霧の神域
幸いにして、衛士たちの命に別状はなかった。
意識を取り戻した者に話を聞くと、やはり何者かに襲われたのだという。外套に隠れていたが襲撃者は各々鎧を着込み、それぞれ剣を携えていたらしい。加えて賊らしからぬ、統率された動きだったと言うのだから、やはり疑う余地はない。件の騎士団だ。
「さすがに偶然ってことはないよな。俺たちの動きが先回りされてる」
霧に包まれた神域を歩きながら、クロが呟く。
フレデリカも険しい顔で頷いた。
「いずれ来るとは思ってたけど、思った以上に早かったわね。襲ってきた数を聞く限りじゃ、来てるのは先遣隊だけだろうから、まだどうにかなる可能性は残ってる——とはいえ、正規の帝国騎士か……でもやるしかないのよね……やるしか……」
フレデリカは胸に手を当てて、落ち着かない呼吸を繰り返している。
「帝国の騎士って、強いのか?」
「一人一人が紋章器の達人よ。わたしじゃ一対一でやっても勝負になるかどうか……」
「ふうん。ま、俺としては紋章器より——」
神承器の使い手がいてもらえるとありがたい。そう言いかけて思いとどまった。変なことをユーリィに聞かせてもまずい。何しろ黒煙の神殺しはお尋ね者だ。
「あ、あの……これはどういうことなんでしょう? 何が起こっているんですか?」
そのユーリィが尋ねてきた。まるで事態を飲み込めていないのだろう、困惑が表情に現れている。
「詳しくは説明できないんだけど……ホントごめんね、巻き込んじゃって」
フレデリカは謝ってから、「そうだ」と手を叩く。
「巻き込みついでに、わたしたちがもしやられちゃったら、仲間のところまで蜜葉を持っていってくれないかな? 元々あなたは無関係なんだし、見逃してくれるかもしれないから。わがまま言っちゃうけど、お願いできない?」
「それは……いえ。そんなことはさせませんよ。もし妹君のフレデリカ様に何かあったら、私だってアレサ様に合わせる顔がないんです」
「あはは、ありがと。でももしもの時はお願いね」
言葉を交わしながらも、皆、緊張を全身に巡らせながら山道を登っていく。
何しろ三人を包んでいるのは、あの木っ端山賊にすら奇襲を許しかけた深い霧だ。その中から、光大公家が派遣した衛士を容易くのしてしまうような相手が、いつ襲ってくるとも知れないのだ。
「ここからはしばらく歩いて、あとは一本橋だったか? どのあたりで襲ってくるかねえ」
「橋があるならそこで挟み打ちするのが常道だけど……切り落とされてる可能性も考えなくちゃいけないかな」
霧は一層深みを増して、いよいよ目の前すら霞に包まれたような白い世界が辺りを満たし始めた。蜜葉の採集には絶好の頃合いだろうが、襲撃者にとってもまた理想的な環境だ。
歩きながら、いつ来るものかと構えていたが、敵はなかなか現れず。そのうち足下の斜面が少しなだらかになって、霧の奥から現れる木の数が減り始めた。
どうやら小さな丘のような場所に出たらしい。
「そろそろ例の一本橋ですね」
ユーリィが言ったのと合わせるように、フレデリカは腰の剣を引き抜いた。
「わたしが先行して、安全を確かめるわ。渡りきったら合図をするから、二人はここで背後を見張っていてくれる?」
「いいけど、一人で大丈夫か?」
「不安はあるけど……一網打尽にされるよりはマシだと思うから」
幸いにして落とされてはいなかった橋のたもとまで辿り着くと、「よし」フレデリカは覚悟を決める。
「あ、あのっ! フレデリカ様、これ……」
そこでユーリィが、何かをフレデリカに手渡した。平べったい筒のような金属製の物体だ。
「これは——笛、かな?」
「危なくなったら吹いてください。もしかしたら役に立つかもしれません。正直、あまり期待はできませんけど……」
「分かったわ、ありがと」
笑顔を見せて頷くと、フレデリカは軋む橋を慎重に渡っていった。
◇
残された二人は、しばし無言で霧の奥に目を凝らす。山と山の間に架けられた一本橋は時折風に揺れ、綱が軋む音を立てていた。
衛士たちを打ち倒した敵は未だに姿を現さない。橋のこちらにはいないのだろうか。それとも、この霧で敵もこちらを見つけられずにいるのだろうか。少なくとも、神承器の気配は近くにはない。
「そういや合図って、何やるんだろうな……」
クロがあくびを一つ。
その横でユーリィは、落ち着かない様子で橋とその反対に視線を往復させていた。
「……そういやさっきの笛、吹くと場所がバレてさらにピンチに! ……ってわけじゃないよな」
「ええっ⁉ ち、違いますよ。何を言い出すんですか急に」
「いや、ユーリィって、あいつ——フレデリカのこと、嫌ってるみたいだったから。ここらで嫌がらせでもするには絶好の機会だろ」
言われるとむぐっと言葉を飲み込むように、ユーリィは一つ唾を飲んだ。
「……嫌い、ではないです」
そしてクロの方には顔を向けず、霧の中に視線をやったまま、ぽつぽつと話し始めた。
「ただちょっと、不満、というか……。せっかくあんなに治癒魔法や薬学の才能がある紋章痕を宿して生まれてきたのに、どうして騎士なんてやっているのか、分からなくて」
手持ち無沙汰に杖を触りながら、ユーリィは止めどなく話していく。
「こうして会う前は、貴族のお遊びみたいなものだろうと思ってたんです。新しい世界を体験して、飽きたら家業に戻ればいいや、とでも思っているのかと。でもどうやら本気みたいで。だけどそんなの……バカみたいじゃないですか。すぐにもっと適正のある人に追い抜かれるのに」
例えばクロが、フレデリカを圧倒した神承器の使い手を叩きのめしたように。フレデリカはこれからも剣の才を宿した者たちに引き離され、追い抜かれていく。本人もきっとそれは承知しているはずだ。
「だからなんだか、見ているとやきもきするんです。そんな無駄なことをしているあの人が——」
「自分みたいで?」
「な————⁉」
ユーリィはかあっと顔を赤くして、クロに振り返った。
「そんなことないですよ! 私の受け継いだクパーラの紋章には、薬学の才は宿っているんです。無謀な道を歩んでるつもりはありません!」
「でも治癒魔法の方も諦めるつもりはないんだろ?」
「そっ、それは、薬学の修行のついで……みたいなもので、別にものにならなくても……」
「まあ本人がそう言うならいいけどね」
クロはこつこつ、と右のブーツの先で地面を叩いた。この中に詰まっている異形と化した右足が、クロにとっての命綱だ。
「……改めてもう一回確認するけど。治癒魔法ってさ、ユーリィも全く使えないわけじゃないんだよな?」
急に真剣な顔になったクロに、ユーリィが困惑の色を浮かべる。
「一応、
「了解了解。十分だ。そんじゃあ細かい傷は覚悟で、せいぜいかき回すかね。今の俺は主戦力にはなれないから、お前が頼りだ。なるたけ頑張ってくれよユーリィ」
そこでユーリィも金属音混じりの足音に気付いた。杖を構え、両端の赤い宝石を輝かせる。
霧の中から、数人の騎士が姿を現した。どれも鎧兜に身を包んだ、女の騎士たちだった。
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