Big Guy's Blue

いずみさわ典易

第1話

 今どきの日本には、身長が190センチ以上でとびきり足の長い男なんていくらでもいる。それだけでも目立ってしょうがないのにキンキンのド金髪、なんて奴だってたいして珍しくなくなってきた。

 のだが……

 1983年夏のある日、どこかで俺は生まれた。一応は病院で生まれたのかもしれないし、トイレにぼっとんと産み落とされたのかもしれない。もしかしたら人里離れた山村の馬小屋のすみっこあたりでこっそり生を授かったのかもしれん。

 誕生日は戸籍では8月1日になっているが正確な誕生日とは言えない。俺が生まれた時正確にそこにあったのは、やがてこんなにでかくなる体と名前だけだったんである。

 20年前の暑い夜、おばあちゃんの家、〈めぐみ園〉の前に俺は置き去りにされていた。朝の光がまぶたの裏ににじむと同時に泣きだし、おばあちゃんに見つけられた。

 園の主治医の加藤先生はちょっと大きめの赤ん坊、つまり俺をひと目見て生後一週間ときっばり言い切った。その日が8月8日だった。

 で、誕生日は8月1日。

 俺はでかいバスタオルにくるまれて段ボール箱に入れられていた。バスタオルには黒のマジックインキでデカデカと六つの文字が書きなぐられてあった。そこに書かれていたのがもし下の三文字だけだったなら、それは俺の名前だろうってなことにはならなかったかもしれない。だがバスタオルには誰にも見落としようがないほどデカい字でひらがなとカタカナが六つ並んでたんである。

 こんなふうに――


 あらきガメラ


 あらきぐらい漢字で書けよな……。

 「おばあちゃん……」

 なんとなく気がふさぐたび――誰かが「気がふさぐ」という言葉を使うのを聞いて以来、俺はたびたび気がふさぐ子供になっていた――いつもポクは訊いたもんだった。

 「なんで他の名前にしてくれなかったの?」

 園の責任者で第一発見者でもあるおばあちゃんなら、あんなバスタオルなんてなかったことにできたはずだ。そしてもっとフツーの名前にすることができたはずだ。おばあちゃんにならそれぐらいの権限があったはずだ。――ボクはいつもそう思っていた。

 だが、おばあちゃんはボクがそう訊くたびにニッコリ笑い、こんなことを言った。

 「だって素敵な名前でしょ。アンタのお父さんとお母さんの愛がつまったとっても素敵な名前だもの!」


 愛――?


 これはどんだけ大人になろうが絶対に揺るがない、否定しようのない真実だからおおっぴらに言っちまうが俺はおばあちゃんが大好きだ。おばあちゃんの笑顔以上の笑顔にはいまだに出会ってない。だが、そんなおばあちゃんに笑顔で言われてもこれまた否定しようがなかったのは、これを言われるたびに、何それ? だった、ということだ。

 園の兄弟達はガキの頃からたびたびこの言葉にけつまずいたらしい。けつまずくたびに、いちいちその意味を考えさせられたようだ。クニなんか、

「よく飽きもせずってぐらい考えたもんだよ」

 てなことを言っていた。

 でもポクにとっての愛はハナっから園の中にしかなかったんである。

 なのにおばあちゃんは、

 〈お父さんとお母さんの愛〉

 ってなことを言う。

 ガキのボクは錆びた釣り針でも飲み込んじまったような気分になっちまったもんだ。

 すると、眉間にかわいげのないシワを寄せたポクを見おろし、おばあちゃんは必ずこう言った。

 「ガメラはほんとに強いんだよ。どんなに自分が傷ついても地球を守り抜くんだ。だから私達もアンタをガメラって呼ぶことにしたんだよ。役場では別の名前にしなさいっていわれたけどおばあちゃん頑張ったんだから、これがこの子の名前です! これしかありえないんですって!」

 これには弱かった。強い! 守り抜く! てな言葉がドスンと胸にきたんである。


 てなわけで、俺はどうにか名前のほうは嫌いにならずにすんだ。小学校に通うようになってからけっこう名前のことでからかわれたもんだが、まったくガキだよなあこいつら、てな感じ。

 だが、ガキってのはまったくしょうもない。忘れた頃にまた間題を抱え込むんである。そいつがまた時として一生かかっても解決できないような難題だったりする。

 それは忘れもしない、小学校5年になった直後のジメジメした季節、園庭のアジサイを眺めてたら突然やってきた。

 ぜんぜんいい天気になんないなあとか思ってた俺の頭にまずぼんやり浮かんできたのはいつものパターン、何一つ思い出せないママさんの影だった。で、突然気づいちまったのだ。


 ママさんが自分の苗字を書き残してくわけがないんだ!

 そんな、証拠になっちゃうようなもの!

 ってことは、

 アラキってもしかして……。


 気づいちまったらもうそれ以前の自分には戻れない。自分が名乗っている苗字は自分の父親の苗字なんだと、そう気づいちまった自分は捨てらんないんである。

 その日から〈お父さんとお母さんの愛がつまったとっても素敵な名前にまつわる物語〉を練り上げていく、俺の長い長い日々がはじまった。

 はじめその物語は、全然お語にならない、ツギハギだらけのストーリーでしかなかった。いくら早熟だとは言え、小学生にオトナの男女の実態がわかるわけがないからだ。結婚もしてないのにどうして赤ちゃんができちまったのか、てなことで悩んでたら、それこそお話にはならないんである。

 だが人間いつまでもガキじゃない。かつてはツギハギだらけだったそのストーリーも、いつのまにか知らずしらず完成してたんである。

 そう、それはこんな物語だ。


 大きな赤ちゃんはパパさんとママさんが結婚しないうちに発生してしまいました。でもママさんは、ある日パパさんに逃げられてしまったのです。あら大変! ちょっとはあわてもしました。でも、あんまりあわてるとおなかの大きな赤ちゃんによくありません。ここは一つ――おなかがこんなに大きくなったことでもあるし――腹をすえてやったろ-じゃないの! 結局ママさんは一人で、病院か自分ちのトイレか山あいの馬小屋かで、無事大きな赤ちゃんを生んだのでした。私生児くんのいっちょあがりです。

 おなかから出てきたのは、とびきりかわいくて、その上どんな赤ちゃんより存在感に満ちた、それはそれは立派な赤ちゃんでした.とても大きな赤ちゃんが出てくるだろうとは思っていましたが、そこは思った通りだったのですが、でもやっぱりママさんは感動せずにはいられませんでした。

 こんなのがわたしのお腹から出てきたなんて、すごい!

 でも、です。でもやっぱり一人では、とても赤ちゃんなど育てられるものではありません。ママさんは困りました。大きくてかわいい、素敵な赤ちゃんと二人で飢え死にするわけにもいきません。この子を殺して自分も! なんて、もちろんそんなこともできるものではありません。なんたってこんなかわいい赤ちゃんを殺せるわけがないのです。

 ああ……。

 ママさんは本当に困りました。でも、本気で頑張ったり悩んだり、どんなことでも本気でやっているとしぜんと出口は見つかるものです。はたとママさんは気づいたのでした。

 そういえばあそこに!

 ママさんの頭に閃いたのは他ならぬめぐみ園でした。そうです。ママさんは、大きくてかわいい飛びっきり存在感に溢れた素敵な赤ちゃんを見つめながら決心したのでした。

 あのおばあちゃんにこの子を任せてみよう!

 ママさんはあくる朝、ちょっと離れた町のスーパーへ向かいました。大きなバスタオルを買い、段ポールをもらうためですすると、買物をすませ、レジを出たところに置かれていた段ボールに手をかけようとしたその時です。ママさんは、自分がグラグラと激しく揺さぶられるのを感じたのでした。

 あ、あれえ、どうしちゃったんだろう? ええ、やだあ、涙が出てきそうだあ。

 激しい揺さぶりは、そうです、ママさんの心の大地震でした。パパさんに出会ってから大きな赤ちゃんを抱いている今この時までのあいだに起きたすべてのことが、一つの大きなマグマ、震源となって、ママさんを心の奥底から激しく揺さぶったのでした。

 ママさんは大きな赤ちゃんを胸の前にぶら下げ、大きなバスタオルを腕に抱き、スーパー

のトイレに駆け込みました……。

 トイレから出てきた時、ママさんの目は真っ赤にはれ上がっていました。でももう足どり

は普通に戻っています。

 「ちょっと買い忘れちゃった物があって:…」

 ママさんはちょっと笑ってレジの人にバスタオルを預かってもらい、文具売場へすたすた歩いていきました。そして、一番太いマジックインキを手に取ったのです……。


 俺には断言できる。こうしておばあちゃんに育てられることになった俺には自分をめぐみ園に任せたママさんへの怒りはひとかけらもない、と。だから俺の苗字がアラキになってしまったのも、それはそれで仕方がなかったんだと思える。

 でも、である。いくらそこんところが理解できてもだ、現実にその苗字を好きになれるかどうかは、また別問題なんである。ママさんと俺を引き離した、と言うか、その原因を作った男の苗字を好きになれるわけがないんである。

 さて、この物語にはもうちょっと続きがある。その日ママさんが買ったのはバスタオルとマジックだけじゃなかったんである吊リ存在感バッチリのかわいい赤ちゃんと二人で霜車に揺られながら、ママさんは、これだけじゃ何かが足りない! と気づいたのだ。


 大きな赤ちゃんを胸の前にぶら下げ、大きなバスタオルとマジックインキが人った袋を右手に、段ボールを左手に抱え、ママさんは電車に乗りました。目はまだ赤いままですが、それはどうしようもありません。放っておくしかありません。ただ電車の窓から見える遠くの景色を見るだけです。遠く遠く、ずっと遠く、犬きな赤ちゃんの幸せがあるところ。

 幸せってどこにあるんだろ……。

 自分はもうポロポロです。そんな気分です。

 でも、ガメラはまだ幸せになれる……。

 ママさんは女なのに、だから小さい頃は女の子だったのに、なぜか妙に怪獣のガメラが大好きでした。だから赤ちゃんの名前はもうはじめっからガメラだったのです。そこのところはストーリーとしてゆずれません。赤ちゃんの父親になるはずだった人がガメラのファンだったから、とか、だからふだんその人のことをガメラと呼んでいたから、とか、そんなことはあってはならないのです。ママさんがガメラが大好きだった、だから大きな赤ちゃんにガメラと命名した。それ以外にはありません。ただ赤ちゃんは怪獣じゃありません。人間です。一人で生きていけないことはママさんが誰よりわかっていました。

 ともだち……。

 ママさんは目の前におとなしく収まっているガメラちゃんと一緒に、おもちゃ屋さんがありそうな町の駅で電車を降りました。そして最初に見つけたおもちゃ屋さんにすたすた入って行って、ギャオスのビニール人形を手に取ったのです。

 ケンカするかもしれないけど、一人よりはずっといい!

