吐露
月だけが照らす世界では、不思議と感覚が研ぎ澄まされる。
はるか遠くを流れる川のさざめき。地平線の間際でこちらを見つめる狼たちの灰色の瞳。まばらに生える木に眠る鳥のつがい。馬体と鞍を通して伝わってくる大地の固さ。世界の全てを認識しているような錯覚に襲われる。
もちろんミスハの鋭敏になった感覚が受け取るのは、後ろに乗っているクロの存在も例外ではない。
衣服がこすれる感触がする。腰に回した手は少し冷えているようだ。落ち着いた呼吸の音が、頭の上から聞こえてくる。
「うーん……思ったより遠いなァ」
気を抜いた調子でクロが後ろから背中にもたれかかってくる。ミスハはそれを少し前屈みになって避けてから、押し出すように肩を軽くぶつけた。
「おっと、悪い悪い」
この二人で一頭の馬に乗るようになってから数日経ち、こちらが背中にくっつかれるのを嫌がっているのはクロも理解しているようだった。一つあくびをして、気にも留めていない。
理由については聞いてこないが、変に意識する年頃だとでも思っているのだろう。大外れだが、それなら助かる。あまりこちらも詮索されたくはない。
「すまんが、少し手綱を変わってくれるか。地図を確認したいのだ」
「へーい」
懐から羊皮紙の地図を取り出し、月明かりに目を凝らしながら現在地を確かめる。今のところ予定通りに街道を走り、そろそろ分かれ道に差し掛かる。道の目印は——
「わわ」
道に凹凸でもあったのか、馬体が大きめに一つ揺れる。少しひやりとしたが、なんともなかった。そこでクロが、両肩を挟み込むようにしっかりと、支えてくれていることに気付いた。
「大丈夫か?」
「あ、えっ……うん」
上ずった声に自分で驚き、慌てて地図に目を移す。
両肩はまだしっかりクロの腕に支えられたまま。まさかしばらくこのままなのか⁉ その腕と背後の気配にばかり意識がいって、目の前の地図がちっとも頭に入らない。
変な意識なんて——していない。していない筈だ。これだけ人と近付くなんて初めての経験だから、少し動揺はしているかもしれないが。それに二人乗りをするなら誰だって、これくらいするのは普通——しかしあの警備員はお似合いの二人だと——ああ! なぜここでその言葉が出てくるのだ!
「なあ」
「——へゃっ⁉」
咄嗟にびくんと背筋が伸びて、頭のてっぺんがクロの顎にクリーンヒットした。クロもミスハと負けず劣らずの素っ頓狂な声を上げて、しばし悶絶する。
「……お前、やっぱりさっきからちょっとおかしいぞ……」
「い、いやその……本当にすまん。今のは全面的に私が悪かった」
まったく、気をつけてくれよと文句をたれながらも、クロはそれ以上責めようとはしない。
この男はどうもこのあたり、変に緩いところがある。そこについつい甘えてしまう自分がいるのも、気付いてはいた。そばにいるとたまに自分の置かれた立場も忘れて、自然と笑顔がこぼれていることもある。その点だけは、悔しいが認めざるを得ない。
しかし時折、疑念が頭をよぎることがある。クロは本当のところ、こんな態度で接していいような存在なのだろうか。
昼に見せたような、後先を考えないような狂気。そしてそれを実現できるだけの、異常なまでの力。あれこそがクロの本性だとしたら、私たちは自分が思っている以上に薄氷の上を歩いているのではないか。
心を通わせたつもりの猛獣に、本当はただ気まぐれで生かされている。いつかまた気まぐれに、今度は殺されてしまうような関係に過ぎないのではないか。
——いや、それでもいいか。
むしろそれがいい。どうせ死ぬなら、クロに殺されたい。家も血も、過去も忘れて、ふとした殺意に命を奪われたい。
そう思うのは、欲張りすぎているだろうか。
「おいこら、何を笑ってんだお前は」
不意にクロが頬をつまんできた。気付かない内に笑みをこぼしていたらしい。
「ひはい、ひはい……」
「こっちはもっと痛かったっての、まったく」
また愚痴を言いながらも、クロはすぐに手を離してくれる。やはりただ優しいだけなのかもしれない。
