第2章 - 異血の神位

イェル先生のよくわかる現状解説

 

 

 アルガスト大陸西部を広く版図におさめる世界屈指の大国、ゼグニア帝国。


 このゼグニア帝国を統べる皇帝ウィグムンドには、現在二人の皇妃がいる。エルフ族の王女である第一皇妃と、水大公家から嫁いだ第二皇妃だ。

 ゼグニア皇帝家に前例の無い二人の皇妃が生まれた背景には、少々複雑な事情があった。


 かつてのゼグニア帝国は、戦火の絶えない国だった。

 北にはピネス山脈を分け合う北部ドワーフ同盟、その向こうには大国ガノス。東を見れば同盟国を挟んで、獣人たちが支配する大草原。西はウェルネス海を挟んで軍事国家メルヴェ。南にもエルフたちの住まうユグドラ大森林が広がり、その東にはアルトトス、ロバルスティアと、広大な国土は隣国もまた数多い。

 これに強大な国力を持つが故の高圧的な外交も手伝って、常に国土のどこかでは対外戦争が行われているのが、建国以来続くこの国の日常となっていた。


 この恒常的な戦争状態を終結させたのが、先代皇帝オルレウスと現皇帝ウィグムンドだ。


 オルレウスとその遺志を継いだウィグムンドは、二十余年をかけて周辺諸国との和平を進めていき、ついに十三年前、その大業を完遂する。

 その最後の和平の条件であり、同時に恒常的な戦争状態が終わりを告げた象徴となったのが、皇帝ウィグムンドと、エルフ族の女王との婚約であった。


 これまで皇帝家の皇妃皇配は、建国以来ゼグニアを支える強大なる氏族、三大公家と称される三家から順繰りに選ばれるのが慣例だった。強大な三家への配慮と力の均衡化、皇帝家との関係強化が目的だ。


 そこに今回初めて国外から、それも長きに渡って敵対していたエルフ族の王女が選ばれる。当然ながら、反対意見は多かった。

 しかし美貌と慈愛に満ちたエルフの皇妃は国民の心を掴み、皇帝ウィグムンドを理知と献身で支える姿は諸侯にも歓迎された。今回皇妃が選ばれるはずだった水大公家の者たちも、これは同様だった。


 しかし、皇妃が第一子を産むと同時に、重い病に伏せったところで状況は一変する。


 これまで歓迎の意を示していたはずの水大公が他諸侯と共謀し、皇妃母子を療養と称して僻地へと追いやってしまったのだ。さらに水大公はこれまで前例のなかった第二皇妃なる存在を皇帝家に送り込み、次代皇帝の外戚として政を取り仕切り始める。


 だがこちらも事は上手く運ばない。

 第二皇妃に子ができないまま数年が過ぎた頃、皇帝もまた第一皇妃と同じ病に倒れてしまったのだ。


 宮廷薬師や医師の奮闘も空しく、今や皇帝は余命いくばくもない。

 次代の皇帝を定める継承の儀は、皇帝の死後すぐに行われる。そして当然ながら、皇帝ウィグムンドとエルフの第一皇妃との間に産まれた、唯一の娘がその継承権第一位となっている。


 その名を、ミスハ・ユーヴェンレイヤ・ヘイムダルと言った。


 ◇


「——と、いうわけで、帝都に向かう姫様が邪魔されてるのが現在」


 街道から少し外れ、清流にほど近い林の合間で一夜を明かした朝。


 簡単な旅の朝食と共に続いた長話を終えると、魔導服の少女——イェルは、焚き火に寄せて温めていたミルクのコップを持ち上げた。

 火の勢いはほとんど失われていたが、さすがに温める時間が長すぎたのだろう。ちょいと唇を付けては、ふぅふぅと冷ましながら飲んでいる。


 朝食のビスケットを貪りながら話を聞いていたクロも、ようやく一段落したとみてその手を止めた。こちらも少々食べ過ぎてしまったようだ。胃袋が苦しい。


 今ここにいるのはこの二人だけ。クロが目を覚ました時には、すでにミスハとフレデリカの姿は見当たらなかった。どこに行ったのやら少しは気になるが、イェルが二人を心配するそぶりもない。そのうち戻ってくるのだろう。


