第3章 - 天与と地這

剣の道

 

 

 習慣とはつくづく恐ろしいものだ。


 目を覚ますという現象は、二度寝から三十分過ぎたそのまた十分後に辿り着く。そう確信していた過去が嘘のように、クロの双眸は日が昇るより早くに開かれた。


 ベッドから身を起こし、旅の荷物にまみれた部屋を見渡す。そう、ここは宿の一室である。全面木張りで隙間風が肌寒い、一人客用の小さな部屋である。見張り番の交代に夜明け前から目を覚ます必要などありはしない。

 野宿生活に合わせてすっかり調教されたらしい自分を嘆き、クロは顔をふさいでさめざめと泣いた振りをする。


 ひとしきり形だけの悲しみと憂いに浸った後は、ベッドを抜けだして部屋を出た。どこからか微かに香ってくるパンの焼ける匂いに、少しだけ口の中で唾液を啜りながら、外へ向かった。


 ◇


 昨夜にクロたち一行が辿り着いたこの小さな集落は、街道を通る人々の単なる休憩地点のような土地だった。街道に沿って宿がいくつか並び、間に一つ、やたらに割高で品揃えの悪い店屋がある。


 宿の裏口を開けると、静けさとともに未明の冷たい空気がクロの肌を刺した。


「うおっ……さーみぃな……」


 まだ薄暗い空の下で独りごちてから、集落に一つだけの井戸へと足を向けた。顔を洗った井戸の水は、これまた一段と冷たかった。


 顔を洗い終えた段になって、拭くものを何も持ってきていないことに気付いた。寝惚け具合だけはまだまだ現役だったらしい。仕方なしに服の裾で濡れた顔を拭う。

 その時、目端に何か煌めく光が映った。視線をやると人の姿が見える。井戸から少し離れた簡素な薪置き場の前で、誰かが無心に剣を振っている。


「あれって、フレデリカか?」


 腰まで伸びる金髪に、翠玉のような緑の瞳。真摯な性質が見て取れる端正な顔立ちをして、滑らかな曲線を描く白磁の肢体。服装は動きやすく軽めなもので、普段は鎧に隠れている挑発的なまでに豊満な胸の大きさもよく分かる。

 以前フレデリカの水浴びに遭遇した際の悲劇的な経験は、その目に映った様々なものをクロの記憶へ克明に刻み込んでいた。間違いない。てっぺんから腰やつま先、乳房の形まで、疑いようもなく彼女はフレデリカだ。


 夜明け前から熱心に剣を振るって、朝稽古というやつだろうか。俄に輝きを放つ白銀の剣を振るうフレデリカの表情は真剣そのもので、気軽に声を掛けるのも憚られる。

 どうやら今は、一つ一つの基本的な剣の振りと、流れるように派生するいくつかの二の太刀を反復しているようだ。舞うような動きはどれも鋭く、洗練されている。これまでにも何度か見てきたが、やはり見惚れるような剣技だ。


