこと?そんなはず……。だって私は篠原さんをちゃんと助けなかった弱虫なのに。
「瀬那、昨日ちゃんとこのクラスの奴らに言ったのかよ」
「ああ、言ったよ。楓に次何かしたらって」
司波くんは中村さんを見据えたまま、生徒会長に話しかけた。会長はいつの間にか教室の後ろの扉に寄りかかっていた。彼は俯きがちに気怠そうな声を出して返答をした。
生徒会長のあの様子は怒っているのかな。それとも呆れているのかな。感情が読み取れず、この後どうなるのか想像が全くできない怖さ。
「それが悪いんだろ。瀬那は過保護すぎるんだよ。楓に手を出さなければいいみたいな思考回路になっちゃってるからね、こいつらは」
司波くん。彼は私の中で怒らずにいつも笑っているイメージしかなかった。だから余計に混乱して、不安で。
「まあ、極端に言えば、僕は楓以外興味ないからそれでもいいと思っているところがある」
「……お前なあ」
生徒会長のその言葉を聞いて司波くんはやっと静かな怒りの込められた笑みを崩して、深く溜め息を吐いた。
「爽詩くん、あたしは中村さんのことも波川さんのことも虐めてないよ。二人が少し勘違いしちゃったんじゃないのかな?ほら、虐めの境界線ってすごく難しいもん」
中村さんは私に目配せをして同意を得ようとした。けれど私は体がびくりと震え、奇声のような塊が喉に詰まり、声が出なかった。
「虐めの境界線、ねえ。君でもそんなこと考えるんだ。意外だなあ。でもさ、」
司波くんは少し屈み、中村さんの耳元に顔を近づけて何かを囁いたようだった。みるみるうちに中村さんの表情は変わっていく。
「あたしが、そんなわけ……。そんなわけ、ないじゃない」
中村さんは平常心を装っているつもりなのだろうけれど、その目は焦りに染まっていて目の前の司波くんに言うべき言葉を必死で探しているようだった。
唇がパクパクと開いては閉じを繰り返し、それでも言葉は見つからない。
「強者は弱者を置かなければ強いということを示せない。権力を振るうってそういうことだろ。君は、中村さんは強者になってこのクラスで上の地位にいたいんだ。そうだな、例えば君の一言で誰かを奈落の底へ突き落とせるような。そういうのって快感なんでしょ?でもその快感は常に恐怖と隣り合わせだ。俺らみたいな奴にいつ蹴落とされるんじゃないかって不安なんだろ。だから虐めの境界線なんて言葉が出るんだ。境界線。そんなの簡単だろ?自分が相手より上だと思ったその瞬間から、その次の言葉から虐めなんだよ」
司波くんの声は、低く落ち着いて明瞭に聞こえた。
クラスの誰も声を出さずに彼の声を聞いていた。隣のクラスの声が小さくざわざわと聞こえていたお陰でこれが現実なんだと認識できた。
言ってしまえば、まるで現実味がなかった。だって、今までこんなことを言う人に私は出会ったことがなかった。高校生なんてみんなにどれだけ合わせられるかだと思っていたところがあるからだ。
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