霊樹の光
トランメニルに向かって馬を走らせてから三度目の太陽が沈んだ。
瘴気に苦しむミスハを連れては強行軍も難しく、敵に見つかるわけにもいかない。慎重に進んだ結果ではあるが、予定よりもかなり到着が遅れていた。
現在の一行は次第に深まる森の奥、道を少し外れた泉のそばで、休憩しながら簡単な食事をとっていた。
「まだ着かないのか? さすがにこれ以上は
クロは言いながら、煮出してもなお塩辛い携帯用の干し肉を囓った。
あぐらに座るクロの膝の上では、ミスハが荒い呼吸で眠っている。倒れてからこれまでの三日間、ミスハはせいぜいミルク程度しか口にしていない。今朝からは水すらもほとんど飲まずに眠り続けているくらいだ。このままでは瘴気や病の前に衰弱死してしまう。
「やっぱり連れてこない方が良かったんじゃないか? この状態でずっと馬の上なんて、どう考えても無茶だったろ」
クロの苦言を聞き流しながら、フレデリカは広げた地図とにらめっこをしている。
「わたしたちの誰かがひとっ走りするって手も、考えたけどね」
「あ、いいなそれ。思いついてたんなら、やれば良かったのに」
「もちろん出来ればそれに越したことはないけど、難しいのよ。神承器相手にはクロ、紋章器相手にはイェルが、ミスハ様の護衛として傍に居てもらわなくちゃいけないし」
「お前が空いてんじゃん」
言い放ったクロを恨みがましく睨みつけながら、フレデリカは地図を丸めて積み荷の奥に戻した。それから「はあ」と溜息を吐く。
「それができれば苦労はないわよ。あんたも聞いてたでしょ、正規の騎士団が近くに来てるって話」
「一応は」
「だったら分かるでしょ。ていうか察してよ、そのくらい」
クロは、んん? と首を捻り、
「お前じゃ勝てないってことか?」
クロの解答に、フレデリカはいちいち口に出すなと恨みを込めた目で肯定した。
「……まあ、そういうことよ」
「別にそいつらがお前より強いとは限らないだろ。実際に戦ってみたわけでなし。同じ騎士なんだろ?」
「言いたくないけど分かってるのよ、そこは。——ていうか、もういいでしょ? この話。今更とやかく言ったってしょうがないわ」
「そりゃごもっとも」
今いるこの森をさらに奥へ進めば、そこにはもうトランメニルが見えてくる。ミスハも虫の息とはいえ生きている。
結果論ではあるが、このまま耐えられるなら選択は間違っていなかったということになる。
「イェル! どう? 騎士団の姿はある?」
フレデリカは少し離れたところのイェルに声をかけた。左耳の蒼いピアスが光を放つのをやめると、イェルはこちらに向き直った。
「問題なし」
「よし。じゃあ出発しましょ。夜が明ける頃にはトランメニルに到着するはずよ。少しでも早く宿に入って、ミスハ様をちゃんとしたベッドで休ませてあげましょ」
「だってよ。もう少しの辛抱だぞ」
抱きかかえたミスハのくすんだ銀髪を撫でてやると、小さく頷いた。——ように見えた。だいぶうなされていて本当に伝わっているのかは怪しいが、ともかくここまで来たら行くしかない。
「よっ」とかけ声をして、ミスハの軽い身体を抱えたまま立ち上がる。
「じゃ、行くか」
ミスハ以外の三人で、互いに顔を見合わせながら頷いた。
◇
朦朧とした意識でふらついているミスハが落ちないよう、クロは左右からしっかり抱え込みながら、月夜に馬を走らせる。
二人を乗せるミスハの愛馬レイチェルも、主人の状態がわかっているのだろう。ここ数日は以前よりもずっと馬体の揺れが小さく、不慣れなクロの手綱でも問題なく走ってくれている。ミスハも前に良い馬だと言っていたが、その評価の片鱗をここで垣間見せてくれたわけだ。
森の道は意外にもしっかりと踏み固められていて、馬で走るにも不自由しない。足を遅らせるのは鹿や野ウサギが飛び出してくる時くらいのもので、一行はかなりの速さで森の奥深くを駆けていた。
小さな沢にかかる橋を通った時、ミスハは不意に身体を震わせた。
「大丈夫か?」
片手を手綱から離して、ミスハの胸を包むように反対側の肩まで回してぎゅっと抱きしめる。
「……ん」
回した腕にミスハの力ない両手の指が絡まった。
どうやら意識は戻っているようだ。いつの間に目を覚ましたのか。ほとんど動かないので気付かなかった。
ともかく生きているのが確認できたのはいいことだ。回した手で軽くぽんぽんと叩いてやると、さらにきゅっと腕を掴んでくる。どうやら街までは持ちそうだ。
「この上り坂が終わると、霊樹様が見えてくるはずよ。そこまで来ればトランメニルまではあと一息!」
前方からフレデリカの声が飛んできた。
「もうすぐだってよ。良かったな、助かりそうで」
ミスハも小さく頷いた。
「ま、大人しくしてな」
あとは片手の手綱に集中して、星空に飛びかからんばかり、一気に坂を駆け登った。
坂の頂で、フレデリカとイェルの馬が足を止めていた。
多少のオーバーランをしたところで、クロの駆るレイチェルも足を止める。
月夜に慣れたクロの目に、無数のまばゆい光が飛び込んできた。
「あれが紋章樹、霊樹様よ」
未明の暗闇に橙や黄色の淡い輝きが、いくつも明滅を繰り返しながら広がっていた。光のほとんどは大樹の梢が実を付けたように葉と葉の間に散らばっているが、照らされる幹自体もぼんやりとした光を放っている。
葉の先から時折放たれる煌めきはわっと光を強めたかと思うと、無軌道な動きで天に向かって連なり昇っていく。
目の前の光景に、思わず目を奪われる。その後から、輝く大樹が周囲の木々を遙か上空から見下ろすほどの大きさをしていることに気付く。
だが不思議とその佇まいに圧迫感はなく、ただ荘厳とした姿に全身を包み込まれるような、安心感が心を満たすだけだった。
「……言われるだけのことはあるな」
「すごいでしょ? わたしも最初見た時は感動したわ」
ミスハの様子も覗き込むと、こちらも少し呼吸が穏やかになっているような気がした。光を見るだけでこれなら、霊樹の蜜葉とやらの効果も期待ができる。
そうこうしているうちに、フレデリカの馬が再び早足に歩み出す。
「トランメニルはこっち。ここからは道が少し入り組んでるけど、もう本当に目と鼻の先だから」
霊樹の放つ淡い光に照らされながら、クロたちは次第に白んでいく早朝の道を駆けた。
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