 木々の間から漏れる朝日は寝ぼけ眼を刺すように眩しく、朝の澄んだ空気は近くを流れる川のせせらぎや鳥の声を運んでくる。

 クロは今一度大きく伸びをして、頭をもう一段階目覚めさせた。


「何かごちゃごちゃ説明してたけど、要するにその水大公ってやつが敵で、俺らはその妨害をくぐり抜けて、お姫様を皇帝のとこまで連れてけばいいってことだろ」

「おお、ちゃんと理解してる。素晴らしい」

「馬鹿にしてるだろ」

「うん。少しだけ」


 聞こえるように舌打ちをして、クロはもう一度ビスケットに齧り付いた。頬をリスのように膨らませて、もがっしゃもがっしゃと咀嚼しながら話を続ける。


「まあお前らの目的は大体わかったからいいんだけどな。……あ、そうだ。話聞いてて思ったんだけど、ミスハってエルフとのハーフだったのな。見た目は俺らと全然変わんないように見えたけど」

「お。クロはエルフを見たことがある?」


 イェルはミルクを少しずつ口にしながら聞き返してくる。また馬鹿にしているのか、単に興味があるのかは、もちろんこの無表情な顔からは読み取れない。


「耳が尖って長いやつだろ。実物は見たことないけど知ってる」


 両手で三角を作って耳に当てながら答えた。なぜ知っているのかをクロ自身も知らないが、かなりしっかりした知識として記憶の中にあった。

 だがその自信満々の回答にイェルは少し首を傾げた。


「それは——ちょっと違う。長いのもいるにはいるけど、耳がいいのがエルフに共通した特徴。声に混じった魔力を聞き取ることができるから、魔法が得意になる。あと人間よりかなり長寿」

「あー、そこらへんもどっかで聞いたことあるな」

「他の外見上の特徴としては、肌が黒かったり、青かったり、耳がちょっと尖ってるだけとかもある。エルフと一口に言っても、外見や特性は、結局受け継いだ紋章痕次第だから」


 そこでイェルは、ぽぉと一つ湯気を吐く。


「——と言うのが一般論だけど、姫様の母君である第一皇妃エルヴィア様は耳の長いハイエルフ族。姫様の見た目に限って言えば、クロの疑問も正しい」

「へー……」


 二人は示し合わせたようにミルクとビスケットを交換すると、クロはまだコップ半分以上残っていたミルクを一気に飲み干した。

 こちらも温かい息を一つ吐き出してから、また続ける。


「ところでさ。紋章痕って……何?」


 イェルのビスケットを口に運ぼうとする手が止まった。いつもの無表情で、蒼い瞳も何か変化を見せたわけではないが、驚いているのがわかった。


「……知らないの?」

「うん。知らない」

「……なんで知らないの?」

「え、そこ責められるところなの? なんでってそりゃあ……俺が記憶喪失だからだろ」


 イェルは右に左に首を何度か傾げたあとで、「まあ、ありえないこともない」と一言。そこからクロにずいと近寄って頭を両側から掴んだ。


 そしてそのまま、キスでもするように顔を近づけてきた。


 鼻先が触れ合い、今にも息がかかりそうなほどの距離。いや、クロの息はすでにイェルに届いているのかもしれない。まるで呼吸がないかのようなイェルの小さな息遣いを、クロがほとんど感じられていないだけだ。

 左目と右目、右目と左目が視線を重ねる。


「見える? これが紋章痕」

「近すぎて何も見えねえっての。————あー、何がどこにあるって?」


 焦点が合わないほどの近距離から、こちらも頭を掴み返して引き剥がす。イェルはされるがままに起伏のない身体を弓なりに後ろに反ると、その態勢のまま、自分の左目を指差した。


「ここ」


 クロは目を凝らして、イェルの蒼い瞳を左右見比べながら、よくよく観察してみる。

 するとイェルの虹彩には確かに、左の瞳にだけ模様があった。複数の多角形が輪のように配置された細やかな紋様だ。


「これが私の紋章痕。種族を問わず全ての人間には、生まれつきこういう紋章が身体のどこかにある。この紋章は両親のどちらか一方からだけ全く同じものを受け継いでいて、一生消えることはない」