 しばらく見ているうちに、フレデリカは動きの一つを特に大きく、最上段から振り抜いた。長い息を吐いて、身体の緊張を解いていく。

 そこでようやく、フレデリカもこちらの存在に気が付いた。


「うげ、クロじゃない。何であんたがここに」


 相変わらずの刺々しい口調には、妙な安心感すらある。いつも通りのフレデリカだ。


「なんでか目が覚めちゃったんで、散歩でもしようかと思ってさ」

「ふうん……まあ、あんたのことなんてどうでもいいわ」


 つれない態度でフレデリカは顔を背けると、剣をくるりと回して再び構えた。しばらく動きを止める。


 それから、クロを横目に睨んだ。


「…………あんたに見られてると、やりにくいんだけど」


 一瞬目をぱちくりさせてから、頭を掻いた。


「そうか? うーん……ちょっと残念だけど、邪魔になるなら仕方ない。戻るかな」

「ずいぶん引っかかる言い方するわね。何か不満でもあるわけ?」

「いや、どうせなら何かの参考にならないかと思ってさ。何より見てるだけでも綺麗な剣技だしな。騎士団仕込みってやつ?」


 そこで突然、フレデリカの緑の瞳が怒りに燃えた。


「……あんた、わたしを馬鹿にしに来たの?」


 予想外の反応に「へ?」と驚きの声を上げる。

「どうしたんだいきなり。何か変なこと言ったか、俺」

「自覚がないなら救えないわね。とにかくさっさと帰ってくれる? 朝食の前にいつもの分を終わらせたいの」


 吐き捨てるように言って、フレデリカはクロにあえて背を向ける。

 いつもなら何か不用意なことでも言ってしまったのだろうと引き下がるところだが——今回はフレデリカの前に回り込んで顔を見合わせる。


「……何よ」

「いや、一つ言っとこうと思ってさ」


 金の睫毛の奥から睨む眼光に、クロは怯むことなく続ける。


「お前が俺のこと嫌いなのは、前々から何となく分かってる。まあこっちも好きに暴れてるから、仕方ないとは思うんだけど」


 軽い口調のまま「——でも、」と続ける。


「だからってあんまり目の敵にするのは勘弁してくれよ。これからもしばらくは一緒に旅するんだからさ、変にこじらせてもいいことないって。な?」


 そう言って、握手でもしようと手を差し出す。

 が、フレデリカはそれをぐいと押し退け、じろり睨んできた。


「……別に、おかしなこと言ったつもりはないわ」

「でも実際、俺は馬鹿にするつもりなんて欠片もなかったぞ。いちいち悪いように取り過ぎだろ、お前」

「だからそれは——ッ! ……ああもう! だったら言わせてもらうけどね!」


 フレデリカはクロを突き殺さんばかりに指を立てると、唾を飛ばしてがなり立てる。


「どっかの誰かさんは、剣も武術もまるで素人のくせに、わたしが手も足も出ない相手を好き放題ボッコボコにしちゃうのよ⁉ そんな奴が毎朝毎晩訓練してるわたしの前に寝ぼけ眼でやってきて『あー、君の剣術は綺麗だよねー、ちょっと鑑賞でもしていたいねー』なんて、腹立つに決まってるじゃない!」


 語気に気圧され戸惑いながら、クロはしばし考えて、

「…………そう言われると、確かに」

 素直に同意した。


 本当は何か言い返してやるつもりだった。しかしフレデリカの主張は嫌にすとんと腑に落ちて、自分も同じ立場ならそう感じると確信できる。


 こうなるともうさっきの自分の言い草は、嫌味ったらしい上から目線にしか思えない。「綺麗なだけの剣技でも、ちょっとは役に立つかしら」——とまでは行かないにしても、似たような意味合いで言っていると思われても不思議はない。


「あああ~! 自分で言ってまた腹立ってきた! だから言いたくなかったのに、あんたが突っかかってくるからぁ!」


 行き場のない怒りをばらまいて、フレデリカが吼えている。


「……あー、うん。なんか……悪かったな」

「ちょっとやめてよ! 謝られると余計みじめになるじゃない!」


 フレデリカのむかっ腹は、クロが口を開くたびに薪がくべられ、ふつふつと熱く煮えたぎっているようだった。フレデリカは「もおー」と「やだー」を繰り返し、金糸にも似た艶やかな髪をかきむしりながら、しばし怒りと格闘する。

 そして体力の限界と共にフレデリカは次第にうつむき加減になっていき、怒りの炎は最後に「はぁ」と疲れたような溜息に変わって消えた。


「えーと……落ち着いたか?」


 クロは軽くフレデリカの肩を叩いた。撥ね除けられるかとも思ったが、もうそんな気力もないようだった。


「なんつーか……あれだ。お前、そういうの気にしてたんだな。ちょっと意外だったよ」

「意外は余計だけど……、そりゃあね。訓練が辛いと思ったことはないけど、結果が出ないのは——やっぱり苦しいもの。おまけに周りはみ~んな嫌になるくらい強いし」

「あー、イェルとかなあ。あいつ一体何なんだろうな」


 一番おかしな自分を棚に上げて、クロは雇われの魔導少女を例に出した。

 鉱山での戦いでは、複数の手練れ相手に互角以上。おまけに魔法は戦略兵器とでも呼ぶべき範囲と威力を持っている。あんな物騒な輩が市井の一傭兵としてうろついているなんて、天下国家の憂慮すべき問題にすら思えるくらいだ。


 ただ、フレデリカの意見は少し違うようだった。


「もちろんイェルもそうだけど。……一番はそこじゃなくてさ。その……ミスハ様があんなに強いなんて、正直わたし、全然知らなくて」

「ああ」


 クロもそういえばと同意する。


「そういや、あいつも結構戦えるんだよな。何でだろ。訓練とかしてたのかな」

「知らないわよ、そんなの。近衛騎士って言っても、わたしたちは元々ミスハ様とは顔を合わせる機会なんてほぼ無かったから。……とはいえ、人の出入りにそれらしいものはなかったし、独学で覚えたんだとは思うけど」


 しかし明らかに練熟した魔法の技術。それこそ戦闘要員として数えられるほどの実力を、十一歳の少女が独自に習得できるものなのか。

 記憶のないクロには不可解にも思えるが、この世界の魔法の学び方というのは、どうなっているのだろう。フレデリカの治癒魔法だって、クロからすればずいぶんと不可解なのだ。


