魔物はここにいる

 

 

 強烈な突き上げで衛兵を軽々撥ね飛ばすと、魔物は甲高い笛のような鳴き声を上げた。


 足下にいる人間が小人に見えるほどの巨体。体表は濃緑色の鱗で覆われており、寸胴の体から伸びた四つの足は、一つ一つが巨樹の幹のように太い。

 首は巨大な胴体の倍近い長さがあり、頭の形はトカゲにも似ている。その鼻先には頭がもう一つあるような大きさの、先端が潰れた角が生えていた。

 尻尾もまた首とバランスをとるように長く、終端部にはいくつも太いトゲを持つ、ハンマーのような膨らみがあった。


「なんじゃあ、ありゃあ」


 門前広場で暴れ回る、遠目からでもわかる怪物の姿に、走るクロの口からは自然と驚きの声が漏れた。


「あれが魔物だ。まさに怪物というやつだな。といっても、見たところ小兵のようだが」


 ミスハの言葉にさらに驚嘆する。どうやってあの巨体が動いているのか不思議なくらいなのに、あれでもまだ魔物の中では小さい方なのか。


「はぇー、世の中にはあんな生き物がいるもんなんだなあ。でも俺の記憶には全然——お、何だ?」


 広場から聞こえていた悲鳴と叫び声が、歓声と嬌声に変わった。

 足を止めたミスハを追い越して、クロは「おっとと」言いつつ急ブレーキをかける。


「どうやらフェルド侯爵が到着したようだ。あの程度の魔物ならば、私たちは大人しくしておいたほうがよかろう」

「意外な反応だな。お前らは手助けくらいするのかと思ってたのに」


 暗に俺はやらないぞと表明すると、今度はフレデリカが答えた。


「領民を魔物から守るのは、領主に与えられた重要な責務の一つなの。他の人間——ましてや、よそ者に協力してもらったとなれば、領主としての資質を疑われる。だから変に手を出す方がよっぽどトラブルの元になるのよ」


「へー、そうなんだ」

 クロの軽い反応に、フレデリカはいささか渋い顔をした。


「あんた記憶喪失だっていうけどさ……あんまり常識知らずじゃ、いつか取り返しの付かないことになるわよ」

「んなこと言われても、知らないものはしょうがないだろ? それが嫌ならお前らが一つずつ教えてくれよ。一応真面目に聞くからさ」


 くわあとあくびをして身体を震わせるクロを見て、フレデリカは頭が痛いと言いたげに眉間を押さえる。


「……言ってることに、説得力が無いのよね」

「まあ良いではないか。本当に最低限の知識ならばあるようだし、野生動物を一から調教するよりはましだ」

「ミスハの方は、俺を何だと思ってんの?」


 もちろんミスハはとぼけた顔をする。仕返しに頬を両側からうにうにとしてやると、困ったように眉根を寄せて一段と変な顔に変わった。

 フレデリカが横から止めようとするので、そちらの頬にも一つ指で刺してやる。と、すごい勢いで睨まれた。すいません、調子に乗りました。


 ともかく、すでにミスハもフレデリカも安心しきったような様子だ。領主を任されるような人物ならば、あの程度の魔物には負けるはずがないということか。まったく、急いで施療院を出たのは何だったのやら。


 しかしあの男、お世辞にもそこまで強そうには見えなかったが、どうやってあの怪物を斃すつもりなのだろう。まともに白兵戦をするわけはない。しかし武器と言えるものは腰に帯びていたレイピアくらいのもので——


「あァ⁉」


 そこで急にクロが大声を上げた。

 頬突きに睨みを利かせていた自分に向けられたものだと思ったのか、フレデリカが一瞬ビクつく。


「な、何よ急に!」

「あーあーあー、はいはいはい、そうか、そういうことか……この感じはそういうことか。ははあ、成る程ね。そりゃそうだ」


 ブツブツと呟きながら、クロは見物に集まり始めた人垣へと向かっていく。


「く、クロ? クロ⁉ どこへ行くつもり……。……ッ! おぬしまさか…………おい、待て、待たんか!」


 ミスハの声が耳に入っても意識まで届かず、クロは無心で人混みをかき分けていく。

 かき分けて、押しのけて、歩く速度を一切緩めることなく無理矢理に人波を割って突き進む。


「何だよ兄ちゃん今いいとこ——ろッ⁉」


 最後の一人を目だけで黙らせ、輪になった人垣の最も内側に辿り着いた。そこには今まさに、魔物のとどめを刺そうとするフェルドの姿があった。


 手にしたレイピアの細い剣身が赤く輝き、全身に炎を纏っている。クロは直感していた。あのレイピアは間違いない。俺の求めているものだ。神承器だ。


 魔物は長い首と尻尾、前足と後ろ足を、それぞれ炎の鎖で結ばれていた。身動きの取れない魔物がのたうち回るたびに鎖の炎がその肉体を焼いていき、あたりには腐った肉が焦げついた、鼻を突く臭いが広がっていた。

