不屈の剣士

 

 

「……さて、と。そんじゃあ行きますかね」


 霊樹側の橋のたもと。再び白霧に包まれている世界でクロはぽつんと一人、暗い左眼の黒光で宙に軌跡を描いた。

 朝日が昇るまではあともう少し。空はわずかに赤みを帯び始め、霧の中に時折乱反射から生じた虹の色が見え隠れする。この輝きは吉兆かあるいは凶兆か。前者であるように願いながら、クロは軋む一本橋を歩き出した。


 先ほど生まれたばかりの暗い異形の左眼は、白霧を透過して奇妙な景色をクロに見せる。その世界では、青や白の光が舞って、時に収束して輝いている。この光、恐らくは伝え聞くところのマナというやつだ。


 即ち。この先にはフレデリカを先ほど瀕死に追いやった、元近衛騎士長ラドミアが待ち構えている。それがクロには分かっていた。


 こちらは丸腰の素人で、神承器相手ならば宿る力も今はすっかり眠りこけている。対する相手は、剣の紋章器を扱う術を磨き上げてきた熟練の、そして少なくともフレデリカよりは剣才を備えた騎士。万に一つも勝ち目はない。

 例えば並んだ機関銃を前に突撃する縦列歩兵の先頭などは、こんな気分だろうか。なんて冗談めいた思いを巡らせながら、クロはせめて腐った木板に足を踏み外して間抜けな死に様を晒さないよう、気を配って慎重に歩を進めていく。


 剣に纏わり付く青い光。そこから流れ込む全身の形。それが徐々に左眼の映す奇妙な景色の中で大きくなってくる。


 そしてようやく、普通の瞳——クロの右目にも彼女の姿が映る。


 ——刹那。

 青く光る剣が一閃した。


 驚異の踏み込み。からの逆袈裟。赤いものが辺りに散る。


 ——傷が深い! とっさに身体を庇った腕が、恐らくは骨まで切断された。慌てて傷口を押さえる。

 押さえたまま思い切り、異形の右足を盲打ちに蹴り上げる。が、空を切った。鎌鼬のように風が舞い踊る。


 ラドミアは半身の態勢になって蹴りを躱し——ながらの剣を、孤月に振るう。

 その刃が、異形の右足で止まった。


「……⁉ 固いッ⁉」


 動揺の隙に踏み込み、掴みかかって引き寄せる。


「ずいぶん危なっかしいご挨拶だなァ、オイ!」

「あなたが例の黒煙使い?」


 会話は一時。紋章器が与える人を超えた力に、クロは軽々弾き飛ばされる。


 思いの外に宙を舞った。橋から落ちかけて、手すりの蔓を必死に掴む。この高さだと、落ち方の良し悪しなど無関係に軽く死んでしまう。頼りになるのは右足と——

「この左眼だけかい!」


 迸る青い光の流れを『見て』、橋の手すりの外側で、くるりと回りながら追撃を躱す。さらにまた一つ剣が振るわれて、今度は頬をかすめた。


「ずいぶんちょこまかと。怪物の力はその程度なのかしら?」

「だったらその腰に付けた神承器使ってみろよ、いいもの見せてやる!」


 クロの言葉をふっと鼻で笑うと、ラドミアは続けて二度三度剣を振るった。手すりが切断され、クロの身体が行き場を失う。


「やべッ!」


 転げ落ちそうになったところで、橋の土台となっている綱の一つをどうにか掴む。しかし身体は完全に橋の外まで投げ出され、クロは空中に宙ぶらりんの状態に。

 慌てて身体を持ち上げようとする——と、鼻先に剣が突きつけられた。


「一応聞いておくけど、お姫様はどこ? ここにいないのなら、トランメニルの宿かしら」

「何言ってんだよ、寝惚けてんのか? あんたらの話じゃ、この国のお姫様はもうとっくの昔に死んだんだろ」

「口は回っても、顔に出るタイプなのね」

「カマかければ、バラす顔に見えるのか?」


 ラドミアは輝く剣を逆手に持ち替え、クロの手の甲に突き刺した。

 痛みに奥歯を噛みしめ、叫びそうになる。筋も骨も容易く貫通し、掴んだ手にほとんど力が入らなくなった。しかし杭の要領でその場に刺し留められたおかげで、どうにか落下せずには済んでいた。


「どうやら、うちの部下たちは間に合わなかったのね。全く、あの耳長が馬鹿やってくれたわ。もしもの時は囮に使おうと思っていたけど、こんなことなら連れてくるんじゃなかった」