 幸せのありかを見つけたようなとっても明るい目で、ママさんはギャオスを見つめました……とさ。


 そう。バスタオルには俺の隣りにちょこんとギャオスの人形が収まってたのだ。俺はその人形とそれが意味するところを後生大事に抱え、今日まできてるってなわけなんである。部屋に帰ればラジカセの隣りにギャオスが立ってるし、これまでずっと、のっけケンカしちまうような奴ほど、最後にゃいい友達になれるんだと信じてやってきたつもりだ。

 が、しかし――

 こいつ。

 このオバサンである。

 この不愉快きわまりないクソババアに対してはさすがの俺もそんな気にはなれそうもない。こいつは、仕切りで区切られただけの狭い応接間へ俺を呼び、自意識パンパン、オバハン特有の甘ったれた声で、恐れ多くもこのようなことをおっしゃいやがったのだ。

 「ナマエ考えてくれるウ?」

 俺は一瞬、その意味を理解しかねた。

 「は? 名前、ですか?」

 マヌケづらして目をばちくりやらかしたもんである。

 化粧面皮のオバサンは表情一つ変えやしない。

 「そ。な、ま、え、、社長にキミの分の名刺作ってくれって言われたんだけどね、ウチの社員の名刺に、いくら本名だからって……ねえ」

 園の兄ちゃんや姉ちゃん達は俺をとことん可愛がってくれた。まるで仔犬か仔猫でも見つめるようにいつも俺を見つめてくれてたもんだ。物心もつかない頃のそんな記憶が妙に鮮明に刻みこまれてるのは、おばあちゃんのこんな言葉が脳みそに残ってるからだろう。

 「ガメラだけが弟じゃないんだから、アキやクニとも遊ぶの!」

 自分の頭の上をそんな言葉が飛び交ってたのを、なぜか俺は覚えている。

 最初はみんな、俺の名前を呼ぶのが面白かっただけだ。てなことは俺にだってわかる。でも俺が徐々に並外れてデカくなりだすとちょっと事情が違いはじめた。いつも遊びやロンギの中心に俺を据えるようになったんである。なかなかロンギに決着がつかない時などこうきたもんだ。

 「ねえ、ガメラはどう思う?」

 俺はぼそっと、どっちともつかないようなことを言う。そんな、どうでもいいひとことを結論にしようってんである.

 いくつになった頃からなのかは知らない。気がつくと俺はど真ん中にいた。と言うか俺を真ん中に置いとけばたいがいうまく行くってな風潮ができあがってたようなんである。ではあるんだが、眉間にシワをよせたきり黙りこんだ俺を見て「ガメラも困った」ってな結論が出るようになったりした背景には、俺が必要以上にデカくなった、で、名前にハクがついたってな以外にも、もう一つちゃんとした理由があった。園で二週間に一回催されていた映画会なるもので三ヶ月に一度ぐらい、園児一同、ガメラの映画を見させられてたんである。

 1965年。俺が生まれる18年前、最初のガメラが公開された。ゴジラよりは13年遅れるが、ウルトラマンより一年早い。てなくらいでガメラの映画はどれも古くて最初のが白黒だったぐらいなんだが、いやはやどれもこれもが大好評だった。ギャオスやギロンにやられ、緑の血を流しながら海の中で養生していたガメラがやっとこさ復活し、「アッタマきたあ!」ってな勢いで海から飛びだしてくると、みんな大喝采だったもんである。

 この〈ガメラ上映会〉を通じておばあちゃんは、ガメラがいかに素晴らしいか、この名前がどんだけすごい名前なのかをみんなに教え、そうすることでみんなに俺の人格を認めさせようってな考えだったようなんだが、それが度を越しちまってた。おばあちゃんも、

 「ちょっと薬が効き過ぎちゃったみたいだなあ。みんなアンタばっかり頼っちゃって」

 てなことを言いつつ苦笑いしてたが同感だ。俺は地球の守護神なんかじゃない。何ができるわけでもない。弟や妹達の涙なみだに見送られてこの街へ来てから約5年、つくづくつくづくである。

 そんな、この名前ゆえにより多くの愛を授かってきたってな歴史を持つこの俺に向かってこのオバサンときたら、である。これが俺への、かつめぐみ園への挑戦状でなくてなんであるのか――第一てめえは、いや貴様はどなた様なんでしょう? 眉間にシワ寄せ見やるとこうきた。

 「アーラ、あたしったら! 初めまして。安藤の妻でございます」

 ああ……。

 安藤は社長の苗字だ。てえことはつまりこの化粧のバケモン、いやお化け様は社長夫人様なわけだ。人ってのはわからん。こんなチンとあの社長がなぜめおとたりえるんだ?

 たしかにこのチン、往年はそれなりだった様子ではある。整った骨格やいちいちデカづくりな目鼻だちに、それは認められなくもない。がしかしもはや、整った骨格は頬や顎がユルユルで元も子もない。目鼻は正しい形状を見失っちまってる。そんな明快な事実を、アーラアーラと笑ってればごまかせるとでも思ってるんだろうか。

 てなことはともかく、オバサンのアーラはありがちな成り行きで自分の話へと突人していく。自己紹介してるフリして自慢話でもおッパじめようってえのだ。

 ほらね。

 (以下、てなこと言ってたような気がする、という記憶から)

 初めてキミの前に現れ出たアタシは押しも押されもせぬ社長夫人であって普段は会社の経理のチェックを自宅でやってて、それは旦那のやっていることを知ってると子供を育てていく上で非常に好ましいことだし夫婦二人三脚というのも悪くはないのよ。ウチの父親は公務員だったんだけどねとにかく退屈な人で正直ちょっとねえって感じ?母親も母親でいつも苛々してるくせに私達に向かってはお父さんが働いてくれてるからとか言っちゃってウソつきって言うかだからいつも思ってたのよ自分で会社やるような人がだんな様だったらなっていいわよう二人三脚自分がいてこの人がいるあの人もあたしがいなきゃちょっとダメって言う感じ?アーラなんだか自分のことばっかりでごめんなさいねでもコミュニケーション?それって大事あらやっと来たみたい。もっと駐車場が近かったらねえ。アラなんだったかしら? あそうそう二人三脚はいいんだけど税務署を相手にするのはけっこー大変けどそんなことで疲れちゃったらやっぱりゴルフ荒木さんももうちょっとそうもうちょっといいトシになったらゴルフおやりなさいゴルフはいいわよおなんたってねほらこのウエストそれに足首のあたりあたりあたり…………

 どうでもいい話が長くなるほど自分の世界に引きこもっちまうのは俺だけじゃあるまい。ガメラはほんとに強いんだよ……守り抜くんだ……おばあちゃんの言葉が次々に頭に浮かんでくる。そして俺は首を傾げた。


 おばあちゃんは、なんで〈おばあちゃん〉なんだろう……。


 もちろんこんな疑間は今にはじまったこっちゃない。ガキの頃からの謎であり、本人に問いただしたりも実際したもんだ。だが、いつもこれだった。

 「だっておばあちゃん、おばあちゃんなんだもの」

 これじゃわからん。

 まだ55,6のおばあちゃんが、なぜ20年前から〈おばあちゃん〉だったのか。今さらながら俺は首を傾げた。


 〈ジャバンなんとかクライストなんとかかんとか〉ってな宗教法人の運営するめぐみ園はキリスト教の教えを根底においたいわゆる孤児院だったが、20人ちょっとの兄弟とおばあちゃん、たまに入れ替わっても必ず3人はいた保母さん達、腰にトンカチをぶらさげていつも土をいじってたナベさん、毎度おなじみの加藤先生、てな人達に囲まれての園での暮しは、そこしか知らない俺にとってはただただごく普通の毎日で、何が不自由だってこともなかった。

 キリストさんの宗教法人がやってるんだから、俺達も当然のごとく毎朝アーメンだレーメンだやらされてそうなもんだがこれもなかった。キリストさんがどうしたこうしたなんてことはナベさんはもちろん、弥生ちゃん(初恋の人。当時俺4才、あっち18才)も、市子かあさん(俺が物心ついてから、今でもずっといる保母さん)も、おばあちゃんでさえも、ひとことも口にしたことがないんである。

 ただそこに十字架があり、やせたオジサンが寝てただけだ。

 「宗教は押しつけるものじゃないしね」

 おばあちゃんの口癖だ。

 「だいたい信仰なんて、大人になってからだって遅くないし、ここにいるあいだはほら、全然、ね」

 これは選択肢の少ない俺達への、おばあちゃんのせめてもの気づかいなんだろうと、ある程度の学年になってから俺は理解した。だが思わないではない。俺達に聖書を見せもしないで、よく〈ジャパンなんとか……〉からお叱りがこないもんだ。てなわけで俺は聖書なんて一回も読んだことがないんだが、そのことはジャパンなんとかには一生内緒にしとかねばならない。

 そんなめぐみ園に15年と7ヶ月暮らし、中学を卒業すると同時に俺はそこを出た。 

 クニやアキのようにあたり前の顔して高校へ進む権利は俺にもあったし、ナベさんや市子かあさんも、行かしてもらえるんだから高校ぐらいは……とよく言ってたし、時々遊びに来るサヨねえやトシあにいも、行っといたほうが絶対トクだぜってなことを言っていた。だがしかし、いかんせん中三に上がったあたりから、もう俺はダメだったんである。ウズウズ、ジリジリ、自分をせっつくものを抑え込むことがどうしてもできなかったんである。

 バンドなんてもんをやっている今にして思えば、メンバーを見つけるためだけにもあの町に残って高校に進んどいたほうがよかったかも……ってなことも思わないではない。

 「高校でメンバーめっけてこの町からデビューすっからさ。ほんとはガメラみたいな超インパクトな奴がボーカルだったら最高なんだけどさ」

 てなクニの言葉を思い出し、ハヤまったよなあ、と眉をしかめたことも2・3度、いや5・6回、いや9回ぐらい……

 中学二年になった頃からクニは、ビートルズやローリング・ストーンズはもちろん、ポブ・ディランやジャニス・ジョプリンにいたるまで、俺達世代の音楽とは到底言えないような音楽ばかり部屋で鳴らすようになりはじめた。それはどうやら、クニのクラスにオヤジの影響でそんなのばっかり聞いている奴がいて、そいつから押しつけられるようにして惜りてきたCDを聞いたらハマッちまった、てなことらしかった。

 「いいよね、Jポップスなんかお話になんないよね」

 てなこと言いながらやたらシブいのばっかりかけてるクニと同じ部屋に暮らしてる俺が、「深えよな……」とかいい加滅なことを言いはじめるまで、そうたいして時間はかかんなかった。なんたって同室なのだ。

 でもいくら同室とは言え、

 「ここでほらイーマイナー! これが効いてんだよねえ」

 てなこと言われだすと、音楽〈1〉の俺はもうついてけない。クニが同級生の家でギターを弾かせてもらってるなんて聞かされても、ふーんってなもんで、ギターを弾くような仕草をクニがしはじめても、クニは音楽〈3〉だもんなってなもんでしかなかった。

 てなような俺だ。少なからずクニの影響を受けはしたが、音楽〈1〉、楽器と聞いただけでベタベタのひゃっこい汗とゴマカシ笑いが出ちまうような奴だったんである。自分の意志で楽器を手にする日が来ようとは夢にも思っちゃいない。後悔先に立たず以前、ハヤまったもヘッタくれもない。クニの中では音楽に関することがおツパじまろうとしてる。俺の中ではジリジリが暴れだしてる。てのが当時の現実だったのだ。ガメラならぬジリジリ星人、俺は当時、それ以外の何もんでもなかったんである。

 問題はその「ジリジリ」なんだが、その原因がどのへんにあるのか、俺自身なんとなく気づいてはいた。でもそれは、とても園の中じゃ口にできるもんじゃなかった。てえことは一生誰にも話せやしないってこった。

 とにかく出たかった。わがまま、無謀、裏切り者、何と言われてもしょうがない。とにかくあれだけは抑えきれなかった。以上。

 中三の夏休みももう終り、そろそろタイムリミットだろうという頃、高校には行かないって最初に打ち明けた相手はクニだった。そっかあ、と言ってしばらく黙っちまったクニだったが、やがてこう言ってくれた。

 「大変だろうけど、まあガメラなら大丈夫かもね」

 これに勇気を得て、俺はおばあちゃんの部屋へ向かった。のだが、やっぱりソワソワドキドキもんだった。

 ところが――

 「実はおばあちゃん、なんつうか……」

 俺が口ごもるが早いか、こうきた。

 「アンタなら大丈夫」

 「え?」

 口がバカみたいに開けっぱなしになった。狐に鼻でもつままれたようなもんだ。そんな俺を見て、おばあちゃんは笑った。

 「そんな顔してたらアンタ、ここ出たら取って食べられちゃうわよ」

 「あ、ああ……」

 とりあえず、口は閉じた、、

 「携帯電話持たせたげるから連絡はマメにね」

 「うん、わかった」

 「でね、暮らしてくのに必要な物は、ごめんね、ほんの少ししか揃えてあげらんないけど、アンタには特別、これ内緒よ、ビデオデッキだけは必ず持たせたげるから……」

 「ビデオ?」

 「うん。だから、十五や十六で見てもわかんないだろうけど、いつかもっといろんな経験をしてから見て欲しいものがあるの」

 「なに?」

 「道」

 「みち?」

 「そう。道っていう映画。どこのビデオ屋さんにでも必ずあるはずだから、いつか必ず見てね。きっと見なくちゃいけない時が来ると思うから、アンタには」

 俺には見なくちゃいけない時が来る?