 痛みからか、逃げられぬ恐怖からか、幾度と無く魔物が角を震わせて甲高い鳴き声を上げる。鳴き声を上げながら、より激しく暴れ回る。しかし鎖は解けるはずもない。


 フェルドがレイピアを構え直すと、剣身がより激しい炎に包まれた。

 そして鋭い突きと同時に、巨大な炎の槍と化したレイピアが魔物の身体に穿たれる。炎の槍は魔物の強靱な肉を貫き、反対側からどす黒い血飛沫が噴き出す。


 魔物が断末魔の叫びを上げた。


 巨大な角が大きく震え、そこからキィィンと耳をつんざくような高音が響く。しばらくすると魔物の巨体が通りに倒れこみ、音も止まった。

 その様子を確認し終えてから、フェルドは民衆に向き直った。


「さあ皆、もう大丈夫だ! 遅れてしまってすまなかったね!」


 フェルドの言葉に、民衆は割れんばかりの歓声と拍手で答えた。フェルドも満足げに勝利の余韻を味わっている。

 手にあるレイピアはまだ赤い光を放っていた。


 まだ、いけそうだ。


 クロは狂奔する身体の感覚を確かめながら、小さく笑みを浮かべる。そして、ふ、と小さく黒煙を吐き出すや、歓喜の輪から飛び出す————


 と、いうところで、クロは背後から自分の腰に回されている両腕に気が付いた。


 奴の魔法か? まさか、そんなわけはない。では、何だ? 絡んだ腕を容易く振りほどきながら、腕の主に振り向く。


「ああ、お前か」


 冷たく見下ろしたクロの顔を、ミスハが睨みつけていた。


「ちょろっとばかし邪魔なんだけど、何か用?」

「……おぬしは、何をしようとしておる」


 未だ冷めやらぬ歓声の渦中で、呟くような声だった。しかしクロの鋭くなった聴覚は簡単にそれを聞き取ることが出来た。


 ミスハは声を押し殺しながらも、荒げる。


「何をしようとしておるのだおぬしは! 場所を考えろ! 相手を考えろ! 見つけたものに手当たり次第噛みつくのでは、魔物と変わらぬではないか!」

「別に俺だって何も考えてないわけじゃない。あいつを殺して、見た奴も全員殺せばいいんだろ。大丈夫、お前らに迷惑はかけないって」


 何度振りほどいても絡み付くようにしつこく掴みかかってくるミスハの手が、その言葉を聞いてぴたりと止まった。


「…………本気で、言っておるのか?」

「それなりに」


 クロの答えと同時に頬を張ろうとした、ミスハの細い腕。それを容易く止めて掴み上げる。


 声色を低くして、言外に邪魔をするなと含めてみたのだが、いまいち伝わっていない。力ずくで黙らせてもいいだろうが、これからのことを考えるとそれも悪手か。


「わかったよ、見ただけの奴は殺さない。それでいいだろ。お前らはまだ用事もあるだろうし、街の外で落ち合うか」

「————ッ!」


 返事はなく、ミスハは腕を掴まれたままで小さく震えている。どうやらまだ不満があるようだ。しかしこれ以上はこちらも譲歩は難しい。


「クロ……頼む、考え直してくれ。彼は誰の敵でもないだろう。おぬしだって……」


 まだ食い下がるミスハに、クロはやれやれと頭を掻く。これは一度、ちゃんと話をしてやらないといけない。


「改めて聞くけどさ。お前は俺のことを何だと思ってんの?」

「そ、それはもちろん——」

「人間だとは思ってないんだろ」


 ミスハの顔が、一瞬凍り付いた。

 どうやらイェルの話は本当だったようだ。やはりミスハはクロのことを怪物の類だと考えているらしい。例えばそれは、今さっき領主に討たれた魔物のように。

 しかし、だったらどうしてミスハはこんな顔をしているのだろう。まるでこの世の終わりでも目にしたかのようだ。


「だったら、何でいちいち絡んでくるんだ? そんな相手に無理するこたないだろ。それとも、俺をうまく操るのが自分の役割だと思ってるのか? だったらやめとけ、無駄だから」


