狂える刃の向かう先
クロが真下に黒い衝撃波を放つと、それは地面を波紋のように広がり炎を薙ぎ払った。
土と煤が混じった煙が晴れ、炎に隠れていたフェルドの姿がようやく視界に入る。腰を抜かして尻もちを付いていた。
昼間の自信に溢れた様子はどこへやら。美麗な装飾の赤いレイピアも、バジェルの少女にも分かるくらい洗練された服装も、今のフェルドではまるで似合っていない。こうして見るとどこにでもいそうな純朴な青年という顔付きをしている。
クロが一歩足を踏み出すと、フェルドは「ひっ」と声を上げ、ハイハイをするように四足歩行で少しでも距離を取ろうとする。
そうやって逃げたところで、離れたのは衝撃波でも雷でも届く程度の距離。わざわざ追いかけるまでもない。しかしどうせなら、これまでと同じように感触を味わいながら殺したい。空中をとん、とん、と二歩、黒い煙を弾かせながら踏み込んで先回りをした。
「く、くそおッ!」
手にした神承器はレイピアの形状だというのに、横薙ぎの大振り。
もちろん容易く素手で受け止める。ジュッと小さく音がした。わずかに黒煙が漂ったのは、単に焦げたのだろうか、それとも怪我の痕に出てくる例の煙だろうか。
すぐにどちらでも大差はないと結論づける。そのままもう片方の手でフェルドの首をしっかりと掴んだ。
これで終わりだ。ようやくあの悦楽の瞬間が訪れる。
「そこまでだ、クロ!」
背後から大きな声がした。
そういえばさっきから、ちょくちょく話しかけられていた気がする。
「ミスハか。お前もしつっこいなあ」
言っている間にも指は勝手に力を強め、ますます首の深くまで刺さっていく。フェルドの皮膚が裂け、生暖かい血と肉の感触がする。
「もはやフェルドは戦えん。おぬしの勝ちだ、クロ。さあ手を離してくれ。このままではそやつは死んでしまう」
「知ってるよ。でもお前、さっきこいつに殺されかけてたろ? 生かしといたらまた襲ってくるかもしれないぞ」
「私のためだと言いたいわけか?」
「ま、一応?」
取り繕った言い訳で、ミスハの言葉を煙に巻く。ミスハも本音でないことは百も承知だろう。その上でクロを試すように、真剣な顔で尋ねてきた。
「ならばもし、その方が私のためだと言えば、そやつを下ろしてくれるのか?」
「嫌だね」
切り捨てるように言った。瞬間、ミスハの表情が僅かに曇った。
「……ならば、これはただのお願いだ、クロ。もうやめてくれ」
ミスハは首を振ってクロに訴える。
「フェルドが今ここで死ぬとまずいのだ。ウェスタの紋章が真に受け継がれるべき者に渡らず、私たちの誰かに宿ることになる。アブリスも、私たちの旅も、ここでフェルドを殺してしまえば滅茶苦茶になってしまう」
「ああ、そういやそんなのあったな」
紋章痕の持ち主が全て死んだ時、神承器によって他の誰かに紋章が受け継がれる。そんな話は武具店で聞いた。フェルドが紋章痕を得た理由だ。
ならば今またここでフェルドを殺せば、再び紋章痕の持ち主はいなくなり、同じことがまた起きる。確かにそれは道理だ。
「……で? それがどうしたんだ」
「ここで殺すべきではないと言っておるのだ! おぬしだってウェスタを受け継ぐべき者が誰か、思い浮かぶ者がおるだろう!」
言われずとも検討は付いていた。
紋章痕こそ受け継がなかったとはいえ、前領主の実娘。何より領民に愛され、この地を愛し、隣人を尊く思う慈愛の心を持っている人物。ナタリアのことを言っているのだろう。そこに疑問を差し挟む余地はない。
「神承器をナタリアだけに十分近づけてから、こやつの命を絶つ。ウェスタの紋章はあるべき場所に戻り、全てが丸く収まる。時間をかけて法の下でとまでは言わん。最期はおぬしが手を下しても良い。だからせめて、今殺すのは思いとどまってくれ、クロ!」
成る程、筋は通っている。倫理的にも道徳的にもごもっともで、フェルドを殺したいというクロの欲求も満たしている。誰が見ても理想的な最適解だ。諸手を挙げて賛同しよう。
