騎士対騎士
腐りかけの木板に何度か足を踏み外しそうになりながら、どうにかフレデリカは霧に包まれて揺れる一本橋を渡りきった。
予想に反して待ち構えている敵はなく、辺りの静寂は不気味なほどだ。見張りは打ち倒しておきながら、このまま何も仕掛けてこない——なんてことはないはずだが。
フレデリカは白銀の剣をわずかに輝かせ、鎧の金属音を極力鳴らさないように気を配りながら、少しばかり霧の中を歩いてみた。
視界は深い白霧に包まれているが、霊樹の放つ光が散乱し、目の前にぼんやりと偉大なる大樹の姿が形作られている。目的の蜜葉はすぐそばにあるのだろう。
とにかく、クロたちに合図と、剣から二度三度、輝きを放つ。深い霧の中、果たしてこれで伝わるだろうか。あまり自信はないが、大きな音を出して知らせるわけにもいかない。安全かどうか斥候に来ておいて、敵に居場所を知らせては台無しだ。
いっそ今のうちに、蜜葉の回収を終わらせてしまった方がいいか。
敵に襲われる前に詰め込めるだけ詰め込んで、うまく逃げられるならそれに越したことはない。自分一人が持ち帰る分でも、薬にするには十分なはずだ。
フレデリカは意志を固めると、霊樹の輝きに近付いていく。
緊張に生唾を飲み込んで、片手に剣を握ったまま、見えてきた霊樹の梢に手を伸ばす。
葉を掴むと、ねちゃりとした感触があった。あまり強く掴むと溜まった蜜が絞り出されてしまうようだ。出来るだけ茎に近い位置を持って千切り取り、まず何枚かを籠に入れた。
掴んでいた手に目をやると、指の間には淡い黄色をした粘っこい液体が伸びていた。ぺろ、と舐めてみるとわずかに甘い。
これが霊樹の蜜葉——で、いいはずだ。
フレデリカ自身は名前を聞いたことがあるだけで、蜜葉の実物を見たことはない。しかし、こうして触れて、舐めてみて、感じ取った直感が、瘴気を討ち払う霊樹の力はここに宿っていると告げていた。
(これもヘリオス家の才能ってやつなのかな)
皮肉ぶった笑みでそんなことを考えながら、さらに何枚か、手早く回収する。同じ枝ばかりではなく何度か場所を変え、腰に付けた籠にぐいぐい押し込んでいく。
しばしの時間が過ぎているが、クロとユーリィの二人は橋を渡ってくる気配がない。合図に気付かなかったのだろうか。あるいは——
「久しぶりね。フレデリカ」
背後からの声に、フレデリカの背筋が凍り付く。
同時に白銀の剣の輝き。
「おっと!」フレデリカの放った剣の一閃を、声の主は鞘から剣を引き抜くと同時に受け止めた。
「危ないわね。そんなに見境無く剣を振り回すなんて。私は貴女にそんな戦い方を教えたつもりはないけれど?」
「やっぱり、ラドミアッ!」
編み込んだ髪に青銀の鎧。何より目の前にあるその顔は、フレデリカの見知ったものだった。
かつての上官にして、帝国騎士団式の剣技を学んだ師の一人。近衛騎士に任ぜられたあの日、フレデリカに近衛騎士としての心構えを語っていた、あの顔と同じものがそこにある。
しかし今やこの女は、皇姫ミスハ付近衛騎士長ラドミアは、フレデリカにとって裏切り者の憎き敵となっていた。
「やっぱりあなたも無事だったのね。そうだと思っていたわ。あのお姫様に抗瘴薬の材料を伝えたことはないんだもの。トランメニルに来るという発想に至る時点で、妙だと感じていたのよ」
「ラドミア……近衛騎士長。どうして——どうしてこんなことを……裏切りなんて……」
抜き身の鍔迫り合いから、ラドミアは剣を淡い青に輝かせる。そして徐々に力を加えて、フレデリカを押し込んでいく。
やはり力は向こうが上か。フレデリカは奥歯を強く噛みしめながら、無理に重ねて力を込めて、どうにか踏みとどまる。
「どうしてって……本当に分からない?」
容易くフレデリカを弾き飛ばすと、ラドミアは素早く二度、霧を裂くように剣を振るった。
そして目の前に剣を立てて構えると、
「ふッ——!」
かけ声と共に鋭い突きがフレデリカに襲いかかった。
