戦いの連鎖

 

 

 フレデリカの剣が鋭く山賊の首筋に止まる。


 山賊は少しでも刃から離れようと無意識に顎を上げながら、斧を手離した。そのまま両手を上げて、降伏の意を示す。

 これが最後の一人。少し長引いたが、勝敗は決した。


「武器に近づかないで。さあ、向こうへ」


 先ほどまでバジェルたちが集められていた広間の中央では、今は山賊たちが押しくらまんじゅうをしていた。

 数に比べてかなり詰まって並んでいるが、ちょっと歩み出ようとした途端にイェルの魔法が襲うのだから仕方ない。だがそこは後先を考えない山賊たち、すでに三人が足を氷塊に固められていた。揃って凍傷は確実だろう。


「で、どうする?」


 イェルは相変わらずの無表情でミスハを見た。

 もちろんこの場で殺すなどという選択肢はあり得ない。出すべき場所に突き出すことになるだろう。だが——


「その前に、こやつらに聞きたいことがある」


 ミスハは山賊たちに向き直った。


「貴様らの首魁を吐いてもらおう。あそこの斧男ではあるまい。貴様らを山賊という体で雇い、バジェルたちに鉱石を掘らせるよう指示した存在がおるはずだ。そしてそやつ共々、法の裁きを受けよ」


 何故かフレデリカが驚きの声を上げた。


「えっ! ど、どういうことですかミスハ様? 山賊じゃない上に、誰かの指示でって……」

「フレデリカ、気付いてなかったの」


 イェルの言葉にフレデリカは視線を泳がせる。誤魔化そうとしてもさすがにちょっと遅すぎだ。


「さあ答えよ、誰に命令された!」


 山賊たちは問いに答えず、ただじっとこちらを見ていた。何人かは、馬鹿にするような笑いも見せていた。ミスハの声だけが閉じたこの空間に広がっていく。


「少し痛めつけてみる?」


 イェルの言葉には首を振った。

「いや、その必要はなかろう。調べればすぐに分かることだからな。誰が黒幕かも、とっくに検討は付いておる」


 山賊たちの顔色が僅かに変わった。特に先ほどまで笑いを見せていたような者ほど、表情に余裕の無さが見えている。


「誰なんですか? 一体誰がこんな非道を……」

「このオルムスで好き勝手出来るのは、二人とおらんだろう。最近になって、資金や資源を大量に必要としておるのも」


 そこでフレデリカもミスハと同じ人物に思い至ったらしい。

「……え? えっと……それって、まさか……」


「だ、旦那ァ! 来てくださったんですかい!」


 階上から声が響いた。身体を固められている斧男からのものだ。どうやら誰かが広間に入ってきたらしい。

 まだ奥にいるのか、この位置からでは姿が見えない。カツン、カツンと硬い靴底の音だけが辺りを反響する。


「旦那、奴ら相当なもんです! ここは一つ旦那の神承器で——」


 そこで斧男の声が途切れる。鮮血が噴き上がるのが見えた。


 靴音は続き、ようやく止まる。

 階上から広間の全てを睥睨するように、その人物は姿を見せた。


「よくもまあ一日で何度も会うものだな。オルムス領主——フェルド・ウェスタ侯爵」


 晩餐の時と変わらない、濃緑のベストに黒いコート。手にした赤い刀身のレイピアはたった今仕留めた斧男の血で塗れている。

 代わり映えしない作った笑顔で、フェルドがそこに立っていた。


「まったく、君たちのおかげで忙しいったらありゃしないよ。ほら、この服もすっかり汗でベトベトさ。早く帰って着替えたい」

「この山賊もどきの私兵たちにやらせてきたことについて、何か弁明はあるか?」


 フェルドは高く笑った。心から愉しそうな顔をしていた。

 それから言い放つ。


「ない」


「そうか、では……」

「いやあ……それにしても痛ましい事件だったねえ。このオルムスの領土内で鉱石を無断で採掘していた山賊とバジェルたちが、揃って皆殺しにされてしまうなんてさ。ああ、旅の者も何人か含まれているんだったか」


 フェルドの言葉に、山賊もどきたちの顔が一変した。


「は、話が違うぜ旦那ァ!」

「そうだ! この仕事が終われば正式に騎士団へ迎えるって言うから俺らは——」


 山賊の訴えをフェルドは睨む目だけで黙らせる。

 大方の予想はしていたが、この山賊たちがよもや騎士志望者とは。罪なき者を捕らえ、傷めつけて働かせるなど、騎士道精神の欠片もないだろうに。


「そんな理屈で隠し通せると思うのか? その炎の神承器では誰が殺したかなど明白だ。今度こそ逃げ切れんぞ。もちろんこちらは殺されてやるつもりもないが」

「君の方こそ、何のことやら分からないな。どうして私が犯人になるのやら。だって……」


 その時、坑道全体が大きく揺れた。

 フェルドの後ろにある高い壁からの轟音。何度も、何度も続く、心臓まで届くような重く巨大で低い音だ。これは——何かが繰り返しぶつかってきている?


