ブドウ畑を前にして

 

 

 結局、近づいてきた馬群の音は、やはりクロたちとは無関係のものだった。


 どうも先頭の一人が、他の複数名に追われていたらしい。かなり切迫した状況だったようで、フレデリカの悲鳴やクロの断末魔が聞こえてきても、気にする素振りもなく全員がその場を走り抜けていった。


「俺、わりとボコられ損だったよな」


 何となしに、ぽつりとクロが呟いた。その右足には禍々しい異形を隠すための麻袋が被さっている。ずいぶんと不格好ではあるが、今から街に入ろうという時にそのままというわけにもいかない。


 一行は今、ゼグニア帝国北西部のオルムスという地域、ロムロという街の前で検問が終わるのを待っている。

 旅慣れているというイェルが代表で検問に出向いてから、もうかれこれ小一時間。街の周囲に広がるぶどう畑も見飽き始めて、暇をもてあそぶうちにふと口をついたのが、先の一言だった。


 誰に言ったというわけでもないが、何の話をしているのかはわかったのだろう。苦笑するミスハの横でフレデリカが挑戦に応じる。さすがに今は二人とも、いつものローブと騎士鎧がそれぞれの肢体を包んでいた。


「あれは、ほら——せ、正当防衛よ。うら若き乙女の裸を覗く変態を、正義の名の下に成敗しただけだから。それにほら、怪我だって酷いところは魔法で治したし!」

「……いや、確かに身体の傷は残ってないけどさ……正直、裸の女にマウントで殴られまくった時には、完全に貞操の無事を諦めたぞ」

「ちょっ——ちょっと、人聞きの悪いこと言わないでよ! 誰がアンタなんか襲うって⁉」


 食ってかかるフレデリカとの間にそれとなく入りつつ、ミスハもクロに厳しい目を向ける。


「……やり過ぎたかは別にしても、私たちの裸を見ておいて損しただけと言うのは、私も少~し聞き捨てならんな。むしろまだまだおぬしが不当に得たものに対して、罰が足りておらんのではないかと思うぞ」

「いや、俺は別に……」


『別に?』二人の声が重なって、赤と緑の瞳が同時にクロを睨めつけた。


「いや何でもないです、ホントすんませんでした」


 すぐさま態度を翻し、クロは一瞬で両手の白旗をあげた。この二人の瞳からは理屈では対抗できない激情の奔流を感じる。本能が謝っとけよバカ野郎と囁いていた。


 ミスハはそんなクロの前に腕組みでふんぞり返り、ふふんと笑って満足げにしていた。


「わかれば良いのだ」

「わたしは良くないですよ、ミスハ様⁉」


 だがフレデリカはまだ納得がいかない様子で、ミスハに身振り手振りを交えつつ訴える。


「でも殴られたのは置いとくとしてもさ、大声出したのは実際やばかったろ。あいつらが俺らと無関係だったからいいものの」

「うっ……そ、それはかなり反省してる……もうしない……」


 今度の指摘はフレデリカにとっても痛いところを突いたらしい。反応がまるで違う。ミスハも援護に加わらないあたり、本当に危険な行為だったのだ。


「でも、あんたには謝らないから! そっちが初めからちゃんと説明してれば良かったのよ」

「しようとはしたぞ。なのにお前が全然人の話聞かないから……」

「その割に、私の時はこちらが気付くまで何も言わずに眺めておったようだが」


 このいやらしいタイミングで、ミスハが最悪の合いの手を入れてきた。


「ほらやっぱり覗き目的だったんじゃない! わたしも気付いてなかったら、上から下までじろじろ見ておくつもりだったんでしょ! この変態! 痴漢! 異常性欲の色情魔!」

「くっ……また話が戻ってやがる……」


 今さらながらに、なぜ自分から話を蒸し返してしまったのか、後悔がつのる。

 クロは性犯罪者のお墨付きを自らの額に貼り付けながら、もう見慣れつつある一面のブドウ畑に遠い目を向ける。飽きずにもう少し君とお付き合いしていれば、こんな暴言を浴びることもなかっただろうに。すまない、ブドウ畑の美しき風景よ。


 なんて感傷に浸っているところで、ようやくイェルが戻ってきた。


「最初からお前が俺にちゃんと説明してれば、こんなことには……」

「手続きは済んだのか? すまんな、おぬしにばかり頼んでしまって」


 クロの愚痴を無視してミスハがねぎらいの言葉をかける。

 イェルはこくりと頷くと、続けて首を振った。


「構わない。けど、少し気になることがあった」


 そこでようやく、クロも少しは真面目な顔になった。何か問題でも起きたのかと、空気が緊張する。


「門の通行料がだいぶ値上がりしてる」

「なんだ、そんなことか」


 聞いてすぐに肩の力が抜けた。


 実際にどれだけ持っているのか聞いているわけではないが、前にミスハが分けてくれた額を考えても、路銀にはかなり余裕があるはずだ。何しろ皇帝の一人娘の旅路なのだ。一般人にとって少し高かったとしても、そんなものは誤差の範囲だろう。