とっさに剣の腹で向きを変えるが、肩をわずかに掠める。赤い色が霧の中に散った。
「お上手、お上手。私が教えた通りの対処法ね」
すぐに距離を取ると剣先を手元に戻して下段に構え、ラドミアはにっこりと笑う。
フレデリカは痛みに耐えながら、まずは態勢を立て直す。そこでラドミアの腰に、見知らぬ剣が一振り差してあることに気付いた。
「その剣は、まさか……」
紋章器も多くは美しい意匠をしているものだ。さりとてラドミアが腰に差している剣は、その比にあらず。この世のものとは思えない無欠の形をしていた。だとすれば。
「ええ。神承器サラキアよ。ついでに伯爵位と、帝国騎士団の将軍位まで付いてきたわ。まったくあのお姫様のおかげよね」
「裏切ったのは、自分の欲望のため……ですか」
「もちろん、あの穢れた紋章の女を、皇帝になんてさせるわけにはいかないって義憤もあるわよ。ただどうせなら、活用できるものは活用していかないと。ね」
フレデリカの顔が、悲痛に歪んだ。怒りよりも悲しみが先に立った。
「『たとえ世界の全てが否定しようとも、近衛騎士は決して主人を疑うな』……そう教えてくれたのは、あなたでしたよね」
「ええ。でも私はもう、近衛騎士じゃないから。今騎士の心得を謳うなら『帝国騎士はゼグニア帝国の威信と臣民を護るためにあり』——ってとこかしら。ところで、あの女は果たして、本当にゼグニアの臣民なの? あんな穢れた紋章痕、私は聞いたこともないけれど」
「どこの誰であっても……ミスハ様はわたしの主です!」
肩の傷を治癒魔法で塞ぎながら、フレデリカは剣を構え直す。
「そう!」そして自分を奮い立たせるように、声を張り上げた。
「我が主、皇姫ミスハ様を害さんとする者——帝国騎士ラドミアは、わたしの討つべき敵なり!」
もはや迷いなく、フレデリカは白銀の剣を強く輝かせる。
と、同時に疾風のごとく斬りかかった。
剣は易々と受け止められるが、それを予期していたように二の太刀が放たれる。そこにも剣。ならば次。次の次、次の次の次の——そのまた次!
怒濤の剣舞をまるで分かりきったようにラドミアは受け止めていく。
「くうううぅぅぁ――ッ!」
攻める側のフレデリカが、苦しげな声を絞り出す。
「無駄よ無駄。あなたじゃ私には勝てないわ」
「うるああぁぁぁッ!」
最上段から力任せに振り下ろした剣も、軽くいなされる。
近衛騎士時代の訓練で分かっていたことだが、まるで勝機が見えてこない。やはり一対一では、勝てる見込みのない手練れだ。
そんなことは、とうの昔に分かっている。
光明はある。どうにかラドミアにあれを使わせることができれば。そして、あれを呼び寄せることができれば。
「——神承器を、私が使ってくれさえすれば?」
図星を突かれた瞬間、フレデリカの剣がわずかに躊躇った。
その隙を見逃さず、ラドミアは横一文字にフレデリカの胴を打ち抜いた。鎧の上からでも伝わる、強烈な一撃。「ご……ッ⁉」声ならぬ声を吐き出した。
どうして見抜かれた。いやそれ以前に、どうしてその腰に携えながら、未だ使っていないのか。こちらを舐めているだけでないとすれば、その理由は、まさか。
「残念だったわね。例の怪物——黒煙使いについては、こちらも既に把握しているの。そしてあなたのその様子だと、水大公様のおっしゃった通りだったみたいね」
フレデリカの蒼白な表情に、ラドミアは笑みを深める。
「黒煙使いは神承器の使い手にしかその力を振るえない……ふふ、一応確かめてから仕留めるつもりだったけど、どうやら必要ないみたいね。橋の向こうでは今頃、私の部下たちがあなたのお仲間を手にかけているでしょう。命令を下された時は疑う気持ちもあったけれど、さすがは『呪王』たる水大公様」
まさかクロという危うい切り札の弱点が、こうも早くに暴かれるとは。
確かに一度、何の力もない彼らの手下が、普段のクロに傷を負わせたことはある。ロムロでフェルドとやり合った時の情報も、伝わっていたのかもしれない。