 冷たい瞳で見下ろしながら、淡々と口にして、「でも——」


 ラドミアはクロの手から剣を引き抜いた。剣身が堰き止めていた血が溢れ出す。

 流れる血で指が滑り、綱を掴む握力は弱々しい。クロの身体はほとんどもう片方の腕だけでぶら下がっているような状態だ。血が脂汗を伝いながら、手首から肩、脇腹までゆるやかに流れ落ちてこそばゆい。


「最後はこうなったんだから、結果オーライね。わざわざ死にに来てくれて、有り難いったらないわ」


 再び剣を順手に持ち替えると、剣先をこちらに向ける。


 万事休す——か。

 しかしここに来て、クロは笑みを浮かべた。


 異形の左眼が映し出すのは、ラドミアの剣と身体に満ちる光の青色。そしてまた遠くに一つ、輝きを放つ白い光。


「アンタ、詰めが甘いってよく言われない?」

「最期の言葉はそれだけかしら? つまらない辞世の句ね」


 吐き捨てて、ラドミアは剣を振りかざす。

 頭上で剣先がくるりと回転し、真下に顔を出すクロの首を横薙ぎに撥ね————


「——はああァッ!」


 る。はずの剣が、大きく弾かれた。


 崩れた態勢を立て直し、ラドミアはとっさに顔を持ち上げる。何が起きたのか。混乱する頭に躊躇なく、白銀の剣が振り下ろされた。

 焦りながらもラドミアはその刃を受け止める。しかし白銀の剣を振るった相手を見て、驚愕を露わにした。


「な——ど、どうして⁉ あなたは確かに殺したはずよ! 念入りに喉も裂いた! どうして……どうして生きているの、フレデリカ⁉」


 押し込まれた剣の刃が、青銀の鎧に当たって甲高い摩擦音を上げている。ラドミアが歯を食いしばり、押し返す。

 鍔迫り合いが弾けて、両者距離を保って向き合った。もちろんそこにいるのは金髪緑眼。今は外套に身を包んだ近衛騎士、フレデリカだ。


 元からフレデリカだけが山間を駆け抜けて、橋の前後から挟撃する予定だった。思いの外に遅れて死ぬかと思ったが、本当にギリギリながらも、どうにか間に合わせてくれたようだ。

 クロはほっと安堵の息を吐き出す。


 同時に、フレデリカの手にした白銀の剣が輝きを増した。

 そして踏み込みと共に、剣を一閃——


「甘いわ!」


 しかし冷静さを取り戻せば、ラドミアも簡単にはやられない。フレデリカの剣を弾き、そのまま流れるように剣を振るって、相手の両腕を斬り裂く。

 同時にフレデリカが詠唱の声を荒げた。

「<癒光オーラ>ッ!」


 すぐさま傷が癒え、フレデリカは何事もなかったように剣を最上段から振り下ろす。重い一撃。それをラドミアは受け止め耐えた。


「面倒な——奴ねッ!」


 鍔迫り合いは、毎度ラドミアが打ち勝つ。そこから鋭く、幾重もの刃。

 しかし、

「<修止シール>!」すぐに傷は塞がる。何度斬り裂かれても、「<癒光オーラ>!」フレデリカはそのまま気にもせず戦い続ける。


「く……ッ! こ、こいつ……!」


 ラドミアは更に続く剣を、今度は受け流す。そして崩れたところに、振り上げるような一太刀。白銀の剣が宙に舞う。そして——

「いい加減に——くたばりなさいッ!」


 鋭い突きの一撃が、フレデリカの喉に突き刺さった。

 こうなればもはや治癒魔法は使えない。詠唱すらできない。ついにフレデリカの敗北と、死が、決定的になった。ラドミアの口元が緩み、にやりと笑う。


 ————が。


 フレデリカは喉に突き刺さっているラドミアの剣を、両手で掴み、引き抜いていく。

 剣を掴む手の平が斬れた先からしうしうと音を立てて癒え、喉元もみるみる傷が塞がっていく。


「……り、自動回復リジェネーション……? そうか、回癒レストを……! さっきの傷で助かったのもこれか……ッ!」


 ついに剣を引き抜くや、フレデリカはその場で素早く一回転。背後の木板に突き刺さっていた白銀の剣を再び掴み、勢いのまま、一撃——!

