空に風、地には人

 

 

 飛竜の背で受ける風は、馬上のそれよりもはるかに荒々しかった。

 数秒間隔で翼を羽ばたかせるたびに突風が頬を叩き、上下に全身がぐわんと揺れる。お世辞にも乗り心地は良くないが、高空に風を受けながら眼下に遠く小さくなった景色を眺めるのはなかなか乙なものだった。


「あわわわはわわ……」

 怯えた声を出しながら、クロの後ろではリーフが震えていた。


 リーフは時折細目で地面を覗き込んでは、「ひゃわ!」とまた目を閉じるのを繰り返す。そのたびクロの腹回りを締め上げるようにしがみついて、豊かな乳房をふにふにぐいぐいとクロの背中に押し付けていた。

 背に当たるやわらかい感触は大変ありがたいところだが、何故にこれほどビビり上がっているのだろう。高いところが怖いなら、乗る乗る乗りますなんて言うのは止めておけばよかったろうに。


「ええと、たしか山裾を回り込んで登るんですよね? その後は長い吊り橋を渡って霊樹様のそばへ……というと、あれかな?」

 クロの前方で飛竜を駆る、ユーリィが声をかけてきた。


 その声に応じて、クロもユーリィが指差す先の吊り橋に目を凝らした。

 明日登る予定の山と、霊樹が佇む神山を繋ぐ長い橋だ。橋を吊っている綱は枝毛のごとくにちらほら千切れ、歩く木板は黒に近い茶褐色をしている。霧や雨風に長年晒されて、だいぶガタが来ているようだった。


「おー、ぽいな。……ぱっと見けっこう橋がボロいけど、足下抜けたりしねーだろうな」

「霧が出ている時に行くわけですから、注意して渡るようにした方が良さそうですね」


 さっそく下見をした成果があったらしい。というところで、もう一度改めて霊樹を眺めてみる。


 昨夜に見たような発光現象は、太陽の出ているうちは起きることはない。神聖なる力宿す大樹も、今のところはあくまで一本の巨木という佇まいだ。それでも年輪を重ねた巨大な幹と、豊かに葉が生い茂り太陽の光に影を作る姿は壮大で、ついつい見入ってしまう不思議な魅力がある。


「そういや霊樹ってのは、あの一本しかないのかな」


 クロのふとした疑問には、背中からの声が答えた。


「ユグドラにも星櫃樹っていうのが一本あるのですよ。無数に伸びる根元には、ユグドラエルフ王家の魂が眠ってるらしいです」


「霊樹様も星櫃樹も、俗に言う紋章樹の一つですね。こうした大木以外にも、紋章を宿した生物はごくたまに存在するそうですよ。何でも私たち人間とは違って、彼らはその身体自体が神承器そのものなんだとか」


 記憶喪失のクロには初耳だったが、言い方から察するところ、どうやら全ての生き物に神より賜りし紋章痕がある——というわけではないらしい。

 しかし逆を言えば、紋章を宿した霊樹は純然たる神の眷属。その力は暗闇に光を、大地に活力を与え、瘴気を振り払う。特別なものを感じるのも頷けるというものだ。


 霊樹。紋章の力。世界の理。まるで記憶に無いのは、果たして何故なのだろう。なにしろ自分の知る世界は——

 いや、待て。これも俺の知っている世界か?

 もちろん、そうだ。俺は彼らの本当の姿だって知っているのだから——

 うん? おかしい、さっきから記憶が……何か違う記憶が、意識が呼び覚まされて……それがまた一つに、重なり合っているような、奇妙な——


「し、下見は終わったのですから、そろそろ降りて良いのではないですか? ほら、さささ、寒いですし」


 そこでリーフが、寒いのか怖いのか分からない噛み噛み具合で提案した。

 ユーリィもリーフの意見に同調する。


「そうですね、そろそろ戻りましょうか。クロさんも、ずいぶんと長く付き合わせてしまいましたね」

「いや、ちょうど良かったよ。どうせ戻っても暇だったしな」


 クロとしては背後に当たる感触も含めてもう少し飛んでいてもいいのだが、そろそろ日も落ちる。ミスハの具合も気になるし、帰るにはいい頃合いだろう。


「では、降りていきますよ。ちゃんと掴まっていて下さいね」


 ユーリィの手綱で、飛竜は旋回を始めた。霊樹を左手に見て反時計回りにくるくる回りながら高度を下げていく。翼を伸ばしたままの滑空姿勢で降りていく間、坂かジェットコースターか。血液が上半身に昇るような感覚が続いた。