 なんのことやら、ではある。でもマアおばあちゃんの言うことだ、覚えとこう。

 「道……」

 「うん、そう。お願いね。これ、おばあちゃんからの宿題ってとこかな」

 「……」

 こうして、重篤なジリジリを経て、おばあちゃんからは信頼の御託宣を得て、トにもカクにもあの町からこの街へ、俺は出てきたってわけなんだが、この街の駅に降り立って街並みを一望した時の、あの感覚は忘れられない。

 ひとことで言うと、ゴチャゴチャでグチャグチャでグツグツのバリバリでドッカーン!

 そう。とてもひとことじゃ言えない。この体が空に向かってドバーッと広がってくような怖いほどの解放感。未来が束になって押し寄せてくるような心地よい圧迫感。知らぬまにしぽんじまってかすかなドキドキに変わってた「ジリジリ」も根っ子まで消えちまって、マッジ出てきてよかった! てな感じ。


 俺の就職先は園にいるあいだに新聞販売店と決まってた。中卒じゃそんなとこなんだろうと俺も思ってたから、この街へ出てきて3ヶ月間、おとなしく朝3時からの折り込み作業、そして配達ってな毎日をくり返したもんだ。早くも、ドッカーンはドッカーン、俺は俺である。

 てな毎日でまた出ないわけがなかった。

 やっばり出た。

 違うだろ、である。

 こんなんじゃ意味ねえだろ! ときたもんだ。

 ジリジリジリジリ……。

 もうダメ。生まれて初めて求人誌ってやつを買ったもんだ。そして驚いた。

 なーんだよ、である。

 こんなにあんのかよ! ときたもんだ。

 働き口のことである。当然、新聞屋なんてヤメヤメ、と相成った。

 それからどんな日々が訪れたかは想像に難くないってもんだ。昼間のコンビニ、寿司屋、ケンタッキー、マック……長いやつで半年、短けりゃ二日、どんどんアルバイトを変えたもんである。で、もはや四年半、、あと半年でハタチってな頃ここの社長に拾われたようなもんなんだが、その前に……あれとの出会いを俺は果たしていた。

 生まれて初めてプーになって最初の土曜の午後、初めての面接になんとなく行きそびれ、アーケードの入口あたりに自転車を停めて街をぶらついてた。退屈紛れにベンチに腰かけると、すぐそばの街灯の柱に一枚の小さなポスターを見つけた。

 アマチュアのコンサートかあ……。

 一瞬、クニの照れ臭そうに笑った顔が頭に浮かんだ。

 SIMULATE――ポスターにはコンサートのタイトルらしきデカい横文字、その、下にいくつかのバンド名、日時、場所、料金があった。出演バンドは5つ。場所は目の前のビルの7階。日時は今日、午後三時。入場料500円。おばあちゃんからもらった腕時計を見ると2時47,8分。

 どうれ。俺は立ち上がった。クニがやろうとしてるのはどんなことなのか見ておくのも悪くない。ひとバンドあたり100円。損もしない。

 エレベーターを降りるとズッシンズッシン、重い音が遠くから響きフロアを這っていた。ローリング・ストーンズ? 曲名なんて覚えちゃいないがクニに聞かされたことがある。

 目の前には大学生や高校生とおぼしき30人ぐらいの列、背後にはさっき見たポスターがベタベタ。列についてるのはほとんどが一人、数人で来た人達もなぜかは知らぬがひそひそ声、非常に地昧な列。

 やがて自分の番が来て千円札を出したら釣りの五百円玉と一緒にぺらべらのチラシをくれた。その日登場するバンドの紹介文が書いてあったんだが中へ人ったらすでに暗い。折るのももどかしくポケットに押し込んだ。

 オ、チェリオ、チェリオ、ベイベ……

 ズッシンズッシン言ってたのはやっぱり、耳にタコができるほどクニに聞かされた曲だった。クニはこの曲の入ったCDがやけに気に入ってた。俺はそんなことを、俺の背後の、ローリング・ストーンズの切り抜きで彩られたクニのテリトリーの情景とともに思い出した。

 この街でも聞かされちまったな。てなことを思いつつ2・3分も突っ立ってると、チェリオベイベがフェイドアウト、揃って山高帽をかぶった三人組がステージに現れた。顔つきからするとなんとなく大学生っぼい。そんな兄さん方が三人。一人がべース、二人はフォークギターを持っている。

 フォークギターの二人はゴトゴト音を立てながらマイクの高さを合わせ、べ-スの人は何やらボリュームらしきつまみをいじり、ボーンと音を出した。う-ん、何だかコンサートって感じだ。悪くない。

 ん? 俺の視線が止まった。

 右のギターの人はムッツリして弦の調子を合わせはじめた。べースの人もボワーンポワーンと同じようなことをしてる。なのに真ん中の一番背の高い――と言ってももちろん俺ほどじゃない――ギターの人だけ手持ちぶさたにポンヤリ、ムッツリさんのほうを眺めてるのだ。

 はて?

 と思ってたら……自分の調弦を終えた右のムッツリさんがボンヤリさんに歩み寄り何か言った。ボンヤリさんがジャーンとギターを鴫らした。

 ああ……。

 ビアノの調律師という人がいるのは知っていた。俺なんかとは違って音感がやたら確かで、鍵盤をトーンと叩いただけで何を基準にするでもなく、ただ自分の耳だけを頼りにピアノの音の高い低いを正確に調整する、と言うか、できてしまう耳の持ち主だ。ムッツリさんがまさにそれだったんである。ポンヤリさんは、ピアノの調律師と同じ耳を持ったムッツリさんに自分のギターをみてもらおうと待ちかまえてたんである。

 当たり前のように、ボンヤリさんの弦を緩めたり締めたりしはじめるムッツリさん。ボタンのズレでも直してもらってるみたいにただ突っ立ったままのポンヤリさん。べースの人はとっくに調弦を終え、ニヤニヤしながら二人を見ている。

 三人の調弦がすんだ。ステージにはついにドラマーは現れない。ちょっとスカされた気分である。エレキギターでもなし、ドラムもなし……。

 ところが――

 ボンヤリの人がかすれた声でぼそっと、

 「スナフキンズ……!」

 やたらスを強調し、バンド名とおぼしさ言葉を口にした、それを合図に三人が、ギターやべ--スを弾きだした。

 とたんに俺は震えた。

 誰の何て曲かなんて知らない。でもムッツリさんがやたら上手いのはわかった。まるでブロのように偉そうにふんぞり返り、手元も見ずにギターの上の手を縦横無尽に行ったり来たりさせ、そこから、クニに何度も聞かされてきたCDで聞いたようないろんなフレーズを飛び出させる。べースの人も、どんなべ-スがうまいべースなのかなんて俺は知らないが、時々うなるような音を出して俺を引っぱる。

 でも違った。俺が震えたのはこの二人のせいじゃなかった。そんな二人の演奏の素晴らしさよりもさらに俺を震わせ、頭の芯をビリビリクラクラさせたのは他でもない、ボンヤリさんだったのだ。

 うまいのかへたなのかよくわからない、その人の歌だったのだ。

 ほとんどかすれ声。しかし時おり誰かを励まそうとでもするかのように強烈にアクセントをつけて歌うボンヤリさんの歌声は、どこか寂しげだった。でも時おりのアクセントのせいか、園の兄弟達と一緒にこたつにでも入っているような暖かさを感じさせもした。俺の視線は自然と、まるで仕組まれていた罠にでもはまっちまったかのように、ボンヤリさんに引きつけられた。

 ボンヤリの人の視線は客席の上を素通りし、そのずっとずっと先を見ていた。お客なんてどうでもいい。俺達の演奏だって別にどうだっていい。そんな、ほとんど投げやりと言ってもいいような視線は、お客や白分達の音楽を飛び越えたどこかを見つめていた。そんな目を見つめているうちに俺は、なぜそんなことを想っちまったのかは自分でもわからない。が、こんなことを思っちまった。

 この人は、日が照らし、風が吹き、雨にさらされるがままの、そんな寂蓼とした中にただ茫洋と広がるだけの俺達の未来を見つめてる……。

 いやいやいやいや、15才のろくに本も読んだことのない俺がそんなことを思えるわきゃあない。実際はこんなところだ。


 この人は、なんだかすごいものを見つめてる。素晴らしいような、怖いような、そういうものをしっかり見つめてる……。


 はてさて、一曲やり終えると、ボンヤリさんがムッツリの人に何か訊いた。ムッツリの人はふんぞり返ったまま何か言い、すぐカウントに入った。

 フォークギター2本とべ-ス、それはとても気楽な編成には違いなかった。でも、生ギターとべースのゆったりしたリズムに揺すられながら、決して客席を見ないボンヤリさんの目つきや口の動きを眺めながら、気軽じゃない何かを俺は感じはじめていた。何やらむずがゆい気分だ。ちらっとべ-スの人のほうへ目を移すと、ニンマリ笑っていたその人と一瞬目があった気がした。

 たしか6曲、そんぐらい演奏して、パラバラの拍手に送られスナフキンズは退散した。ボンヤリさんの背中には叩けば埃しか立たないような、ミもフタもないサバサバしかなかった。ムッツリさんの背中には、まあこんなもんだ……職人の満足めいたちょっとした重みがにじんでいた。べースの人の背中には、じゃあまたね、てな爽やかさがあった。


 次も3人組だった。でも今度はギター兼ヴォーカルにドラムとべース。最初に俺が期待してたビートつきの3人組である。バンド名は〈ナンバーズ〉。明りに当てたくしゃくしゃのぺらべらからそう読み取れた。

 ナンバーズは、かけ声のようなコーラス、一直線に突き進むビート、誰でも思わず乗っちまうような曲ばかり立て続けに演奏しまくっていった。そんなナンバーズの演奏を聞くうちに俺は、さっきから自分の中に発生していたむずがゆさの正体を否が応にも察知しちまわないわけにはいかなかった。


 やりてえ! バンドしかねえ!