 ついに大きな亀裂が走ると、壁は一気に割れて、砕けた。


 そして現れたのは、昼に見た魔物のさらに倍はあるような、巨大な体躯の獣。

 獅子の頭を囲むように炎のたてがみが燃え盛り、四つ足の全身はむき出しになった岩石のような灰色の筋肉。尻尾の先には蛇の頭が付いて、チロチロと舌を出している。

 血走った黒い眼光でこちらを刺したまま、身体を震わせてその巨躯に残る壁の破片を撒き散らす。


 そして獣は、牙を剥くようにして咆哮した。


 こんなものがただの動物であるはずが無い。間違いなくこれは——魔物だ。


「そんな……まさかあの話は本当に……?」

「ほらね、君たちは偶然に現れた魔物に殺されてしまうんだ。誰が私のせいにするって言うんだい? これは不幸な事故だよ、事故」


 山賊たちが、恐怖に叫んだ。その声に、魔物が耳をぴくりとさせる。

 ——嫌な予感がした。


「し、死にたくねえェよぉォッ!」


 一人が逃げ出そうと走り出したのが合図になった。

 魔物が巨躯に不釣り合いなまでの俊敏さで飛びかかると、逃げ出した男の脇腹が勢いのままに押し潰された。そのまま飛び出た爪で引き裂かれ、臓器が引きずり出される。


 その光景を目にして、山賊たちが金切り声のような悲鳴を上げてバラバラに駆け出す。

 だが、魔物は惑う様子もない。ここからはただの狩りに過ぎないからだ。その動きは実に手慣れたものだった。


 尻尾のような蛇に噛まれた者は、五秒とせずに痙攣を始めて動かなくなった。吐き出した炎が引火した身体は、包んでも叩いても炎の消える気配がない。

 魔物の牙も爪も、山賊たちの骨を容易く砕き、臓器を抉った。


 広間の中央から散り散りに逃げる山賊たちを、魔物が次々と仕留めていく。


「ははは、本当に素晴らしいな! これなら中隊規模相手でも余裕そうじゃないか、ええ? 高い金を払った甲斐があるというものだ! 私の思った通り、こいつらを雇い入れるよりよっぽどいい買い物だった。ほうら、そっちへ逃げたぞ!」