 飛竜の足が木々のてっぺんに近付き始めると、一度翼を羽ばたかせて着陸態勢に移行する。ユーリィは手綱をうまく操って、トランメニルと他の地方を繋ぐ街道の一つに、器用に角度を合わせていった。


 そこでクロは道の先に、いくつか人の姿を見つけた。


「おい、あいつらぶつからないよな?」

「それは大丈夫ですけど……」ユーリィはその姿に目を凝らして、続ける。「何か揉めてるみたいですね」


 よくよく見ると、初老の男性が数人の男たちに囲まれていた。囲む男たちは曲刀や斧で武装して、初老の男性に脅しをかけているらしい。


「山賊が出るって話、本当だったんだな」

「ですね」


 言いながらユーリィは、魔導服の内側からおもむろに一つの棒——あるいは短めの杖のようなものを取り出した。杖の両端に飾られている小さな赤い宝石が、すでに輝きを放っていた。


「火は剛にして炎は猛なり。ほむらは勇士のかいなをもって、幾里を貫く穂先とならん——<炎槍ランス>!」


 詠唱と共に杖を前に掲げると、その先から炎の矢が撃ち放たれる。ユーリィが放った炎は男性と山賊たちの間に着弾し、大きく弾けた。


「いっきなりだな、おい!」

「助けないわけにもいかないでしょう。クロさんはどうします?」


 神承器を相手にするのでなければ、クロは素人同然だ。もちろんブーツに隠した異形の右足を除いて、ではあるが、実力はそれを含めても足を引っ張らなければまだましという程度。戦う力は皆無と言っていい。


 ならば今は逃げるべきかと問われれば、答えは——否だ。


「どうせだから、全員で行こう」


 飛竜は勢いそのまま山賊たちに突入して、囲みを引き裂いた。クロたちは揃って飛び降り、そのまま山賊たちの前に立ち塞がる。


「な、何だあッ⁉ お前ら突然どっから来やがった⁉」


 動揺する山賊たち。これでこちらは合計四人。加えてそこらに飛竜が一匹。相手は今数えてみても、四人。五分五分以上の相手なら、


「ちッ、魔法使いに竜か……面倒くせえ! もういい、退くぞオマエら!」


 こうなる。というのがクロの読みだった。


 逃げる山賊の背を見ながら、クロはふうと一息ついた。少し危険な賭けだったが、狙い通りの結果に終わったようだ。


「ご無事ですか?」


 ユーリィが襲われていた初老の男性に声をかける。すると男性はまるで何事もなかったような、温和な笑みを返してきた。


「ええ。おかげで助かりましたよ、お嬢さん方」


 白髪混じりの髪をして、年の頃は五十に差し掛かるくらいだろうか。首から足先まで隠すような外套を羽織っている。しかし外套の上からでもその体躯はがっしりと、まだ衰え知らずという様子が感じ取れた。