 初めてこの街と関れたような気がした。


 コンサートの帰り道、俺は静かな、でもガッチリ固まって動かしようのない決意で胸をたっぷりあっため、ホクホクした気分で楽器屋に寄ったもんだ。もちろん何もかもがチンプンカンプン、値札に書かれた数字にただただ仰天して出てきただけだったが……。

 トにもカクにも稼ぐことだ。翌日俺は、きのう面接に行きそびれたハンバーガー屋を横目で見やりながらそのはす向かいの店へ行き、速攻でアルバイトを決めた。目標は5万。貯まるまでにどのギターがいいか、雑誌を片っぱしから立ち読みして決めておき、やっぱり5万で足りないとなったらその時はしょうがない、おばあちゃんから授かった貯金通帳に手をつけるしかあるまい……とは思ったのだがバイトを始めて2,3日後、俺は思い出した。この街に来たばっかの頃に買ったタウン誌に「譲ります」とかいうコーナーがあったような……。

 俺はさっそくコンビニヘ行ってタウン誌をめくった。そんなようなコーナーはたしかにあった。なんと「ギター譲ります」という文句も、あった。

 ――3年使用のエレキギター(モズライト)を25,000円ぐらいで。ソフトケース付き。エフェクターも安価で。

 モズライト? まあエレキギターには違いないんだろう。

 エフェクター? これもギターか? わからん。

 俺はそこにあった7桁の電話番号とササキという3文字を頭に叩き込みコンビニを出て、すぐさま携帯電話のボタンを叩いた。

 「じゃあ見てみますか?」

 佐々木さんの声はがさがさのおばさん声だった。が、翌日、「190センチ!」を目印に街のど真ん中の公園にやって来た佐々木さんはどっからどう見ても「ジーンズが似含う素敵なお姉さん」でしかなかった。

 さて、「ジーンズが似合う」などとひとことで言ってしまうと何でもなく聞こえる。ところがこれが難しい。なかなかに厳しい。

 まず、とにかくスタイルがグーでなけりゃならん。出るべき部分が出てて、しかもその出方がうまくいってて、断じて出過ぎててはならない。なおかつ全体のイメージが明るく爽やかでなければ、いくらスタイルがよくても「残念でした」だ。てえことはどういうことなのか。ジーンズが似合う、イコール最高!

 そんなような年上のお姉さんに突然、「あの……」と声をかけられ、見上げられちまったとしよう。そこで16才のうぶな少年が一瞬、自分が今そこにいる理由を見失い、「こんな最高な人が俺にナニ?」などと思い上がった思いを胸によぎらせ、そしてそして少々頬を赤らめたところで、一体誰が彼を責められる?

 「あの、荒木さん、ですよね?」

 佐々木さんはたぶん160センチ以下、背はそれほどじゃなかった。でもジーンズはバッチリ。すごい。そんな彼女と待ち合わせをした俺もまたジーンズの上下だ。着こなしはおねえさんほどじゃないが、細デカいからジーンズ姿はそれなりだと自負している。

 そんな俺が頬を火照らせ、カッコイイお姉さんを見下ろしてる。いい図だ。できあがってる。完壁だ。そんな二人は恋に落ちるべきなのだ。

 でもこんな最高なお姉さんがこんなガキを相手にするわけもない。ギターを25,000円で買ったからといって、ギターにかこつけてしつこく会いたがったりしたらうるさがられるだけだ。

 淡い恋ほど花火の如く……。

 「佐々木さん、すか……?」

 と訊き返すまでのほぼ一秒のあいだに、俺の二度目の恋はあっけなく終った。 だがどんな恋も人間を変えずにはおかないもんだ。俺がジーンズの裾を断じて地面につけないのは、その日の恋があったからだ。

 てなことはともかくギターである。

 まだドギマギして震えてる手をジーンズの尻に押し当てて落ち着け、彼女からギターケースを受け取った。それを肩にかけ野外ステージのほうを指さした。しかしその、客席のベンチまでたどり着くまでの長かったこと、短かったこと。ぜんぜんドギマギが止まらん。もう終ったんだ、花火だ、と自分に言い聞かせてベンチに腰をおろしギターケースのジッバーを、すべてを吹っ切るために! 明日へ向かって! 俺は一秒ゼロフラットで開いた。で、ギターをつかみ出した。

 ローズレッドのボディ。そこにボツポツと茶黒く塗りこめられた真ん丸。その周囲に大きくうねり踊る黄色い花びら。ゴッホの「ひまわり」が妖しく進化しようとでもしてるような……。

 そうなんである。俺が手にしたギターのポディ、そのど真ん中には陰影たくみな、バカでかいヒマワリが咲いてたんである。

 なんかカッコイイような、そうでもないような、どっちにしろイメージが違う。

 荒々しい息吹き豊かに咲く花を前に俺の期待はゼロコンマ一秒で駆け去り、血の気の引いた頭でぼんやり思った.

 佐々木さんって……絵、うまいんだ。

 「高校ん時使ってたんだけど、そっかあ、やっばりね。なんだか、ごめんね」

 何がごめんなのか。真っ赤なボディやヒマワリのことを電話で黙ってたからか? だったらマアその通りなんだが、ここで怒ったりしたらただのバカだ。ガキだ。

 「いや、なんーつか、こんなすごいの25,000円ぼっちで売ったりしちゃダメっすよ」

 16のガキにしちゃあ、ずいぶん気の利いたセリフが口をついたもんだと我ながら思う。それもこれも相手がジーンズクイーンだったからかもしれない。

 俺はギターをケースに戻し、そっと手渡した。

 佐々木さんは俺がハンバに閉じたジッパーを最後まできちんと閉じた。

 「荒木さん、ギター欲しいんだよね」

 「ええ、まあ」

 「じゃあ、あそこ知ってる? ルツポ」

 「るつぼ……?」

 「うん、ルツボ。中古の楽器屋なんだけど」

 その日、バイトのあとでルツボとやらへ向かった。場所は佐々木さんが教えてくれた。そばに転がっていた石で地面に地図を描いてくれた。

 狭い階段を昇って〈ルツポ・楽器部〉のドアを人るとその5秒後、俺の目は一本の漆黒のギターの上で止まった。テレキャスターとかいうやつ、クニの切り抜きで見たことがあるのとソックリだ。なんと29,800円。俺は即座に、明朝の銀行行きを決定した。

 階段を下りながら俺は、今にもため息をつかんばかりの俺にごめんねと言ってくれた時の佐々木さんの、心の底からにじみ上がってきたような笑みを思い出していた。そのあとの自分のセリフも自分の中では大したもんではあったが、あんなのはしょせんゴマカシ、ミエミエだ。

 歳の差、経験不足、やっぱり今日のあのドギマギは、どうあがいても片思い以上には発展しようのないものだったんであろう。

 はてさて……俺もハタチを過ぎたらあんな爽やかに笑えるようになれてんだろうか。あんな素敵な人と腕を組んで歩けるようになれてんだろうか……。


 ――と、そう思った日から4年半である。もうすぐハタチなんである。ヤバイんである。頭をキンキンにするのを覚えたぐらいで全然爽やかになんかなってないんである。弦高の高いまやかしのテレキャス同様100%の手入れが必要なバンドしか持てず、時間だけが爽やかに流れたんである。フリーター歴だけが塵のように積もり積もって俺はドロドロ、そんな日々にアキアキし、一発空気人れ換えたるか!? と三ヶ月前に叩いたドアが求人誌で見つけたここ、アドア設計事務所のドアだったんである。

 背広なんて持っちゃいない。いつも通りジーンズの上下で乗りこんだ俺を出迎えたのは、ゴマ塩無精ヒゲのおじさんだった。ほんの少し左足を引きずって歩くおじさんは、俺には、

 〈ちょっと壊れた学者ロポット〉

 ってな感じに見えた。

 んなロポット、俺だって見たこともないんだが……。

 もちろんダメモトだった。金がダメなら黒く染め直せる髪はともかく、ダメでも変えられない名前と育った境遇、ごまかしようのない学歴、きっぱり姐上の鯉にでもなんなくちゃあ叩けたドアじゃない。

 だが――

 ちょっと壊れた学者ロポットは、どうも……と言って俺の前に一枚の名刺(代表安藤茂とあった)を置くと、俺の出した履歴書に目を通しはじめた。目の前のやたらでかい青年、つまり俺を見ても眉一つ動かさず、金髪なんてさっぱり目に入っておらず、履歴書の必要以上に力強い名前にも寂しいぐらい驚かない。さらには中学しか出てないなんてこともどうやらほとんど関係ない。そういったことは何一つ、合否には関係なかったようである。いきなりこうきたのだ。

 「じゃあ、アシタからでもきてみるかあ?」

 え? である。が、なんとか口を開いた。

 「へいツ!」

 寿司屋じゃねえっつーに。

 「じゃあ朝は9時、よろしくな」

 社長が立ち上がったんで俺も立ち上がり、勢いよく頭を下げた、のだが、その頭がおじさんの胸のあたりをかすめた。

 「おいおいおい、その図体は凶器かあ?」

 おじさんがニヘニヘ笑った。その瞬間から、ちょっと壊れた学者ロボは大社長になった。

 事務所の入ったビルから一歩外へ出ると、俺は大きく息を吐いた。あんがい緊張してたらしい。そりゃそうだ。あんな静かで落ち着いた場所に面接に行ったのは初めてなんである。それに、社長と店長とじゃえらい違いだ.


 翌日の朝、俺の目の前に置かれたのは新品の鉛筆十本だった。全部きれいに削れと言う。

 「ほら、ここまでとんがるようにな」

 社長と一緒にこの設計事務所を始めた、副社長という肩書の持ち主であるところの伏見さんというおじさんの言葉である。そう言いながら、自分で削った鉛筆を真剣に見つめている。

 何かの気配にハッと振り向くと、社長が俺の脇まで来てこっちの手元を覗き込みニヘニヘしている。

 「真心で削んない奴はいつんなってもモノになんないからなあ」

 「はあ……」

 暖昧に頷き、真心を込めた鉛筆削りとやらを模索しはじめる長身の青年。

 やがて十本の鉛筆を削り終え歩み寄った青年に副社長であるところのでっぷりしたおじさんの伏見さんが真心づくしの鉛筆削りに勝るとも劣らない基本を注入せんとする.

 「じゃあ数字の練習だな」

 スージのレンシュー?

 いぶかる青年の前で机からおもむろに厚紙を引っ張り出し鉛筆を立てる副社長は澄まし顔でおツパじめる。

 「0はまあ普通だわな。こ-んな感じ」

 0――ゼロだ。ゼロ以外の何物でもない。それを力を込めしっかり書いただけのことだ。

 青年の怪訝は深まった。

 ま、まさか俺が中卒だからって……。

 眉をしかめて副社長を見つめた。

 青年を見つめ返し、副社長は黙って肯き、いち、と言って1を書く。そして少々声のトーンを上げ、言った。

 「2が問題なのさな!」

 モンダイ?

 青年は目を細めて副社長の手元を睨んだ。

 すると――

 ん?

