オルムスの新領主
施療院の医師は診察を終えると、こちらに向き直った。
「だいぶ衰弱しているが、他に病気や怪我はなさそうだね。あとは目が覚めたらきちんと食事を取らせれば大丈夫だろう。温湿系のもの、細かくした肉のスープや干した果物なんかがいい」
無料で開放されている施療院ということでどんなヤブ医者が出てくるのかと思いきや、診察は非常に丁寧なものだった。
運んできた直後は医者もかなり驚いていたが、青年を助けた栗毛の娘とは顔馴染みだったらしい。彼女が経緯を説明するとすぐに診てくれた。
「ありがとうございました、先生」
栗毛の娘が感謝の言葉を述べると、医師は親しげに笑う。
「はは、私はただ何も無いのを診ただけだがね。話には聞いていたが、治癒魔法というのは本当に素晴らしいものだな。私も昔学んだことはあるが、結局ものにはならなかった。フレデリカさんは貴重な才能をお持ちのようで、実に羨ましい」
「いやあ……そんなことは……」
フレデリカは照れているというよりは困ったような顔で、医師に愛想笑いを返していた。
「しかしナタリア、本当にこの青年は君が面倒を見るということでいいのかね?」
「はい。私が助けた人ですから、最後まで私自身がちゃんと責任を持ちたいんです」
「ううむ……君がそう言うのなら、私は止めないが……」
歯切れの悪い言い方は、いかにも気が進まないという様子だ。
もちろんこの栗毛の娘——ナタリアはここまで見た限り、そこまで頼りないような印象ではない。
それでも人一人の世話をするというのがどれほど大変か、想像には難くないものだ。ましてや男性相手に若い女一人では色々と難しいものがある。
「まあいいだろう。他ならぬナタリアが言うんだ、私は止めないよ。ただ、この耳だけは周りに見つからないようにした方がいいだろうね」
医師は診療台で眠る青年に、獣の耳を隠すようにして帽子をかぶせた。物置から適当に引っ張ってきたらしい古めの帽子で、だいぶ年季が入っている。サイズは少し大きめだが、これでもボロ布よりはかなりましだ。
「もちろんわかっています。心配してくれてありがとう先生」
医師は優しい笑みを浮かべてナタリアを見ると、こちらにも一つ挨拶をしてから部屋を後にした。
「フレデリカさん、クラウディアさん、クロさん……あとここにはいませんがイェルさんも、みなさんありがとうございました。とても助かりました。私一人ではここまで運ぶにも難しかったですし、フレデリカさんの魔法がなければこの人もどうなっていたか……」
「いいよいいよ、そんなの。困ったときはお互い様、また何かあったらいつでも言ってよね」
フレデリカの言葉にミスハも——今は偽名でクラウディアと名乗っているが——頷く。
「うむ。旅をしておれば、こういった危険は私たちも他人事ではないからな。貴女のような方がいて下さるというのはとても心強いことだ」
「そんなとんでもない。私なんて……」
ナタリアは大いに首を振った。謙遜するなとフレデリカが茶々を入れ、ナタリアの首を振る勢いはますます強まっていく。
クロはそんな姦しい空間から少し距離をおいて、獣人の青年を眺めていた。
医師が被せた帽子に隠れて、今は頭の上部に生えている耳は見えない。そして頭の左右にもちゃんと二つ、ごく普通の人間の耳が、ごくごく普通に付いている。こうなると見た目は全く人間と変わらないようだ。
獣人、というほど獣にも見えない。イェルの話では宿す紋章次第でこうした姿になるだけだというから、この程度でも不思議はないか。それとも実は、満月の夜に変身でもするのだろうか。
「ここの連中って、獣人と仲が悪いのか?」
言いながら帽子をちらりとめくってみる。
内側にはもちろん、先ほども見た動物の耳があった。こげ茶色の毛が生えた丸っこい耳は、青年の煤けた髪の間からしっかり伸びている。この耳が本物だとすると、骨格やら聞こえる音などは一体どういう仕組みになっているのだろう。四つの耳で聞ける音とはどんなものなのか、気になるところだ。