 階上で笑うフェルドに気取られぬよう、ミスハは二人に小声で話しかける。


「イェル……まだ魔力はいけそうか?」

「もちろん」

「フレデリカは?」

「まだ行けます!」


「そこ、何の相談だい?」


 フェルドがレイピアをタクトのように振るうと、魔物がこちらを向いた。


「本当に操れている様子」

「もう、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! ——来るッ!」


 襲い掛かる魔物を、三人が三方向に飛び退いて避ける。

 その中から魔物が追ったのはフレデリカだった。


「ああ……ッ! ツイてない!」


 身体を回転させるようにして追撃を躱す、その動きのまま剣を横に一閃。


 ——固い音がした。


 岩のような筋肉。見た目に映るだけのものではなかった。魔物の肉体は刃がまるで食い込まず、フレデリカの剣は大きく弾かれる。


「<牢杭ヴァルト>」


 態勢を崩したフレデリカの目の前に、氷柱が並んで突き刺さる。勢い込んで突撃しようとした魔物が急停止して、一つ鼻を震わせた。


「ありがと!」


 イェルに声をかけ、フレデリカは崩れた姿勢を取り戻しながら広間を大きく回っていく。

 距離を取られた魔物が、次の獲物を探し始めた。


「こっちこっち」


 尻尾の蛇に指をくるくると、イェルが魔物を挑発する。

「おっと!」噛み付く蛇に素早く手を引いた。


 蛇の顔が舌を震わせながら威嚇の声を上げ、本体の顔もイェルの方を向いた。低い唸り声を上げながら、二つの双眸でイェルを睨み付ける。完全に狙いを定めたようだ。

 それでもイェルは無表情を崩さなかった。味方ながらに大したものだ。


 魔物がもう一つ吼えた。重なるようにイェルが唱える。

 そして魔物が飛びかかった。


「<刃陣グラス>」


 地面から魔物に向かって、鋭い刃と化した氷が無数に伸びる。氷の刃は魔物の飛びかかる勢いをそのまま貫通力に変えて、魔物の首や胸に突き刺さった。


 合わせてイェルは後ろに飛んだ。追いすがるように魔物が口から炎を吐き出す。

 後ろに躱してなお、その火はイェルの裾まで届いた。イェルのことだから計算ずくの距離を離れたのだろうが、山賊に向けた時の射程はまだ全力ではなかったのだ。引くタイミングが僅かに遅かった。

 燃え広がる炎が消えないのは確認済みだ。咄嗟にイェルは氷の刃を手に宿すと、裾を切り離す。

 続いてさらに距離を取った。


「……ふん、中々やるね。だが、私の魔物に傷は付けられないようだ」


 魔物が身体を震わせると、刺さっていたはずの氷が容易く砕けた。痕も殆ど残っていない。

 再び天井に向かって咆哮する。


 フェルドは口角を上げて笑いながら、イェルを侮蔑の目で見下ろした。

 だが、その目を見返すイェルの瞳も、また一段と冷たかった。


「残念だけど、もう終わり。時間稼ぎは完了した」

「何だと……?」


 そう。イェルはこれまで、囮役を買って出ていたのだ。

 階段の陰に気配を潜めていたミスハは、凝縮を終えた魔力を解き放つべく詠唱を始める。


「真なる天に星は無く、真なる世界に生は無し。無知なるかたちへ堕とされし全てを、再び虚ろなる無の本質へ還そう……」


 大規模な魔法を発動するには時間がかかる。

 まず身体中に散らばる魔力を心臓に集めて精製し、結晶化しなければならない。さらに生み出した結晶を起動するための呪文を詠唱する時間。


 貫魔クーゲル飢牙ファングのような基礎魔法ならミスハでも無詠唱で放てるが、この魔法はそうはいかない。

 全身の残存魔力を絞り出した奥の手だ。クロに時間稼ぎをしてもらってもなお仕留め損なった、星滅サーペンスのようなことを繰り返すわけにはいかない。


 確実に狙いを定めて——解き放つ!


「……全知の果てにある真理への道標、辿り行く魂の片鱗を此処に——! <劫无ヴァニッシュ・コア>!」


 詠唱を終えると同時に、空間の色が反転した。


 反転空間は魔物だけでなく、ミスハやイェル、フェルドまでも含んだ広範囲に広がり、この場の全員が異変に気付いた。


 だが一切の所作を行う間もない、刹那の直後。

 反転空間は瞬間的に凝縮し、捩れるように一つの点になった。点の中心は魔物の体内、心臓の位置。だが今そこにあるのは、一点の捻れた反転のみ。


「ば、バカな……ッ!」

「すごい、こんな……」


 大きく球形に抉れた体躯。前足と下半身だけを残した、魔物の肉塊がそこにあった。

 そして、点に凝縮された反転空間が不意に消える。

 待っていたかのように、魔物の下半身が揺れて倒れた。


 身体から大量に抜け出した魔力に一瞬ふらつきながらも、ミスハは青ざめたフェルドに向けて声を上げる。


「……さあ、そちらの手駒は尽きたぞ。諦めよフェルド・ウェスタ。全てを包み隠さず告白し、皇帝陛下の名の下で裁きを受けよ!」


 睨み上げるミスハの声にも反応せず、フェルドは目を見開き、口を開けたまま動かない。


「どうした! 貴様もああなりたいか!」


 完全なはったりだ。あれほどの大魔法を二度も放てるほどの魔力は持ち合わせていない。だが今なら、十分に有効なはずだ。

 ここで心を折らなければ、まずいことになる。早くフェルドを抑えなければ。しかし——


「み、ミスハ様!」


 振り返ると、フレデリカが指差した先で魔物の屍が火柱を噴き出していた。

 ゆうに三階以上はある天井まで届く、凄まじい火力。広間の温度が急上昇する。


「いかん、やめよフェルド!」


 向き直った場所には、もう誰もいなかった。


「——ッち! 邪魔だァッ!」


 声にまた振り向いた先で、生まれた瞬間の氷柱が蒸発するのが見えた。

 爆発するように膨張した水蒸気から更に炎が溢れ、ミスハに向かう。そこで誰かに体当たりを食らった。


「イェル⁉」


 叫ぶのと同時。


 一瞬前までミスハがいたその場所で、イェルが炎の噴射に飲み込まれた。


「そ、そんな……」


 押し出されて倒れた姿勢のまま、茫然と炎の海を見つめる。

 また一人、自分のせいで——?