「……そういえば、何か話そうとしておらんかったか?」
クロはまず「うん?」と口にして、それから「ああ」とどうでもいいものを思い出したような反応を見せる。
「それはもういいや。気のせいだったみたいだし」
「いやらしい奴だな。そんな言い方をされるとますます気になるではないか」
「お前の興味なんぞ知らん」
「そうつれないことを言ってくれるな。ここまできたら教えてもらわないと、今夜はもう眠れそうにないぞ」
「今から眠る方が難しいけどな」
くだらない掛け合いをしながら、しばらく押し問答を繰り返す。
いたずら心が半分を占めてはいるが、残りの半分は本気で知りたいと思っていた。クロはいつもどんなことを考えているのだろう。何を伝えようとしたのだろう。どんな些細なことでもいいから、知っておきたかった。
「……じゃあ言うけどさ。あんまり真面目に受け取るなよ。あと笑うなよ」
ミスハは安心しておけと頷いた。
クロも諦めたように一つ長い息を吐く。
そして、口を開いた。
「お前が死にたがってるみたいに見えたから、釘を刺しとこうと思ったんだよ」
どきり、とした。
心臓が一瞬で膨らみ、早鐘を打ち始める。
予想外で、しかし頭の中には確かに存在するものだったからだ。厩舎に先回りしていた時といい、まるで心でも読んでいるみたいだ。もしかすると本当に、クロはまだ知らない能力でも持っているのか。
ただ今は、早くなっていく鼓動が背中の先に伝わっていないことを願う。
「…………どうして、そんなことを?」
「どうしてってそりゃあ、二人しかいないのにお前に死なれたら困るだろ」
「そうではない! そうではなくて……なぜ死にたがってるだなどと、そんな——馬鹿な、ことを……」
自分で言っていて、馬鹿はどちらだと聞こえてくるような気がした。
その声にはこう答えよう。
それは私だ。馬鹿なのは私の方なんだ。そんなことは分かっているんだ。だから言わないで。うるさい。言うな。うるさい、うるさい、うるさい!
「うーん、それを聞かれると難しいんだが……。前々から何となく思ってたんだよ。危なっかしいというか、あえて危ない方に向かってるように見えるというか。それで今回も、わざわざフレデリカとイェルの二人を置いてきてるからさ」
「それで、死のうとしておると……?」
「というよりは、生きる気が無いって感じ?」
ここまで図星を指されると、いっそ清々しい。これで心が読めるわけでもないのなら、自分はなんて分かりやすい人間なのだろう。
それとも無意識に暗い顔を振りまいて、誰かに助けて欲しかったのか? だとしたらなんて————醜い奴だ。
ミスハが自嘲したように笑うと、クロは「む」と不快感を露わにする。
「笑うなって言っただろうが」
小さく首を振って、そうじゃないと伝えた。
「じゃあ何なんだよ、ったく……」
ぶつぶつと言うクロに、また少し笑みがこぼれた。
「クロは——ロムロに入る直前に話していたことを覚えておるか? 私がゼグニアの皇帝にならねば、大きな内乱が起きる。それを止めるために私たちは旅をしているのだと、フレデリカが言っていた」
「ああ。そういやそんなのあったな。だったらお前、こんなとこで死んでる場合じゃないよな」
その指摘はもっともだ。そして、大いに間違っている。
「クロはどう思う。止まると思うか? 内乱は」
「俺に聞かれても、お前らそのために帝都に向かってるんだろ。だったら……」
「私は思わない」
「……は?」
クロの間の抜けた声も気にせず、続ける。
「私はこう思っている。むしろ私が皇帝になった時にこそ、ゼグニアは大きく荒れる。それこそ、この大国を滅ぼしかねないほどに、大きくな」
「………………はぁ?」
クロの声がまた裏返った。
当然だ。善悪も大義もひっくり返ってしまう。そして何より、そのために血と骨の川をつくりながら旅をしてきた、当の本人が口にしていい言葉ではない。
しかしおそらく誰もが、薄々は気づいていたはずなのだ。今までに死んでいった者たちを含めて、誰もが。