それでもやはり、察しが早すぎる。まるでこの性質を持つ者の存在を、初めから知っていたかのように。
「……ッ! だったらッ!」
迷いを払うようにフレデリカは剣を振りかざし、白銀の刃は大いに輝きを放つ。
「神承器を使えないあなたに、わたしが勝てばいいだけよ!」
「マナの量だけは、さすがに名家のお嬢様ね」
大気が揺れるほどの魔力の嵐。その波動にあてられながら、ラドミアはせせら笑った。
音速の壁を破るほどの踏み込み。
しかしすれ違いざまに振るった剣はいなされ、キィィと金属の擦れる音だけが後から付いてくる。
足の裏で地面を掴み、押し込めるようにして反転。まだ攻める! 身体を捻りながら、一閃——
「いい加減に自覚なさい?」
耳元で囁くような距離。一瞬で懐に入られた。これは不味——
「が————ッ⁉」
——気付けば、身体が空に浮いている。
体当たり? 剣戟? それすらも判断が付かない。意識が一瞬飛んでいた。
何とか足で着地——したものの、力が入らない。腰砕けにがくりと膝が折れて、そのまま崩れるように背中から倒れ込む。
地面に転がった白銀の剣が踏みつけにされ、仰向けになった首筋にラドミアの剣が突き立てられた。
「あなたの剣はね。どこまで行ってもお遊戯なのよ」
激しい動きに炙られた心臓が、一つ大きくドクンと鳴った。
踏みつけにされた剣が蹴り飛ばされ、砂埃にまみれて白い光を失っていく。
「これまで私があなたのお遊びに付き合ってきたのは、近衛騎士なんて名前ばかりの仕事を任されていたからよ。……でもね、私たちは今、戦場にいるの。命のやり取りをしているの。あなたのような無能無才の剣術が、出る幕はどこにもないのよ」
肩の傷よりも、身体の痛みよりも、その言葉がフレデリカに深く突き刺さった。物心ついてから十余年。積み重ねてきた研鑽の日々全てを否定する言葉。
だが本当は、薄々気付いていた。
紋章器すらろくに扱えない雑兵を、どれだけ退けて悦に入ろうが何の意味もない。この国が忘れかけていた真の戦場で、自分はどれほど戦えるのだろうか。
かつて戦場を馳せた『戦神』や『天剣』、あるいは今も剣の腕に磨きをかけている帝国騎士団の精鋭たち。彼らへの憧れを口にしながらも、その域に辿り着けるなど露程も信じ込めない自分がいた。
毎日剣を振るたびに、見えてくるのは希望よりも絶望。鈍い反射、膂力の差、手探りで進む剣の道にはいくつもの壁が立ち並び、乗り越えるための光明はまるで見出せない。
気付けば見え隠れする自分の限界を、誤魔化すためだけに剣を振るようになっていた。
『自分はどうせ、ここまでだ』
頭をもたげるその言葉に耳を塞ぎ、目を背けて自分に嘘をついてきた。
主を救うべき場面で命を救われ、護るべき場面で護られ——それでも近衛騎士は今やわたし一人。頑張らなければと言い訳をして、心の奥底に澱む諦めへの誘い水など、無いかのように振る舞ってきた。
それでも現実は、容赦なく目の前にやってくる。きっとそれが、今なのだ。
覚悟と諦観の表情を両腕で覆い隠しながら、か細い声で呟いた。
「殺すなら……さっさとして」
しかしラドミアは高笑いだけを返した。
「まさか、今更気付いたの? 自分の愚かさと恥ずかしさに耐えかねて死にたくなったの? ホントにそうならお笑いだけど、賢いあなたのことだからそんなわけはないわよね。『ようやく諦めがついた』ってとこかしら」
無言の肯定を受けて、ラドミアは倒れたままのフレデリカに掴みかかる。
「だとすればようやく、本題に入れるわ」
「本題……?」
フレデリカは虚ろな顔をして、ラドミアの言葉にオウム返しで聞き返す。
「そう。どうして貴女ごときを相手に私自身が顔を見せたのか、考えなかった? 他の部下に任せても貴女なんて敵じゃない。だけど私がこうして先に出た。どうしてか気にならない? 気になるでしょ? なるわよね?」
フレデリカの答えなど待たずに、ラドミアは続ける。
「——理由は一つ。私は貴女を配下に加えたいと思っているの」
