咆吼する凶気

 

 

 周壁を越えて街を抜け出すと、ミスハは意図的に街道を避けながら丘を一つ越えた。

 広がる麦畑はよく手入れされ、身を隠すには向いていない。畑道を走り抜けてさらに進み、切り株と倒したままの丸太が並ぶ、開墾途中の荒れ地へと足を向ける。

 切り株の間を縫いながら小さな丘陵を登り切ると、眼下にまだ手つかずの雑木林が見えた。あそこまで行けば一息つけるだろうか。


 その時、着込んだローブを突風が叩いた。


 バルテザがクロに殺されたのが昨夜のことだ。早すぎる? いや、そんなことはない。こうなることも織り込み済みだったのだろう。

 目の前の、この男は。


「名を聞こうではないか。ゼピュロスの家の者」


 ミスハの目の前に、長身の男が一人、降り立った。男は眉をぴくりと動かして、ミスハの言葉に少し驚くような様子を見せた。

 しかしすぐに余裕ぶった笑みを浮かべなおすと、うやうやしく礼をする。


「これはこれはご機嫌麗しゅう。お初に御意を得ます、皇姫ミスハ様。わたくしの名はルベン。ルベン・クリウス・ゼピュロス。どうぞ以後お見知り置きを」


「ルベン殿はずいぶんと悪趣味のようだな。そんなおべっかごっこを愉しまれるとは」

「まさか、そのような」


 ルベンは形だけ否定するが、口調には一切の真実味がこもっていなかった。こめる必要すら感じていないのだろう。心の中で舌打ちをする。


「……私を殺すか? ルベン」

「我が兄の仇、でございますれば。そう望むのが当然だとは思われませんか?」

「仕組んだのは貴様自身であろうに。ずいぶんと都合のいい理屈を考えるものだと感心するぞ」


 ミスハの皮肉に、ルベンは首を振った。


「いいえ。これは本当に予定外なのですよ、ミスハ様。貴女には神承器を持つ護衛がいない。そう確認したからこそ、私はあれを今回の計画に乗せたのです。こうなると知っていれば手など出させはしません。もしも貴女を取り逃がし、その命を狙ったことが公に広がれば、さすがに当家も危ういでしょう?」

「——なるほど。であれば実のところ、これは口封じというわけだ」

「察しが良くて助かります」


 ルベンが手にする神承器ゼピュロスが、強い光を放ち始めた。その輝きの鋭さは、彼の兄バルテザのそれを遥かに上回るように見える。真上に掲げるようにすると、風がその先に集い始めた。


「予定からは外れましたが、期待を上回って理想的な成果です。感謝しますよ、ミスハ様」


 風が勢いを増し、ゼピュロスの光がさらに強くなっていく。


「ところで、貴様に話を持ってきたのは、水大公べナス殿か?」

「……さて、どうでしょう」


 顔に出さないのはさすがだ。しかし、名を出した瞬間、微動だにしない顔の横で耳だけが微かに動いたのをミスハは見逃さなかった。


「本来なら皇帝の妃は水大公の家から出す持ち回り。気持ちはわからんこともない。しかし……大公も思いのほか愚かなのだな。こんな末端にまで自分の名を伝えてしまうとは」


 あるいは——漏れ伝わったところで、ミスハには何もできないということが、よくわかっていたのかもしれない。その言葉は、頭の中でだけ形にした。口に出して言いたくはなかった。


「兄は知りませんよ。誰が依頼主かはね」


 その言葉に、ミスハは小さく、しかしこれ見よがしに吹き出してみせた。


「何を勘違いしておるかしらんが……貴様も末端には変わらんよ、ルベン」


 言った途端に、ルベンは露骨に不機嫌な感情をあらわにした。

「あれと一緒にしないでもらいたいね……」


 これまで表情を隠してきた努力は泡と消え、顔には怒りと不快感が満ちている。この反応は少し意外だ。


「……ああ、そうか。兄の上に立たねば我慢ならんか。兄弟に嫉妬心を抱いているのは、兄の方ばかりではなかったというわけだ」


 ルベンは顔を伏せながら、次第に不快感を笑みに変えていく。


「…………ふふ、好き放題に言ってくれる。人間というのは死を前にすると心まで醜くなるものなのかな? 私は貴女のようにはなりたくないものだ」

「死なずして醜く生きるおぬしほどではあるまい」

「減らない口は父親譲りか? 蛮姫ミスハ」

「貴様の兄も私をそう呼んだよ。ルベン侯爵」


 ルベンがゼピュロスを振るうと同時に、巨大な竜巻が起きた。

 二人はその内側に取り残され、風の削り出す木や土が巻き上がって周辺を舞う。次第に風は圧縮した刃と化して、巻き上げた全てを細やかに切り刻み、一色のくすんだ煙のように変えてしまった。