「本当のところ、私と敵対する大公や諸侯たちに、権力に溺れた逆臣など一人もおらんのだ。彼らは皆、帝国と皇帝陛下を真に愛する忠臣ばかり。なればこそ、私が皇帝の座につくのなら、彼らは戦わなければならない。何故なら……」
喉が乾いてきたのは、馬上で受ける風ばかりが原因ではないだろう。こうしてはっきりと言葉にするのは初めてだ。
「——何故ならこの私、皇姫ミスハこそが、帝国を簒奪しようとする逆賊そのものだからだ」
言い切ってようやく、一つ呼吸が出来た。
一瞬、全身が震える。言ってしまった。忠義の騎士たちを、傭兵たちを、多くの流れた血を無にする言葉を。
急に頭の中が空っぽになった気がして、もう何も口にする気になれなかった。
独り善がりな独白だ。クロも理解が間に合わず、続きを待っているかもしれない。だがこれ以上はもう、何も浮かぶ言葉がない。
しばし、レイチェルの蹄の音だけが続いていく。
「…………ああ、そういうことか」
クロがぽつりと呟いた。
「お前の背中にあった紋章痕。あれは、皇帝のやつじゃないんだな。そしてもちろん、母親のやつでもない」
こういう時ばかり、妙に敏いのはどうしてなのだろう。出来れば気付いて欲しくなかったのに。「よく分かんなかったけど、まあいいだろそのくらい」なんて、軽口を叩いて欲しかったのに。
「ははあ、やはりあの水浴びの時、じっくりと覗いておったな」
せめて自分だけでもと、軽い口調を取り繕ってみせる。
そこで不意に、ぽんとクロの手が頭の上に置かれた。そのまま髪を優しく撫でてくる。
「な、何なのだ……急に……」
言ってもクロは答えず、髪を一層くしゃくしゃと撫で回す。
本当にこの男は、いつもはデリカシーもマナーもさっぱりな癖に、どうしてこういう時だけ気が回るんだ。ちょっと強がって茶化してみせたのが、馬鹿みたいじゃないか。
「…………紋章痕を見たのなら、その周辺の瘴気に冒された皮膚も見たのだろう? そういう紋章……なのだそうだ。私の本当の父は」
口から出る言葉が震えている。それが恥ずかしい、胸が苦しい。
これまで一緒に馬に乗る間ずっと、後ろに座るクロに触れないように丸めていた、紋章痕のある背中。それをもっと、縮こめる。どうせ後ろに乗ったクロには見えやしないのに、顔を隠すように深くうつむく。
「本当の父が、皇妃だった母上を陵辱したのか。母上が陛下のお心を裏切ったのか。私は知らない。知りたくもない。だが、私を腹に身篭ったために、母上が私と同じ瘴気に冒され、陛下もそれに続き……これから、この国に多くの血が流れる。それだけは疑いようも無く確かで……」
こうなればもう止まらない。誰が聞いているかも関係ない。ただ自分の内にある言葉を吐き出すだけだ。
「……腫れ物に触るように、というのはまさに私のことを言うのだと思ったよ。誰もが本当に——近付きすらしてこないのだ。ただし命令されると仕方なしに、嫌悪を隠した作り物の笑顔でやってくる。みんな、皇姫としての体裁だけは整えてくれたよ。それが皇帝陛下の命だからな」
幼い頃からの記憶が蘇っていく。声をかけられぬよう足早に去って行く人々、遠くで囁き合うひそひそ声、母の憔悴した作り笑顔。
その光景を振り払うように首を振る。
「誰一人……母上すらも私に本音を言ってはくれない。だから私は聞き耳を立てるのだ。廊下や、窓の外や……本当に色んな場所で盗み聞きをしたものだ。母上も、その付き人も……どれも楽しそうに話すのは過去のことばかりだったよ。未来のことも、私のことも……まるで無いかのようにして笑っていた」
もう涙で目の前が見えなくなっていた。世界がふわふわと揺れて、クロが支えていてくれなければとっくに馬からも転げ落ちているだろう。
「時々……いや、いつも思うのだ。私がいない世界は、もっと良いものだったのではないか。今からでも私がいなくなれば、少しは良くなるんじゃないか……なのに、なのに…………! ……本当に自らの首筋へナイフをやると、手が震える……」
不思議と嗚咽は無かった。ただ、涙だけが止まらなかった。