 青年、意表をつかれた様子である。

 2は確かにモンダイだった。普通、2はこんな書き方はしない。

 それは、そう――まず、折り曲げるのにかなりの力を要するぶっとい針金を一本用意する。それを無理くり、上で左に二回ギュギュッと、下で今度は右に一度ギュッと曲げる。そこまで。角になるまで折ってはならない――ってな2だったんである。下でカクンと折れておらんのである。不安定に左下が浮き上がってるんである。

 「わかるか? この感じ」

 伏見副社長はなかなか3に進まず、筆圧たくみに二つ三つと2を書き続けた。四つ、五つ……。それをじっと見つめている青年には徐々に、その2が何やら、今にも羽ばたきだしそうに見えてきた。そう、青年には「2」がこんなふうに見えだしてたんである。


 なんか、白鳥がびっくりしてるような……。


 副社長によって次々に生み出されるそんな白鳥の列を、青年はその場ではちょっと口にできないような思いで睨みつけたもんである。


 カッタリなあ……。.


 青年、いや俺はこれまで、目の前がハカスカ片づいていくような仕事しかしたことがなかった。チキンをハカハカ、ハンバーガーをスカスカ、コンビニのレジも棚もハカハカスカスカ、そのハカスカ具合で自分の時給がどんくらいになるかもおおよそ見当がついてたもんだ。

 ところが――

 真心づくしの鉛筆削りである。

 数字のレンシューである。

 今回ばかりはどうにも読めない。ほとんどその日ぐらしと言ってもいいような生活を四年半も続けてきた身としては、当然時給が気になりはじめた。だがやってることと言えば鉛筆削りと数字のレンシューだ。700円はありえない。500円……、400円?

 マズイ。

 しかしだ。俺も世に出てすでに四年半。仕事中に蒼ざめてなどいられない。金のことは、そう、帰り際にでも社長に訊けばいい。それまではとにかくレンシュー-に没頭しておればいいのだ。

 さて、思った通り、アラビア数字のあともレンシューは続いた。びっくりした白鳥以外では8の書き方が少々妙だったぐらいな数字のレンシューを昼休みをはさんで3時間近くやったあと、今度は〈線のレンシュー〉ときた。何種類かの太さの均等なウツクしい線を引けと言うのだ。何度も鉛筆を削り直しながら230本は引いたもんだ。

 んなことにみっちり時問をかけ、やっとこさ一日が終った。と同時に俺は、ジリジリ禁止! 落ち着いてちゃんと話せ! 大社長にそっと歩み寄った。

 「あのう……」

 「なんだ?」

 「あの、そのう、ちょっと……」

 昼間弁当を食った部屋を、俺はおずおず指さした。

 「ちょっと、いいすか?」

 「ああ……」

 怪訝そうな表情も見せず、社長は大儀そうに椅子から立ち上がり、応接セットがカッチリ詰めごまれた四畳半ほどの部屋――昼はここに社員8人キッチリと納まり、「笑っていいとも」を見ながらメシを食った――に入り、俺も入って後ろ手にドアを閉め、社長の目を見つめてぼそっと、

 「なん?つか、その、時給っつーか……」

 と書いながらゆっくり腰かけた。

 「あー、給料のことまだ言ってねえか」

 声がデカい。低いついたての外には伏見さん以下数人、まだ残ってるんである。

 「まずいつも、手取りでだいたい10万からはじめてもらってるんだわ。覚えがよけりゃすぐにだって上げてやるけどな。まあとにかく頑張ってみてくんねえか」

 手取りで10万。ならこれまでとほとんど変わりない。だが、ホッとするには早かった。何やら優しげな笑みを浮かべ、社長はこう付け足したんである.

 「出張があれば、その分手当ても付けるしな」

 シッチョー?

 今のパンドは俺のやる気だけで何とか継続してる、ってのが俺にとって最も切実な現状だ。そんなバンドの練習を俺がサボったりしたら……。

 さて、俺のことである。マズイなどと思ったらまずは顔に出る。こん時もやっぱ出たんだろう、社長の顔が急に真面目ぶった。

 「現地チェックするのに半分は行ってもらうんだ」

 「あの、それって前もってわかるんすか?」

 「遅くとも前の日までには言うさ」

 前の日にならなきゃ言わないんだろう。


  二日目。前々から決まっていたバンドの練習へ事務所から直行すべくギターを背負って出社。が、事務所に人り、俺はそこで固まった。考えてみりゃあギターの置き場所がない。

 しょうがなく自分の後ろにでも立てかけておこうと動きかけると腕をガッチリつかまれた。

 「わりいわりい。今ここ空けっからよ」

 そう言いながら、つかんだ腕を俺の肩に持っていきモミモミ、それからやんわりデカイ体を押しのけ、悪いほうの足を横に投げ出してしゃがみ、一番奥のロッカー-を開けてそこを片付け始めたのは、そう、社長だった。

 「趣味は音楽って、バンドやってんのか?」

 ひょいと振り向き、俺を見上げる。

 「ええ、まあ」

 「俺も聞けるようなのやってくれよな」

 「え?」

 「カラオケで北島三郎でも歌ってるように見えんだろな」

 「いや……」

 「ほれ、ここ入れとけ……、その機関銃!」


 しんとした中で淡々と、俺が数ヵ月後、いや数年後にこなすべき何かにみんなは取り組んでいる。そんな中、何かが割り切れないような気分でいる奴がいた。

 4を2で割れば2に決まってる。彼が今おかれている状況や、彼が今やってることはそんな4と2と2であり、何一つ疑うべき要素はない。それは彼もわかってる。だからこうして、まるで中学時代の試験の時間のような静けさの中で、試験に至る百歩手前のような行為に没頭してられるんである。――鉛筆削りに彼なりの真心を込めようと心の声にをすまし、一羽一羽の白鳥をできるだけ思いっ切り驚かそうと目論み、新品の針金以上に渦らかな直線をそれこそ何百本も、研ぎ澄まされた俊敏さをもって引いたろうじゃないかという決意を心に刻んでるんである。そこんところにはひとかけらの嘘もない。

 だが、である。割れた2と2のあいだから何か削りカスのようなものが落ちてくるんである。そいつが心に積もるんである。鉛筆の芯やカッターの手元に集中しようとすればするほどその感覚が深まるんである。4を2で割ったら小数点以下がボロボロ落ちてくるようなこの割り切れなさはなんなのか。2と2のあいだからパラパラ落ちてくるこのカスは一体なんであるのか。

 彼はヤらしい割り切れなさで今いち集中しきれずにいた。

 すると、ゴマ塩無精ヒゲの中年男が脇で立ち止まった。

 「おー、使えるな。な、ハンダ……」

 意見を求められ、隣りの飯田さんが彼、つまり俺の手元を覗きこんだ。

 「あ、数字……。バッチリすね」

 「おー、使えるつかえる! 覚えいいじゃねえか。よしよし」

 たしかに俺は覚えがいい。どんなバイトでも要頒に困るなんてことは一度もなかった。よって、こんな社長の言葉に対しては、こんなもん……ぐらいの気持ちで、「そツすか? ありがとうございます」程度のことは平気で言えちまえるはずだった。だが言えなかった。

 重いんである。設計事務所なる会社の社長の口から放たれたお褒めの言暴を聞いた瞬間、何か重いものが胸の奥にドシンと落ち、俺の口をふさいじまったんである。

 社長の言葉がこう聞こえたからだった。


 使えるつかえる! お前にゃこれが似合ってんじねえか! 一生これやってろ!


 6時に会社を出ると、のんびり貸しスタジオに向った。ミシミシ自転車をこぐうちに悪夢が甦る。一つ前のバンドの、最後の練習の記憶だった。

 その夜スタジオに来たのはついに俺一人だった。一人でスタジオに入り、自分の心にノミでもカンカングサグサぶち当ててるような気分でギターを弾き続け、落胆からなのか怒りからなのか、どっちとも言いきれないようなため息をつきながら、2時間後また一人でスタジオから出てきたんである。

 金はとりあえず間に含った。財布はなんとか持ちこたえてくれた。が、金を受け取るスタジオのオヤジさんの憐れむような視線に、俺の神経は持ちこたえてくれなかった。釣りを受け取る時、俺は目線を上げらんなかった。

 「まあ、こんなこともあるよ」

 オヤジさんが言った。でも、いくらそんなまあるい顔で慰められても、メンバー全員からボイコットを受けた身である、情けないやら恥ずかしいやら。

 「そうスかね」

 とか口では言いながら、んなことより負けてくれよ! と心ん中で叫んじまった自分はなおのこと。

 「じゃあまたそのうち」

 何とかそんな言葉を口にのぼせて無理に笑ってみた俺に、オヤジさんはビシッとひと声。

 「よろしく!」

 励まされちまったんである。見れば、目元は笑っちゃいるが口元はキリッと締まってる。

 マジで励まされちまったんである。早くこんなオヤジになりてえ、てなことを心のどっかで思った。30も過ぎればこんなミジメさとは無縁なんだろうし、こんなふうにビシッと、若えもんを励ませるようになるんだろうし……。


 途中コンビニに寄り、7時15分前にはスタジオに着いた。もちろん一番乗りである。廊下の長椅子でコンビニのオニギリを食ってたら、オヤジさんにもう入っていいよと言われた。どうも……ってなもんだ。

 シールドをつないで適当に音を出してると7時びったりに伊藤と照丼が入ってきた。伊藤はドラム、照井はべースである。二人一緒ってことは照井の車で来たってこった。いい身分ではある。別にうらやましくもない。安堵のため息をついただけだ。

 これまで、ビッグA、ビッグブラザー、ビッグジェイル、ビッグドールズ、四つバンドを潰してきた。どれもメンバー募集の貼り紙で集めた奴らでできたバンドだったが、今回は違った。

 まずAのギターだった早坂にCD屋で偶然出くわし、なあもう一回やってみようぜってなことになった。ただ、バシッとしたリズム隊が揃えば、という条件が出た。で、ジエイルでべ-スだった照井に電話した。伊藤も誘ってもう一回やろうぜ、すげえギターと運命の再会を果たちまったんだ――とか何とか。

 で、今夜で三度目の練習なんである。であるんだが、前回までの二度の練習で、俺は危惧していたことを目の当たりにしていた。これまでで最高の出来だったジェイルのリズム隊とヘビメタ指向の早坂がやたらに意気投合しちまったんである。3人ともヘタにうまいもんだからやたら弾きまくりの叩きまくり大会、俺の歌など何のことやら、時おり3人で目線など合わせニコニコ大会だったんである。

 そりゃあ音楽は楽しまなきゃいかん。んなことはわかってる。だいたいにしてこの3人を巡り合わせちまったのは他ならぬ俺なんである。だがその張本人、いわばリーダー兼ブロデューサーである俺がそういう、まるでデカイ壁でも立ちふさがってるようなつけいる隙もない音を闘いてると頭の中がクサクサ、目の奥にイライラがたまってきちまうときてる。

 息苦しいんである。

 生きた心地がしないんである。

 これまでの2回の練習で俺をしっかり酸欠させてくれちゃってる最大元素たる早坂が来ない。すでに20分の遅刻だ。2時間4,000円のスタジオで20分である。えっと……666円の損失か。

 これは案外いい機会なのかもしれんと思うことにした。シェイプアッブされたシャーブなのを二時間、いや1時間40分、3人でやったろうじゃありませんか、ねえ御両人。

 俺はやおらアンプから腰を上げ、マイクに向かって叫んだもんである。

 「じゃあ、カモン・エヴリバディ!」


 練習のあとコンビニに寄り、歯プラシとフランスパンもどきってなパンとコーヒー豆を買った。

 今の歯ブラシはまだまだ使える。朝はいつも食わない。コーヒーもインスタントがまだまだ残っている。だが買った。

 「必要ないものを欲しがる人は、ちょっとおバカさんよね」

 てなことをおばあちゃんが言っていた。

 だが、これで終らないのが我らがおばあちゃんである。

 「でもあるんだよね、そういうことって。そんな時はおばあちゃんこう思うことにしてるの。今日の私はちょっと壊れてるかなって。誰だっていつもちゃんとした自分でいられるとは限らないもんね、しょうがないのよ、壊れてるって思うぐらいでちょうどいいんじゃないかな」