「兄より優秀なのは本当だったか」

「いまさらお世辞で命乞いですか? やはり我らが姫君は、愚鈍で知性に欠けるらしい。そもそも、さっさと逃げていればこうして死なずに済んだはずだ。何故まだ貴女はここにいる?」


 ミスハは自嘲するように笑った。それが答えだ。


「……まあいい。アクイラ殿には悪いが、少しばかり遅すぎるようだ。私がとどめを刺すとしよう。このまま長引かせて、兄のように突然襲われでもしてはかなわないからな」


 ゼピュロスを頭上で一振り回転させると、周囲を包んでいた竜巻が収束しながらその剣先へ集い、天高く伸びる一本の鞭のような姿に変わる。

 風が起こす轟音も捻り上げられるようにして高音へと移り——不意に聞こえなくなった。


 風が、破壊という一点に純化されていた。


「一撃で終わらせてあげますよ」

「それは助かる。兄の方は痛めつけるのがずいぶんと好みだったらしくてな」

「ただの強がりですよ、そんなものは。奴にそんな神経の太さなんてありはしない」

「そうなのか」

「そうですよ。よく知っていますから、兄のことは」


 呟くように言うと、ルベンはゼピュロスを、その剣先に純化された破壊の束を、躊躇なく振り下ろした。


 ミスハはそれに何一つ抵抗することなく、ただ目を閉じた。

 悲しくはなかった。恐怖もなかった。ただ一つ心にあるのは、安堵。


 ああ。これで、ようやく——


 