「いや、このあたりに獣人は住んでおらんはずだ。オルムスはピネス山脈と接する地域だから、亜人と関わりがあるとすればドワーフたちだろうが、彼らはピネスの洞穴から出てくることがまずないからな。亜人種と関係が険悪になるほど、そもそもの接触がないと思うのだが……」
答えるミスハが最後で口を濁したのは、医師の物言いにクロと似た印象を受けたからだろう。ナタリアが青年の耳に気付いた時も、だいぶ取り乱した様子だった。
どうも、ロムロの住民と獣人との間には何かある。
しかしそれを不躾に尋ねていいものか、ミスハもフレデリカもはかりかねているようだった。
「……みなさん、このオルムスを治めている領主が誰かご存じですか?」
そこで話を切り出したのはナタリアだった。
「えっとたしか……ウェスタ侯爵家じゃなかったかな。昔からいい評判を聞いてたよ。代々領民のことを大事にする人たちなんだって」
「ここのような施療院も、そうした領主の方針から建てられたものだと聞いたことがあるぞ。領主が暮らすこのロムロの街だけではなく、オルムスの都市はどこもこうした民衆のための施設が充実しておるとか」
答えた二人の口調には、どこか敬意のようなものが入り交じっていた。どうやら領主の評価は上々のようだ。ナタリアも二人の言葉には、どこか誇らしげな顔をしていた。
「そのウェスタ侯爵家——なのですが……」
そこへ不意に、暗いものが差し込んだ。
「二ヶ月前に一族の全員が殺されてしまったんです。年に一度、一族総出で行う領内視察の最中でした」
声を震わせたナタリアの言葉に、ミスハとフレデリカが思わず目を見開いた。
クロは驚きこそしなかったが、納得したように頷く。
「つまり、それをやったのが……」
「はい。獣人の襲撃によるものだったと……唯一生き延びた使用人が証言してくれました……。それから討伐隊も何度か送られたのですが、犯人たちはいまだ捕らえられていないのです」
慕われていた侯爵家の人間を殺したというだけでも、目の敵にするには十分。周辺に潜んだまま、いつ次の襲撃が来るともわからない。
そんな凶賊にわかりやすく獣人という目印が付いているのだから、過敏になるなというほうが無理な話だ。
「北方から逃げてきた獣人たちが、このあたりに棲み着くのではという噂は前からあったんです。でも私たちは何の備えもできず……私もどうしてあの時……」
口を開くたびに青ざめていくナタリアを支えるように、フレデリカが肩を抱いた。
「……ごめんね、つらいこと聞いちゃって」
ナタリアは首を振った。だが、その肩はまだ震えている。無理をしているのは誰が見ても明らかだ。クロにすらわかるくらいだから相当なものだ。
「この話はもう終いにするとしよう。クロももうよかろう?」
「そりゃこの状態で続けるわけにもいかないしな」
やれやれと頭を掻いて、クロは獣人の青年に帽子をもう一つ深く被らせた。
「それにしても何があったんだろうな、こいつ。傷とか弱りようをみる限り、昨日今日の出来事って感じじゃなさそうだけど」
「うむ……そうだな」
ミスハもそのあたりは気になっていたようで、青年の顔を見ながら考え込んでいる。
「襲撃犯同士の内紛か、別の何者かに襲われたか……あるいは襲撃犯とは完全に無関係で、どこか遠くから逃げてきたのやもしれん。とにかく色々と可能性だけなら考えられるが、こればかりは本人から聞き出すしかなかろう」
ミスハの言い方に、厳しい尋問でもされると思ったのだろう。青年を庇うようにそれとなく歩み出しながら、ナタリアが口を開く。
「で、ですけど、せめて今はゆっくり休ませてあげてください。この人もだいぶ疲れているようですし……」
「それはもちろんだ。しかし……せめて誰か信頼できる者には相談しておいたほうが良いぞ。このあたりには珍しい種族である以上、領主を襲撃した者たちと彼の間に何らかの繋がりがある可能性は高いのだ」
「わかっています。落ち着いたら今夜にでも、領主様にお伝えしようかと思っていました」
