呪王ベナス
帝都ゼルテニアの摂政執務室。召使いの少年が淡々と語る報告を、水大公ベナスは一切の言葉無く聞いていた。
節くれ立った細枝の指で机を叩きながら、深い皺の奥に畳まれた眼光をぎらつかせる。齢七十を過ぎて老いの波は確実に肉体を蝕んでいるが、その佇まいにはかつて『呪王』と呼ばれ戦場を馳せた、古豪の風格が滲み出ていた。
執務室には他にも二人が来客用の椅子に腰掛けている。しかしどちらもべナスの発する威圧感に呑まれ、呼吸すらまともに出来ないかのように縮み上がっていた。
報告を終えると、召使いの少年は砂色の髪をした頭を下げる。
それからベナスは、鋭い視線だけを椅子の客人二人にやった。
「お前の情報とは随分と食い違いがあったようだな。ラドミアよ」
何本か編み込んでまとめた髪に、身軽さを残した青銀の鎧。ラドミアと呼ばれた女性騎士は、死神のようなしゃがれ声に自らの名を出され、反射的に震えた。
ラドミア・アルヴァーロ・サラキアは皇姫ミスハの近衛騎士長を務めている。いや、務めていたというべきだろうか。未だその任を解かれているわけではないが、護るべき皇姫を裏切り、その命を狙う側に付いていた。
近衛騎士長という肩書きはけして伊達ではない。ラドミアは皇姫ミスハの帝都への旅について、秘密裏の計画段階から深く携わり、その全容を把握する立場にあった。
これらの情報を持ったまま寝返れば、いとも容易く皇姫の命は絶たれる。次期皇帝の血筋に、穢れた血が混ざることはなくなる。はずだったのだが——
「……申し開きの言葉もありません。まさか第一皇妃が我ら近衛騎士にまで戦力を隠していたとは……」
ラドミアの言葉に、横にいたもう一人の客人——小太りの男が声を荒げた。
「君ねえ、相手は神承器の使い手だよ⁉ 最大級の戦力だよ⁉ まず一番に警戒すべき存在でないのかね! それがどうして知らなかったで済ませられると⁉」
口答えの代わりにラドミアは唇をきつく噛みしめた。
彼の言い分はもっともだ。この世の戦における絶対の理として、神承器には神承器でしか対抗できないという大前提がある。戦闘を前にして、敵方の神承器がいくつあるかを確かめるのは、騎士学校でも早々に習う基礎中の基礎だ。第一皇妃の私兵だけでも、もっと念入りに調べ上げておくべきだった。
ましてや今回見逃していたのは、アクイラとルベンという手練が二人がかりで敵わないほどの実力者。この罪は間違いなく重い。
「デルマール、お前もだ。なぜアクイラを使った」
自分に咎めがくるとは思っていなかったのか、デルマールと呼ばれた小太りの男は激しく狼狽する。
「そ、それはあやつめが勝手に言い出したものでございまして……。一度動き出してしまえば、あの神出鬼没の男を止める手立てなどありませんで……」
「結果としてルベンまでもが死んだ。あれはゼピュロス家を継ぐべき者だった」
痛いところを突かれたのか、デルマールは言葉を飲み込むように下を向いた。
「それは……承知しております。私も夫人には合わせる顔がない」
デルマールは見た目にはいかにも無能な小太り役人という風情だが、これで水大公派諸侯の取りまとめ役を務めている。貴族にとっての後継者の重要性は誰よりも理解ある立場だ。
結局のところ、この場に呼ばれた両者共に、責の自覚はすでにあるということだ。彼らにとって弁明は自らにささやかな慰めを与えるためのものでしかなく、呪王ベナスを言いくるめられるとも期待していない。あとは裁きの時を待つばかりだ。
一通りの糾弾を済ませると、ベナスは高い背もたれに寄りかかった。そして鋭い眼光はそのままに、尖ったかぎ鼻を鳴らした。
「……まあよい。未熟者どもの失態をしつこく