「ちょ~っと、待ってくれるかしら?」


 不意に声が響いた。

 だが時既に遅し。の、はずだが——身体に痛みがない。思わずミスハが目を開く。


 前方に、奇妙な扉のような空間が浮いていた。

 ミスハを狙った風の刃はその扉に入ったまま途切れ、身体には到達していなかった。漏れ出したような風だけが頬を叩く。


 どうやら、助かってしまったらしい。


 そしてルベンの傍には、短剣を一つ手にした大男。脂汗をかいて大きく歪んでいたが、入れ墨のような痕のあるその顔に、ミスハは覚えがあった。


「紋章痕の刻まれた顔に短剣の神承器……アクイラ・フェドーラ・ヤヌス、盗賊伯か!」


 声を上げたミスハにアクイラが笑顔を見せる。

 その横で、ルベンが苦々しい顔をしていた。


「……何をしておられるのです伯爵。そこまでして自分でとどめを刺したいと?」

「違うわよお、ボウヤ。もうそんなこと言ってる場合じゃないの。アナタも……アタシもね」


 アクイラはまだ笑っていたが、全身に脂汗をかいて、片方の手首は力なくぶら下がっている。やせ我慢は明らかだった。

 ようやく異変に気づいたルベンが尋ねる。


「何があったのですか?」

「わからない? あれが出たのよ。狂い神が」


 ルベンの顔が一瞬でこわばった。もう一度アクイラの様子に目をやり、重く口を開く。


「……実力は本物だと?」

「ええ。まるで歯が立たないわ、冗談抜きにね。下手をすると——こっちの戦力じゃ誰も敵わないかもしれない」

「…………なるほど。だから待て、ですか」


 ルベンはちらりとミスハを見ながら言った。アクイラが頷く。


 合わせて、またも不意に現れた扉がアクイラを飲み込んだ。そしてそのままミスハの後ろに現れる。

 気配に振り向こうとしたミスハを羽交い締めにして、アクイラはまだ動く側の手で神承器ヤヌスの刃を頬に突きつける。一瞬の早業。


「そういうわけだから、アナタには人質になってもらうわよ。お姫様」

「な……っ⁉」


 誰の話をしているのかは、薄々感づいていた。アクイラも神承器を持つ者だ。手首を砕かれるような相手など、帝国広しと言えど、そういるものではない。

 間違いない。アクイラとクロはすでに戦ったのだ。恐らくは互いに、相手を殺すつもりで。


「——ッ⁉ やめろ! あやつは私とは関係ない! 貴様ら、無関係の人間を殺めるつもりか⁉」

「あやつ、ですか。無関係にしてはずいぶんと親しい間柄のようだ」


 ルベンが皮肉ぶって言う。


「言葉尻をどう捉えようと事実は変わらん!」

「だとしてもね。関係ないってことはもうありえないでしょう。私たちと——いや、私たちの帝国と、無関係なわけはないんですよ彼は。帝国が爵位を授けたれっきとした侯爵を一人、殺しているわけですからね。疑うべくもない一線級の危険分子だ」

「それは……!」


 ルベンのほうが言い分の筋は通っている。そんなことはミスハにもわかっている。だが、どうしても承服できない。するわけにはいかないのだ。


 この誰も望まぬ行軍に、また一人生贄が増えてしまう。しかも彼の強さが強大であればあるほど、また生贄は数を増やし、しかし積み重ねた屍の上にはいつか必ず、彼のそれが載せられる日も来るのだろう。


 これまでの旅でも、大勢が死んだ。

 貧乏クジの命令を受け、渋々ながらに護衛を任された近衛騎士たち。金と契約に縛られた傭兵たち。アクイラに従い戦う彼らの私兵に、侯爵も一人。

 好ましい者も悪意に満ちた者もいたが、誰一人として価値ある死を遂げてはいない。彼らは皆、ただ無意味に来るべき時を引き延ばしただけだ。自分に真実を受け入れる覚悟があったなら、死ぬ必要などなかった者たちだ。


 真に死ぬべきだったのは誰なのか、本当はとっくに気付いていた。


『お前の背中にあるのは、死を運ぶ呪われた翼なんだよ』


 誰に言われたのか、思い出せない。思い出したくない、幼い頃の記憶。表情を変えるものかと固くしていた頬に、一筋の涙がこぼれた。


「なんで泣いてんだ?」


 声と共に、ミスハの頬を伝う涙が、そっと指でぬぐわれた。

 空中で逆向きに立つ男の指だった。


「は?」

「な……ッ⁉」

「え⁉」


 その場にいた三人が三者三様の言葉を発した時には、アクイラのこめかみに蹴りが到達していた。

 もちろんアクイラに捕らえられたままのミスハも、一緒に吹き飛ばされる。


「あれっ⁉ ……うん、ちょっとだけ間違ったな」


 蹴り飛ばされた先。運良くアクイラの身体がクッションになったミスハは、緩んだ拘束から抜け出して、いち早く立ち上がった。


 視線の先には、空中に逆さのままになっているクロの姿があった。

 両手が真っ黒に染まり、髪の毛だけを地面に向けてぶら下げている。そのまま空中を当たり前のように、てくてくと逆向きに歩いてくる。


 その姿を見ながら、ミスハはただ泣き笑いの表情を浮かべていた。


「……何をしておるのだ、おぬしは」

「いや、さっきから空を走ってたら、うまく戻らなくなってさ。俺、どうやって地面を歩いてたんだっけ?」


 語りかけるクロの後ろで、ルベンがゼピュロスの輝きを高めているのが見えた。


「危ない!」


 そう叫んだ時にはもう遅かった。風の刃を重ねたゼピュロスがクロの背を引き裂き、身体が弾けるように吹っ飛んだ。


 遠く地面に墜ちたクロへと駆け寄る。うつ伏せになったその背中から、血の代わりに黒い煙が、狂った羽のように大量に噴き出していた。単なる黒ではない、漆黒。光を飲み込む闇の色。