 ポクは「壊れてた……」と言いながら真っ赤なTシャツをモモに返したもんである。

 てなこんな何だかんだで、俺は自転車をこぎながら…:

 「ガーラクタ、ガーラクタ、ガラクーター」


 初めてのまともな就職二日目の朝、七時の目覚しがうっとうしくなかった。うっとうしかったのは洗面所へ向う途中でテレキャスが目に人った時に思い出した照井の言葉だ。

 「ガメラあ、ギター買えよう。それひどすぎるってえー」

 なかば笑いながらそんなことを言った照井は俺の貧民度合がわかってない。俺は思わず奴を睨んだ。が、口から出たのはこんな言葉だった。

 「たしかになあ……」

 スネっかじりの分際で車乗り回してる奴とは違うんだよ、てなことは言えない。

 歯を磨き、顔を洗い、髪を束ねていると伊藤の言葉まで甦ってきちまう。

 「やっぱ早坂がいないと締まんないしさあ。練習やったってな……」

 早坂のフェンダーのストラトと俺のまがい物のテレキャス。奴のタコの足みたいな指と俺の握力だけが自慢の左手。スタジオにおける自分の非力を認めながらも、俺は伊藤の言葉に肯けなかった。早坂がいなくても、あの〈ナンバーズ〉のようなビシッとした演奏ができた。素晴らしい練習だった。そう思っていたからだ。

 目の前に、ギャップが横たわっていた。カッコよく言っちまえば〈音楽惟の相違〉ってなもんなのかも知れん。だが俺達みたいなのがそんな言葉を使ったっておこがましいだけだ。問題なのは、俺に言わせれば「ここにしか生まれないものを生みだす気持ちを持てるかどうか」なのだ。じゃなけりゃこんな街の片隅でガツガツとアマチュアバンドの練習なんてやってても何の意昧もないんである。

 これは、そう、あのスナフキンズのボンヤリさんの目から教わったことだ。

 ――目の前には楽しげなことが一杯あるぜ。でも俺はもっと遼くが見たいんだな。

 朝っぱらからため息なんぞつきながらパンを千切っては口に入れ、淹れたてのコーヒー-で流し込む。初めて自分で淹れたコーヒーは味がしない。インスタントのほうがよっぼどマシだ。でも自分で淹れるコーヒーには果てしない望みがある。

 パンを残して冷蔵庫に放り込み、煙草に火をつけ、味のないコーヒーを味わいつつハイライトの煙りをため息で揺らした。とりあえず……

 「棚上げだあな……」

 口に出して書ってみると、あきらめもなかなかに清々しいもんだ。

 はてさてご出勤である、靴ひもを結びながら、今晩は久しぶりにビデオでも借りてくるべ、と思う。ずっと昔の、本物の映画でも見っぺ。みち? 道だ。よし、おばあちゃんの宿題やっつけっちまうとすっか……。.

 てなわけでその日の帰りはビデオを惜りてきた。で、見たには見たんだが――


 …………?


 ストーリーは極めて単純、俺の「ママさん物語」とそう変わらないようなもんだった。

 まず映画は、貧しい家で伯母さんに面倒を見てもらっていたちょっとひょうきんな娘ジェルソミーナが、ドサ回りの曲芸師に売られちまうところからはじまる。その曲芸師ザンパノ、胸に巻き付けた頑丈な鎖を並外れた肺活量と強靱な筋肉で引きちぎっちまうってな芸を見せて回る、自称男の中の男〉なんだが、その〈男の中の男〉がどうしようもない。力自慢をいいことに好き勝手し放題。ジェルソミーナをとにかく痛めつけるんである。

 ことに心の痛めつけ方がハンバじゃない。

 ザンパノに気に入られようとラッパを吹いてみたり、一人でグチグチ言ってみたり、なんとか奮起しようとするジェルソミーナなんであるが、やっぱり心は生々しい傷だらけ、持ち前の明るさも陰をひそめてくるむ目に見えて心を病んでいき、ついには頭が飛んじまう。となればザンパノにとっちゃもう邪魔なだけだ。道ばたに置き去り、すたこらサッサ、ポイ捨てである。

 が――数年後、巡りめぐったザンパノはたどりつく。

 彼がたどり着いたのはジェルソミーナを捨てた町だった。

 何かにいざなわれるかのように町へ出るザンパノ。そして町の療養所の娘さんから、ジェルソミーナが死んだことを知らされる。

 映画自体は期待どおりの、昔の〈本物の映画だった。こちゃこちゃせせこましくなくて、わかりやすい分だけ迫ってくるものがデカい。.だが……である。だが俺はこれを、この俺がどうしても見なくちゃいけない、〈おばあちゃんからの宿題〉として見てたんである。

 わからなかった。おばあちゃんはどうしてこれを、俺に---? そんな疑問だけが残った。この宿題に点数がつけられるとしたら俺はO点だった。

 結局、俺はこう結論付けた。自分にはまだ見なくちゃいけない時ってのが来てないんだろうな。

 おばあちゃんが宿題にするくらいなのだ、何かハッキリした意味が隠されてることは間違いない。でも今の俺にはまだ、それが見えないのだ。俺はまだそんな段階で生きてるんだ。


 「道」を見て以来、週末には必ずビデオを惜りて帰るってな習慣がついちまった。トム・ハンクスの「フォレスト・ガンプ」、マットデイモンの「グッド・ウィル・ハンティング」、アル・パチーノの「セント・オブ・ウーマン」、黒沢明の「生きる」などなど、なんだか金を払って借りるとなるとアクションものにはあんがい手が伸びないもんで自然とこんなラインナップになっちまったんだが、一番気に入ったのはなんたって、ポール・ニューマンの「ノーバディーズ・フール」だった。

 頭とか心とか体とかどこか弱い人ばかりの小さな町で、自分も膝に持病を持ちながら決して強さを捨てないジイサン。あんなジジイになれるんならジジイになるのも悪くないってなことを思っちまったのは何も、ブルース・ウィリス演じるクソ社長の可愛い奥さんがポール・ニューマンに一瞬、ちらっとおっぱいを見せてくれたからじゃない。

 本も読んだ。一番ハマッたのはハルキさんだった。戸惑いや葛藤や決心が自らに強いる重さをこれほど軽やかに読ませる人は、ビデオと読書にハマリきったここ一二ヶ月のあいだには一人も出てこなかった。他には主にヘッセじいやや夏目先生や太宰さんやリュー兄ちゃんなんかを手当たり次第バカスカ読んだが、その中に書かれている感情や感覚世界にビシバシ肯けちまうのにはまいった、と言うか、そこらへんがうまく書けてるからこそ、時代なんて飛び越えていつまでも読み継がれてんだろう……てな偉そうな感想。

 はてさて、本と映画にこの身を深沈せしめて3ヶ月、伊藤も照井もこっちから声をかけなけりゃあ真っ赤な他人。早坂もスマンの電話一本よこすでもない。予定どおりの棚上げ、すっかりスタジオから離れちまった。

 こうなったらフヌケである。ガーラクタ以外の何もんでもない。そんで、そう、いったんガラクタになっちまったらそう簡単には人間には戻れんのである。焦ったってダメダメ、またそのうちね:…と開き直るっきゃないんである。この脳みそやゴゾーロップの中に何かが潜んでるんならそのうち必ず溢れ出すのだ……とか何とか投げやりに、しかしかなりマジに信じて客観視、まだまだ棚上げ、焦らん。

 てなルーズなポーズを決める一方で、昼間の仕事だけは4,5回出張にも行ったりし、確実な食いブチにしつつあった。ゆるくて穏やかな均衡さえも、そこには生まれつつあったんである。だが望むと望まぬとに関らず自然発生していただけのニセモンの平和である。しょせん、こんなヒョンな奴に吹き飛ばされちまう宿命にあるのかもしれん。ギターにソッポを向き、目の前のエサに食らいついて離れない嘘つきスッポン野郎を、ガメラがやっつけに来たってなところだ。


 「荒木くうん、ちょっとお!」

 てなデロデロの声で、入社3月目になるスッポン野郎の朝ははじまった。普段ならまだ談笑が闇こえるはずの始業前、事務所内の妙な静けさに平常ならざるものを感じ取った直後のことである。

 その中年女性特有の甘ったるさとトゲトゲしさがしっかり溶け合った声は、いつも昼飯を食っている仕切り部屋の中からだった。スッポン野郎は怪訝げに歩み寄ってドアを開け、のっそり顔をつき出したもんだ。

 「何か……?」

 50前後と思われるオバサン、その見慣れぬ顔が化粧ズレを起した。

 「ああ、アナタが……荒木くん?」

 「はい……」

 「ナマエ考えてくれるウ?」

 「は? 名前ですか?」

 「そ、ナ、マ、工。社長にアナタの分の名刺作ってくれって言われたんだけどね、ウチの社員の名刺に、いくら本名だからって……ねえ……ガメラじゃ」

 こんなことを言い出す奴はいないと安心しきって3ヶ月、ノーテン直下である。それからだ。オバサンはオバサンの世界、一人語りをおツパじめ、俺は俺の世界、長い長いはずの19年9ヶ月をやおら反芻しだしたんである。耳は貝殻、目はガラス玉、頬と体はロウ人形、心だけが四輪駆動、頭から爪先まで一気に駆け巡ったんである。だが、オバサン、自分は自らの素敵な世界から戻ってきたんだが 目の前のデカいのはなかなか自分の目の前に戻ってこない。社長夫人としては黙したきりの俺にしびれを切らしたんだろう、ふいにこっちの目を覗き込んだ。

 「ね! 考えてね!」

 ハッとした次の瞬間、大きなため息が漏れた。膝の上で知らずしらず紺んでいた両手を俺は見つめた。

 「ね、わかったわよね? 考えておいてね」

 考えるもアマガエルもありゃしない。だがここは冷静にである。

 「どうして本名じゃダメなんスか?」

 「ど、どうしてって……。わかるでしょ、そんなふざけた……」

 奥さんはそこで口をつぐみ、目を泳がせた。俺は目を逸らした。そして自分の口から漏れたその言葉を聞いた。

 「わっかんねえな……」

 寒けがした。これじゃただのキレガキだ。情けない……と思ったらまたドキッとした。自らの情けなさを増幅するようなものが目を逸らした先、テーブルのはしに置かれてあったからだ。

 透明のファイルにはさまれた俺の履歴書だった。わっかんねえなと毒づくようなことが得意そうなガキの写真。

 おばあちゃんにはよく「写真とる時ぐらい笑いなさい」と言われた。「本物は男前なんだけどなあ」と弥生ちゃんは苦笑いした。「男は苦み走ったぐらいがいいんだ」とナベさんは言ってくれた。どれもまったくその通り、俺は写真映りは最低だ。でもそれだけのことだ。みんな、何を思うでもなく、怒りながら笑いながら俺の名前を呼んでたんである。

 ガメラ!――ん?

 ガメラー! ――あいよ。

 ガメラ!  ――おう!

