神承器の使い手

 

 

 防戦一方、という言葉ではまるで足りない。双短剣の驚異的な手数に圧され、手首が、膝が、太腿が、脇腹が、肩が、身体中が次々に切り刻まれていく。致命傷にはならないが、こちらが躱しているのではない。意図的に避けられている。嬲られているのだ。


「くぅッ……嫌らしい戦い方を!」


 人払いの済んだ路地裏。金髪緑眼の女騎士フレデリカは、白く輝く剣で猛攻を耐えながら毒づいた。


 絹のように白い手足は血の色に染まり、端正に形作られた顔にも無数の斬り傷が付けられている。もちろん先ほどの兵士たちに付けられたわけではない。目の前の男との戦いによるものだ。


 彼女に相対するその男は、盗賊伯アクイラ・フェドーラ・ヤヌス。

 筋骨隆々の肉体を備えた大男で、その巨躯には不釣り合いにも思える双短剣の神承器を両手で自在に操っている。顔には刺青のような紋章痕が、右の額から頬と鼻、顎にまで広がって、唇には濃い紅が塗りたくってある。


 アクイラは盗賊伯の異名が示す通り、かつて自らの名を冠する盗賊団の首魁として名を知られた人物だ。ゼグニア帝国に恭順し伯爵の位を得た今も、その実力は衰えを知らないと騎士仲間から伝え聞いていた。


 間違いない。事実だ。


 フレデリカも伊達にこれまで剣を振り続けてきたわけではない。騎士叙勲を受けて間もないとはいえ、手にする紋章器の剣も自分の手足のごとく使いこなしている。

 先程もあの妙な男のささやかな手助けがあったとはいえ、数人の兵士たちを一人で返り討ちにしてみせた。腕には多少の自信も付いてきたつもりだった。

 しかし、そんな小さな自尊心は容易く打ち砕かれてしまった。


 神承器が使い手の身体能力を、紋章器とも比較にならないほど飛躍的に引き上げることは分かっていた。扱う者は神と化し、神ならざる者の力を受け付けないということも。

 だからこそ、目の前の相手が盗賊伯その人であると知った時には、フレデリカはすでに死を覚悟していた。


 だが現実は、その覚悟をも上回った。


 アクイラは間違いなく今、神承器を起動していない。もちろん隠れて紋章器を使っているわけでもないだろう。純然たる人間としてのみの実力で、紋章器を振るうフレデリカと対峙している。その結果がこれだ。

 虫の手足をちぎって遊ぶような、嗜虐的な快感。あるいは弱者の領域にわざわざ降り立って、見下しながら戯れるような下卑た遊び心。その標的にされている。


「ッ…………バカにしてッ!」


 己の無力に歯噛みしながらも、フレデリカは現状こそが最良と感情を飲み込んでいた。

 アクイラが自分を嬲る時間が長くなるほど、護るべきミスハは遠くへと逃げられる。どうせ敵わない相手ならば、わずかでも時間を稼ぐのが自分の役割なのだ。ここで弄ばれ果てたとしても、それこそが望むところ。せいぜい楽しませてやる。

 フレデリカは悲壮な決意を支えに、血を失い感覚もなくなってきた手足を動かし、剣を振るっていた。


「——アクイラ伯爵、何を手間取っておられる」


 そんな折に突如降り注いだ、頭上からの声。フレデリカは大きく飛び退いた。

 アクイラが鼻唄を鳴らしながら、空を見上げる。


「あらぁ、ルベンちゃんじゃなあい? おっと、もうゼピュロス卿って呼んだほうが良かったかしら」


 ルベンと呼ばれた長身の男が、上空に浮かんでいた。

 手に持った豪奢な剣が輝いている。紋章器——いや、アクイラの言い草からして、神承器に違いない。ゼピュロスの名にも少しばかり聞き覚えがあった。風を操る神承器だ。

 ルベンは空からゆっくりと飛来して地面に降り立つと、鋭い目でアクイラを睨んだ。


「……兄の死は、まだ公にされておりませんので」

「あらやだ、そうなの。でも時間の問題よね。良かったじゃない、これでアナタのお家も安泰ってワケで」

「それは貴方が気に懸けるところではありませんよ」

「なあによ、つれないわねえ。アナタのお兄さんがおっ死んじまいましたって報告と、回収した神承器、セットでアナタに送ってあげたのはアタシなのよ? ホントならお礼の一つでも貰っておきたいくらいなんだから。……ま、とっくに知ってたとは思うけどね」