 あえて話すほどのことには思えないが、イェルはこんななりでも一応は傭兵。金にはシビアなところがあったということか。


 しかしクロの反応とは対照的に、残る二人の表情は険しいままだった。


「検問も厳しくなっておったのか?」

「目的地から出身まで詳しく聞かれた。何か公的な許可証を持っていないと厳しいとも。上手く言いくるめたけど、かなり細かいところまで気にしてる」

「ふーむ、だいぶ神経質になっておるわけか……」

「一応許可は下りたけど、どうする? もちろん噂を聞きつけただけの可能性もあるし、あるいは急に領主が強欲で猜疑心まみれになっただけかもしれないけど」


 ミスハが悩み始めるのを横目に、クロは小声でフレデリカに尋ねる。


「……あの、話が読めないんだけど、どういうこと?」

「わたしも詳しくはないけど、反第一皇妃派——つまり水大公も含めたミスハ様の敵対陣営は、最近になって税を重くしてることが多いらしくて……」

「ああ、だから通行料を値上げしたこの街も、すでに敵方についてるかもしれないってことか。でも何でそんなバレバレなことやってるんだ、そいつら」


「もちろん、戦争の準備をするためだ」

 横からミスハが、悩む顔のまま答えた。


 戦争という予想以上に深刻な単語を耳にして、クロは驚きを隠せなかった。


「帝位継承権の一位にこそ私がおるが、その次は現状空席だ。もし私が死ねば、誰が皇帝になるかは陛下や諸侯の間で決めることになる。今でこそ水大公が権勢を振るってはおるが、身内が帝位まで授かるという話になれば周りも黙ってはおるまい。間違いなく次期皇帝の座を巡って激しい内乱が起きる。

 奴らにとっては、私を殺して終わりではない。来たるべき戦のために力を蓄えておく必要があるのだ」


 そこにフレデリカが口を挟む。


「だからこそわたしたちは、このゼグニアを戦火の渦に巻き込まないためにも、ミスハ様を無事に帝都までお送りしないといけないの。わかった?」

「一応わかったけど……そこだけお前が言っちゃうの?」


 この旅の行く末によって、大帝国の次代皇帝が変わる。それだけでも由々しき事態だというのに、国中を巻き込んだ内乱にまで関わってくるとは、いよいよ大事だ。

 もしかすると、結構な面倒ごとに巻き込まれてしまったのだろうか。やれやれと頭を掻いていると、胸を張るフレデリカの横で、ミスハがなぜか浮かない顔をしているのに気付いた。


「どうかしたのか?」


 クロの言葉に、ミスハは虚を突かれたような反応を示す。


「え……? あ、いや…………何でも……」

「や、やっぱりわたしたちだけじゃ、不安なのでしょうか⁉」


 フレデリカの不安げな声に、ミスハは銀髪を揺らしながらふるふると首を横に振る。


「まさか、そんなことはない! バルテザにルベン、アクイラと、三人も続けて神承器使いを退けるなど、帝国騎士団とて容易いことではないのだぞ」

「でもそれって、どれもたまたまその場にいた俺が勝手にやったことだろ。まずくないか、そんなんじゃ」


 辺りに気まずい空気が流れる。

 ミスハとフレデリカは揃ってうつむき、自嘲でもするように乾いた笑いを浮かべている。


「あれ……俺ひょっとして、言っちゃいけないこと言った?」

「いいよ。本当のことだから。だからこそクロを連れてきたんだし。それより姫様、結局この街——ロムロはどうする? 入るのか、やめとくか」


 そこでイェルが割り込んできて、さらりと話題を元に戻した。こういう時、無表情無感情のイェルの存在はありがたい。

 問われたミスハは、再びしばしの沈思黙考。それから、結論を出した。


「食料も次の街までは足りるはずだ。今回は安全策をとろう」三人を見渡して続ける。「皆もそれでよいか?」


 フレデリカとイェルはすぐに頷いた。クロも遅れて答える。


「ああ、俺もそれで————ん?」


 そこで、少し離れたぶどう畑から物音が聞こえた。


 おや、何だろう。のんびりクロが振り返ろうとする間に、他の三人は素早く身構えている。再びぶどうの葉が揺れた。

 クロも身構え、麻袋で包んだ異形の右足で地面を蹴りだす準備をする。


 が、そこから出てきたのは敵でも何でもない。一人の若い娘と、その娘に肩を支えられてどうにか歩く、弱り切った青年の姿だった。


 娘は栗色の髪をポニーテールにまとめ、動きやすそうな服装。おそらくはぶどう畑で農作業でもしていたのだろう。青年のほうは無数の縫い直しが目に付く服を着て、ボロ布を帽子代わりに頭へ巻きつけている。