「それだけではないぞ。瘴気が背に広がっていくのを鏡に見るたび……怖いのだ。死が近づいているのが。笑えるだろう……? 勝手な奴だ私は。この心の弱さが、今まで何人を殺したのか……これから何人……殺すのか……。本当に……情けない…………。もし本当に……誰かが、私を殺してくれればどんなに………………」
最後は本当に呟くようで、おそらくクロには聞こえなかっただろう。それでもクロは溢れだしたような懴悔を、何も言わずに聞いていてくれた。
そしてようやく、二人を静謐な世界が包んだ。
——その時。
クロがその顎を、ミスハの脳天めがけて振り下ろした。
まるで先ほどの衝突の再現。だが、今度は揃って声を上げる。
「痛ってェえええあ! つ、強くやり過ぎた……」
「な、何をする馬鹿も——」
反射的に振り向こうとする。
——それより早く。
そのままクロに後ろから抱き締められてしまった。背にある呪われた紋章痕に、胸を押し付けるようにして、強く。ただ強く。
「え、な、ちょ……」
逃げ場のない馬上で、ミスハはされるがままに抱きしめられる。
恥ずかしい気持ちもあるが、それ以上に、ただ暖かいぬくもりを感じていた。
そういえば人に抱きしめられるなど、いつ以来のことだろう。もしかすると、生まれてから一度も無いのかもしれない。あるいは生まれて間もない頃には、母が抱いてくれたのだろうか。もしかすると、父も。
そんな過去よりも、今はただこの暖かさに満たされていたかった。ああ、やっぱり本当に、クロは優し——
「どっせいッ!」
かけ声とともに、二人の身体が宙に浮いた。
全力で走る馬から飛び降りて、二人抱き合ったまま地面、夜空、地面と目に映る風景が切り替わっていく。伸びた草の中に突っ込むと、そのまま更に転がった。
目を開いたまま凍りついたミスハの身体は、クロの上と下を行ったり来たり。ようやく止まってまばたきをした時には、身体の下でクロが大の字に倒れていた。
ミスハは何も言わず、ゆっくりと身体を持ち上げる。
「…………何なのだ、これは」
「うおお……肩が痛えぞこれは……絶対俺の肩がモロだったろこれ……やべえ、これやべえ超痛え……」
「何をしておるのかと聞いているのだが……?」
痛めたという肩を意図的に足蹴にしながら、倒れたまま呻くクロを睨む。
「おーミスハ、無事だったか? ……はは、生きてた生きてた。俺も生きてた」
笑いかけるクロから、不思議と何かが伝わってきたような気がした。柔らかくて、暖かい——これまでに触れたことのない、気持ちが。
そこでようやく、こちらも微笑んだ。
しばし二人で互いを笑い合う。
「本当に……馬鹿な奴だな。おぬしは」
「お前も少しは馬鹿になったほうがいいんだよ。前にも言っただろ、考え過ぎなんだって」
クロが言いながら手を差し出す。もちろんミスハもそれを掴んで立ち上がらせてやる。
そうだ。こういう男だこいつは。危なっかしくて考えなし。だからこうして、いちいち助けてやらないとしょうがない。
「さて、それじゃあオズの仲間連中……えーと、何だっけ。バジェルか。そいつらを助けに行くとしようか」
ミスハはクロの言葉に深く頷いた。
不思議と胸が軽くなっていた。流れる涙も止まっている。今この目に宿っている光は、涙の残滓ばかりではない筈だ。
とにかく今は、前を向こう。救える人を、目一杯救おう。自分にできることをやってみよう。全ては——そこからだ。
「では、まずレイチェルを連れ戻さなくてはな。だいぶ走っていってしまったと思うが」
「あ」
青くなったクロに笑いかける。
「誰がやるかは、もちろん分かっておるだろうな? さあ! おぬしには全力で働いてもらうぞ、私のために!」
まだ、心の底から笑えるわけではない。
それでもあと少しだけ、ちゃんと生きてみよう。その先にある世界がどんな地獄でも、この大馬鹿者と一緒に、ただ辿り着いた世界を見てみよう。
独りぼっちだった少女が、この夜、二人を包む月と星の光に誓った。
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