 ルベンは何も言わず、わずかに口角を上げた。


「そんなことより、貴方には早くこの仕事を終わらせていただきたいのですよ。今はこんな輩を相手に遊んでいる時間などありません」


 アクイラの含みのある笑みが一層深くなり、顔に刻まれた紋章痕が邪悪に歪んだ。


「ルベンちゃん? まさかこのアタシに、指図でもしようっていうのかしら。アタシの愉しみを奪おうって?」

「まさか。ただ、兵から獲物を見つけたと報告があったもので」


 その言葉と同時にアクイラの顔がパッと明るくなった。引き換えにフレデリカの背中を冷たいものが走る。


「皇姫ミスハです。この街に潜んでいたようですが、今は外に。護衛たちとの合流をするつもりだったのでしょうが、少々無謀に過ぎましたね。すでに近衛騎士長のラドミアらにも裏切られたというのに、まだ危険を冒してまで合流しようというのは、少々知性が足りていない」


 フレデリカにとってそれらの情報は全て、予想外のものだった。もちろん、悪い方にだ。


 ミスハと別れたのはオーベルグの街道だった。

 盗賊に偽装した——今にして思えば、アクイラの盗賊時代からの手下だったのかもしれないが——兵士たちの襲撃は執拗で、繰り返し撃退しても勢いは増すばかり。反対に、フレデリカたち近衛騎士と金で雇った傭兵で構成される護衛部隊は、確実に数を減らしていた。

 そこに待ってましたとばかり繰り出された、正規兵らしき紋章器使いの集団。護衛部隊は決断を余儀なくされた。


 護衛の大半を足止めとしてその場に残し、ミスハと実力者数人だけを逃すことにしたのだ。

 まだ叙勲を受けて間もないフレデリカも、殿しんがりの側に入った。そしてミスハと共に逃がしたのは、傭兵たちからは腕利きを一人、残りは近衛騎士長ラドミアと、その側近ばかりだった。


 そのラドミアが——裏切った?


