諦め

 

 

 右足一本で着地した橋向こうには、血の海が広がっていた。

 その中央にはフレデリカが一人、へたり込んだまま視線を下にやっていた。斬り刻まれてばらけた鎧の破片が辺りに散らばり、長い金髪の先が血だまりに浸って赤く染まっている。


「無事……か?」


 恐る恐るに声をかけると、フレデリカは魂でも抜かれたようにぼんやりとした瞳でこちらに振り返る。


「クロ……? どうしてここに……」

「どうって、手助けに来たんだよ。ずいぶんと派手にやられたみたいだな」

「そっか…………。うん、大丈夫だよ、ありがと」


 クロの差しだした手を取り、立ち上がりながら、感謝の言葉。

 思わぬ反応にクロはぎょっとして、右の瞳と、左眼のあった場所に暗く光る瞳らしき存在を見開いた。


「お前……変なもんでも食わされたのか? もしくは頭でも打ったとか?」

「あはは、そんなわけないじゃん」


 相変わらず虚ろな表情で、フレデリカが笑った。普段の喧嘩腰とはまるで違う。生気を失った亡霊のような反応だった。どこからどう見ても様子がおかしい。何かに取り憑かれでもしてるのか。


「……そっちこそ、どうしたのその眼。ちゃんと見えてるの? 必要なら治癒魔法かけてあげようか」

「え、ああ」クロは右目を手で隠して、「一応こうしても、ちゃんと見えてるよ。ただ他にも色々と——これ何だろうな、何か、力の流れ……みたいな? とにかく、色々眼には映ってるけど、見るのに支障はないから」


「そっか。なら、いいんだ」


 フレデリカは白銀の剣を手にして、残念そう——ともつかない、複雑な表情でまた俯いている。


「ところで、さっきお前と戦ってた奴はどこ行ったんだ? まだこの辺に潜んでるのか?」

「さあ。わたし、しばらく意識失ってたから。たぶん橋を渡っていったんじゃないかと思うけど」

「じゃあ入れ違いだったんだな。その方が今は助かる……わけでもないか。橋の向こうにユーリィが残ってるんだ。お前も、もう動けるよな。今からでも追いかけないと」


 慌ててフレデリカの腕を引く。——と、

「駄目よ!」


 逆にクロの方が引っ張られてしまった。おっとっと、クロは態勢を崩しかけて、どうにか足に踏ん張りをきかせる。


 何だどうしたとばかり振り向くと、フレデリカは深刻な顔で、身体を小さく震わせていた。


「今は……追いかけちゃ駄目。だってわたしたちじゃ、あの人には——ラドミアには勝てないんだから。ユーリィは見逃してくれることだけ期待して、このまま山の中を下りていくしかない」

「おいおい、いつになく弱気だな。一回負けたくらいで」


「『負けたくらい』じゃないわ。『殺されかけた』のよ、わたし。……わたしたちは今、剣闘試合をしてるわけじゃない。命のやり取りをしているの。今のわたしにできることは、一刻も早く逃げ出して、ミスハ様に薬を作ってあげることだけ」


 フレデリカはそう言うと、切り刻まれてもはや使い物にならない鎧を脱ぎ捨てる。そして斬られた服の隙間から覗く肌を隠すように、外套を身体に巻き付けた。それから山肌を見下ろして、下山ルートを見繕い始める。


「調子狂うなぁ」


「…………」

 クロが呟いた言葉に、フレデリカは一瞬だけ悔しげな表情を見せた。


 しかし両手をぎゅっと握りしめ、感情を飲み込む。

 飲み込んで、しかし、押し込めきれずに——言葉を吐き出し始める。


「……あんたが、言ったんじゃない……」

「うん?」

「『強さにも色々ある』って! あんたが言ったんじゃない! わたしの強さは……剣で戦うことじゃない。治癒魔法と薬術よ。だから、まともな剣の戦いからは……逃げるの。どうせ勝てないんだから、逃げるしかないの! それの何がおかしいっていうのよ⁉」


 震える唇で、肩を縮めながら。悔しさに泣き出しそうな気持ちを押し込めながら。フレデリカは声を張り上げていた。

 突然の感情の爆発に、クロは黙りこくったまま。暗く光る両の瞳でフレデリカを見つめる。


「何よ、その目……。言いたいことがあるなら言いなさいよ……」


 睨み返すことはできずにいるのか、俯き加減にクロの足元に視線をやっている。


「馬鹿にしたいの? 哀れんでくれるの? 好きにすればいいじゃない。わたしはもう、諦めたのよ……。騎士なんて、剣で身を立てるなんて、ヘリオスの血を継いだわたしには最初から無理だったの! 分かってたのよ! ただ見ないふりをしてただけ……」


 本音をさらけ出し、か細い声でフレデリカは続ける。


「わたしね、子供の頃に連れて行かれた観覧試合で、剣技の頂点を見たの。あんなの見せられたら、小さな子なら誰だって憧れる。でもね、自分で真似して剣を振る内に、みんな途中で気付くのよ。——ああ、あの人たちは『特別』だったんだって」


「そして『特別』に憧れた凡人たちは、取り返しの付かないままに、『特別』でもなんでもない普通の人になる。わたしだってそうだった」


「だけど普通になるのだって、多少の才能は必要なのよ。わたしにはそのための、欠片ほどの才能すらも……無くて、だから……ほんと、わたし何でこんな馬鹿なことしたんだか……」