掴んだ手を離すと、ラドミアは青く輝く剣を手に一つ演説をぶつ。
「今の帝国騎士団は、愚かに過ぎるのよ。腕っ節ばかりで決まる将に、魔法の軽視。前線で使える治癒術士を育成しようなんて、きっと発想すらできっこないわ」
そして瞳を輝かせながら、自分の胸を叩く。
「でも私は違う! 私なら貴女の宿す才を存分に活かすことができる! 貴女は私の目指す最強の騎士団に必要な人材なのよ! 弱い将には仕えられない? 古臭い剣術指南を修めないと前線に出さない? 馬鹿にしてるわ。あいつらには、才を見る目も使いこなす知性もない!」
声を荒げると共に、ラドミアは再びフレデリカの身体を引っ張り、持ち上げる。
そして押し飛ばすように遠ざけると、青く光る剣を突きつけた。
「選びなさい、フレデリカ。このラドミアと共に行き、帝国騎士団の連中を見返すか。さもなくば死か。貴女の道は二つに一つ、さあ、答えは⁉」
フレデリカとラドミアが、しばし無言で睨み合う。どちらの顔にも笑みは無く、少しでも動き出せば剣先が首を撥ねる、一触即発。
そこで不意に、フレデリカが目線を外した。
「……その二択なら、わたしに選択権はないようなものですよね」
ラドミアが笑みを浮かべた。剣の青光が消え、腰の鞘に収められる。
「分かってくれて嬉しいわ」
「…………ええ、よく分かってます。どちらの選択も同じこと。わたしはもう、とっくに死んだようなものだってことが」
フレデリカは土埃に汚れた剣を拾いながら呟く。わずかに剣身が光を放っていた。
「……それは、どういう意味かしら?」
フレデリカの手にした剣が、一段と強く輝きを放つ。白銀の軌跡はぐるりと空に美しい扇を描き、そして——笑う。
「答え、いります?」
言葉と同時に放たれた、ラドミアを真っ二つにするような斬撃。
とっさに引き抜かれたラドミアの剣。
間違いなく間に合う。止められて、斬られる。それで終わり。瞬時に理解して、しかし死んだ心は動じない。
ああ、悔しいな。また負けた。負けて、終わった。でもせめて、剣士として死ねて、良かった——
その瞬間。
振るった剣がフレデリカの手から弾き飛ばされた。振った腕だけが空しく宙を斬る。
「…………え?」
白霧を裂いて高く舞い、地面に突き刺さった白銀の剣。
「今、何が……?」
「まさかッ⁉」
フレデリカよりも驚いた顔をしたのは、ラドミアの方だった。
周囲を見渡すと、刺さった剣から少し遠くにある古木。そこに奇妙な光を放つ存在が刺さっていた。
「光の、矢……?」
「あの……大馬鹿エルフがぁッ!」
その矢を見た途端に、ラドミアが怒りを露わにした。
すぐに紋章器の剣を納めると、代わりに神承器サラキアを引き抜く。その剣身が既に輝いている。
「——悪いけど貴女の相手をしている暇はなくなったわ。……やってくれたわね。おかげで予定が滅茶苦茶よ」
怒りの声に後退りながら、地面に刺さった白銀の剣を掴む。そして剣身を輝かせた。状況が変わろうとしているのかもしれない。だとすれば、まだ自分には近衛騎士としてすべきことが——
しかし考えているうちに、ラドミアの口が静かに動いた。
「さようなら」
——奇妙な、高音が聞こえた。
次の瞬間、フレデリカの喉と胸から、大量の血が噴き出した。着込んだ鎧など何の意味も成さず、その肢体は紙切れのように斬り裂かれていた。
喉を真っ二つに裂かれて、治癒魔法の詠唱をしようにも叶わない。ぽこぽこ、と血のあぶくが膨らむ音だけがした。
フレデリカは膝をつくと、えずくように何度も、ごぽ、ごぽと大量の血を吐き出す。そして、まるでただ人の形をした肉塊のごとく、その場に倒れ込んだ。
同時に、それとはまるで無関係に、橋の向こうから吹き荒れた黒い衝撃波が周辺の霧を吹き飛ばした。
「……最ッ低だわ、本当に」
ラドミアが悪態を吐いた、視線の先。一本橋の向こう側で、黒い光の柱が天へと昇っていた。
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