「とにかく。それで役に立ってるのか不安になって、ちょっと焦ってたわけ。それだけ! はい、もうこの話はおしまい! 分かったらあんたもさっさとどっか行けっ!」


 フレデリカは空元気を振り絞るようにして、クロを追い払うような仕草をする。

 空元気も元気は元気。しぼんだままよりずっとマシだ。クロはひとまず安心して、「へーへー」とフレデリカのお達しに従った。


「あ、ちょ、ちょっと待って!」


 背を向けて歩き出そうとするクロの肩に、フレデリカが手をかける。

 振り返るとフレデリカは、少し顔を赤くしながらもじもじと。なぜかこちらに目を合わせてこない。


「何?」

「えっと、その……い、今の話だけど……みんなには内緒にしててね……?」

「ああ、そんなことか。いちいち釘刺されなくても、誰にも言いやしないって」

「……や、約束よ? 本当に言わないでよ?」

「はいはい、分かった分かった。でも、言ってもあいつら気にしないと思うけどなあ」

「わたしが気にするの!」


 どうやら騎士様の乙女心は複雑であらせられるらしい。クロでは心中察するには知性と品性と気配りがあまりにも足りないが、本人が言うからには不味いことなのだろう。


「分かったよ、絶対に誰にも言わない。約束する」


 真っ直ぐにフレデリカの目を見て言うと、フレデリカが驚いたように目を逸らし、また少しばかり顔を赤くした。


「照れるところかあ?」

「う、うるさい! とにかくこれで後腐れ無し! これからは変な気遣いは無用だからね!」


 言ってフレデリカは右手を差し出す。クロもやれやれと、握手に応じた。


「そ、そういえば、誤解されてるみたいだからついでに言っておくけど」


 今度こそ戻ろうか、というところで、フレデリカが再び口を開いた。


「別にわたしは、あんたのこと嫌ってるわけじゃないから。ただちょっと……信用できないだけで。ミスハ様も、わたしだって何度か助けてもらったし、感謝はしてる」

 そして少し逡巡。

「だからその、つまり……ありがと。——って、多分これ、今まで言ったこと無かったよね」


 少しはにかんだように、フレデリカはクロに笑いかけた。

 その笑顔に、クロは一瞬心を奪われそうになった。ただでさえ一点の隙もない美貌の少女だ。そこにこんな笑みまで加われば、老若男女を問わずクロと同じ反応をするに違いない。


「言われてみれば俺も、フレデリカには何度か助けてもらったな」

「あ。そ、そうだったかな。だったら持ちつ持たれつってことよね。それじゃあ、さっきの無しってことで」


 すぐに前言撤回を試みてきたが、言葉はしどろもどろで顔まで赤い。どう見ても照れ隠しだ。どうせなら普段もこんな具合ならいいのだが。

 生暖かい視線で見られているのに気付いたのか、また一段と顔を赤くして背を向ける。


「と、とにかく、今度こそこれで話は終わり! 無駄に時間使っちゃったから、もう太陽が昇りそうじゃない! 私もすぐ行くから、先行ってて」


 剣を構えたフレデリカは、クロがいるのも気にせず素振りを始めた。色々と吹っ切れた、ということなのだろう。


 さてそろそろ本当に戻ろうか。いいかげん腹もきゅうきゅう動き出して、今にも鳴り始めそうだ。

 と、そこで今度はクロから一言付け加える。


「これはあくまで俺の意見だけどさ。お前が他と比べて弱いかっていうと、別にそんなことはないと思うぞ。そりゃあ普通に戦ったら、勝てない相手もいるだろうけどさ。お前の治癒魔法がなけりゃ俺らはとっくにくたばってるわけだし」

 言って、

「あー、つまりだな。何つったらいいのか難しいけど……」

 しばし逡巡。そして一つ思いついて口にする。


「強さにも色々あるってことだろ、多分な」


 クロが話す間にも、フレデリカは剣を振り続けていた。


 ちゃんと聞いているのか確認でも取ろうかと考えたが——ま、いいか。面倒になったところで、クロはさっさと宿へと戻っていった。


 ◇


 残されたフレデリカは、クロの姿が見えなくなってから、一つ汗を拭く。そして白銀の剣を縦にして、目の前に構えた。


「強さにも色々ある……か……。クロのくせに結構いいこと言うじゃない」


 一瞬微笑んで。

 しかし、もがくように目を閉じる。


「……でも、やっぱりわたしは、それじゃ嫌なんだよね。だって、だって、私が憧れたのは————」


 独白は誰にも届かず。そして煌めく白銀の剣身は、フレデリカの今をただありのままに映し出していた。

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