 あーあ、とフレデリカが天を仰ぐ。何もかもを投げ捨てて、乾いた笑いだけを浮かべる。

 自らの過去を省みて、生きた道を振り返って、急にその姿が滑稽に見えて、そうしてフレデリカは笑っていた。


 深い悲しみと、何より絶望に満ちたその笑顔を、クロは静かに見つめていた。


 初めて見る、人が大事な何かを失う瞬間。自分の大事なものを終わらせる時。それをじっと見て、そして——


 その頬を、思い切り平手でひっぱたいた。

 乾いた音が、霧の中にこだまする。


「…………」


 そしてまた、しばしの静寂。


「……いった…………い。じゃない……何、するのよ……」


 フレデリカの声が波打って、ついに涙がぽろぽろとこぼれ始める。


「……何で……? どうして叩くの……? ひどいよ、クロ。わたし、そんなに悪いことした……? お母様の言うこと、聞かなかったから? むきになって、反発して、間違った道を選んだから……? だからクロも——」


 言いかけたところで——


 クロは不意に、その唇を奪った。


 柔らかい。甘くも酸っぱくもない。乾いた唇と唇が触れ合って、互いが溶けて混じるように。静かなキス。


 パァン! と再び音が響いた。

 見事な平手打ち。今度はクロの頬が赤くなった。


「……な、なな……ッ……? 何してるのよアンタ⁉ い、いきいきいきなりッく、口、き、キスとか⁉ 頭おかしいんじゃないの⁉」

「ッてー……痛つつ」


 抉り込むような平手を喰らったクロは、あまりの力に歪みかけた顎をさする。

 それからフレデリカに向けて、一つ指を差し、笑った。


「——ようやくらしさが出たな。それだよ。お前の強いとこ」


「は……? は? ……はあぁ⁉」

「気が強い。性格がきつい。明らかにそんな立場でもないくせに、何かと突っかかってくる」

「そ、それって、褒めてないわよね……」

「褒めてないけど、それがいいところだとも思ってる。らしくないんだよ、今のお前は」


 キスされた唇をごしごし擦りながら、フレデリカは顔を真っ赤にしてクロから目を背ける。


「だ、だったら……どうだって言うのよ」

「どうもこうもない。そのタチの悪い頭でもう一度ちゃんと考えてみろよ。お前は本当に『負けた』のか? 『殺されかけた』のか?」

「だから、さっきからそう言ってるじゃない!」


 フレデリカが声を上げる中、クロがちょいちょいと下向きに指を差した。そこにあるのは、広がっている血の跡。


「これ、誰の血だ?」

「もちろんわたしのよ。分かってて言ってるでしょ。こんな風にボロボロにやられて、次もこうならないようにって——」


 そこでハッと、フレデリカの表情が変わった。


「ようやく気付いたか? こういう強さもある。……ってのは、俺はこっちの意味で言ったんだよ、あの時も。バカも才能も、結局は使いようだろ。本当こういう時に頭固い奴って困るよなー」


 クロの言葉にはたっぷりの皮肉が込められていたが、フレデリカには気にする素振りなどもはや無い。緑の瞳はひたすらに輝きを取り戻していく。


「…………そ……っか。これがわたしの、戦い方……。もしかして、分かったかも。ううん、分かった。これしかない!」


 少し前まで涙を拭っていた手が白銀の剣を握りしめ、その剣身が光を放つ。その光は、いつも以上に輝いているようにも見えた。


「よし。じゃあ橋を戻ってやり返すぞ。——っと、蜜葉は採っていかないとな」

「そっちは大丈夫。わたしがもう十分な量を確保しておいたから。あと……」


 フレデリカはつかつかとクロの前に歩み出る。


 ——と、今度は反対の頬を、バチィッ! 乾いた音と共にひっぱたいた。


「……痛ってえ⁉ な、何だよ、さっきすでにいっぱツぅぶへッ——⁉」


 さらに平手の追撃。


「一発で許されると思ってんじゃないわよ、この変態! ていうかそもそも、何できっ……キスとかしてるわけ⁉ さっきの話するだけなら必要なかったじゃない!」


「い、いや、ひっぱたいても返してこなかったから、何か他の方法をと思って、とっさに思いつきで……」

「それでいきなりキスするとか、頭固いのはアンタの方でしょ⁉ もっと良い方法考えなさいよ! こっちは……こっちはその……ふぁ、ファーストキス……だったのに……」

「え、何? 最後声小さくてよく聞こえなかったん——」


 みぞおちに見事な蹴り。「ごっふぅ!」と生々しい呻きが響く。


「とっ……とにかくよ! これは一つ貸しにさせてもらうわ。乙女の唇を奪った責任、取ってもらうからね!」

「いや、責任ておま——えぐぅんんッ!」


 今度はすねに蹴りが来た。怒濤の連打がクロを襲っている。どこのパンクラチオンだこの女。


「さあ、こうなればさっそくユーリィを助けに行くわよ! 姉様の身内はわたしの身内! さっき思いついたわたしだけのやり方で、今度こそラドミアに勝ってみせるんだから!」

「……くそ、元気取り戻したら急にうざったくなったぞ……。失敗した。やっぱり放っとくんだった……地味に俺の手柄も横取りされてるし……」


 クロの愚痴など気にも留めず、フレデリカは笑みを浮かべていた。夢を追う少女の、明るい笑顔だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る