「ミスハ様、危ないッ!」


 炎の海から飛び出してきたフェルドの剣を、フレデリカが受け止めた。

 人のそれとはまるで異なる、異常な膂力。鍔迫り合いの中で神承器ウェスタの細い剣身が赤い光を増すと、更にその力は強まっていく。


「は、早くお逃げくだ——」


 神承器ウェスタの麗美な刃にはそぐわない、荒々しい剣技。腕ずくで崩されたガードの隙間を突いて、腹にフェルドの蹴りを受けたフレデリカが大きく吹き飛んだ。


 フェルドは大股歩きで倒れたままのミスハに近付くと、躊躇なくその太腿に燃える剣身を突き刺す。

 血と骨が灼かれ、神経が発狂したように激痛を脳髄へと送り込む。


 ミスハは喉が割れんばかりの叫びを上げた。

 叫びで開ききった顎を、またフェルドが蹴りで塞いだ。


「やかましいんだよ糞餓鬼がァ! さっきから誰に口聞いてるんだお前! 調子づいて偉そうに、俺を誰だと思ってる! 俺はオルムス領主だぞ、侯爵の位だぞ! てめえも、アイツも、そこの女だって俺にへーこらしなくちゃならねえのを見逃してやってんだ! 跪け! 土下座して命乞いをしろ!」


「…………それが本音か……まったく、大した領主様だ」

「餓鬼がッ!」


 突き刺されていた刃が、炎とともに太腿を大きく引き裂いた。再び悲鳴が広間を包む。


「——動くな!」


 ウェスタの刃がミスハの首筋に触れた。

 背後から斬りかかろうとしていたフレデリカが動きを止めた。剣身に巻き付いた炎が、チリチリと白い首を灼いていく。


「ハァ、ハァ……ふぅ………………動くんじゃあないぞ。はは、生憎と私は剣に関しては素人なもんでね、頼りのこいつを飛ばされちゃかなわない」

「……ならば貴様がウェスタ家の者たちを……殺した時も、魔物を使ったのか」


 ミスハの言葉に、フェルドのまぶたが痙攣するようにピクピクと動く。


「相変わらず礼儀がなってないなァ、お前……まあいいさ、教えてあげよう。彼らを殺したのは私自身だよ。隙だらけの寝込みを襲ってね。あの時にさっきの魔物がいればもっと楽だったろうが、あいにく私には金もコネも無かった。お陰で半獣どもに殺されただなんて、馬鹿げた話をでっち上げることになってしまったよ」


 人のいい侯爵家に舞い降りた不幸と、上昇志向の男に舞い込んだ幸運。都合が良すぎるとは思ったが、やはり真実は残酷だった。


 対してフェルドは、口を引き裂かんばかりに大口の笑みを浮かべていた。

 これが彼の本当の笑顔なのだ。整った顔に似合わない、欲望の溢れでた醜悪な笑顔。ウェスタ侯爵家の者たち、あの心優しいナタリアの家族も、あるいは死の間際にこの笑顔を見たのだろうか。だとすれば——悪夢のような最期だ。


「まさか領民たちがあんな話を素直に信じ込むとは思わなかったよ。馬鹿な領主の下では、当然のごとく馬鹿が育つってわけだ。おかげで好き勝手やらせてもらったけどね」

「……下衆だな」


 フェルドはげらげらと笑い出した。戦闘の興奮で笑い上戸になっている。


「はは、その通り! ……でもさ、だったらその下衆に騙されておっ死んだあいつらは何なんだろうね? こんな屑にでも軽く潰される癖して、ご立派に生きてるつもりで偉そうに! 死ぬ間際まで説教しやがってさァ!」


 仮面を捨てたフェルドの顔は、急激に激昂の表情へと変わる。

 しかしすぐに、はっとして自分を取り戻した。


 仮面と激憤を行ったり来たり、まさにフェルドという男を象徴するような姿。


「……ま、これが現実なのさ。君たちがいい見本だね。正義感振りかざして邪魔をしてくれたところで、結局こうして殺される。世の中は弱肉強食、弱い奴には通せるものなんて何もないんだよ」