 クロはミスハを制してすぐに立ち上がり、笑った。


「ようやく地面に戻れた」


 その目はまっすぐに、ルベンの姿だけを見ていた。今さっきミスハを見ていた時のそれとはまるで違う。ギラついている、爛々と輝いている、狂気を宿した瞳。


 不意に全身を、凍り付くような怖気が走った。


「なあ、ミスハ」


 クロに話しかけられて思わずびくっと身をすくめる。

 しかしすぐ、ミスハは自らを恥じた。こんなものは、危険を承知で助けに来てくれた相手にする態度ではない。私は何をやっているんだ。


「——あ、ああ。どうした?」


 焦って返事を返すが、その声もわずかに震えてしまっていた。思わず手で口を隠すようにして、唇を噛みしめる。

 そんなミスハの様子を不思議がるクロの表情は、街中や食堂で話していた時と変わらないものに戻っている。その顔が余計に罪悪感と——何よりも恐怖を膨らませる。


 一体どちらが、クロの本当の顔なのか。


「……? まあいいや。とにかく、もうすぐお前の仲間が来るはずだからさ。とっととそいつらと合流して逃げろよ」

「仲間——まさか! 生き残った者がおったのか⁉」


 クロは首を傾げながらも、本人はそう言っていたとだけ返した。


「じゃあ、確かに伝えたからな」

「え……ちょ、ちょっと待て! だったらおぬしも——」


 言い終わるより前。


「——っとお!」


 クロの放った蹴りが、ミスハの肩を押し飛ばした。


 直後、二人の間を鋭い風が駆け抜ける。


 蹴り出していたクロの右足が、唸りを上げた風と共に飛んでいった。

 鎌鼬の類。クロの足が切断されたのだ。黒煙が傷口から大量に噴き出し、風に巻かれてそこら中に散っていく。


「おおうッ⁉」


 クロは短くなった足を地面に踏み込むように、斜めに身体を支えて身体を震わせる。


「クロ⁉ あ、足が——ッ!」

「だあァ、クソッ! 痛ッ…………てェェぞこれ」


 額から汗が噴き出し、表情が歪む。だがすぐに顔を上げると、クロはまたミスハに飛びかかった。暴風がその背後を走り抜ける。

 二人抱き合って地面を転がったあと、クロはすぐにミスハを投げ捨てながら立ち上がった。


「っつーか、おまえ邪魔なんだよ! 早く逃げろって言ってんだろ!」

「え……あ、ごめんなさ……」

「ああもう! そっちもしつっけえな!」


 続いて襲ってきた風を、向き直りながら放った黒い衝撃波が弾き飛ばした。

 衝撃波はそのまま風を放ったルベンまで突き進むと、とっさに張られた風の防護に減衰しながらも、ルベンの衣服や皮膚に無数の傷をつけた。


 ルベンからは目を離すことなく、クロは首だけをふらふら揺らす。


「あー……痛かった。もう殺す。すぐ殺す。さっさと殺さないと面倒くせえ」


 言いながらルベンへと歩を進める。気付けばその右足は溶け固まったような黒い何かが禍々しい形をなして、確かに地面を踏みしめていた。背中の傷も癒えている。


「おぬしは……一体……」


 ミスハの呟いた声は、誰の耳にも届かなかった。


 クロが弾け飛ぶように、禍々しい右足で踏み込む。


 一瞬にしてルベンの真横に。そのまま身体を捻り、殴り上げるような拳を叩き込むと、ルベンは大きく吹き飛ぶ。

 しかしクロはすぐに不可解そうな顔をして、飛んでいった相手を見上げた。


「あれ、今当たったか⁉」


 ルベンは空中ですぐに態勢を立て直して、ゼピュロスを構える。


「やはり威力を殺すことはできるらしい!」


 浮いたままゼピュロスを横一文字に薙ぐと、風の刃が放たれる。クロはそれを跳躍で避け、空中へ。

 そこにも狙いすましたように鎌鼬が並んでいた。とっさに身体をひねる。躱し——きれない!

