皇姫を冒すもの

 

 

 時折真っ白に太陽の光を反射する、水底まで見えるような澄んだ沢。その近くに馬を留めて、クロたち一行は休憩をとっていた。

 空は高く、昼寝でもしたくなる秋口ののどかな陽気、穏やかに流れる水の音。共に旅をするのは、道行く人皆振り返るような、見目麗しい少女が三人。


 そんな桃源郷の真ん中で、クロの気分は最悪そのものだった。


 原因は、はっきりしている。朝食を食べ過ぎたからだ。食後すぐに揺れる馬に乗ったことも影響して、完全に胃袋が泡を吹いている。物理的にこみ上げてくるムカつきがクロの胸の内を完全に支配して、彼の魂から全ての活力を奪い去っていた。


 クロは生きながらに屍人ゾンビと化して、さりとて腹具合は人を喰らうこともままならず、今や屍人ゾンビとしても死に体だった。

 要するに、完全にグロッキーだった。


「ちょっとクロ、顔酷いわよ」

 横から声をかけたのはフレデリカだ。

「いくら量があったからって、限度ってものがあるでしょ。あんたみたいのを、さもしい奴って言うのよ」


 クロとしては、無理に詰め込んだつもりは全く無かった。どころか、張り裂けそうな腹を抱えた今になっても、まだ空腹を感じてすらいる。無尽蔵な食欲に身を任せて胃袋に食事を放り込んでいったら、こうなってしまっただけなのだ。


 これまでにも感じていた得体の知れない空腹感は、前に訪れたロムロでフェルドを殺し損ねてからというもの、益々酷くなっている。

 どうにか気にしないつもりでいたのだが、こうして体調に支障が出るとなれば問題だ。近いうち何とかしなければ。


 殺意と不快が半々の、据わった目をしたクロの背中を、フレデリカが優しくさすっていた。


「もう吐いてきたら? もったいないけど、楽になるわよ」


 普段は発言から行動まで暴力的に接してくるフレデリカだが、さすがに病人には優しくなるらしい。いっそ永遠にこの体調でいてやれば、関係も良好になるだろうか。

 ……それは色んな意味で、絶対に嫌だ。


「うぶ……ッ」


 ついに溢れ出ようとする濁流を抑えきれなくなり、クロは近くの沢へと駆け出した。そして声にならない「うぉろろろろ」という唸りと共に、胸の内にあった諸々を透明な水の流れにさらけ出す。


 沢の澄んだ水が一部茶褐色に染まり、ゆらいで形を変えながら流れていく。

 そのかけらたちが見えなくなって……しばらく。クロの意識はようやく現世へと舞い戻ってきた。


「あー…………口ん中が酸っぺぇ……」


 舌を出して言ってから、沢の水を掬ってうがいをする。気持ち悪さは拭えなかったが、だいぶ楽にはなってきた。


「……あ! まさか誰か下流にいないよな」


 恐る恐る目をやると、下流の岸にミスハがうずくまっているのが見えた。こういう時ほど不安は的中するものだ。


 襲い来るフレデリカにぶん殴られるより先に動かねばならない。未遂ならまだ助かる可能性はある。


「お、おいミスハ! お前ちょっとそこは危険……!」


 これ以上なく素早い動きで、クロが駆け寄る。

 それに対してミスハの動きは緩慢だった。

 名前を呼ばれたミスハは静かに顔だけを持ち上げると、首をこくりと頷いて、心配するなと答えた。うたた寝でもしていたのだろうか、何ともらしくない動きだ。


 事の次第に気付いて近寄ってきたフレデリカも、同じような印象を持ったらしい。リバースして若干の調子を取り戻したクロを押しのけて、ミスハに話しかけている。


 その時、背後からイェルの声が聞こえた。


「偵察が終わった。行こう」

「お、戻ったか。ヨーグへの道はどうだったんだ? 大丈夫そうか?」


 ヨーグというのは、トランメニル行きを断念した一行の、次なる目的地に決まった街だ。最初に向かう予定だったハルディッサからは、川一つと街を二つ挟んで西に位置する。

 ヨーグはノスロピオスという地方の辺境にある都市で、領主やその私設騎士団の目があまり届いていない。これは一行にとって好都合な点ではあるのだが、引き替えにいささか治安はよろしくない。


