夜を駆ける

 

 

 宿に戻ったクロたちは、今後の方針をまとめると明日に備えて床につくことにした。


 一行の出した結論はこうだ。


 明日の朝一番に街を出立する。フレデリカだけは領主の屋敷に向かい、光大公への書状に署名をしてから後を追う。

 この方針は、用事を済ませたイェルが宿に戻ってくると、早々に決まった。


 イェルの得た情報をまとめれば、オルムスを治める領主——フェルド・ウェスタは、グレー。今のところは白だが、いつ黒になってもおかしくない人物だということだった。


 どうもこのフェルドという男、昔からかなり上昇志向の強い人物らしい。

 ウェスタ家に引き立てられてからは家庭教師だけでなく秘書に近いこともしており、それがあの襲撃の際に彼も同行していた理由のようだ。

 上昇志向は領主となった今もとどまるところを知らず、内戦の噂に反応して騎士団の強化に躍起なのも、フレデリカに取り入って光大公とのコネクションを欲しがっていたのも、その表れといえる。


 ただ逆に言えば、そこまでして闇雲に手を広げるのは、現在の彼には出世のあてがないことの証左でもある。


 騎士団や本人が動く気配のないところをみても、皇姫一行を水大公配下が追っている、ましてや目の前にいるという現状を、間違いなく彼は把握していない。知っていればまず間違いなく、どちらかに協力して出世の足がかりにしようと目論んでいるはずだからだ。


 しかし、今知らないからといって安心してはいられない。


 フェルドが一行の正体を突き止めるか、水大公から情報が入るか。どちらにしろ、彼が有用な情報を得たならば、すぐにでも行動に移るだろう。

 ならば、こちらも動くのが早いに越したことはない。


 街の門が再び開く明日の朝一番。すぐに街を出るのが最上、というわけだ。


 

 そして今。


 クロは月明かりのベッドに腰掛けて、日干しされたばかりのシーツの感触を確かめていた。


 意識を取り戻してから初めての、まともなベッドだ。もちろんまともと言っても、女性陣が泊まっている個室とは違い、他の客と共同の八人部屋に並べられた一つでしかない。それでも悪い気はしなかった。


 しかし悲しいかな、今夜はそんな初ベッドの魔力に溺れ、脳髄の望むままに眠りを貪るわけにはいかない。

 クロはそこから夜が深まるまでしばらく、空を渡る二つの月を眺めながら時が来るのを待っていた。

 

 ◇

 

 同室の者たちが十分に深い眠りに入るまで待っていると、夜の色はかなり深まっていた。

 窓の外では夜警が時折灯りを携えて歩くのが見えるくらいで、ほとんど人の姿はない。宿の中もすっかり寝静まり、世界からは音が消え去ったかのようだ。


 物音を立てないようにゆっくりとベッドから抜け出して、扉の前まで忍び足に進む。古びた蝶番が嫌な金属音を鳴らすのはすでに確認済みだ。十分な時間をかけて扉を開閉した。


 客室への扉が並ぶ廊下を抜けると、宿の一階へと降りる階段がある。その横には怪しげな人物が階段を上がっていかないように、もちろん急な客が来た場合にも備えて、宿の遅番が腰を掛けている。しかし今はちょうど、こっくりこっくりと船を漕いでいるところだった。

 遅番が目を覚まさないようにそうっと横をすり抜けると、そこからは一気に宿から抜け出した。


 ここまで来れば、多少のことは大丈夫だろう。暗がりの横道から野良猫の広がった瞳孔がこちらを覗き、冷えた空気に葡萄酒の甘い匂いが混じった、夜の通りを駆ける。


 街を取り囲む周壁まで辿り着くと、あたりに警邏の人間がいないのを確認する。そしてアブリスでやったのと同じように壁を飛び越えた。


 このロムロはアブリスとは違い、旅の馬を留めておく厩舎は壁の外側にある。壁内が手狭になったためだというが、これは随分とありがたい話だった。夜間には閉まってしまう街門を、馬に乗って通る必要がないからだ。