 ラドミアの剣を押し切り、その胸を斬り裂いた。


「……浅いかッ!」

「——そんな! こんな、こんな雑魚相手に私が——ッ⁉」

「だったらもう一つッ!」


 フレデリカの追撃を、ラドミアは胸を押さえながら片腕で受け止める。だが、今や勢いは逆転、ついに押し込められていく。


「どう⁉ こんな戦い方は考えてなかったでしょ! これがわたしの見つけたわたしの剣! 肉でも骨でも心臓でも斬らせて——それでも最後は、首を断つッ!」

「滅茶苦茶よッ! 馬鹿げてるッ! こんなやり方が通じるわけ——」

「ないかどうか! ここで確かめてみればいいッ!」


 相手の剣を腕に食い込ませ、そのまま斬り裂かれながら、フレデリカは白銀の剣を振り抜く。


 ——青く光る剣が、遠くの欄干に突き刺さった。


「………………わたしの、勝ちね」


 慌てて剣に手を伸ばしたラドミア。その顎のすぐ下に、白銀の剣がぴたりと止まっていた。


 誰の目にも明らかだ。この戦法は、いける。

 どうにかこうにか橋の上に戻ってきていたクロの眼には、ぜいぜいと息を切らせたフレデリカの顔が映っていた。その表情にはうっすらと、感動に打ち震える様子が見て取れる。


「ふ、ふふ……まさかよね。わたしがこんなところでやられるとは……。それもフレデリカ、貴女なんかに負けるだなんて。末代までの汚点よ」

「あなたのおかげで、成長できた。希望が開けた。……礼を言わせてもらいます、ラドミア近衛騎士長様」

「どういたしまして。…………と、言いたいところだけど」

「……⁉ 変な動きは——」


 警告する猶予はない。とっさの判断でフレデリカは剣を振るい、その刃がラドミアの首に食い込む——が、間に合わない! 途中で急に弾かれた。

 ラドミアは腰に提げた剣に触れ、辺りに再び青の光が満ちていった。


「しまっ——!」

「噂通りねッ、狂犬!」


 一瞬の間にクロが飛びかかっていた。だが心臓の直前まで届きかけていたクロの腕を、身体を、どこともなく噴き出し、溢れ、付近の山々を飲み尽くすが如くの大量の水が押し流していく。


「あぼばッ⁉ ばばばぼぼべばッ⁉」

 不意を突かれてごぼごばぼぼと、水の奔流の中にクロの身体が踊る。


「クロッ⁉ く……神承器が!」

「あの程度じゃ足止めにもならないのよね——っ! 悪いけど、あなたともここまでよフレデリカ!」


 ラドミアは水の球に包まれて橋から飛び出すと、流れ落ちるように山を下っていく。


 すぐに空中で黒い衝撃波が弾け、

「逃げてんじゃあねえぞォッ!」


 クロが腕を振るうと、そこから伸びる黒い光が山裾を斬り裂いた。


「まだまだぁあああッ!」


 続けて全身に力を込めると、辺りを黒い雷が暴れ狂う。

 両腕を構えて伸ばし、力を溜め込んでもう一撃——


「……って、やべッ! あいつもう解除——どわわわわわッ!」


 果たして一発でも当たったかどうか。ともかくラドミアは、すでに神承器の発動を止めていた。

 瞬時に失われていく力に焦りつつ、クロは慌てて空中を黒煙と共に飛び跳ねる。そのままどうにか橋の上に倒れ込んだ。


 助かっ——たかと、思いきや、続けて足元の木板が砕ける。

 踏み外しかけた身体を支えるように、フレデリカに思い切り寄りかかった。


「——っぶねー、悪い悪い」

「き、気を付けてよ————ね……?」


 クロの手が、先ほど斬り裂かれていたフレデリカの服をずり下ろし、豊満な乳房とその先端まで露わになっていた。


 そして見事な平手の一撃。


「今のは不可抗力だろお⁉」

「うっさい馬鹿! 変態! 色情魔のエロ魔神の性犯罪者! 貸しその二よ、このスケベ男——」


 慌てて胸を隠しながら並べ立てる横で、クロはかぶりを振った。


「ああもうどうでもいいよ! 早くあいつを追っかけるぞ!」

「えっ。ちょっと待——」


 その時、クロの目端に奇妙な輝きが見えた。川面の光? ラドミアの逃げた方から近付いてくる。これはまさか——


「避けろッ!」


 フレデリカを抱き寄せ、飛び退くのと、ほぼ同時。

 水の刃が一本橋を両断した。


 目の前を切断された綱が暴れ回り、橋全体が二つに割れて、空中ブランコのごとく振られていく。

 クロはとっさに片方の手で千切れた綱を掴み、フレデリカをもう片方でしっかり抱きしめる。両断された橋はそのまま振り子のように扇を描いて、二人を橋の根元に叩き付けた。


 その衝撃こそ耐えたものの、状況は最悪。二人はそのまま宙吊り状態になっていた。

 橋の下は遙か遠く、白霧に包まれている。薄ら見える限りでは木が深く生い茂っているようだが、衝撃を僅かに殺せたところで、相変わらず即死するには十分すぎるほどの高さだ。