「でもお姫サマには、アナタのお兄さんを殺した奴が付いているでしょう?」

「いえ、それが今は一人のようで」

「あらそうなの? どうしてかしら……」


 アクイラは紅の入った唇を無骨な小指で弄びながら、少し思案するような態度を見せる。


「まあいいわ。アナタ先に行っててちょうだい。アタシこの子を片付けなくちゃいけないから」

「……先に仕留めても?」

「その前に追いつくわよ。アナタの風がどれだけ早かろうと、アタシにはこの扉があるもの」


 アクイラは手にした短剣、神承器ヤヌスを見せつけて笑った。


「そうですか。では」


 ルベンは一礼するとふわり浮き上がり、竜巻のような突風と共に空を飛んでいった。

 突風の飲み込んだ空気が逆流して、再び風が吹き荒び、砂煙があたり一面に舞う。巻き上げられて顔にかかった砂を、アクイラが唾と共に地面へ吐いた。


「ぺっ、ぺっ! ああもう、美しくない神承器ねえ!」


 口元をぬぐいながら、フレデリカへと向き直る。先程まではまるで気に留めていないような振る舞いをしていたが、もちろん見逃してくれるはずもない。


「焦ってるの、顔に出てるわよ」


 言われて思わず、フレデリカは奥歯を噛みしめるようにして表情を隠した。

 そして改めて構え直すと、剣の切っ先を向けて高らかに問う。


「アクイラ伯爵、なぜ皇姫たるミスハ様を狙うのですか! あなたも帝国に名を連ねる一人となった今、皇帝陛下唯一のご息女の命を奪うことの意味、分からないはずはない!」


 精一杯に気を張ったフレデリカの言葉に、アクイラはただ不敵に笑った。


「そんなの分かってるわよお、トーゼン」

「ではなぜ——」

「もう! しらばっくれちゃってえ~。あの子を皇姫だなんて本気で言ってるヒト、近衛騎士の中にだって一人もいなかったでしょ?」

「————ッ!」


 アクイラは笑みを浮かべたまま神承器ヤヌスを両手の平で回し、片方だけをフレデリカに向けてピタリと止めた。


 いよいよ遊びは終わり、ということだ。


「さ、問答はここまでよ。アタシは部下たちの仇を討たないといけないの」

「それは……貴方が仕向けた犠牲じゃない!」

「モッチロン♪」


 軽い言葉に、フレデリカの身体がこわばった。恐怖によるものか、あるいは義憤によるものか、フレデリカ自身にもわからなかった。


「貴方には……負けない」

「フフ、いい目ねえ。本当に素敵だわあ。——でもね」


 静かに、双短剣が光を放つ。

 アクイラが動き出す。フレデリカも応じて剣を——


 ————と。


 鮮血が宙を舞った。

 フレデリカの背中が、鎧の隙間を縫うように横一閃に切り裂かれていた。


「なッ——⁉」


 思わず振り向いた先には、何もないはずの中空に浮いた長方形のフレーム。その内側から、手首から先だけの腕と、神承器ヤヌスが伸びていた。そしてアクイラの手元には、腕が差し込まれたもう一つのフレーム。

 瞬時に理解した。自在に空間を繋ぎ合わせる扉。これが神承器ヤヌスの力——!


 思考がそこに辿り着いた段になって、ようやく背中から噴き出した血は地面に到達し、フレデリカも膝をついた。


「くぅッ……油断を……!」

「あら、油断しなかったらどうにかなったとでも?」


 アクイラの動きに、一切の躊躇はなかった。胸元、足首、肩の隙間——フレームが次々と現れては、フレデリカの身体が切り刻まれる。


 目で追うこともかなわない振りの鋭さに、神出鬼没の扉。

 受け止めるどころか、反応することすらままならない。ただ痛みに呻く声があたりに響いていく。


「…………あ、ぐ……」


 ついに倒れ込みそうになった身体を、フレデリカは紋章器の剣を地面に刺してどうにかこらえた。剣はまだ淡く輝いていた。


「アタシの扉の力、こんなもの初歩の初歩よ。他にもアナタを殺す方法なんていくらでもあるけどね。アタシはこれが好きだからやってるの。ナイフが肉を裂く感触、たまんないのよねぇ」


 ようやくアクイラが腕とヤヌスを手元に戻すと、フレームは溶けるようにして空間に消える。

 ヤヌスの刀身についたフレデリカの鮮血を、ペロリと舐めた。


「さ、次はどうしようかしら。首とか、足とか。指もいいわよね……」


 大人しくやられるわけにはいかない。痛みに耐えながらフレデリカは紋章器にマナを込めて立ち上がり、構え直した。

 しかしそんな様子を気にも留めず、アクイラは愉しげに宣言する。


「決めたわ! 眼にしましょう! アナタの素敵な緑の瞳、二つともグサッと潰してあげる」


 神承器ヤヌスが光を放つ。アクイラとフレデリカ、それぞれの目の前に、扉が浮き上がるようにして生まれた。

 眼前に現れた扉にフレデリカは思わず後ろに飛び退く。が、扉は素早くその動きに追従する。横に躱しても同じ。後ろも。前も。


「このッ……!」


 剣で切り裂こうとするが、扉には何の傷もなくただ通り抜けるだけだった。


「無駄よ、ムーダ。お馬鹿ねえホント。じゃあそろそろ行くわよ~」


 アクイラはヤヌスをすっと後ろに引いて、突き刺す構えをする。

 その構えに呼応するように、フレデリカ側のフレームが近付いてきた。まばたきすれば睫毛が触れそうなほどの距離。

 愉悦混じりの声が聞こえてくる。


「いーち」


 こうなれば——と、もう一度、剣を構える。


「にィの……」


 意識を集中させて——


「……さぁ~——」


 言い終わる、直前。


 フレデリカは紋章器を全開に起動した。

 瞬息の踏み込みと共に、アクイラに斬りかかる。


 これこそ待ち望んでいた僅かな好機。唯一アクイラの太刀筋が読める、攻撃の瞬間。


 神承器を使う者を傷つけることは、不可能だ。しかし神承器そのものに対しては、触れることも止めることもできる。すなわち、上手くすれば敵の手から、弾き飛ばすことも可能だということだ。

 神承器から切り離したところで、力や神性がすぐさま失われるわけではない。だが武器を失い、さらなる扉を開けなくなれば、状況は大きく変わるはず。


 フレデリカの剣は踊るように宙を舞った。

 そして正確に、流麗に、アクイラが手にしたヤヌスを弾く——


 ——はずだった。


 フレデリカはアクイラを遠く追い越した先で、ただ空を斬っていた。


 何が、起きた……?