 フェルドは赤いレイピアをくるりと回し、ミスハを突き刺す構えをとる。

 激痛に耐えながら、そこでミスハがまた口を開いた。


「……言う通りかもしれんな、だが——」


 坑道全体が揺れる音が聞こえた。


「そんなことでは……貴方も同じだよ、フェルド侯爵。……強き力もただ振り回してしまえば、それ以上の力に滅ぼされるだけだ」

「今のは、何の音だ……?」

「悪いことは言わん、神承器を捨ててくれ侯爵。こちらも貴方に今死んでもらうわけにはいかんのだ」

「——今のは何なんだって聞いてるんだよッ!」


 天井から床まで、土煙が真っ直ぐに一筋の線を引いた。

 音が煙に追いつくと同時に、天井が大きく砕ける。耳を割るような轟音が広間を埋め尽くした。


 その中心にはもちろん、一人の男。


「……うゲッフ! ぷェ! っぺッ! うえー、だいぶ砂食っちった……」


 クロがそこに立っていた。

 当然だろう。これだけの時間、神承器を起動し続けていたのだ。クロにとっては目の前に人参をぶら下げられている馬の気分。我慢して大人しくしているわけがない。


「お、ラッキー。まだ大体生きてるな」


 クロはざっと見渡して軽く言い切った。


「君は……クロ君か。状況はわかると思うが、こっちには神承器と人質が——」


 クロの指が、フェルドの顔にめり込んでいた。


 そのまま五本の指でしっかと掴み、身体をしならせて投げ飛ばす。フェルドは地面を削って大きく跳ね、壁の高い位置に亀裂を入れて叩き付けられた。

 クロは身体を震わせるように声を上げる。


「——ッかああァー! やっぱりいいねえこの感じィ! あははははっ!」

「待ってくれ、クロ! あやつは殺すのではなく降伏を……」

「……っていうかあいつ、やっぱり弱いな。まあ殺す分には楽でいいけど。さぁて、どこまで飛んだかなーっと」


 すぐ近くにいるのに、まるで聞いていない。別の世界にいるような錯覚すら覚える。


「クロ! 聞いてくれ、クロ!」


 そしてまた、愉しげに笑いながらクロは空を走るようにして飛び出していく。

 とっさに伸ばしたミスハの指が、虚しく宙を掴んだ。


「く、来るなァッ!」


 遠くでフェルドが叫ぶのが聞こえた。広間の温度がまた一段と上がる。フェルドが全方向に放った炎に、クロが飲み込まれていった。


 炎は勢いを増して広間全体を包み込むと、片足が使えないミスハにも襲い掛かる。もう片方の足で無理矢理身体を持ち上げようと力を込める。が、靴が地面を掴み損ねて表面を滑った。

 その時、氷の壁がミスハを包み込んだ。


「ご無事ですか、ミスハ様!」


 駆け寄ってきたフレデリカがすぐに呪文を唱える。太腿の火傷と剣の傷が癒えていく。

 フレデリカから少し遅れて、髪から服まで全身ずぶ濡れのイェルもこちらに歩いてくる。

「間に合って良かった」


「イェル、無事だったか!」

「だいぶ魔力を使ったけど大丈夫。でも少し服が焦げた。あとかなり濡れた」


 黒く焦げた編み込みの細やかな外套を示しながら、イェルが言う。


「もう! そんなの後でいいでしょ! ……とにかくミスハ様、傷が塞がり次第ここを出ましょう。このままでは私たちも巻き込まれてしまいます。今のあいつならたぶん何とかしますから」


「……いや。それは出来ん」

「え——ッ⁉」


 炎の中から、黒い雷が無数に弾けた。


 雷に打たれた壁や地面が次々とひび割れて砕け、閉じた空間に飛び散っていく。

 天井に到達した稲妻の一つは深々と岩を抉り、大きな岩盤がクロに向かって落ちていった。黒い衝撃波が岩盤を貫いて砕き、無数のリングのように破片が飛び散った。


「や、やっぱり危険過ぎますよ! あの馬鹿、絶対に私たちのことなんて何にも考えてませんって!」


 破片に思わず身を屈めながら、フレデリカが叫ぶ。イェルもきっと同意見だろう。他の誰にとってもここは純然たる危険地帯だ。

 だが、先の決意を翻すつもりはない。

 砕けた岩の一つが、頬をかすめる。わずかに飛んだ鮮血が宙を舞った。


「……それでも、やらなくてはならん。これは私の役目なのだ。私はまだ、少なくともまだ、ゼグニア帝国皇帝の娘で——何よりクロの、雇い主だからな」

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