暗闇の底で

 

 

「……っ痛つ…………」


 何も見えない影の世界で、クロはうつ伏せのまま呻いた。

 そして呻いてから気付く。何かがおかしい。


 記憶が確かなら、クロはミスハが岩盤に潰される瞬間に飛び出して、庇うようにして倒れ込んだ。

 あれだけの質量、しかも咄嗟の行動だった。たとえクロ自身が平気だったとしても、身体の下でミスハは無残な姿になっている。——はずだ。


 なのに、身体の下からはただふわりと柔らかい感触がして、上には逆に何の感覚もない。


「…………う、ん? 何がどうなって……?」

「……ふ、ふふ……ふふふふふ…………」


 覆い被さっている内側で、小さく笑いをこらえる声が聞こえた。


 思わずクロは四つん這いに自分の身体を持ち上げる。両手をついて背を反り返し、目線は更に上へ。すると髪の毛が奇妙に揺らいで、額をくすぐった。


 クロの目と鼻の先に奇妙な球体が唸りを上げて、岩盤を空中に押し留めていた。

 見覚えのある球体だった。記憶が確かならこれは斥力を生み出す魔法の産物。呪文の名前は闇月イクリプス。使い手は——


 そこで一段と、両腕の内から聞こえる笑い声が大きくなった。


「み、ミスハ! おま、お前まさか――」


「そのまさかだクロ! おぬしが助けに来なくとも、闇月イクリプスで止める算段をしておったのだ! やーい、まんまと騙されおって愚か者め! おぬしが庇ってくれるなど、私が本気で期待するとでも思ったか!」


 ここに来てクロの内側に、羞恥心がどっと溢れ出てきた。頬と耳たぶが一気に熱を帯びていく。

 殺すとまで言った相手、手にかけようとした相手のために、死地に飛び込んだ。だけでなく、それが完全なブラフだったとは!


 こんな——こんなこと、とんでもない恥辱だ。一生の恥だ。六道四生の恥さらしだ。あああああああ、何てことだ! いっそ消えて無くなってしまいたい!


「お、おま、お前なあ……ええと、中々やってくれるじゃ——」


 言いかけて突然。

 ミスハが首に手を回すように抱きついてきた。


 とにかく何か文句の一つも付けなければと焦っていた頭が、さらに混乱する。混乱が身体を支えていた手を汗で滑らせ、クロはミスハを再び押し潰してしまった。

 それでもミスハは抱きしめる腕を離さない。どころか、掴む指に力を込めて、さらに強く抱き締めてきた。


「…………すまん。今のは冗談だ。本当はすごく……すごく嬉しかった。今でも心臓が破裂しそうなのだ。聞こえるか? 私の鼓動が」


 感覚を研ぎ澄ますと、確かに触れ合っている胸から早鐘を打つ感触が伝わってくる。柔らかい匂いがして、耳にかかる吐息が少しくすぐったい。


「あー、まあ……お前は胸が薄いからな」

「な、何おう⁉」


 そこでようやく、ミスハの方からクロの両肩を突いて身体を引き離してきた。


「こっちも冗談だ」

「嘘をつけ!」


 クロもいい加減に自分を取り戻してきた。気分も妙に落ち着き始めている。

 はあ、と一つ溜息を付いた。少し離れようとしたところで、クロの両頬に、ミスハが両手で触れた。


 ただでさえ暗い坑道の、厚い岩盤の屋根の下だ。顔すらはっきりとは見えないが、それでもミスハがこちらを、まっすぐに見つめているのだけは分かった。


「おぬしは魔物ではなかった」


 思わず舌打ちをする。

 実際にこうしてフェルドから離れ、ミスハを助けに来てしまったのだ。今更どんな理屈をこねくり回しても、言い訳にすらならない。クロにとっては受け入れがたい——最悪の現実だ。