 左腕が飛んだ。


「うおぉっ⁉ ——待て待て待て俺の腕!」


 その左腕をとっさに残った右手で掴み、追撃の風刃は空を駆けながら避けていく。

 空中を走りつつも断面を合わせたままにしていると、合間から溢れていた黒煙がものの数秒で収まった。軽く腕を回して、親から人中薬小まで、指の動きも確認する。


「繋がった」

「疾ッ!」


 ゼピュロスが振るわれたのを合図に、全方位からの風がクロを襲う。が、クロは「かあッ!」声を上げて全身から黒い衝撃波を放ち、その全てを弾き飛ばす。


 そこにルベンが、隼のような突撃とともに袈裟で斬りかかった。

 遙か空の上、クロはルベンの刃を両手で受け止め、空中でそのまま文字通りに踏みとどまる。片手を持ち替えて刀身を掴むと、地面に叩きつけるようにしてルベンを投げ落とす。


 しかし急激な暴風が吹き荒れ、風と空気圧のクッションがルベンの身体を空中で留めた。


「面倒くせえな!」


 投げた態勢で空中に静止していたクロは、続けて拳を中空に、しかし方向だけはルベンに合わせて殴りつける。黒い波動が空気圧の塊ごとルベンを一気に押し切った。

 一つ、また一つ。拳を打ち付けるたびに黒の波動が広がり、地面が砕けてクレーター状に凹んでいく。


「地面に付いてりゃ威力も逃がせないだろ!」


 続けて空中を蹴り、突撃。

 今度は直接当たるまで接近して拳を放つ——


 その拳が突如生まれた扉に飲み込まれた。同時に、クロの後頭部をクロの拳が殴りつける。


 アクイラの能力。すでに目を覚まして時を伺っていたのだ。

 クロは一瞬白目を剥いた。しかし持ちこたえ、吼える。


「…………ああああああァッ! うぜえんだよテメエらァ!」


 天に向けた咆哮とともに、漆黒の光柱が天を貫いた。黒雷が周辺の地面や岩、あらゆるものを砕いて踊った。

 黒い光と雷が輝いた空間はひび割れた痕が消えずに残り、痕からは黒煙が次々と噴き出して周辺に漂い始める。


 一方、ルベンは別に開いた扉に逃げ込んでいた。扉を抜けた先にはアクイラ。

 そしてその前にはミスハがいた。

 だが。

 ミスハは、アクイラにもルベンにも、いっさい意識を向けてはいなかった。視線を全く逸らすことなく、取り憑かれたようにクロの異様だけを見つめていた。

 茫然とした顔のまま、ただ、見つめていた。


 ミスハはクロと初めて出逢った時、彼がバルテザを圧倒する光景を直接目にしたわけではない。呼吸ができず朦朧とした意識の中で、誰かが助けに来てくれていることがわかっただけだ。


 だからクロがどんな様子で、どんな気分でバルテザを殺したのかは知らなかった。


 だからどこかで、彼のことを弱者を護る英雄のようにも感じていた。

 見も知らぬ自分を救ってくれた、心優しい救世主なのだと。


 しかし、あれは、あれではまるで——


「……化物ですね」

 アクイラとルベンはクロの動きから目を逸らさずに話す。

「でしょ? 誰の仇とか敵味方とか関係なく、純粋に危険よ、アレは」


 クロの方は、もう一段意識を取り戻そうと、まばたきを繰り返しながら空中で大きく何度も頭を振っていた。その間もざっと辺りを見渡しては、ルベンたちを探している。その目は眼光だけで人を殺さんばかりの憤怒を宿していた。


「どうします? もう一度、予定通りに人質でも取りますか。さっきは庇いましたが」


 ルベンは荒い呼吸をしながらミスハに剣を向ける。

 アクイラは思索するように口に拳を当てながら、怒りと狂気の色に燃えるクロの瞳を睨む。


「…………やめておきましょ。今は最低限の仕事だけこなして、逃げるわよ」


 アクイラの結論に、しかしルベンは目を見開いた。


「何故です」

「人質を取ったからってあれを殺せるとは限らないもの。ここで危険を冒すべきじゃないわ」

「しかし、いずれやり合うことになります。問題の先送りですよ。むしろ皇姫を殺してしまえば、抑える手段が減るだけ状況は悪くなる。全て諦めて退くか、全てを達するか、私たちが選べるのは二つに一つしかないはずです」