 クロは感心の声を上げながら、高そうな壺でも品評するように様々な角度からイェルの瞳を眺める。


「へえ~、全然気づかなかったな。本当に誰にでもあるのか?」

「魂を留めるのに必要だから、死産でなければどこかに必ずある。私はわかりづらい方だけど、例えばアクイラの顔にあったのはクロも記憶してるはず」


 その名前を聞いて、先日殺し損ねたアクイラのごつい顔を思い起こす。

 確かに顔の半分を覆うほどの、入れ墨のような模様があった。あれはファッションや何かの刑罰で彫り込まれたものではなく、生まれつき刻まれていたもの。あの男の紋章痕だったわけか。


「この紋章痕がエルフの形質を持っていればエルフに育つし、ドワーフならドワーフ、獣人なら獣人になる。例えばエルフと獣人の間に子供が産まれたら、その子が両親どちらの紋章痕を受け継いだかによって、エルフか獣人の一方に育つことになる。

 他にも受け継いだ紋章によって、身体が強かったり、特定の魔法に適性があったり、色々なものが決まってくる」

「じゃあ、ミスハは父親の方の紋章痕を受け継いだから、母親みたいなハイエルフの姿はしてないってわけか」


 イェルは一瞬固まってから、

「…………まあ、それで合ってる」

 こくりと頷いて答えた。


 反応に少し引っかかるものを感じたが、正しいというなら正しいのだろう。実際にミスハはエルフの姿をしていないのだから、こう考えるより他にない。


 世界に名だたる大帝国の、皇帝家に代々受け継がれた紋章痕か。そんな重圧を背負ったからこそ、あんな子供らしからぬ性格に育ったのだろうか。あるいはその性格までも、紋章痕で変わってきたりするのだろうか。


「ついでだから聞くけど、クロって神承器じんしょうきとか紋章器もんしょうきのこと、わかってる?」

「俺が殺した連中の持ってた、やたら光るやつだろ」

「あれは神承器。神より賜りし神位の器。紋章に眠る神性を呼び覚ます悠久の遺物。使い手に人の域を超越した力を与え、同じく神承器を用いなければ傷をつけることすらかなわなくなる、人間の埒外にあるもの」


 そしてクロにとっては、その使い手を殺す衝動に突き動かされ、ミスハたちの旅に参加するきっかけになった存在でもある。


「その神承器は紋章痕一種類ごとに一つしか存在しない。そして、対になる紋章痕を持つ者にしか使うことはできない」

「ああ、そうなのか。じゃあ、あいつらが仲良くあの風の剣を使えてたのは、紋章痕が同じの兄弟だからだったんだな」

「そういうこと。そして紋章痕を同じくする者にとって、神承器は一族の祖神から賜った神宝であると同時に、一族の象徴みたいなもの。このゼグニア帝国だと、大体は爵位を持った家の家長が受け継いでる」


「だとすると、もしかして俺が殺した二人って、結構偉い奴だったのか?」

「ぼちぼち」

「ぼちぼちかあ……」


 死してぼちぼちと評されるゼピュロスの兄弟には、少しばかり同情してしまう。しかし不思議とクロの胸には、罪悪感のようなものだけは何一つ湧いてこなかった。

 それがおかしいという感覚と、真っ当だという感覚が頭の中に共存していて、どうにもこそばゆい。


「次に、こっちが紋章器。神承器に似せて人が作り上げた、便利な道具」


 そう言ってイェルが何かを小さく唱えると、左耳にだけ付けているピアスが蒼く輝き出した。


 イェルを中心に無数の氷の結晶が舞い始める。手をかざすと集まった結晶は手の周辺でさらに密度を高め、動く速度も早まっていく。

 そして不意に、焚き火を狙って結晶群が放たれた。

 標的になった焚き火は消えるどころか、組んでいた枯れ木や枝までもが一瞬にして凍りついていた。


「こんな風に、紋章痕に宿る力を少しばかり引き出すことができる。神性を得ることはできないし、神承器に比べると大した力はないけど、それなりには役に立つ」


「ふうん……でもそっちは、俺にはあんま関係ないんだよな」

「いや。むしろ紋章器の使い手は、神承器にしか力が出せないクロにとっては天敵になり得る。十分に気を付けるべき」


 言われてみると、確かに。

 アブリスの路地裏では、紋章器どころか単に剣を持っただけの兵士に、あやうく殺されそうになったのだ。あれがさらに強くなって襲ってくるとすれば、背筋の冷える思いがする。


