相変わらずの夜明け前。霧に満ちて五歩から先は見えないような山道を、クロとフレデリカ、ユーリィの三人が地道に登っていく。


「やばい……。これ結構しんどいぞ。いっそ昨日の飛竜で、ある程度のところまで登るとかダメだったのか?」

「ダメですね。神域だってこともありますけど、貴重な動植物が多いですから。下手に食べちゃったりしたら一大事です」


「ふうん、まあ確かに……」


 道中、霧が深くてあまり先までは見えないが、見える範囲だけでも変わった植物がいくつも生えていた。くるりと巻いた赤い草や、腐り落ちたように頭を垂れる花、ちょうど今は目の前をもこもこした小鳥が飛んでいった。


「あれは霞鳥ですね。羽根が粉薬を払う箒として使いやすいとか」

「へー、詳しいんだな」

「アレサ様に教えて頂いてますから。普段はあんなですけど、ヘリオス家の次期当主と目されるに相応しい実力はちゃんとあるんです」


「あれで意外と真面目だからね、アレサ姉様は。母様から直々に教わって、今じゃ治癒魔法の腕も相当なものになってると思うよ。祓毒アンチとか甦生リブートなんかも、今じゃ詠唱なしで使えるんじゃないかな」


 フレデリカが口を挟むと、急にユーリィは表情を固くする。


「どうかしたか?」

 クロの問いにユーリィは首を振った。

「……いえ、何でも。確かにフレデリカ様の仰るとおり、アレサ様の治癒魔法は、わたしなんかとは比べものにならないレベルです。そもそも治癒魔法自体、まともに使える人なんて、この広いゼグニア全土でも百人……いや、その半分もいるかどうかなんですけど」

「え。そんなに珍しいもんなのか? でもほら、こいつだって使えるぞ」


 クロはフレデリカを指差す。その指をフレデリカが掴んで、ぐいっと、折り曲げる。つられて身体が反り返った。


「それはフレデリカ様がヘリオスの紋章を宿しておられるからですよ。ヘリオスと言えば治癒や薬学において優れた才を示す名門中の名門。生まれながらにして治癒魔法の才があるんです」

「ああ、そういやアレサもそれっぽいこと言ってたっけ。あと、そもそも才能や種族は紋章痕で決まる——んだったよな。ユーリィは使えるのか? 治癒魔法」


 クロが尋ねると、少し空気が澱んだ気がした。


「…………使いこなせるよう、学んでいるところです」


 つまり、今はまだ——というわけだ。


 なんとなくいたたまれない雰囲気になったところで、ユーリィが努めたように明るい声を出した。といっても、話題は明るいものではない。


「そろそろ山賊がよく出るという地点に差し掛かりますね。ここからは、より気を引き締めていきましょう」


 街門からしばらく。霊樹のある神域へ続く関所にもいささか遠い。そして左右には身を隠せそうな草木が好き放題に伸びている。まさに襲って下さいと言わんばかりの、襲撃の多発地帯へと三人は足を踏み入れていた。

 このひどい立地に加えて、今は深い霧まで出ている。鬼が出ようが蛇が出ようが、対処できるだけの準備を整えなくてはならない。


 ユーリィは懐から両端に赤い宝石の付いた杖を取り出し、フレデリカは白銀の剣に手をかける。クロは——特に出来ることはないのでただ両手をぶらぶらさせていた。


「昨日の今日で来るもんかねえ」

「分かりませんけど、注意するに越したことはありませんよ」


 言ったそばから、茂みの揺れる音がした。

 向かって右方、長い葉が伸びる植物のあたりだ。クロはフレデリカと顔を見合わせて、言葉も無く互いに頷き合う。


 そしてフレデリカが、しゃらと静かな音を立てて剣を引き抜きながら近寄る——と、突然何かが茂みから飛び出してきた。


 跳躍は人の頭を越えて、二度三度と跳ねるように道へと走り出る。

 人間離れした脚。頭には立派な角が枝分かれして、胴にはまだら模様の毛が生えている。三人の前を塞ぐように四足で地面に降り立つと、大きな黒目でこちらをじっと観察してきた。