「まだ今からだって、奴を殺しには行けるぞ」

「もうとっくに、二人がフェルドから神承器を引き離しておるさ。そういう手筈だからな。おぬしの身体に満ちている力も、もうすぐまたいずこかへ隠れてしまうだろう」

「……そうかい」


 今こうして落ち着いて話をしていること自体、ミスハの話が事実である証拠なのだろう。全身の狂喜が抜けていく感覚も、確かにある。


 つまらない。消化不良。満たされない。


 再び渇きと飢えが、クロの脳髄から全身に染みだしていく。


「なあ……クロ。おぬしが何者なのか、私は知らん」


 大岩の影の暗闇にも目が慣れてきて、少しずつミスハの表情が掴めてきた。


 笑顔ではない。泣いてもいない。

 だがその瞳は、救いを求めているように見えた。


「……しかしおぬしがどんな存在であろうと、それこそ本当に魔物であろうと、どうか……どうか今だけはまだ……私の騎士でおってくれんか。初めて出会ったあの時、クロに命を救われて、こうして何度も話をして、私はようやく、私になれそうな気がしてきたのだ。なのにまたおぬしを失ったら、私はまた……いや、今度こそ…………本当に壊れてしまいそうだ」


 暗闇に光る、赤い瞳の輝きが揺れた。

 ようやく涙が一筋こぼれて、目尻から地面に流れて消えた。


 クロは身体を捻って軽く座り込むと、その涙の跡を拭った。更にミスハの身体をぐっと持ち上げて胸に抱いてやる。


「あー……何だ。悪かったよ、好き放題言って」


 胸の中で、ミスハが小さく嗚咽を始めていた。


 考えてみれば、これでもまだ十一歳の少女なのだ。

 それも複雑に入り組んだ環境の中で、蔑ろにされ続けてきた、ちっぽけな少女だ。クロのように気軽に笑い合える相手など初めてだったに違いない。その相手に死んでも構わない、どころか殺してやろうかとすら言われれば、平気でいる方がよっぽどおかしいというものだ。


 せめてもの償いに優しく抱きしめ頭を撫でていると、ミスハの嗚咽は更に勢いを増していく。しかもそれを必死に押し潰すものだから、まるで痙攣でもしているように震え始めた。


「……お、おいおい。大丈夫か? もう何もしないから、大丈夫だって。ほら行くぞ。とりあえずここから出ないとさ、こんな大岩の下じゃさすがに落ち着かないだろ」

「…………嫌だ。フレデリカにも、イェルにも……こんな姿見せられん……」

「は、はあ? 何でだよ……ていうか……何か、天井が……」


 迫ってきている気がする。

 いや、気がするだけではない。本当に落ちてきている。


 先ほどまで頭の上にあったはずの闇月イクリプスの球が、今は目の前にある。そして随分と小さくなっている。


「私の魔力は、もう、とっくに使い切っておるからな。……当然だ」


 ミスハは洟をすすりながら言う。


「当然だ。——じゃねえだろ! と、とにかく早くここから出るぞ。ブラフかけて助かったけど、結局仲良く潰されましたー、なんてのは笑い話にもならん!」

「待て待て。せめて涙と鼻水を拭いて……」

「やってる場合じゃねえんだよ! ああもう、面倒くさい! いっそ俺がぶっ壊しちまえば——」


 クロはそう言って僅かに残った力を振り絞り、黒い衝撃波を放つ。

 すると衝撃波は——おもちゃのラッパ程度の力も出すことなく、岩に触れてすぐに霧散した。フェルドの神承器が止まって、すでにかなりの時間が経っていたのだろう。クロの力は殆ど抜けていたようだ。


 が、その僅かな刺激が大岩に最後の堰を切らせたらしい。


 大岩は再び動き出し、斥力を生み出していた闇月イクリプスの球体がパァンと音を立てて割れた。


『あ』


 二人同時に、絶望の声を上げた。


 ◇

 

 四人が山を降りて街道に出た頃には、既に夜が明けていた。


 すんでの所でイェルの氷柱に救われたものの、ぺしゃんこに近い態勢の二人が岩の下から這い出てくるまでには、小一時間を労した。

 結果、土と砂をたっぷり被ったクロとミスハは道すがら延々と、互いに責任を押し付けるべく言い合いを続けることとなった。

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