 これが荒木ガメラか……。ホンモノのガメラとはえらい違いだ。あのガメラならこんなふうに毒づいたりしない。するわきゃない。自分の強さに自信がありゃあ、わかりましたぐらい笑って言えるはずだ。しかし、まさか今さら荒木ヒロシもタロウもない。それこそほんとに「今さら」だ。

 長い沈黙があった。やがて俺は何かをあきらめはじめた。でもオバサンはあきらめなかった。

 「だから、さっきも一言ったわよね、ウチの……」

 もういい……。俺は立ち上がった。

 「エツ!?」

 少々驚かせちまったらしい。


 3ヶ月かけてどうにか手中に収めつつあった食いブチのありかを唇をひん曲げて飛び出した、という顛末である。まっとうな言い分の一つも思いつけない自分を再確認した、という収穫があった。まったくたわいもない。相変わらずの可愛いガメラちゃん。

 目の前にはほんの10分前に見たばかりの街の景色が、まだほとんどそのままの姿でそこにあった。そんな風景は見るに値するもんではない。自転車を引っ張ってトボトポ、負け犬気分で歩くのみだ。

 「ガラクタ……」

 強い風がひと吹き。口からこぼれた一言葉を吹き飛ばし、砂ぼこりを舞い上げた。

 と、目をしばたきながら甘々ガメラが何か呟いた。その呟きは俺の耳にこんなふうに響いた。

 「おばあちゃん……」

 なんてこった。


 月曜午前九時の公園は鳩が舞い踊る竜宮城だった.そこへ自転車を引っ張って人っていった俺こと荒木ガメラは浦島太郎さんに出会えない、殴られっぱなし、あげくによその城に迷いこんだドン臭いだけの亀なのかもしれん。

 支えてんだか支えられてんだか、自転車を引き連れてゆらゆら、肘掛けつきのちょっと立派なベンチの脇に白転車を立ててど真ん中に腰かけ、頭を後ろに倒した。儒じられないが、まだ世間的には朝なんだろうが、とにかくボンヤリだ。

 いつだったかこの公園で似たような気分になったことがある。ジーンズクイーンと待ち合わせ、ヒマワリにドスンとやられた時だ。ガツカリした十五才。でもあの頃は幸せだった。なんもかもがまだ真っ白だった。

 頭を戻して見渡すと目の前20メートルぐらい、野外音楽堂がある。大通りをはさんだ向かい側にもこれよりずっと新しい大きなステー-ジがあって、でかいイベントではあっちばっか使われているが、こっちも撤去されるでもない.こっちにはほれ、屋根があんだろ。あっちにはねえからな。そんで生き残れてるってわけだ。自信たっぶりに静かに庁んでる。

 2年前、あそこに立ったことがある。そん時のバンドはビッグブラザーだった。いい天気だった。まず客席全体を見回し、それから一番後ろ、ヒマワリにドスンとやられたあ・たりを見つめ、あとはいつも通りずっと遠くを見ながら歌った。間違わないで歌うからさ。そのことだけに集中した。2曲やったオリジナルは両方とも佐々木さんのことを歌ったものだった。超アッブテンポの「ハッピー.ジーンズ」とゆったりのんびりの大作、「シャイニング・ヒマワリ」。ブラザーのメンバーもいい曲だと言ってくれた。でもそれきり歌ってない。そういうもんだ。

 片足を前に大きく伸ばし、ジーパンの前ポケットに突っ込んだハイライトをやっとのことで引っ張り出した。1本くわえて火をつけると真っ白な煙りが一瞬漂い、すぐに風に持っていかれた。まるでこの5年間を持ってかれたみたいだ。一跡形もない。いや、元々なんの形跡もないのかもしれん。しかしだ。朝っぱらの公園で煙草なんてふかしてる俺をおばあちゃんが見たら……である。マジ泣きたくなってくる。だが一人でシケっててもしょうがない。このステージでやった曲を数えてみる。

 「ハッピー」と「シャイニング」、毎度まいどの「カモン・エヴリバディ」、それに「ブルー・スエード・シューズ」、「バッド・ボーイ」、「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」。

 よく覚えてるもんだ。レパートリーの貧弱さが知れる。

 広い公園へ時おり気まぐれにご近所のおこぼれ、ビル風が迷いこんでくる。そんな気まぐれな突風に乗ってそのにおいはやってきた。わっと押し寄せた異臭に、気がつくと包まれてたんである。砂壊と古い油と汗が混じったような……と鼻をうごめかすが早いか、風は言った。

 「あんちゃん、このボロい白転車オレにくれ!」

 は?

 俺は風上のほう、と言うか自分の右脇、と言うか声の主のほうを見た。

 風は真っ黒だった。顔はいわゆる土方焼け。160センチほどの体を包む作業服はそこらへんの粉塵を残らず塗りつけた黒。作業服の袖から覗く指や爪は一週間は洗っていない黒。作業服の下の寸足らずのセーターときたらテカテカ黒びかりである。ところがである。にもかかわらずスニー力ーだけがまるで新品みたいに白い。まるで、ここがポイントなのさとでも言わんばかりに白い。妙だとは思ったが本当にそこがポイントなのかもしれん。流儀なのかもしれない。

 「こんなボロいのもういらねえだろ。オレにくれ!」

 相手が風だろうが台風だろうがホームレスのオヤジだろうが総理大臣だろうが神様だろうが、これはおばあちゃんが持たせてくれた自転車だ、言い分は一つである。

 「ヤだよ」

 「あんちゃん、ケチだなあ!」

 「ケチってな……」

 いや、咳いてる場合じゃない。

 「ケチで言ってんじゃねえよ:」

 オヤジはひるまない。

 「ケチだ!」

 怒嶋り怒嶋られしながらも、この風、笑みを崩さない。現れた時から人をナメきったような笑みをずっとその顔に浮かべ、人の自転車のハンドルをガッチリつかんでるんである。

 てなことはしかし風のことだからどうでもいい。俺である。すでに我慢の限界なんである。と言ってもケチ呼ばわりされて我慢ならんとかいうんではない。オヤジの放つ悪臭に体じゅうが拒否反応を示してるんである。俺は腰の横のハイライトをつかみ、立ち上がったもんだ。

 「離せよ……」

 自転車のハンドルに手をかけるとあんがいすんなりと、オヤジの手はハンドルから離れた。だがこのオヤジ、自転車を離したが早いか風向きを変えたもんである。

 「ケチじゃないなら煙草くれ!」

 煙草? なるほど……このオヤジはハナっから煙草が欲しかっただけなのだ。だったら最初っからそう言やいいのに……。

 においから顔をそむけつつ、俺は煙草を一本はね上げた。煙草ぐらい……

 「はいよ」

 丸ごと持ってかれてもマアしょうがない。この人も楽じゃないんだろうし。

 「悪いなあ1」

 「いーえ」

 煙草の箱が手に残った。俺は戸惑った。煙草が白分の手に残っているというごく簡単な事実に、である。脳みそが変調しちまっていた。

 俺は煙草を一本はね上げた。軽い気持ちでそうしたまでだ。だが俺の脳みそはそのへん――はいよと言ったあたりで〈一本やる〉ってな日常的小さな親切から、〈箱ごと持ってかれたって〉という献身的ボランティアのほうにズルッと変調しちまったようなんである。だから、あれ? 煙草が手に残ってるのが何か変――必要以上に平和。

 はてごく当たり前の頭でほんの一瞬俺は迷った。よかったよかったと人知れず安堵すべきなのか、この際だからと丸ごとやっちまうべきなのか。

 月曜の朝っぱら、晴れた空の下、公園の片隅に突っ立ち、ハイライトの表面、セロファンの感触をやけに生々しく感じながら、妙な疑問にけつまづいたもんである。

 ま、いいか。――俺は煙草をポケットに押し込んだ。

 だが、この〈ま、いいか〉が、その軽い安堵がちょっとした麻薬だった。俺ときたらそこで妙になごんじまったんである。体じゅうに駆け巡っていたはずの拒否反応も、波が引いたように消えていた。

 俺はしばしオヤジを見つめた。するとオヤジも、なぜか俺を見つめ返している。所で俺ははたと気づいた。

 「そっか、火ね」

 百円ライターをオヤジの顔の前に持っていった。オヤジはしばしじっくり火を吸ったもんである。

 「ありがとう!」

 オヤジの顔に再び、顔じゅうで作るあのニタニタ笑いが戻った。で、やおらベンチに腰かけゆったりスパスパしだしたんだが、やがて想い出したように俺を見上げ、左手でベンチを叩いた。

 「じゃあほら、もうチッとゆっくりしてきな:」

 「ゆっくりってな! 自分チかよ……」

 再びベンチに腰かけてみれば時おりの突風はともかく、やけに気持ちいい空模様だ、てなことにやっと気づいた。気づいたが早いか、オヤジが訊いてきた。

 「あんちゃん、いくつだ-・」

 なんでそんなことを訊く? てなスレた疑問は俺の頭には昇らない。即答あるのみだ。

 「十九。もうすぐハタチ」

 「じゃあ俺とおんなじだあ!」

 「ウソこけえ!」

 チッとはスレたほうがいいのかもしれん、と俺は想った。

 オヤジはガハハと笑った。

 オヤジがひとしきりガハハとやらかすのを見届けると、俺は煙草を一本引き抜き、フィルターの底を眉にあて、額にあて、頬にあて、最後に鼻にズリズリすりあて、底が脂と竣で黒くなったのを確かめてから口にくわえ、じっくり火をつけた。この間、オヤジは黙ってスパスバやってた。

 そうして一服二服やってるうちにふと、最初に抱いた疑問がもぞもぞ頭をもたげた。スニー力ーのことだ。なぜ靴だけが白いのか――? 首を回し、俺はオヤジを見つめた。

 「おっさん、一つ訊いても……」

 この時、空を見上げたままオヤジが怒鳴った。

 「おっさんじゃねえよ! 友達だ!」

 「トモダチ?」

 とてつもなく不気味なものが背中を走った、と思ったら、かつて見た一つの映像が目の前に鮮明によみがえり、俺の中に流れるものがその映像に運命的に流れ込み、初めのものよりももっと不気味な、熱と冷気を同時に帯びたとてつもなく恐ろしいものが頭から爪先まで、胸から指先まで、とにかく体じゅうを駆け回りはじめた。

 「友達だろ!煙草くれて隣りに座ってたらさあ!」

 オヤジは言いつのる。そん言葉に俺の体の中の恐ろしいものはある部分を凍てつかせ、同じ部分を次の瞬間にはジュッと焦がし、まだらな熱となってスビードをあげながらぐるぐる回る。

 もうダメだ、俺は観念した。

 俺はとんでもない奴なのだ。疑いようもない、俺はアラキの子なのだ。アラキの子で、ザンパノなのだ。

 オヤジがニヘニヘ笑いながら俺を見た。そんな気配がした。

 「友達じゃねえのかい? なあ……」

 海の向こうから聞こえてくる音でも聞くように、俺はオヤジの言葉を聞いた.