「重……く、くそ、ちょっとこれは……マジでやばい……」

「ちょ、ちょっとクロ、大丈夫⁉ わたしがどうにか上がって——」

「無理無理無理! 少しでも動かすと俺がきつ……い……ん、だけど、これはちょっとどうにかしないと……」


 その時、頭上から声が響いた。


「フレデリカ様⁉ クロさん!」ユーリィの声だった。どうやらこの子は無事だったらしい。

「ユーリィ⁉ ねえ、何か引っ張り上げられるものは無い⁉ このままじゃこいつの腕が持たないの!」


 何しろ綱を掴んでいるのは、先ほどラドミアに剣を突き刺された方の手だ。力を込めるほどに血が溢れて、ずるずると滑っていく。


「ちょ、ちょっと待っていて下さい! すぐに探して——」ユーリィは言いかけて、「そうだ!」

 何かに気付いて声を上げた。


「笛です、フレデリカ様! 笛を鳴らして下さい! さっき渡したあの笛です!」


 フレデリカに渡した笛というと、橋を渡る前に「危なくなったら」と言っていたあれか。しかしこの状況で、笛の音なんて何かの役に立つ?


 だが、今は藁にでもすがるより他はない。


「わ、分かったわ!」


 どうか助けになりますように。フレデリカはクロの胸の中で小さく祈りを込めると、金属製の笛に思い切り息を吹き込む。


 と————

 ————


 ————無音。


 何の音も聞こえない。何も起きない。……ユーリィ、お前ここに来て。よくぞ見事に騙してくれたものだな。絶対に化けて出てやるぞ。


 心に恨み節を連ねるうちに、血塗れのクロの手より先に、掴んでいた綱の方に限界が訪れた。橋の全てが崩壊する様が、クロの眼に映った。


 そして————無重力。


 黒煙を散らしながら空中に足で踏みとどまるいつもの感触は、もちろん無し。空から完全に自由落下している。認識する時間がゆっくりと流れ出し、砕けた木片、未だ暴れて唸る綱、先ほどまで橋だった諸々たちの姿が、モノクロに見えている。


 いや、まだだ。まだ異形の右足で着地すれば——さて、どうなのだろう? たとえ右足自体が耐えたとしても、繋ぎ目のあたりから砕け折れてしまいそうだ。

 ならば傷を癒やすのに治癒魔法——そうだ。とにかく、フレデリカをまずは生かしておかないと。ならば抱えたこの身体を上にして……


 と、思考が駆け抜けていった刹那、クロの身体が横に振られた。


 そして落下も……止まった?

 上下に揺れながら、どうやら空を飛んでいる。


 困惑するクロの頭に、甲高い咆吼が響いた。獣——いや、竜の鳴き声だった。


 顔を持ち上げた先で、翼を一つ羽ばたかせる竜の姿が見えた。飛竜の大きな足の爪に、フレデリカが掴まっていた。そこにクロが抱きついているという状態だ。


「ふうー……どうにか間に合った……か。……無事か? クロ、フレデリカ」


 飛竜の背の上から聞こえてきたのは、意外な声だった。熱に浮かされて荒い呼吸の、聞き覚えのある幼い声。


 クロのすぐ横で、フレデリカが驚きの声を上げた。


「みっ——ミスハ様⁉ ど、どうしてここに⁉」

「……すまんが、説明は後だ。今もこの飛竜は……追われておるのでな。このまま山を降りて、イェルと合流せねばならん……蜜葉は回収できたか?」

「は、はい! ここに!」


「……よし、では……」

 ミスハが飛竜の首筋を二度叩く。と、巨体は大きく旋回する。


 フレデリカは尻尾の側から飛竜の背中に這い上ると、

「ユーリィ、ごめん! わたしたち行かないといけないみたい! このお礼はきっといつかするから!」


 遙か下から見上げるユーリィに、竜笛を投げて渡す。


「はい! どうかご無事で!」


 ユーリィの言葉にフレデリカが頷く。

 クロはまだ足にぶら下がったまま。飛竜が再びもう一つ、翼を羽ばたかせた。

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