 クロの言葉にミスハは愕然としたような表情をして、それから徐々にうつむいていく。

 合わせて掴まれた腕に込める力がなくなっていくのがわかった。小さな唇が震えていた。


「……違う…………ただ私はクロの、ことを……誰かを……」


 うわごとのようにぽつぽつ呟いているが、どうも要領を得ない。何がそんなにショックだったのか。別に隠すほどのこともない。こっちだって気にしちゃいない。


「おいおい、君たち。一体どうしたんだ?」


 そんな所に、ちょうどこちらに気付いたフェルドが近寄ってきた。


 ——思わぬチャンスが舞い降りた。クロは右腕に力を込める。

 力を込めて、そして黒い波動を振り向きざまに——


 と、その瞬間、鞘にレイピアが収められるのが見えた。


 不意に全身の力が抜けた。

 ミスハがその隙を突いて、掴んだ手を振りほどく。


「…………っ!」


 そのまま何か言おうとして——しかし、言葉を飲み込み、ミスハは群衆の輪の中を縫うように走っていった。


「ち。どうも上手くいかないな」


 黒煙の咳を一つして、クロは恨めしげに呟いた。


「クロ君……君は一体何をやったんだい?」

「とくに何も。ちょっとした見解の相違があっただけで」


 一応は正解を答えたつもりなのだが、フェルドはそうは見えないと言いたげな表情をしていた。

 そこに人垣をどかしながら、フレデリカが近寄ってくる。これはまた面倒なことになる予感が——


「クロ! あんた何やったのよ!」

「だからちょっとしたけんかい——ぐべッ⁉」


 言い訳するより先に、フレデリカは凄まじい剣幕で襟を掴み上げ首を絞めてくる。


「どうせあんたが悪いんでしょ! もうクビよクビ! やっぱり連れてきたのが間違いだったって、イェルにも文句言ってやる! 大体あんたなんかいなくたってイェルとわたしの二人でもミスハさ——」


 とっさにフレデリカのみぞおちに膝蹴りを入れた。

 取り落とされてクロは派手に態勢を崩すが、麻袋を被った異形の右足は転びそうになるのを容易く耐えた。


「——はいはい、俺が悪かったよ。にちゃんと謝ればいいんだろ、俺の方から」


 フェルドにも聞こえるように名前を出して誤魔化そうと試みる。

 クロの言い方でフレデリカも自分が何をしたのか気付いたらしい。怒りと羞恥が入り混じったような顔をしていた。


 それでも一方的に蹴りを入れられたことには納得がいかなかったのか、クロの腹に一発拳をかますと、フレデリカはふんと鼻を鳴らした。実に理不尽だ。


「君には女の子を怒らせる才能があるみたいだな」


 人生百万回繰り返しても、そんな才能はいらない。クロは苦悶の顔で腹を抱えながら、フレデリカの拗ねたような横顔を恨みがましく見つめていた。


 そこで不意に、フレデリカの表情が変わった。


「あ、ナタリアじゃない。どうしたの?」


 クロもそちらに目をやると、確かにナタリアの姿が見えた。人垣に栗毛のポニーテールを何度も引っ掛けながら、どうにかこちらに這い出してくる。ようやく人垣を抜けたところで髪を軽く整え、フェルドの傍に寄っていった。


「先生、大丈夫だった? 怪我はない?」

「もちろんさ。心配してくれたのかい?」


 ナタリアは少し恥ずかしそうにしながら頷いた。


「俺は大丈夫じゃないぞ」

「あんたはいいの!」


 さらに背中を小突かれ、「ぐおおお!」と大げさに声を上げてみる。

 おまけで蹴りも頂いた。


「でも実際、他に怪我人とかいるだろ。領主様がこんなとこでのんびりしてていいのか?」


 蹴られた膝を抱えてファールのアピールをしながら、フェルドに一つ聞いてみる。


「怪我をした人たちなら、すでに運び出してある。なあに、ロムロの医師たちならきっと治してくれるさ」


 さすがに対処が早い。民衆の落ち着き方を見ても、魔物が出るのは日常茶飯事とまで行かずとも、珍しいことではないのかもしれない。


「あっ、そういえば……」


 ナタリアは思い出したように声を上げて、フレデリカの方をちらりと見る。


「あー……うん。お医者様の手に負えないようなら、いつでも呼んでくれていいから」


 自分の魔法を頼りにされて、フレデリカは困り半分嬉しさ半分という顔をしていた。それでもナタリアのぱあと明るくなった顔を見れば悪い気はしないらしい。


「どういうことだい? ナタリア」


 少し興奮気味のナタリアが、フレデリカの使った治癒魔法について懇々と説明すると、フェルドもずいぶん驚いていた。


 施療院の医師も言っていたが、やはり随分と珍しい魔法のようだ。そういえば、当たり前のように使っているが、フレデリカはどこでこんなものを覚えたのだろう? 話を聞くに、騎士修業の間に軽く学ぶことが出来るような代物でもなさそうだが。