「領主? っていうと、ウェスタ家はみんな殺されたわけだから、ええと——別の、新しい領主?」
「はい。実はその人が私の——」
その時、廊下から声が聞こえた。
「——ナタリアー! どこだいナタリア!」
早足の靴音が廊下に響いたと思うと、一人の男がクロたちのいる部屋を覗き込む。そしてすぐさま、部屋の中まで入り込んできた。
切れ長の目に短めの髪を後ろに持ち上げ、生地のいい濃緑のベストを着た男だ。鞘の細いレイピアのような剣を腰に下げ、自信に溢れた顔つきをしていた。
「ああナタリア、ここに居たのか。大丈夫かい? さっき君が施療院に入っていったという話を聞いたものだから飛んできたんだ。どこか悪いのかい?」
「ううん、そうじゃないんです先生。実は……」
ナタリアは先生と呼んだその男に、おおまかな事情を説明した。
続けて、ベッドに横たわる彼が獣人であるということも男に告げた。
クロは一瞬ぎょっとしたのだが、男はそのまま大人しく話を聞いていた。幸いにして過度に脅えたり義憤に燃えすぎたりするような人間ではなかったらしい。
「……なるほど、そんなことが」
ナタリアの話を聞き終えて、男は獣人の青年を見ながら納得したように呟いていた。
「んで、こちらは誰さん?」
クロは一応ナタリアに尋ねたつもりだったのだが、答えたのは本人だった。
「おっと、これは失礼。名乗るのが遅くなってしまったね。私はフェルド。フェルド・ウェスタという者だ。このロムロを含む、オルムス地方の領主をしている」
「…………うん?」
この男が新領主。だからナタリアも青年が獣人だという話も伝えたのだろう。そこはいい。
疑問なのは彼の姓のところだ。今ウェスタと名乗ったが、ウェスタ家は揃って殺されたと言っていなかったか。実は生き残りでもいたのか、それとも遠い親戚なのだろうか?
「これは侯爵様、わたしはフレデリカと申します」
「私はクラウディアと申します。侯爵様にお目にかかるとは思わず、このような格好ですがどうかご容赦下さい」
クロの疑問とは裏腹に、二人はしれっと偽名も混ぜ込みつつ挨拶をこなす。
「こちらこそ挨拶もせず勝手に話し込んで、ずいぶんと不作法だったね。申し訳ない。——あっと、またすまない。そちらの君は……」
「——あ、俺か。ええと……クロ、です」
完全に会話から置いていかれたところに突然話が飛んできて、どうにか名前だけを口にする。
畜生、一人だけ完全に置いてけぼりとは。この場にイェルがいればこの悲しさを——いや待て、あいつこそ、いの一番に器用な挨拶をこなしそうだ。
「クロ君、でいいのかな? 珍しい名前だね。女性二人と男性一人で旅をしているというのも、あまり見かけない組み合わせだ。クロ君がお二人の護衛、というところだろうか?」
「まあ……そんなとこっす」
「それにしては、君は武器の一つも持っていない」
フェルドは自分の腰にあるレイピアに手を当てながら、もう片方の手でクロの腰を示した。切れ長の目が一段と鋭くなる。
「……武器がなくても、護衛ができる人もいるんじゃないっすかね。武器が剣や槍の形ばっかりしてるとも限らないでしょ」
クロが適当に言い繕っても、フェルドは鋭い目つきのままだ。どう見ても疑いが晴れたという雰囲気ではない。
だが、フェルドはそこからふっと口元をゆるめた。
「たしかにそうだね。どうやらまた無礼をしてしまったようだ。ナタリアとの婚姻が近づいているからか、私は少し神経質になっているのかもしれないな。どうか許してくれ、クロ君」
「えっ! お二人はご結婚なさるんですか」
唐突にフレデリカが前に出てきた。フェルドとナタリアの間で視線を何度も移しながら、おそらくは両方に聞いている。ミスハも少し身を乗り出して興味を示しているようだ。女という生き物の習性というやつか。
ナタリアもそこは同じらしく、少し照れた様子で女同士の会話に応じる。
「はい、来月に。——とはいっても昔から同じ屋敷で暮らしていましたから、何が変わるということもないんですけど」