 息を切らせて厩舎に辿り着き、馬を繋いでいる紐を外そうと手をかける——


「やっぱり来たか」


 その時、背後から声をかけられた。


 咄嗟に振り向いた先にいたのは、いやに大きな新品のブーツに、まだ真新しい衣服の青年。この短い期間に、ずいぶんと見慣れてきた顔だった。


「クロ……どうしておぬしがここに」

「お前こそ何やってんだ? ……ってのは冗談として。お前がこういうことしそうな気がしたんで、ちょっと待ってたんだよ。まさか本当に来るとは思わなかったけどな」


 月光が映し出すミスハの頬が、少し赤く染まった。


 上手く抜け出したつもりだったのに、まさか初めから気付かれていたとは。それもイェルやフレデリカではなく、この無神経男にというのが情けない。


「でもお前、どうやって門を抜けたんだ? がっちり閉まってて、俺しばらく立ち往生してたんだけど」

「おぬしと同じく街の周壁を越えただけだ。私の場合は魔法を使ってだがな」


 闇月イクリプスという魔法は、自在に斥力を発生させる魔球を作り出すことが出来る。ミスハはこれを足元に生み出して壁を飛び越え、また着地の衝撃も和らげた。


 恐らくクロの方は、例の右足を使ったのだろう。

 クロは神承器を前に見せる身体能力こそ尋常ならざるものがあるが、普段はその力の片鱗すら見せることがない。失われた右足に生えた異形の足は、その唯一の例外だ。


「ふうん……まあいいや。で、アル……なんとか山だっけ? 道とか方角とか、ちゃんとわかってるのか? こんな真夜中に街の外で迷子になるのは勘弁だぞ」

「……止めんのか?」

「何だよ、止めて欲しかったのか」


 そう言われて一瞬、迷ってしまった。


 もちろん、行きたくないわけではない。ただ少しだけ——クロが心配してくれたら、嬉しく感じてしまう自分がいるような気がしたのだ。


 クロは記憶喪失のせいか、あるいは神承器にばかり目が行く性質のせいか、少々癖のある性格をしている。皇姫であるミスハに対する扱いも、無神経と言っていいレベルのものだ。

 だがそれは同時に、言葉の裏も、双方の立場ゆえの配慮もないということも意味する。クロが心配してくれるのなら、それは掛け値なしに心配だから言っているということだ。


 だとすればそれは、妙に気恥ずかしくて……やはり、嬉しくもある。


「山賊連中に神承器持ちがいなけりゃ、さっさと帰ってくるつもりだったから、行かないなら行かないで、俺は別にいいんだけどさ」


 ただし、そんな気持ちを軽々と踏みにじるのもまた、クロの十八番だった。


「…………はぁ」


「何だよ、そのため息」

「変な期待をしてしまった、己の愚かさに呆れておるだけだ」


 話が飲み込めない様子のクロを放置して、ミスハはまた馬の用意に戻ることにした。レイチェルの象牙色の毛並みを撫でて眠りから起こし、鞍と鐙を取りに行く。

 何にせよ、大人しく付いてくる分には拒否する理由はない。もしも——本当にもしもの場面では、役に立つことは間違いないのだから。


「おい、そこで何をしている!」


 そんな時に、運悪く見回りの警備兵が通りかかった。


「うわ、めんどくせーのが来たぞ」

「ちょっと待っておれ。話を付けてくる」


 元より正規の預け主だ。自分の馬を連れて行く分には何の問題もない。

 もちろん全て知られずに済ませることができれば理想的だったのだが……見つかったものは仕方がない。急な用事ができたとでっち上げの理由を乗せて、預けた馬の受け取りを願い出た。


「こんな夜更けに用事ねえ……」


 警備兵は眉をぐにゃりと曲げて、疑いの目を向けてきた。


「兄妹……にゃ見えねえよな。商人でもなさそうだし、お偉方なわけもない……」


 これは、もしかすると厳しいか? どれだけ悪くとも、領主まで伝わるようなことは避けなくてはならないのだが——


 そこで警備兵がミスハの首にかけられたペンダントに目を向けた。そして「はっはーん」と何かを看破したような顔をする。

 まさか気付かれた? 思わず息を呑む。


「どうぞご自由に」


 意外な回答だった。


 困惑しながら割符を手渡すと、警備兵は腰に付けていた無数の割符をまとめた山からもう片側を迷いなく探し出し、嵌まることを確認する。


「はいよ。確かに」


 助かったのはいいが、はて、どういうことだろう。

 首を傾げていると、警備兵が去り際に声を掛けてきた。


「うん。少し年の差はあるけど、俺はなかなかお似合いの二人だと思うぜ。これから色々と苦労はすっだろうけど、仲良くがんばりな」


 …………何か、大きな勘違いをしている。

 違うと否定してやりたいが、そんなことをすれば本当の目的を聞かれてしまうかもしれない。今は我慢だ、我慢の時だ。


 馬房まで戻ると、クロがよその馬の鼻提灯を興味深げに眺めていた。ほら見ろ、これのどのあたりと私がお似合いだと言うのか。凶暴な山賊団の根城に乗り込むというのに、緊張感の欠片も無い顔をしているぞ。


「終わったか?」

「あ、ああ……何とかな」


 答えたところで、何故かクロが怪訝そうな顔をした。


「何かお前、にやにやしてないか」

「し……ッ⁉ し、しししておるわけなかろう⁉ ほ、ほれ、おぬしも手伝え! 思っておるより夜は短いのだ、さっさと済ますぞ!」

「へーへー」


 二人でしばし黙々と出立の準備をこなす。


 警備兵の話はクロには聞こえていなかったはずだが、本当にそんな顔をしていたのだろうか。それとも実は盗み聞きでもしていて、からかっているだけなのか。いや、どちらにしろこんなに動揺するのはおかしいだろう⁉


「どうしたんだ? さっさと行くぞ」


 煩悶に意識を取られている間に、クロはもうレイチェルの背に跨がっていた。差し出した手を握ると、身体が力強く引き上げられる。

 いつもの二人乗りに収まったところで、寝起きのレイチェルが一つ鼻を鳴らした。とにかく今は、やるべきことをやらなくては。


 そしてレイチェルは、波打つように馬体を一つ振るわせると、夜の野へと駆け出した。

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