「……そうか。治癒魔法が使えるだなんて、君は相当高名な魔法使いだったんだな。剣を帯びて鎧を着込んでいるものだから、てっきり騎士か何かだと思い込んでしまっていたよ」


 不見識を恥じるそぶりを見せたところで、フェルドはふと何かに気付いたような顔をする。


「待てよ。——光魔法、それも治癒魔法を使う……名はフレデリカ……。まさか君は、ヘリオス家の……?」


 ヘリオスという名前が出た瞬間、わずかにフレデリカの顔がこわばった。


「……ええっ、と…………。まあ、その……はい」


 不安げながら、フレデリカは一応の肯定をする。

 すると今度はフェルドが興奮し始めた。しかも興奮気味、程度のものではない。顔を紅潮させ、全身で驚きと喜びを表現しながら声を張り上げる。


「——何てことだ! 本当に? 本当に君がヘリオス家の三女、フレデリカ・ヴィンセント・ヘリオス嬢なのかい⁉ ああ何てことだ! 何てこと……ああ、そうだこんな言葉遣いじゃいけないな——」


 一つ咳払いをして、すぐに続ける。


「——レディ・フレデリカ、どうかこれまでの非礼をお許し下さい。なにぶん領主に任ぜられて日も浅い若輩者、未だ大貴族家のご尊顔を拝する機会には恵まれなかったものですから。……しかし、どうして最初に仰って下さらなかったのです」

「あ、その、それはええと…………ちょ、ちょっとクロ、何か言ってやってよ」


 急激に上がったテンションに、フレデリカは完全に取り残されているようだった。視線をふらふら、どうすればいいのかと助けを求める目をしている。

 しかしまず話題そのものに取り残されているクロに、そんな期待に応える術などあるはずもない。


「ああ申し訳ない、責めているわけではないのです! 高名な光魔法使いの家系であるヘリオス家のご令嬢が、このような騎士の姿で旅をなさる。もちろん格別の事情がおありなのでしょう。立ち入った話など聞こうとは思いません。

 ただこちらとしても、フレデリカ様を何のもてなしもなく返してしまうようでは、あまりにも礼を失しておりますから……そうですね、今夜の晩餐に招待をさせて頂きたいのですが、いかがでしょう?」


「ええっ⁉ いや、それはわたしの一存じゃあ……」

「それではお供の方々にも許可を取り付けて参ります! ご迷惑をおかけするようなことには致しません! どうかぜひに、ぜひにもお願い致します!」


 無理矢理引っ張り出してきたフレデリカの手を両手で握りしめ、フェルドが懇願する。

 当のフレデリカは若干引き気味だが、彼の魔の手からは逃れられそうにない。


「その……ですね、フェルド侯爵? あの…………ああ、もう! クロもなんとかしてよぉ!」

「あきらめたら?」

「ひどい!」


 フレデリカの叫びとは裏腹に、外堀が埋まったと確信したフェルドはつらつらと美辞麗句に装飾された感謝の言葉を並べ始める。

 続いて段取りやら空き時間、好みの食材まで根掘り葉掘りの質問攻めだ。頭の混乱が止まらないフレデリカはいよいよ涙目になっていく。


 そんな様子をよそに、クロはナタリアに尋ねてみた。


「あいつ、なんか偉い奴なのか?」

「え⁉ し、知らなかったんですか⁉」


 当たり前のように頷くクロに、ナタリアは呆れを通り越して畏敬の念すら覚えていそうな表情をしていた。


「ヘリオス家といったら、ゼグニア三大公家の一つ、光大公家じゃないですか。このオルムスも含めて、北ゼグニアで光大公様のご威光が届かない土地なんてありません。その光大公様の三女がフレデリカ・ヴィンセント・ヘリオス様。本来なら私たち辺境貴族なんかじゃ、お目にかかることすら出来ない人なんですよ」

「へ、へえ……そうなんだ……」


 何とまあこの暴力女が、よもや大貴族のご令嬢とは。クロはどうにも腹に落としたくない事実に、一応の相槌を打った。

 しかし、辺境貴族様の夕飯にご相伴あずかれそうなのは嬉しいが、フェルドの喜びようを見ていると状況が変な方向に広がらないか不安が残る。何事もなく済めばいいのだが。


 そうして頭を悩ませるクロの視線の先では、当のフレデリカがまだこちらに助けを求めていた。

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