 ただの鹿だった。


「……何よ、もう。脅かさないでよね」


 気を抜いたフレデリカが、白銀の剣を鞘に戻す。


「まあ所詮こんなもんだよ。そんな簡単に賊なんて出るわけないって——」言いかけて、「——のッ!」


 クロは振り向きざまに拳を振り抜いた。


 その拳は背後にいた山賊の鼻っ柱をへし折って、派手に弾き飛ばす。鹿の動きに乗じて、反対の茂みから近付いてきていたのだ。

 フレデリカとユーリィも、素早く戦闘態勢に入る。


 すると奇襲失敗とみたのか、更に二人三人と山賊が霧の奥から現れる。どうやらすでに、囲まれていたらしい。


「——痛ッつつ、フツーのまんまで殴るのは慣れてねえんだよなあ」

「クロ、あんたは下がってて」


 剣を白銀に輝かせながら、フレデリカがクロの前に出る。背中合わせのユーリィは杖を前にして構え、すでに詠唱を始めている。


「いいタイミングだと思ったんだが……へへ、嬢ちゃん坊ちゃん方、悪いけど金目のものは全部——」


「<炎噴ピラー>!」

 お決まりの台詞にはまるで興味なし。ユーリィの魔法が躊躇なく発動した。


 目の前に炎の柱が生まれると、山賊たちは激しく動揺する。


「え、ちょ、おおおいおいおい、魔法使いだとぉ⁉ こいつらまさか騎士団じゃ——」


 声を上げる間にもフレデリカが一人の山賊の得物を弾き飛ばし、膝を砕いて戦闘不能に陥らせる。


「し、しかもこっちの速さも、まさか紋章き——いいッ⁉」


 返す刃で袈裟に振りかぶったフレデリカの剣を、声を荒げた山賊は必死の形相で受け止める。その顔がすぐ炎の噴射に燃え上がった。

 炎は次々に生まれては山賊の身体を焼いて消え、斬られた血はそこら中に幾重にも飛び散っていく。白霞のごとき霧の世界が、血と炎の朱と紅に染め上げられていく。


「うわあ、容赦ねーのな……」


 クロの若干引き気味な感想を尻目に、二人は次々に切っては燃やして山賊たちを料理していく。

 そして気付けば、もう最後の一人となっていた。剣と杖が共に切っ先を向けて、仕留める準備は万全だ。


「ひ、ひいぃッ!」

 絶望の声を上げる山賊。その首筋にフレデリカは刃を止めた。


「これに懲りたら盗賊稼業からは足を洗うことね。今までは運が良かったみたいだけど、あんたたちみたいな雑魚じゃ、すぐに返り討ちに遭ってお終いよ」


 山賊は痙攣でもしたようにコクコクコクコクと頷き、すっかり涙目になっていた。ここまであっさり敗北してくれると、間抜けを通り越して哀れみすら感じさせてくれる。


「じゃあお仲間を連れて、麓に自首しに行きなさい。従わなければ——」フレデリカが剣を振り上げる。

「わ、分かっ、分かりました! すんませんでしたぁぁ!」


 山賊たちは動けない仲間を抱え上げると、クロたちの来た道を一目散に逃げ去っていった。


「……何がしたかったんだ、あいつら」


 あまりにもあっさりと退けられた山賊の姿を見送りながら、クロはぼやくように言った。


「賊に身をやつしたような輩なんて、ほとんどこんなものよ。まともな実力があれば仕官でも警備でも、もっと割の良い仕事があるんだから。——それにしても」


 フレデリカはくるりとユーリィに向き直る。そして瞳をきらりと輝かせた。


「あなたの魔法、大したものね! アレサ姉様から教わったものじゃないんでしょ? そこまでの実力になるには相当な訓練を——」

「してません」


 ユーリィは杖を魔導服の中にしまいながら、すげなく答えた。


「紋章器だって、フレデリカ様のような刻印式とは違って、誰もが同じ魔法を使える符牒式のものです。幸いにして私には炎の魔法を使う才があるものですから、簡単に符牒のうち最上級の魔法まで使いこなせますが」

「あ、そ、そうなんだ……でも……」

「フレデリカ様も似たようなものでしょう? 治癒魔法——扱うのに苦労した経験なんて無いんじゃないですか? さっき言っていた祓毒アンチ甦生リブートなんかの上級魔法も、使おうと思えば使えるんじゃないですか? 私はそれが火炎魔法だった。それだけのことです」


 横目にフレデリカを一瞥して、「ただ——」と続ける。


「逆にその『綺麗な剣技』は、習得にだいぶ苦労したことでしょうけど」


 少し当てつけるように言うと、ユーリィは背を向けて足早に歩き出した。


「あ、おい。ちょっと待てって」


 霧は深く、少し離れれば姿はすぐに見えなくなる。クロが追いかけようと走り出す後ろで、フレデリカが唖然と立ち尽くしていた。


「お前も早く行くぞ、ほら」


 ぐいと腕を引っ張ると、「う、うん……」ようやく我に返ってフレデリカも走り出した。


 それからクロを間にして二人、どこか剣呑な雰囲気が充ち満ちていた。


 薄々感じてはいたのだが、やはりユーリィはフレデリカのことをよく思っていないらしい。何が原因かは——さっきの言い草で想像が付く分だけ、どう宥めたものやら悩ましい。

 フレデリカから何か言ってくれないかともう片方の様子を窺うが、こちらは逆にショックを受けて放心状態といったところ。どこか遠い虚空を見つめていた。


 結果的に二人が反対方向を向いているのは、見張り的にはベストな配置。だがこの関係性は、最高にワーストな状況と言っていい。ここは誰かが間を取り持つべきなのだろうが——ええい、こんな時こそヘルプミー、アレサお姉様!


「クロさんは……」

「えっ。あっ、おう。な、何?」

 黙りこくっていた相手から話しかけられて、クロは動揺を見事に口に出す。


「クロさんは戦わないんですか? 武器もこれといって、持ってないみたいですけど」

「俺? 俺はまあ言うなれば秘密兵器というか、伝家の宝刀というか……もしものための保険だからな」


 クロは身も蓋もない表現で、自分がここにいる意味を解説した。


 近付いてくる騎士団と鉢合わせた場合、それも神承器に相対した最悪のパターン。クロはその場合のためだけの、まさに保険要員として付いてきているのだ。

 もちろんミスハをイェル一人に任せるのは、一抹の不安もある。しかしクロたち一行の中で、一人でこなせることが最も多いのはイェルなのだ。もし神承器の使い手が向こうを襲っても、うまく逃げ切ってくれると信じたい。


「よく分かりませんけど、とりあえずクロさんの出番はもう無いってことでいいんでしょうかね?」

「どうかな。だといいんだけど……」


 話しているうちに、霧の向こうから神域への関所となる門が姿を現した。


 ……が、見えてきたのは門だけでは——ない。


 門の前には、打ち臥せられた衛士たちの姿があった。傷跡は少なく、戦いは瞬く間に終わったことが一目に察せられた。

 何者かが、腕ずくでこの先に侵入している。どこぞから来た密採者? まさかそんなわけはない。


「俺もこのままお役御免ってわけには……いかなそうだな。これは」


 ここに至り、クロたちの採集トレッキングは、今朝の霧よりも深い暗雲に包まれつつあった。

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