二人は密かに胸をなで下ろす。が、ベナスの鷹のような鋭い視線は緊張を緩めることを許さない。
「それよりも次だ。これ以上奴らをこの帝都に近付かせるわけにはいかん。フラウムよ、例の策はどうなっている」
「なんら滞りなく。伝令の馬が手間取らなければ、もう帝国全土に布告が伝わっている頃でしょう。例の品も用意は済んでおります」
フラウムと呼ばれた砂色髪に金の瞳の少年が淀みなく答える。顔に笑みこそたたえているが、その内側には何の感情も見いだせない、死霊のような少年だ。
この少年を見た瞬間から、ラドミアは自身の内にとめどなく怖気が膨らんでいくのを感じていた。しかし同時に、そんなフラウムをすら手駒に持つベナスの器の大きさに、皇姫を裏切ってこちらに付いた自らの選択は間違いなしと確信してもいた。
「ならば良い。では、あれを」
ベナスの言葉にフラウムは一つ礼をして歩き出し、この執務室の奥にある扉へ入っていった。
「しかし大公様も物好きですな、あのような怪しげな少年をお傍に置こうとは」
「儂は有能であれば出自など問わん」
「左様にございましたな。そういえば、先日も布告を知ってやって来たエルフ女を一人雇い入れておりましたが、あれもお眼鏡にかないましたか」
デルマールの言葉を、ベナスは一笑に付した。そして不思議がるデルマールに、短く告げる。
「すぐに分かる」
フラウムはすぐに戻ってきた。一振りの煌びやかな剣を両手に乗せて、掲げるかのようにしている。
ベナスは節枝の指でその剣の鞘を掴むと、ゆらり立ち上がった。他の二人も慌てて身体を持ち上げ、直立不動の姿勢を取る。
そしてベナスは、ラドミアの眼前に立った。
「神承器サラキアだ。褒賞の前払いといったところか」
ベナスの意図を察して、ラドミアの顔色が変わった。
「あ……ありがたき幸せ!」
ラドミアは素早く片膝をついて跪き、胸に片手を当てたまま深く頭を下げた。帝国騎士式の最敬礼だ。表情は喜びに溢れ、心は感動に打ち震えていた。
「これを受け取ることが何を意味するか——分かるな」
「はッ! 必ずや皇姫——否、帝位を簒奪せんとする逆賊ミスハの討伐、このラドミア・アルヴァーロ・サラキアが果たしてご覧に入れますッ!」
最敬礼の姿勢を崩さないままに、ラドミアは声高に宣言した。
ベナスは鋭い眼光のまま小さく頷くと、神承器サラキアをまっすぐ前に差し出す。合わせてラドミアは目を閉じて、頭より上に両手の平を掲げた。
そしてラドミアの手に、神承器サラキアが置かれた。
「おお、新たな神子の誕生ですな」
囃し立てるデルマールの声に、ラドミアは感慨深げな笑みを浮かべていた。忠誠を誓うべき主を裏切ってでも、手にすることを望んだものが今自らの手の中にある。誰が笑わずにいられよう。
だが幸福に充ち満ちた執務室の中で、変わらずベナスの表情だけは、いささかも揺らいでいなかった。
「ただし奴らを追ってしばらくは、その剣を使ってはならん」
「な、なんですと⁉ 相手も神承器を持っているのですぞ⁉」
デルマールの驚く声を無視して、ベナスは続ける。
「件の黒煙使いについて、ロムロよりの使いから、いささか気になる報告があった。少し試したいことがあってな。お前が剣を抜くのはそれからだ。……不服か?」
「いえ! 水大公ベナス様のご命令とあらば!」
再び執務椅子に腰掛けると、ベナスは机に片肘をついた。
「ではこれより、件の計画を実行に移すとしよう。そしてラドミア。お前にも、『ラドミア近衛騎士長』としての、最後の仕事をしてもらうことになる」
ベナスはそう宣言すると、ようやく、小さく笑った。
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