「馬鹿ねえ。別に今すぐこの子を殺すなんて言ってないでしょ」


 そこでルベンも気付いたようだった。


「殺せとは言われてるけれど、要するにこの子を継承の儀に出さなければいいんでしょう? ウチの砦の地下牢にでも幽閉しておくわ」

「水大公には引き渡さないのですか」

「使える手札は、手元に置いておくに越したことないじゃない。もちろんアナタも内緒にしてくれるわよね?」


「…………。ええ、もちろん」

「決まりね。それじゃあ…………ちょっと、何よこれ」


 いつの間にか、周辺一帯を深い霧が覆い始めていた。落ち始める日の暗がりに隠れて、気付かれないようにゆっくりと広がっていたらしい。


「不自然ね……あの男がやったという雰囲気ではないけど」

「一応、吹き飛ばしておきますか」

「ちょっと! 不用意なことは——」


 アクイラが制するより先に、ルベンがゼピュロスを横薙ぎに振った。風に追われた霧がドーナツ状に晴れていく。


 アクイラの予感は当たっていた。

 その瞬間を待っていたとでもいうように、猛烈な風が二人に向かって、天高く直上から降り注ぐ。それも、ただの風ではない。目の前すらみえなくなるほどに白い風。


「何だこれは——吹雪⁉ だけじゃないぞ! 霧と細かい氷刃も混じって——」

「くッ——!」


 視界を奪われるより先に、アクイラの扉がミスハの頭上に生み出された。


「そうはさせないッ!」


 決意の叫びと共に、一人の騎士がめくれ上がる霧の中から飛び出してきた。

 勢いを止めず吹雪の中に突入し、手にした剣は一閃の弧を描く。吹き付ける吹雪の轟音に混じって甲高い金属音が響き、ミスハの頭上の扉が割れるように弾けた。


 それから少しして、一本の短剣が地面に突き刺さった。


「な——んですって⁉」


 アクイラは凄まじい吹雪でほとんどシルエットしかわからない相手を、信じられないという表情で見ていた。


「見たか! わたしだって、やればできるのよ!」


 金髪の騎士、フレデリカが誇らしげに声を上げた。


「さっきの素人騎士——この霧と吹雪で見えなかったとはいえ、完全に隙を突かれたわけね……でも」


 アクイラは懐に手を入れると、また短剣を取り出した。もちろん神承器ヤヌス、その片割れだ。


「こういう時つくづく、アタシの神承器って得だと思うのよね」


 アクイラの手にある、もう一つのヤヌスの剣身が輝き出す。


「あ、あれ、やば……?」

「いかん!」


 叫びながらフレデリカに飛びかかったミスハの背を、扉から伸びるヤヌスの刃が裂いた。

 痛みに小さな声が上がり、二人揃って倒れ込む。


「ミ、ミスハ様⁉ ご無事ですか⁉」

「くッ……だ、大丈夫だ。さあ立て、走るぞ……」


「そうはさせないわよ」

 二人の前にアクイラが立ち塞がる。


「俺もな」

 その背後には、クロ。待ち構えていたように、その両手の平がアクイラのこめかみを左右から挟み込んでいた。


 黒い波動が——その中心で弾けた。

 頭を揺らされたアクイラの巨体が、膝から崩れ落ちるように倒れた。


「クロ!」

「さあて、あと一人——」


 ミスハの呼びかけを聞いているのかいないのか、クロはゆらりと視線をよそへやる。

 その首に突然、扉が襟巻きのように生まれた。更に扉は上下に二つ分かれ、首を両断したように離れていく。


「——おわっとと、油断したッと!」


 とっさに遠ざかる扉を掴み、引き戻して首を繋ぎ合わせる。

 さらに、そのまま思い切り力を込めて扉を引きちぎる。割れるような音を立てて、歪んだ空間がバラバラの硝子片のようにあたりに散らばった。


「まぁだ生きてたのかよ。無駄にしぶといな、お前」


 倒れたままの巨体に話しかける。するとアクイラは寝返りをうって、クロを見た。目からは涙の代わりにどす黒い血が溢れ出していた。


「…………ふふ、それがアタシの一番の取り柄……なのよ。でも今は……逃げの一手……」


 またヤヌスが輝くと、ヒビだらけの扉がアクイラを飲み込んでいく。


「はあ? 二度も逃すわけ——ああクソッ!」


 悪態と共に翻って放たれた波動は、アクイラの扉——ではなく、ミスハとフレデリカの頭上高くで弾けた。