 こうして見る限り、どうもこの男、只者ではないような——


「およ? もしかしてあなたはゼラルドさんではないですか」

「おお、これはリーフ殿。ようやく見つけましたぞ。そろそろ戻らねばならんので、探しに参ったところです」


 リーフと、ゼラルドと呼ばれた男性が、これは奇遇とばかり言葉を交わす。どうやら二人は知り合いだったらしい。


「あうあう、もうそんな時間でしたか。わたしも今は雇われの身、守るところは守らないといけないのでしたね」

 リーフは慌てた調子でゼラルドの元に走り、見事に途中でこてんと転んだ。ゼラルドが子供に接するように優しく持ち上げてやっている。


「ゼラルド……? ゼラルドというと、まさか、あの『天剣』ゼラルド将軍ですか?」


 ユーリィが驚き混じりに尋ねた。

 ゼラルドはリーフの足についた土埃を払ってやりながら、微笑み混じりに答えを返す。


「いやあ、はは。今はもう神承器と侯爵位は子に譲りましてな。地位も将軍補佐という形だけのものになって半隠居の身ですよ。気軽な身の上も、これはこれで良いものです」


 リーフを持ち上げた際に手を出した外套の隙間から、ちらりと剣の柄のようなものが見えた。体躯から見た予想の通り、この初老の男は歴戦の騎士だったようだ。


「やはりそうでしたか……だとすると、あの程度の賊相手に出過ぎた真似をしてしまいましたね。どうかお許し下さい、ゼラルド様」

「いやいや、なんのなんの。戦わずに済むのならそれに越したことはない」


 ゼラルドはユーリィの謝罪に一般論の範囲でフォローを入れる。しかし加勢が不要だったのは否定しなかった。

 そこでふと、クロが尋ねる。


「そういやまさかだけど、将軍補佐……ってことは、こいつが将軍じゃないよな?」

「まさかとは何ですか、まさかとは」リーフが頬を膨らませた。

「マジか⁉」


 二人のやりとりを見て、ゼラルドは楽しげに笑う。


「ははは、当たらずとも遠からずというところですかな。直接仕える指揮官は別ですが、リーフ殿も神承器の使い手。将軍相当位ですから、私から見れば上官にあたります」


 クロはけったいなもんを見たとばかり、顔をしかめる。


「いや、でもこいつ、飛竜の上でガタガタ震えてるような小心者っすよ。あんた——あー、えっと……ゼラルドさんの方がよっぽど頼りになりそうだ」

「その点、否定はしませんが。しかしリーフ殿も弓の腕は類い希なるものですよ。同じく疑いの目を向けていた我らの指揮官を、空舞う鳥の目玉を正確に射貫いて、見事に黙らせておりましたからな」


 それはすごい。なんて感心してみると、ふふんと鼻を鳴らしてリーフが得意げにしていた。

 調子のいい奴め。と言いたいところだが、これも研鑽の賜物か、あるいは紋章や神承器の力か。どちらにしても本人が発揮できる実力には変わりない。素直に賞賛しておこう。


「——では、そろそろ参りましょうかな」

「はいです。お二人も、またどこかでお会いしたいのですよー」


 ぶんぶん両手を振りながら、名残惜しげなリーフは後ろ歩きで去って行く。これは確実に転ぶな——と思ったそばから躓いて、ゼラルドが予期していたようにそれを支える。

 そして今度こそ二人、背を向けて街道を歩いていった。


「……子供のお守りも大変そうだな」

「でも楽しそうじゃないですか? お孫さんを見ているような気分なんでしょうね」

「ほぼ間違いなく、リーフの方が年上なんだけどな」


 クロが皮肉ぶって言うと、確かに、とユーリィが笑った。


「ともかく、今日はお疲れ。そして明日もよろしく。——っと、フレデリカの分も言っとくわ」


「こちらこそ、よろしくお願いします」言ってからユーリィは少し逡巡し、「……あの、ちょっと確認なんですけど……クロさんはさっきみたいな山賊とも、戦えるんですよね?」

 不安げな上目遣いで尋ねてきた。


 何しろこちとらは身のこなしも素人そのもの。心配するのも無理はない。というか、あれと戦えるかと問われれば、無理だと答えるしかないのだが……どうしたものか。


「まあフレデリカもいるんだし、平気だろ」


 安心させようと思いついた言葉だったのだが、ユーリィはむしろ不快感すら交えて疑念を深めたようだった。


「フレデリカ様……ですか。あの方は剣で戦うんですよね?」

「そりゃまあ、騎士だからな。これまでも剣で戦ってたし、明日からいきなり変わるってことはないと思うけど」

「……ですよね。うーん……」


 どうやらユーリィは、クロよりもフレデリカの方に不安があるらしい。丸腰の男よりは鎧を着込んで帯剣した女騎士の方がよほど信頼できそうだが、どこに引っかかっているのだろう。


「なんか問題でもあるのか?」

「問題というか……フレデリカ様ってヘリオスの方ですし……」


 ぼそりと呟いてから、ユーリィは首を強く振る。


「いえ! いざとなったら私が何とかします。明日は頑張りましょうね、クロさん」


 同じ試練を課せられた同志にでも語りかけるように言うと、そのまま話題は飛竜遊覧の感想へと移る。

 そうして二人と一匹は、そのままトランメニルへの帰途についた。

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