「お前の言いたいことは……よく分かったよ」
笑いながら、フェルドを掴んでいた手を離す。ミスハの表情が一瞬緩み——
「でもさあ!」
またフェルドの首を掴んで壁に叩き付ける。
「理屈はよぉーく分かる。分かるんだよ。お前の言いたいこと、したいこと、どれもよぉーく分かるん! だけど! さあ!」
何度もフェルドを壁に叩き付けながら言う。フェルドの首が壊れたように揺れ、血の泡が口の端から溢れてくる。白目を剥いて、地面から浮いた身体がガクガクと震え始めた。
「いかん! フェルド、とにかく剣から手を離せ!」
「ダメです、もう意識が——!」
ミスハとフレデリカが声を荒げている。しかしクロは、意味のある言葉として受け取ることすらない。
深く重い、黒煙混じりの溜息を吐き出す。
「……それは俺が、こいつを殺すのを止める理由にはならない」
ついにフェルドをくびり殺そうとした瞬間、魔弾が腕を貫いた。構えたままのミスハが緊張の面持ちでこちらを見つめていた。
「……ははッ」
半笑いでクロが手を離すと、今度こそフェルドはその場に倒れ込んだ。
「俺はさあ……」
魔力の残滓を振り払うと、黒煙が共に中空へと舞い散る。ゆらり向き直る動きを口から漏れる黒煙が辿って、動きを止めた時にはもう腕の傷は塞がっていた。
「俺は本当のところどうでもいいんだよ。誰が死のうと生きようと、何がどこに移ろうと、どうでも。ただこいつらを殺して、殺して、殺して殺したいだけなんだ。それ以外のことは知ったこっちゃない」
口から溢れてくる自然体の言葉。肉体と精神の全てが開放感に満ち溢れていた。そして理解する。これこそが
「なんなら、お前らもついでに殺しといてやるよ。そうすりゃ誰が紋章を継ぐとか、不安にならずに済むんだろ」
昼に聞いたミスハの言葉が脳裏をよぎる。『それではまるで魔物だ』と。
なるほど。だとすれば————願ったり、叶ったりだ。
人の理が妨げになるというなら、そんなものは捨ててしまえ。この喜びは何ものにも代えがたい、至上にして唯一の幸福だ。誰にも邪魔はさせない。
そうだ。早くみんな殺してしまおう。あの時のような最高の歓喜をまた味わおう。
ああ、この身の飢えが、渇きが、ようやく満たされる——!
「イェル! フレデリカ!」
ミスハがうつむいたまま、叫んだ。
「<
無数の氷柱が降り注いでくる。向こうもその気のようだ。
——ならばこちらも、始めようか。
手始めに黒雷をそこら中に放った。
周辺の氷柱が一気に砕かれ、煌めく氷の結晶が宙を舞う。するとダイヤモンドダストのような結晶の向こうで、イェルが広げた手をぐっと握った。
——ィン——と甲高い音が響き、腕、腹、足、指——クロの身体が不可視の刃に切り刻まれていく。
だが、致命傷には程遠い。どころかそもそも、致命というものがあるのかすら、クロには疑わしかった。心臓を裂いた刃の痕すら、数秒と経たずに黒煙が塞いでいく。
続けて目端に、人の影が映る。それを追って扇を描くように右から左へ腕を振るった。
手から伸びる黒煙は刃のように鋭く薄くなり、空間を切断する。回り込もうとしていたフレデリカの目の前が斬り裂かれ、足を止めた。
さて追撃——というところで、地面から飛び出してくる虚ろな牙。続けて襲ってくる浮かぶ氷の刃と
「戦う分には、こっちの方がまだ面白そうだ——けどなッ!」
素早い動きで振り切ると、衝撃波で魔法の全てを吹き飛ばす。さすがに実力差が透けて見えていた。だがもちろんあいつらも、さすがにこのくらいは織り込み済みだろう。
再びフェルドの近くに降り立って、軽く首を揺らした。さあそろそろ、本気を見せてくれ。
そこでミスハが、何か合図のような仕草をした。
続けてイェルの詠唱の声。
「<
さあどんな仕掛けをしてきたか——と、舌なめずりで構えた瞬間。
遥か頭上で、爆発音がした。