 なんて、わかりきっている。扉だ。身体が丸ごと通り抜ける扉を通過させて、アクイラは微動だにしないままでフレデリカの剣を躱してみせたのだ。


 今は二人、背を向けたまま。

 アクイラは笑い、フレデリカは顔色を失っていた。

 フレデリカの眼前には、アクイラの目の前と繋がる扉が、変わらず佇んでいる。


「……~ん!」


 目の前にあるフレームから、まず点が現れる。それは引き伸ばされるようにして線になり、やがてわずかに膨らみ、薄い刃の先端であることを認識できるまでになる。目を閉じる、ということを思いつく暇すらない。

 フレデリカはただその様子を見つめ、そして、眼球に到達した切っ先が、ぷつり、音を立てる。


 瞬間。


「うおらッしゃあァァッ――!」


 ヤヌスの刃が目の前のフレームへと吸い込まれるように消えた。

 同時に、アクイラの身体がフレデリカの横を吹き飛んでいった。


「ああああァ、クソッ! 散々迷ったじゃねえかよチクショウが! お前なあ。なあ、お前なあ。その変な武器、使うなら使う、使わないなら使わない、はっきりしてくれよ、なあ? どこにいるか全ッ然分かんなかったんだぞ、おかげで!」


 望まず追い越していた相手が、なぜかまたその先へと飛んでいく。立て続けの出来事に、フレデリカの思考はまるで追いつかない。

 しかし、すぐそこでわなわなと震えながら、意味のわからないことを言い散らかしている男。この男には見覚えがあった。


 男は不意にフレデリカへ振り向くと、怒りの表情を崩して間の抜けた口を開いた。


「あ。さっきの重尻女」

「…………えっ⁉ あ……ちょ、ちょっとその言い方やめてよ!」


 やはりそうだ。

 アクイラの兵に見つかり、窓から落ちた先にいた男。

 フレデリカと同様に兵士たちに追われているらしかったが、特に強いわけでもなく、フレデリカに全て押しつけて逃げ出した男。

 その男が今——何をした?


 混乱するフレデリカをよそに、遠くから瓦礫が崩れる音がした。飛ばされた先で、アクイラがその巨体を持ち上げていた。


「……まさか、自分から現れるとは思わなかったわ。神子殺しの狂神」


 瓦礫を叩きつけるように払いのけ、顔に刻まれた紋章痕を伝って流れる血を拭いながら、アクイラが歩いてくる。


「あ? それ俺のこと? ちょうどいいや、俺のこと知ってんなら教えてくれよ。俺がお前を殺したあとでいいからさぁ」


 男は肩を軽く回し、息を吐き出した。いや、それは息というよりも煙。光すら呑み込むほどに真っ黒の黒煙だ。


 アクイラもまた、口から血反吐を吐き捨てる。


「アンタの担当はアタシじゃないのよ。本来はね。けど、これはちょっと……あのボウヤには任せらんないわ————ねッ!」


 言葉の最後、アクイラは男の背後にいた。扉の力。そして、まるで全てが同時に放たれたかのような、双短剣の二刃から蹴りへの連撃。

 男の首が後ろからバツの字に切り裂かれ、身体は大きく宙に飛ぶ。


「痛ッ——てぇッ————えぼッ⁉ ————ッとォ!」


 男は地面に弾かれるたび声とともに態勢を整え、止まったところで直上を向く。そこにはすでにアクイラが飛びかかっていた。


 神承器ヤヌスの刃を男は素手で受け止める。だが更に連撃。目にもとまらぬ早業だが、男はその全てに、「おわわわわわわわ!」と間抜けな声を上げながらも対応していく。


「——っし!」


 攻防の中ヤヌスの刃を掴んだところで、かけ声とともに男がアクイラを叩きつけようとする。と、地面に扉が生まれる。それは男の頭上へと繋がり、勢いのままアクイラが男に踵を落とした。