 青年は娘に肩を支えられながら息も絶え絶えという様子で、足元がおぼつかない。娘の方もそれなりの距離を歩いてきたのか、少し疲れが見えていた。


「ああ、良かった! すみません! そこの人、少し手を貸して頂けませんか!」


 こちらを見つけるや、娘は声を張り上げた。


 だってさ、どうする? クロは口には出さず、目配せで周りに尋ねる。その時にはもう、ミスハとフレデリカの二人が助けに走り出していた。

 人でなしの称号と共にその場に残されたクロは、非道仲間のイェルを相手に、一つ冷静さを装ってみる。


「罠……とかじゃないよな? これ」

「かもしれない。だとしても、私たちは姫様に従うだけ」

「さよですか」


 形ばかりの無意味な会話を終えて、クロとイェルも二人を追った。


 目の前に立ってみると、遠くから見た以上に青年は衰弱していた。意識も朦朧としているのか、目の焦点が合っていない。煤のようなもので汚れた頬はこけていて、継ぎ接ぎの服も靴も、見れば見るほどボロボロだ。


「一体何があったのだ? 怪我は?」


 ミスハの問いに栗毛の娘が答える。


「脇腹を怪我してるみたいで、血が滲んで……でも、それ以上はわかりません。私もついさっき、畑でこの人が倒れているのを見付けたばかりなんです」


 確かに服の脇腹付近には赤黒い色が広がっていた。大きくめくってみると、確かに脇がぱっくりと裂けている。剣——いやこれは矢傷で裂けたものだろうか。

 しかしその傷は、クロに強い印象を与えはしなかった。それよりも目を引くものが、服の内側に広がっていたからだ。


 青年の背や腰、腹や肩に至るまで、全身に無数の傷跡が刻まれていた。裂傷や腫れ、新しいものばかりでなく、不完全に治って腐りかけたようなものも多い。


「酷いな……」


 思わず呟く。


「……フレデリカ、どうだ?」

「半端に治ってしまったものは難しいですけど……とりあえず血を止めましょう」


 フレデリカはすらりと腰の剣を抜いて目の前に構える。

 白銀の剣身が輝き、あたりに光の粒が舞い始める。


「我が命、証徴するは神の神たる証。燃え、廻り、湧き出て産まれよ。万物交じり合いて極光を成し、あまねく生命の原初たる結晶と化せ——」

「<癒光オーラ>」


 響く声と共に広がった極光オーロラが、青年に降り注いでいく。

 光が青年の身体に溶け込んでいくうちに、脇腹の傷はみるみる塞がっていく。さらに身体の無数の傷も、いくつか消えていった。


「これって……癒しの魔法、ですか? なんてすごい……」


 栗毛の娘は感嘆の声を上げて、その光景に目を奪われていた。

 すると突然、青年はがくんと力を失って、娘を巻き込んで倒れそうになる。そこをとっさにミスハが支えた。


「急に傷が治って、張っていた気が抜けたのだろう。あとは街の中で休ませれば大丈夫だ」


 栗毛の娘を安心させるように言いながら、ミスハが支え役を交代しようとする。

 そこでクロはミスハをどかすようにして割って入り、青年の腕を自分の肩に回した。


「お前じゃ背が足りないだろ。俺が連れてくよ。フレデリカも手伝ってくれ」

「あんたに言われなくてもっ」


 クロとフレデリカが左右から肩に腕を回し、力の抜けた青年の身体を支える。

 しかし意識を失った人間というのは、存外重いものだ。またよろけそうになると、慌てて腕をしっかりと掴み直し、「よっ」とかけ声と共に、勢いよくもう一段上に持ち上げる。


 その時、青年の頭ががくんと揺られて、頭に巻きつけていたボロ布がずり落ちた。


「え——⁉」


 栗毛の娘が声を呑んだ。


「何だよ、どうかしたのか? って……」


 振り向こうとしたクロの視界に、毛の生えた丸っこい動物の耳が飛び込んできた。それは青年の頭に左右均等に二つずつ、ちょこんと乗っかるように生えていた。


 クロは目をぱちくりさせてから、合点がいったような顔をする。


「ああ、これってあれか。獣人ってやつ?」


 間の抜けたようなクロの言葉とは裏腹に、栗毛の娘の顔は真っ青になっていた。

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