無銘の凶
空も風も寝静まったような深い夜の森。
昨日の徹夜分を取り戻す、泥のような眠りからクロは目を覚ました。少し離れたところではミスハとフレデリカが、毛布の中に身体を丸めて幸せそうに寝息を立てている。
他に耳まで届くのは、パチパチと燃える焚き火の音くらい。クロはその音に引き寄せられるようにして、のそのそと歩き出した。
焚き火の横にはイェルが一人で、焔の灯りで本を読みながら見張りの交代を待っていた。
クロはくあああ、と一つ大あくびをかましてから話しかける。
「お前も徹夜明けなのに、こんな静かなところでよく起きていられるな。…………ていうか、寝てないよな?」
「見張りが寝たら意味が無い」
本から顔を逸らさずにイェルが答えた。
「おお、起きてたか。ぴくりとも動かないから、てっきり本を読んだまま夢の中にでもお出かけしてるものかと」
「少し考え事もしてた」
「だったら似たようなもんだな」
「その通り」
クロの軽口に、イェルも軽口で答える。そしてようやく本を閉じてこちらに目をやった。焚き火の赤に照らされて尚、蒼く輝く瞳。もちろんその片方には細やかな紋章痕が刻まれている。
少し離れてクロも同じく焚き火の前に座ると、また一つあくびをした。
「なんか食うもの無いか? 腹減ったんだけど」
「無い」
「いや、無いってこたないだろ。たっぷり買い込んできたばかりなんだから」
「今日の分はもう無い。ついでに言うと、さっき食べ過ぎてたからクロだけ明日の朝食分も無い」
「…………出来れば、もうちょこーっとだけ早く言って欲しかったな。それ」
食べられないと聞くと、一層腹が減ってくるのが人の性というものだ。
よく見ればイェルが温かそうなミルクの入ったカップを手にしているではないか。物欲しそうに見つめてみるが、すっとあちらを向いて一気に飲み干してしまった。
「お前、わざとだな」
「我慢も大事。といっても、クロが空腹なのは責められないけど」
言いながら、イェルはコップを手際よく片付け始める。
「まあ、忙しいのが続いたからな。腹も減るよ」
「そういうことじゃない」
クロは不満げな顔をした。まるでこちらの勘違いも真実も、分かっているような言い草じゃないか。
「あくまで予想だけど」イェルはクロの顔にこちらの疑問を読み取って答える。
「クロは実際に、お腹が空いてるわけじゃないから」
言われて自然と、唾を飲み込んだ。
喉を滑り落ちて感触が消える。おそらくそのまま腹に落ちたのだろう。当然何か反応があるわけではないし、そもそも今は鳴ってもいない。だが強い空腹感だけはある。
そこで気付く。
フェルドとの晩餐で感じていた、満たされない感覚と同じものだ。そういえばあの時も、イェルはこちらの違和感に気付いている様子だった。
もしかすると、イェルもクロと同じ結論に達したのかもしれない。
この飢餓感の正体と、満たされるための術。それは神承器使いへの殺意と一つになっているものだということに。
「……あー、それで空腹なのは責められないって?」
「フェルドがあの場で死ななかったのは、私たちにとっても非常に良い結果。何より姫様も助かった」
「まあ俺が動かなくても、あいつ死ななかったんですけどね」
拗ねたように言い放つが、意外にもイェルは首を振った。
「それは結果論。私の見立てだと、あの時点で
一瞬目を見開いた。
騙されたと気付いた時には腹立たしくも感嘆したものだが、本当に命を懸けていたのか? だとするとやっぱり、本当に馬鹿なんじゃないのか、あいつ。
いや、そこまで追い込んだのはこちらの方か。それにしたって、少し危なっかしい気がするが。
「……だったら身を呈してお姫様を助けた俺に、もうちょい優しくしてくれる? 具体的に言うとミルク一杯くれ」
冗談めかした横暴だったのだが、イェルは素直に受け入れてくれた。
片付けたコップをわざわざまた取り出して、革製だが不思議と形が崩れない容器から、ミルクをとくとくと注ぎ始める。
クロは差し出されたコップを受け取ると、一口含む。
「ぬる……」
少しばかり温めようと、焚き火の横にコップを置いた。
「それじゃ、後はよろしく」
「あ、ちょっと待った」
おもむろに立ち上がったイェルの行く道を、伸ばした手で塞ぐ。
半目でじとりとこちらを見つめてきた蒼い瞳を、見上げるようにして尋ねた。
「お前本当は、俺についてもっと何か知ってるんじゃないのか?」
イェルの動きがしばし停止する。
何か考え込んでいる、いつもの動きだ。これまでずっと無表情で行動の読めないように見えていたが、慣れてしまえば案外分かりやすい奴なのかもしれない。
「知らない」
「それは確実に嘘だな。最初に会った時から、お前は俺が神承器に興味があることを知ってただろ。あれは俺自身も最初は気付いてなかったんだ。少なくとも俺が知らなくてお前が知ってることはある、ってことだろ」
「……うん、なかなか鋭い。といっても、嘘をついたわけじゃない」
ぷひゅう、と一つ息を吐くと、イェルはこちらに向き直った。
「神承器はある存在を滅するために、この世にもたらされたと神話にはある」
いきなり始まった説法に、クロはきょとんと目を丸くする。
「無数の魔物達を配下に生み出すその存在は、わずか三柱で世界を滅亡の寸前まで追い込んだ。死を撒き散らす狂気、生無き世界の呼び声、神代の折に存在したとされる異形の怪物。
存在を語ることさえ忌避されるうち、ついに呼び名すら失われたそれらは、今ではただ名も無き
そこまで一息に言い切ると、クロの目を紋章痕の蒼い瞳で見つめる。
「クロはその無銘の
言い終えるとイェルはクロの手をずいと押しのけて歩いて行く。
「え、ああうん。おやすみ……」
呆気にとられたクロが言葉を返した時には、イェルはすでに毛布を被ろうとしていた。
……衝撃的な事実。だったような、気がする。
神承器の宿敵。人類を滅ぼそうとした、
「無銘の
焚き火に当てていたミルクを、少し飲んだ。まだ温いままだった。
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