 アクイラはそれと同時に姿を消した。


 とっさにミスハが見上げた先にはルベン。光り輝くゼピュロスを構えていた。


「ちいッ、仕留め損ねたかッ——!」


 空中で素早く反転、こちらに背を向けると轟音とともに風を操って飛び去る。


「二人も逃がしてたまるかよ!」


 ルベンを追って、クロも空中を凄まじい速度で駆けていく。その身体は黒煙を纏い、中空を踏みつけるたびにその足元にも弾けるような黒い痕を残していた。


 吹雪を巻き込んだ白い筋と、弾ける黒煙の軌跡が、茜色に染まり始めた空に無軌道な線を二本描いていく。二つの線は時折ぶつかり、その度に白線だけが勢いを失っていく。どちらが優勢かは遠目に見ていてもわかった。


 


「——ミスハ様、ご無事で良かったです」


 振り向いた顔を見て、ミスハは一瞬だけ記憶を手繰った。


「おぬしはたしか……フレデリカだったな。そちらも無事で何よりだ。あの人数の襲撃から、よくぞ生き延びてくれた」

「ただの幸運です。わたしは戦列を抜け出した敵の追撃を任されて……それより! 近衛騎士長——ラドミア殿が裏切ったというのは本当なのですか?」


 ミスハはフレデリカの目を見ながら頷いた。


「ああ、何という! 本当によくご無事で!」


 フレデリカが天を仰いだ。

 ミスハ自身、よくも生き延びたものだと思っていた。近衛騎士長の裏切りに、神承器使いの襲撃。クロとの出会いという偶然がなければ、とうに殺されていたはずだ。まるで奇跡としか思えないような綱渡りの連続だった。


 無事と再会を喜ぶ二人の元に、いくつか軽快な蹄の音が聞こえてきた。

 馬が三頭、こちらに近づいてくるようだ。真ん中の一頭には、残り二頭に繋いだ綱を器用に引きながら、奇妙な紋様の服を着た少女が跨っていた。


 少女のピアスが青く輝きその手から淡い粒子が舞うと、周辺の吹雪が不意におさまる。後には季節外れに凍りついた草木だけが残った。


「やはりこの魔法はイェルのものであったか。良かった、おぬしも生き伸びておったのだな」


 イェルはこっくりと頷きながら、手綱を引いて馬の足を止めた。


 アクイラの私兵による襲撃を受けた際、足止めと逃走に別れた二隊。イェルはそこで傭兵たちから唯一、逃走部隊に選ばれた腕利きだ。

 近衛騎士長であるラドミアの裏切りに際しても、彼女一人でラドミアとその部下数名を相手に一歩も引かず、ミスハを見事に逃し切ってみせた。

 この吹雪の魔法を見ても、優れた紋章器使いであることに疑う余地はない。彼女も間違いなく、今ミスハが無事でいられる功労者だ。


「そやつはひょっとして、レイチェルではないか?」


 無表情のまま、イェルはミスハの馬であるレイチェルを引いていた綱をひょいと投げて寄越す。それから二人を順繰りに見て、「フレデリカ。姫様が怪我してる」ミスハの背中を指さした。


「あ! す、すいません。喜びに我を忘れて……」


 フレデリカは剣を抜き放ち真横にして構えると、目を閉じてなにごとか呟き始める。

 瞬く光の球がミスハの頭上に現れると、幾重にも広がったオーロラのような輝きがミスハの全身へと注いでいく。柔らかな暖かさを感じるうちに、背中に感じていた痛みが消え去った。


「これは……大したものではないか」


 四大属性全てを必要とする光魔法。それも癒やしの力となれば、扱える人間はかなり少ない。さらにここまで実用的なものとなると、宮廷魔法師のレベルになる。一介の近衛騎士程度が使いこなすような代物ではないはずだが。


「ヘリオスの紋章は伊達じゃないってこと」

「……う。そ、そういうのやめてよ」


 フレデリカが苦虫を噛み潰したような顔をしているのを見て、イェルは舌を出して、「失礼」とだけ返した。

 何かしら事情があるらしい。それだけわかるとミスハは何も言わず、レイチェルの背に乗った。


 その時、三人の耳に地面を揺らす轟音が響いてきた。


 地面へと続く、細く引き伸ばされた白煙。それを追うように黒煙の飛び石が地上へと続いている。

 一つの戦いが終わろうとしていた。

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