「というわけで、クロ自身の調子は変わらないのに、敵の武器や装飾品が光ってるのを見たら気を付けて」

「成る程、一応大体わかったよ。神承器と紋章器な」

「そしてその二つの力の源が、親から子へと受け継がれる紋章痕。特に神承器と紋章痕はこの世界の基礎の基礎だから、クロもちゃんと覚えておくように」

「へーい」


 何だか堅苦しい授業でも受けている気分で、気の抜けた返事をする。


 しかしようやく一つ、大きな疑問が解消されたのは良かった。この身体が殺したいと吼える人間は、神承器を使い、神となった存在だったのだ。

 ならばこれからは、この神承器という代物を目安に獲物を探せばいいわけだ。同じ紋章痕を宿す人間が残っていれば、何度でも殺り放題というのも素晴らしい。


「そういやこれまでの話でいくと、俺にもその紋章痕ってのがあるんだよな。俺の場合はどこにあるんだろ。着替える時にも見た覚えないから、背中とかにあんのかな」


「いや。どうもクロには無いっぽい」

「……は?」


 いやいや、お前さっき誰にでもあるって言ってただろう。いきなり前言撤回か。というかいつの間に確認しやがった。詰め寄ろうとするクロに先んじて、イェルが口を開く。


「そもそも、神承器も紋章器も使わずに、あんな戦い方ができる人間は存在しない。ましてや神性を得た神承器の使い手を、そのまま嬲り殺しにできるはずもない」

「悪意を感じる表現だなおい。俺は人外の怪人か何かか」


 冗談めかして言ったものの、イェルは頷く。


「ご名答。怪物か、怪獣か。姫様やフレデリカも、少なくとも人間じゃないとは思ってるはず」


 そんな馬鹿なと返しかけたが、目端に入った異形の右足が言葉を飲み込ませる。

 少なくとも今のクロは、完全に人の形をしてはいないのだ。人であった記憶すらもない。快楽を求めた殺神のために旅に加わったという精神も、異常と言って差し支えないだろう。

 我は人なりと主張できる確固たる拠り所を、クロは一つたりとも持ち合わせていないのだ。どころか、さにあらずと説く方がよほど道理が通っている。


 そう気付いてもクロの心には、不思議と驚きも嘆きもなかった。その一点に対してだけは戸惑いの感情があった。


「えっと……じゃあ俺って、何なの?」

「それは——」


 イェルが言いかけた時、不意に周囲の林から無数の鳥が飛び出した。


 羽ばたきの音が途切れた後で、遠く馬蹄が地面を叩く音が耳に入ってくる。まだ距離はあるが、途切れた会話の静寂を埋め尽くすような数。少なく見積もっても四、五頭が、かなりの速度で走っているようだ。

 幸いにしてまだ距離はありそうだが、何の躊躇もなく近づいてきていた。


「……追っ手が来たか?」


 木々の隙間を縫って目を凝らすものの、うまく姿が見えない。野営には位置が悪かったかと眉をしかめた。

 その横で、イェルは左耳のピアスを蒼く輝かせる。


「丸腰の人間が乗った馬が一つ。離れて後ろから二頭、三頭……こっちは武器がある。馬はどちらも全速力……」


 どうやら、何らかの手段で相手の気配を探っているらしい。これもまた、ちょくちょく話に出てくる魔法というやつか。

 ピアスの蒼い輝きが止まると、イェルは見開いていた瞳を何度かまばたかせた。


「目的は私たちじゃないと思うけど、ちょっと様子を見てくる。クロは姫様とフレデリカを呼んできて」

「まかせろ。——って言いたいとこだけど、あいつらどこにいんの?」

「すぐそこの川。たぶん見つかりにくい位置にいる」

「わかった。とりあえず探してみる」


 クロは異形の足で抑えめに、しかし大きく踏み出して川の音がする方向へと走り出した。


 イェルの話は気にかかるが、今は考えないことにしておく。

 あと、最後の言葉。見つかりにくい位置というのも何か引っかかるものを感じたが、クロはこちらも合わせて意識の外へと追いやって、川のせせらぎが聞こえる方へと走っていった。

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