 わかっていた。あの映画のラストシーンをこんなにハッキリ思い出しちまってるのは、そしてそれを自分に重ね合わせてまだらな熱に焦がされたり震えてたりするのは、その理由はハッキリしていた。「友達だ!」と言われてからの自分の心の動きが白分でもイヤになるぐらい鮮明に、俺の頭の中には並んでいた。逃れようのない事実として俺という人間が目の前にさらけ出されていた。

 虫酸――はじめに感じたのはそれだった。友達だ!と宣言されて背中を悪寒が走ったのだ。俺がどんな人間なのか、これだけでも知れようってもんだ。相手がくさいホームレスだってだけでそういう言葉に拒否反応を起こしちまうんだから。

 だが俺の脳みそはその事実を受け容れられなかった。自分が人でなしだと思いたくなかったのだ。で、超音速で否定回賂を回しはじめた。すると次々に映し出された。

 クニの照れ笑いがあった。それを俺はどっか他人ヅラして眺めていた。うれしそうに演奏する伊藤や照井や早坂の姿があった。一歩も歩み寄ろうとしなかった自分がいた。その3人以外のバンドのメンバー達には名前も顔もなかった。覚えていないのだ。ビデオ買ってあげると言った時のおばあちゃんのどっか悲しげな顔を見ていたのは、その言葉を特に喜んでもいない俺だった。おばあちゃんはこの俺に、ビデオやテレビの他にも腕時計や目覚し時計や携帯電話や自転車まで持たせてくれたのだ。それだけじゃない。

 「滅多なことじゃ使わないで、少しずつでも貯めるのよ……」

 と、十万円人った貯金通帳。

 恥ずかしさが俺を火照らせた。死にたい気分が俺を冷やした。

 俺の脳みそはやがて一つの映像を映し出し、焼き付いてしまったかのようにそこで止まった。目の前には、「道」のラストシーンがあった。

 廃人同様になるまで痛めつけたあげく遣ばたに捨てたジェルソミーナ、療養所に拾われはしたが結局死んじまった。それを知ったザンバノがよろよろと砂浜にへたり込む。そしてさめざめと泣きはじめる。

 俺は両肘を膝についた。

 ザンパノもついに、自分がどんだけ人でなしだったのかを知ったのです。悲しみを知り、やっとまっとうな人間になれました。一種の救いではある。一本の映画を見事に締めくくるラストシーンだ。でもザンパノはもう二度とジエルソミーナを取り戻せない。絶望を胸に刻み込んで決して癒されることはない。生き地獄ってのはこのことだ。なんでおばあちゃんが俺に、他でもないこの俺に、あの映画を見ろと言ったのか、やっと、しかし一瞬にしてわかった。

 おばあちゃんは見抜いていたのだ。決まりきった顔ばかりのあの町で、いつも宇宙のど真ん中にでもいるような気分、でもそんな毎日にも実はアキアキ、もっとデカい場所で好き勝手やりたい……てな俺の本音を、本性を、そう、おばあちゃんは見抜いてたのだ。だからおばあちゃんは俺を、あの町にとどめようとしなかったのだ。

 そうなのだ、あのままあの町にいたら、俺はとんでもない奴になってたに違いないんである。一生、ほとんどアキアキしながらみんなを見下ろし、何もできないくせに、偉そうにアラキガメラをやってたに違いないのだ。だからおばあちゃんは俺をあの町から、実は追い出したのだ。言いたいことはぜんぶ一本の映画に託して。

 指が熱い。煙草を足元に落とした。おばあちゃんの声がした。

 「これを見て時々泣きなさい。人を人とも思わないような人間になっちゃう前にね」

 しかしそれにしてもこのオヤジ……このオヤジの言葉、まるでギャオスの超音波メスだ。俺の胸ん中をざっくり切り裂きやがった。俺はそんなことを思いながらため息を吐こうとした。が、最後の最後、とどめの一発が俺を貫いた。

 俺は目の前を見つめた。

 いぶしていた煙草の煙りがふっと絶えた。

 まさか、おばあちゃん……!?

 俺だの映画のラストだの、そんなことはもうどうだっていい。んなことよりもっと重大な、しかもずっとずっと謎だったことが一瞬にしてわかっちまったのだ。

 そう……、おばあちゃんはずっと言っていた。

 「だっておばあちゃん、おばあちゃんなんだもの……」

 いつも、誰に対してもそう言っていた。

 なぜなら、それが事実だからだ。

 俺は地面を睨んだ。

 おばあちゃんは自分で言うように、ほんとにおばあちゃんだったのだ。歳とは関係なく、おばあちゃんにされちまったその日から。きっとだからめぐみ園の園長になんか……。

 「これだけじゃやっぱり、友達じゃねえのかなあ」

 オヤジが笑いながらそつ言った。

 俺は顔を上げた。

 「友達だったらさあ」

 「んー?」

 「おっさん、名前は?」

 「おっさんじゃねえって言ってんだろ!」

 「だから名前は?」

 「ガルシア!」

 「ガルシア?」

 「ああ!ガルシアだ!」

 「ガルシアかあ」

 「あんちゃんは何てんだ?」

 「俺はガメラ。……荒木ガメラ」

 「ガメラかあ。ふうん。すっげえ名前だなあ。チッとかなわねえなあ!」

 「ガメラ知ってんだ」

 「ガメラぐらい知ってらあ! バカにすんなよう!」

 「いやいや……」

 なんだかすっげえ対等、てな感じでニヤニヤしてたらオヤジの手元にふと目がいった。まだ指にハイライトがはさまってる。自分の頭が超音速どころか、どんだけ光速で回ってたかわかろうってもんだ。だがその煙草はさすがにもうフィルターばかりだった。

 「あんま根っ子まで吸っちゃ体に悪いって。ほら……」

 「もう一本吸ったらもっと体に悪いよう!」

 「じゃあほら、持ってなよ」

 「これハイライトだろ。体に悪いんだよなあ。……ゴジラからマイルドセブンもらうからいいよ。ハハハハ! アチ!」

 煙草で唇を焼いた,

 「ハハハ、ザマ見ろ!」

 ガルシアは顔をしかめ、フィルターだけになった煙草を足元に投げてじっくり踏みつけた。そうしてまたぞろどっかりベンチにもたれ、空を見上げ気持ちよさそうに目を細めた。俺もそうした。

 「ところでさ、クセーよ、ガルシア」

 「まあな、クセークセー!しょーがねえや、こればっかしは!なんたって生きてんだからな!」

 クソッ、意昧あり気に言いやがる。でも深読みはしない。

 「ハッキリ言ってワリーけどさ、マジすっげえクセーよ」

 ふいの沈黙、、ちっと調子に乗り過ぎたな、と思ったら、オヤジがやっと口を開いた。

 さっきまでの弾けるような調子じゃない。妙なニンマリ笑いを浮かべ、じっと俺を見てこう言ったんである。

 「じゃあそろそろ退散するかい?やせっぼガメラ」

 やっぱちょっと言い過ぎたみたいだ。でもここで引くわけにゃあいかない。

 「何だよ、追っ払うなよ。……ねえ、缶コーヒーでも飲まない?」

 「いやいや……」

 やっぱすっかりしぼんじまってる。なんだか疲れちまったようにも見える。でも引いたら終りだ。

 「ちょっと買ってくっから……」

 音楽堂の隣りには売店、その前に自販機があるのはわかってる。たっぷり入った缶を二つ買って駆け戻り、はいよと一つ渡した。

 「何から何まですまねえなあ、ガメラ!」

 調子が戻った。

 「いいってことよ。だからほら、もう一服」

 「じゃあ、もらっちまうかあ!」

 缶を開けて一服やりだすとガルシアはまた黙っちまった。空を仰いでスパスパかつグビグビである。そんなガルシアの隣りに座り、俺はおばあちゃんに誓った。

 たまに見るわ、あの映画。忘れたいけど、忘れないように。もっとちゃんと、自分やおばあちゃんのことわかるようになるまで。

 ところで、気がつけばやっぱガルシアはクサい。でもその異臭を感じる以上に俺は、誰かがそばにいるって感じを味わってた。こんなのは久しぶりだ。まるで、クニと一緒の部屋でチェリオベイベでも聞いてるような感じだ。

 さっきほんの一瞬光速回転した頭がまたポンヤリ、しかしだんだん澄んでくる。で、何やらとても澄みきった想いが脳みそに浮かんでくる。


 いい天気だ。――やっぱ、オックウだ。


 マトモなシゴトってやつを一度は試してみた。でもやっぱり、仕事そのものはともかく、まつわるあれやこれやがカッタるくていけない。さりとてハカスカのその日暮らしに逆戻り、来た道を逆に辿ってくってのも、やっぱどうにもオックウだ。ビックリの白鳥どころじゃなくカッタるい。

 はてさて、だ。どうしたもんやら、ではある。

 いやいや、現実生活を考えてりゃあそんなことを言ってらんないのは明々白々、実際、明日になってみりゃなんとかするであろう自分はわかっちゃいるんである。そう、俺はきっと、明日になればまたどっかに面接に行くに決まってるのだ。それがマトモになるかハカスカになるかは求人誌次第、俺に決められるもんじゃない。そう、俺はなんとかする。ガメラはガルシアにゃあなれない。

 でも、だ。しかし、にもかかわらずである。やっぱり今はここから離れるのがもったいない。この頭の中の、やけに澄みきった風景から離れるのがとにかくもったいない。

 なぜか。

 今、俺の頭の中は、なんかすげえリロセーゼンとしてるんである。そのリロセーゼンたる世界の中で、こうして「はてさて」だの「どうしたもんやら」だのと途方に暮れてるんだが、この〈途方に暮れちまってる〉ってのが抑えがたく快感なんである。

 これは一体……。

 スッキリしてる。澄みきってる。が、今ここを立ち上がったら、その体勢に人ろうと腰に力を入れたその瞬間に跡形もなく消えちまいそうな、このリロセーゼン、頼りないんである。ちょっとでも油断したらふいと逃げられちまいそう。ところがその頼りなさもまた快感なんである。空中に立てた薄い紙切れのへりにでも立って、地上のすべてを見下ろしてでもいるようなのだ。清々しいったらありゃしない。

 生まれて初めての感覚。快感だ。もしかしたら俺の中にもガルシア的な何かがひそんでるのかもしれない。

 ん?

 何かが兆した。何かがあっちからやって来る、んではなく、この手でつかめそうな兆し。――俺は途方に暮れちまいながらこれを待ってたのかもしれない。でも、こんな気分で一体なにがつかめるってのか。

 隣りでスパスパやってるガルシアを俺は見た。なんとはなし、そっちを見るべき必然に触れ、ほんとにこの人ただのホームレスか? どこか嘘臭く見えてきたホームレスのオヤジを俺は見た。

 あツ!


 つかめた。


 そこにあったのは他でもないガルシアの横顔であり、彼の目だった、だが、その遠くを見つめる目、それは紛れもなく5年前あのコンサー-ト会場で見た、ずっと遠くを見ている目だった。あてどもない先をボンヤリ、しかし、もっと遠く、もっと遠くを……と存在全体で唱えながら、確かな視力と眼力で見つめてる目だ。

 と――

 そこにまた別の目が浮かび上がった。浮かび上がり、オヤジの目、ボンヤリさんの目、二つの目に重なった。ガキの頃からずっと頭にある、想像上のママさんの目だ。電車の窓から遠くを、ずっとずっと遠くを見てる。

 それだけじゃなかった。

 今度はおばあちゃんの目だ。おばあちゃんがふとした瞬間に見せていた、やわらかく、涼しげに遠くを見やる目が、ガルシア、ボンヤリさん、ママさん、三人の目の上にぴったり、俺の前で重なったのだ。

 それらすべての目が見つめてるものはまったく同じだった。

 空虚。

 からっぽの世界だ。

 その視線の先、ずっと遠くにポツネンと突っ立ってる奴がいる。

 俺だ。

 透明のギターをぶら下げ、気が遠くなるほど遥かな音を奏でている。




おわり




 

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Big Guy's Blue いずみさわ典易 @roughblue

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