 だが実際のところ、選択肢はかなり限定されている。

 逗留する謎の騎士団には近づけないし、水大公方だけでなく日和見の領主が治める土地も信用は出来ない。


 結局、多少の治安の悪さなど勘定にも入らず、ほとんど決め打ちのような形でヨーグが目的地に決まっていた。

 イェルの調査は最終チェックというところだが、よっぽどの問題が無ければこの決定が覆ることはないだろう。


 そして調査から戻ったイェルの結論は——


「他よりはずっとマシ」

「……それ、大丈夫じゃないって言うんだぞ」


 曖昧どころではない返事に、クロの空っぽになった腹に不安の種が膨らんでくる。


「そんな言い方するってことは、何か問題があったのか?」

「どうも山賊がよく出てるらしい。でも、それくらい。治安の悪さも変わらず、騎士団の影すらないのもいつも通り」


 それくらいなら確かにずっとマシと言えなくもない——のだろうか? クロが首を捻っていると、今度は横から声がした。


「その程度であれば、おぬしらがおれば問題なかろう……今は時間も惜しい。さっそく出発するとしよう……」


 気付けばうずくまっていたはずのミスハが、横に立っていた。そしてそのまま、どこかおぼつかない足取りで留めた馬へと歩いて行く。


 やはり、どこかおかしい。


「俺の体調でも伝染ったかな」

「食べ過ぎが伝染るわけないでしょ、バカじゃないの。ミスハ様、ちょっと待ってくださーい! 少し身体を診せて欲しいんですけど——」


 ミスハを追って、フレデリカが駆けていく。


「ロムロでも思ったけど、フレデリカってお節介な性格してるよな」

 クロが誰にでもなく口にすると、イェルが答えを返してくる。

「ヘリオス家の人間は、幼い頃から人命を救うための数限りない技術と心得、自己を顧みない献身の心をたたき込まれる。らしい」


「基本的には医者の家系なんだっけ? あいつの実家」

「そう。だからフレデリカが心配してるということは——」


 どさり、と遠くで何かが地面に落ちるような音が聞こえた。


「ミスハ様⁉ ミスハ様、大丈夫ですか⁉」

 続けて、フレデリカの声が聞こえた。


 見れば地面に倒れ込んだミスハを、フレデリカが抱き上げている。遠目から見てもミスハは苦しげな顔をして、荒い呼吸をしていた。


「やっぱり病気なのか?」

「どうかな」


 クロとイェルが話しながら近寄る間にも、フレデリカはミスハの首や手足を触り、目や喉を確認し、と忙しなく動いている。何をしているかクロには見当も付かないが、イェルが言っていた「人命を救うための技術」というやつだろう。


「うーん……発疹も喉も……熱はあるけど……となるとやっぱり——ちょっと失礼しますミスハ様!」

 フレデリカが後ろから服をまくり上げる。


 ミスハの背中、凍ったような白い肌に刻まれた黒翼の紋章痕。その周辺の痣が、青紫に変色していた。以前水浴びに遭遇した時に見たよりも、ずっと淀んで暗い色をしている。


「これが原因か」


 クロの言葉にフレデリカも頷いた。

 すると目を閉じたまま、ミスハが小さく笑った。

「……やはりそうであった……か。ならば、仕方ない。いつものことだ……瘴気だけなら、簡単に死にはせん……。さあ、早くヨーグに向かうとしよう」


 立ち上がろうとするミスハを、フレデリカが押さえつけるように止める。


「ダメです、ミスハ様。今の状態が陛下や皇妃様と同様だとすれば、いつ他の病が併発してもおかしくありません。うちの薬師が調合した薬、持ってきてますよね。それを飲んでしばらく休息を取りましょう。焦っても身体を悪くするだけです」