なるほどこの二人、そういう間柄だったか。領主と一般市民の関係にしては親しげに映ったのは、気のせいではなかったわけだ。
「じゃあさっきの先生ってのは?」
「それはえっと……」
ナタリアが少し答えにまごついたところで、フェルドが口を挟んだ。
「私は元々、ナタリアの家庭教師をしていたんだよ。彼女、その頃の呼び方がちっとも抜けなくてね。もうここまで来たら、結婚してからも先生のままかもしれないな」
「もう、先生ってば! 上手くごまかそうと思ったのに!」
「ほらまた」
その場に和やかな笑いが起きた。仲もずいぶんと良好らしい。
「でもそれなら、やっぱりこの人の世話は他の人に頼んだ方がいいんじゃない? これから忙しくなりそうだし、フェルドさんも落ち着かないでしょ」
フレデリカの再度の提案に、ナタリアは強く首を振った。
「うん? そうか、ナタリアはこの青年の世話係を買って出たのか。——だったらもう、仕方ないな。昔からこういう子なんだ。責任感が強いのはいいけれど、言い出したら全然聞きやしない」
「またそういうこと言う!」
そうしてまた笑いが起きた。
ナタリアの顔色もすっかり良くなっている。どうなることかと思ったが、婚約者の理解もあるようだし、このまま彼女に任せてしまって問題なさそうだ。
その時、ベッドの上で青年がうなされるように声を上げた。
「おっといけない、ここには病人がいるんだったね。まだまだ話したいこともあるだろうが、とりあえずみんな部屋から出ようか」
「でしたら私は残りますので、みなさんとはお別れですね。本当にありがとうございました」
女性三人組が名残惜しそうに話すのをよそに、男二人が先に部屋を出た。
当然ながらフェルドと二人、廊下で女性陣が出てくるのを待つことになる。一応納得したという顔は見せていたが、懐疑の目は解消されたとも限らない。どことなく居心地の悪い空間だ。
何となく目を逸らすように廊下を見渡すと、その先に髭を生やした中年の男が見えた。こちらの姿を見つけるや、男は「ああ!」と声を上げて走ってくる。
「やっと見つけましたぜ、フェルドの旦那! どこに行ってたんですかい!」
「声が大きいですよ、病人が起きてしまう」
「おっとこりゃうっかり、へへ……って! そんなこと言ってる場合じゃねえんですよ旦那! 大変、大変なんだよ!」
「何かあったのか? おっさん」
クロは病室の中をちらと窺いながら尋ねる。
まさかあの獣人の青年が早くも問題になったとは思いたくない。あるいは仲間の獣人を引き込んでしまったなんてことになっても、非常にまずい。
「何かあったどころじゃねえさ!」
完全に興奮状態の男は声を荒げる。
「魔物が出やがったんだ! しかも、外で農作業してた連中を追っかけて街の中まで……それで早く領主様に来てもらわにゃまずいって、みんなで街中探し回ってたんですよ!」
「…………魔物?」
ここに来てまた一つ、聞き覚えはあるが、いまいち理解に乏しい単語が出てきた。しかしフェルドの一変した顔を見るに、のっぴきならない事態だということくらいは察することが出来る。
「わかりました、すぐに向かいましょう。場所はどこです?」
「ええと、南の門前広場の……」
「十分です」
話の半分も聞かないうちに、素早くフェルドは走り出した。
「なあおっさん、ちょっと聞きた——」
「旦那ぁ! 待ってくだせえ!」クロの言葉より早く、男もフェルドを追って走っていく。
話が聞こえていたのだろう、ミスハとフレデリカも部屋から出てきた。ナタリアも不安そうに部屋の中からこちらを窺っている。
「領主がおるならば大丈夫とは思うが、我々も行ったほうがよかろう」
「そうですね。行きましょう」
「なあお前ら魔物ってな——って、おい! だから無視すんなよお前ら! というかどいつもこいつも、病院の中を走るなよ!」
聞く耳持たず走って行く二人に、クロも否応なく続く羽目になった。
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