位置は高い天井の更に奥、その内部。轟音は一つと言わず響き渡り、内側から弾けた天井が大きく崩れ始める。
「何だ、これだけか?」
軽く握り拳を作り、衝撃波を撃ち放つ。黒く収束した衝撃波は大岩の表面に円形を複数重ねたような凹みを生み出し、その中心から破壊する。この程度は造作もないことだ。
更に岩盤の落下が続く。
ただでさえこれまでの複数の戦闘に、クロが乗り込んできた時の穴。そこから更に、今の爆発だ。蓄積されたダメージで、いよいよ坑道全体が崩れようとしているのかもしれない。
降り注ぐ無数の岩を見ながら一考する。このままだと全員岩の下に埋もれてしまいそうだ。だが、もしも俺なら——
「この隙に回り込む——かな!」
言いながら背後に素早く目を走らせる。
「——あら?」
だが、誰の姿もない。
まさか、本当に逃げたのか? そんな馬鹿な。この程度で終わりと考えるほど、あの三人も馬鹿では無いはずだ。フェルドは——まだすぐそこに倒れている。こいつだけを連れ出そうとしたわけでもないのか。どういうことだ?
辺りをもう一度見渡すと、ぽつんと一つ、人影が残っていた。
「ミスハか。他の二人はどうしたよ」
「…………」
ミスハはうつむいたままで、表情が見えない。
「一つ」
二人が言葉を交わす間にも岩が次々と降り注ぎ、地面を砕いて轟音を撒き散らす。聞こえる声も微かなものだ。だがクロの鋭くなった聴覚は、容易く言葉を聞き取っていた。
「まだ一つ、おぬしを止められるやもしれぬ手段があるのだ。……何だと思う?」
「知るか」
吐き捨てるように言うと、ミスハは寂しげに小さく微笑んだ。
そして、崩壊しつつある天に向かって手を伸ばす。
「おぬしが扉の使い手——アクイラを逃したのは何故だったか……覚えておるか?」
一発の魔弾が直上に放たれる。
同時にクロの意識が、一ヶ月もない自身の記憶を寸刻の内に辿った。
——あの時。
クロが神承器ヤヌスを操るアクイラを瀕死に追い込み、最後の足掻きも退け、逃げようとする相手を仕留める寸前までいった、その時。
同時にもう一人の神承器使いルベンが放った風の刃が、ミスハとフレデリカを襲い、そして——
クロは、小さく鼻で笑った。
「…………馬鹿じゃねえのか、お前は」
魔弾に砕かれた天井はついに限界を超えて、ミスハに向かって落下を始める。
ミスハはあの時の再現をしようというのだ。クロがとっさに殺すことよりも生かすことを選んだ瞬間の再現を、もう一度。
——本当に、馬鹿な奴だ。
あの時、戯れに助けたようにはいかないと、想像くらいできるだろう。
これだけ必死になった所で、誰に賞賛されるわけでもない。よしんば上手くいったとしても、一日会っただけのナタリアや領民たちが少しばかり幸福になるだけのこと。わざわざ命を捨てる必要がどこにある?
まして自分を殺すとまで言い放った相手が、自分を救ってくれると信じて、大岩の下に身を投げ出す? 馬鹿げている。あまりにも愚かな賭けだ。
あらゆる行動の基準が狂っている。狂ったままに全てが繋がっている。
結局、ミスハは今も死にたがっているのだ。
先ほど二人で馬上から落ちた時に見せた笑顔も、一時の高揚感に過ぎなかった。当然だ。長く苛まれてきた自罰の感情を、あの程度で撥ね除けられるわけもない。
今まさに彼女の望みが、ようやく達せられようとしている。
ならばもう止めることもない。
そして間に合うこともない。
ミスハが天に伸ばしたままの指先に、降ってきた天井の岩盤が触れるのが見えた。もはや衝撃波も雷も間に合わない。いや、大質量は既に標的を捕らえているのだ、たとえ間に合っても助かることはないだろう。
死を望んだ一つの命が消える。ただそれだけのこと。
——さよならだ、ミスハ。
心の中で呟いた時。何故か、身体が動いていた。
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