 荷物をまさぐろうとするフレデリカの手を、ミスハが掴んだ。

「薬は…………無い」


 フレデリカの手をどかしながら、ミスハは今度こそふらふらと立ち上がった。


「ええ⁉ ちょ、ど、どういうことですか⁉ まさか忘れたとか言いませんよね⁉」

「……肌身離さず持っていたつもりだが、気付いた時には無くなっておった。おそらくは私が眠っている時にでも……抜き取られたのだと思う」

「そ、それって、やったのは——」

「近衛騎士長の……ラドミアだろうな……。元から裏切る腹づもりだったのだ。そして奇襲が失敗したとしても、命を奪う算段も付けておったというわけだ……」


 危うい足取りでミスハは留めてある馬へと歩いて行く。

 また倒れそうになったところを、今度はクロが支えた。少し触れただけでわかるほどの高熱。これは確かに安静が必要だ。


「だからってこのままじゃまずいだろ。どうにか治せないのか? ほら、フレデリカは治癒魔法とか使えるんだし」


「瘴気に魔法が効くなら、陛下も皇妃様もこんなに長く伏せってないわ」

「うげ……そりゃそうか。あ、でもこの瘴気だけならすぐには死なないんだろ。罹りそうになったら病気だけ治すとか」

「病人にも治癒魔法は禁忌。一気に病状が悪化しちゃうのよ」

「ええー? なんでだよ」

「知らないわ。わたしは専門家ってわけじゃないし。それより今は薬のことよ。どこにでもあるような薬じゃないから、ラドミアから何としてでも奪い返さないと」


 忌々しげに爪を噛むフレデリカ。そこにイェルが淡々と言葉を挟む。


「近衛騎士長は現在帝都にいるらしい」

「それ最終目的地じゃねえか。つーか普通に考えて、もう捨ててあるだろ、その薬」


 何か取引でもしたいなら別だろうが、近衛騎士長ラドミアの目的はあくまでミスハの暗殺だ。他に使い道もない薬をわざわざ手元に残しておく道理はない。


「……だから言っておるだろう。このまま行くしか……ないのだ」


 寄りかかっていたミスハがまた歩き出そうとするので、クロはその華奢な身体を抱え込むようにしてもう一段ぎゅっと捕まえる。


「いいからちょっと大人しくしてろ」

「しかし……」

「いいから」


 掴んだままに身体をぽんぽんと叩き、銀の髪をゆっくり撫でて落ち着かせる。


「…………ん」


 ようやく観念したのか、力が抜けたのか、眠ったように目を閉じてミスハはこちらに寄りかかってきた。軽い、そしてやはり熱い。


「なあ。その薬って、ミスハの親も飲んでるんだろ。今から貰ってきたりできないかな? どっちにしろ持ってきた分じゃなく、新しい薬を手に入れないとどうしようもないぞ」

「そんなこと言われても、帝都もアル・ユーベルトもここからじゃ……」そこではっと何かに気付いたように、「あ、そうか!」

 フレデリカが叫んだ。


「そうよ! 無いなら作ればいいじゃない!」


 抱きかかえたミスハの耳を大声から守りつつ、クロの頭には疑念が浮かぶ。


「簡単に言うけど、そんなことできるのか? 珍しい薬なんだろ」

「それができるのよ! 抗瘴薬の材料、秘伝になってるんだけどわたし聞いたことあるの。母様が調合士と相談してる場面、偶然見かけたのを今思い出したのよ!」

「母様ってーと、つまりは……」


「フレデリカの母君である光大公様は、宮廷医師団の長も兼任している。抗瘴薬の開発にも深く携わっていたはず」

 イェルがさらりと補足しつつ、尋ねる。

「それで、何が必要?」


「手に入りにくいものはいくつかあるんだけど……たった一つだけ、どうしても特定の場所でしか手に入らないものがあるの。トランメニルの——霊樹様の蜜葉」


 トランメニル。少しばかり聞き慣れてしまった名前が、ここでまた出てきた。


「えーっと、それって……大丈夫なのか?」


 クロが当然の疑問を呈する。騎士団の一部がトランメニルの方角へ動き出したという話は、もちろん消えたわけではない。

 しかしフレデリカは腰の剣に手を当てて、決意の表情で答えた。


「分からないけど、行くしかないわ。いざという時は————戦うまでよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る