 男の頭がぐわんと揺れる。

 だが脳天を打ち付けられてなお、男は素手で掴んだ刃を放さない。そのまま引き寄せて手首を掴むと、思い切り握り潰した。


 アクイラの割れるような叫び声が響いた。


 呼応するようにして、二人の真上に巨大な扉が開かれる。同時に、中から光の槍が男へと無数に襲いかかる。ようやく男は手を放すが、槍を躱そうとする気配はない。両手に力を込めて向き合うと、掌底のようにして黒い衝撃波を二つ、叩きつけて相殺した。

 その間にアクイラはまた扉を使って距離をとっていた。


「あー……小休止、小休止」


 男はふらふらと首を揺らしてから、ゆっくりと黒煙を吐き出した。首後ろにあったはずの傷は、すでに癒えていた。

 潰れた手首を押さえるアクイラは、額に脂汗を流しながら男を睨みつけていた。

 フレデリカは一連の戦いを、何も動けずただ見ているしかなかった。


「……本当に聞いたとおりの化け物なのね。こういうのは話が膨らんでるのが定番だってのに、まったくふざけてるわ」

「そりゃどうも。諦めたんならそのまま殺されてくれる?」


 アクイラは鼻を鳴らして応じた。


「それはイ・ヤ・よ。こんなしょうもない権力闘争で命まで盗られるなんて、バカのすることだもの。…………かと言って、諦めるつもりもないけどね」


 パチンと指を鳴らすと、アクイラの背後に人一人分の扉が生まれた。


「逃げるつもりなの⁉」

「あらお嬢ちゃん、惜しいわあ。逃げるついでに、ちょっと寄り道するのよ」


 アクイラの寄り道——フレデリカにはすぐ思い当たるものがあった。


「まさか⁉ アクイラ伯爵!」

「おいおい、逃がすと思ってんのか?」

「ついでに精一杯のことはしとくわよお~。生きてたら頑張って追ってらっしゃいな」


 男の真上にまた一つ扉が生まれ、地面までさっと降りていった。

 それを確認してから、アクイラが扉の中に消えた。

 全てが一瞬の出来事だった。


「…………」


「……………………え?」


 フレデリカの言葉に、静寂が答えた。

 戦いの傷跡が残る裏通りに一人、フレデリカだけが立っていた。


 一連の出来事は、ごく自然に、かつ同時に起きた。理解が追いつかない。何が起きた? なぜこの場に自分一人しかいない?

 フレデリカは自分の認識を反芻する。


 アクイラの扉は空間を繋げて移動できる。つまり今この場に見当たらないアクイラは、ここから逃走したのだ。逃げた場所は明白、ミスハのところだろう。男を斃すのを諦めてミスハに狙いを絞ったのだ。

 だったら、その男はどこに消えたのか。仕掛けたのはアクイラだ。まさか、仲良く連れて行ったわけがない。ならば——


「ちょっと……嘘でしょ……?」


 ひっくり返った盤面が、再び元の状況に返された。それも最悪の形で。


 男の立っていた場所にかけ寄って、両膝をつく。何もない地面を見下ろし、叩いて叫ぶ。

 繰り返された襲撃の記憶が甦ってくる。昨日まで食事も共にしていた仲間たちが、胸を貫かれ、首を裂かれ、血と腸を撒き散らしながら物言わぬ死体へと変わっていく。走れと叫ぶ声。走るほどに静かになっていく背後の音。——吐き気がする。


「ちょっと、冗談よしてよ! ……ねえ、あんたもミスハ様のところに行ったのよね⁉ やられちゃったわけじゃないわよね⁉」


 フレデリカの言葉に答えるのは、またしても静寂だけ。


「まさかこのまま、終わりなんてこと…………みんな……わたしは、わたしたちは……これじゃ何のために……」


 声を嗄らすうちに、目の焦点が曖昧になっていく。血が足りない。今になって、折れかけた心とともに、身体も力尽きようとしている。

 乾いた砂のように薄茶の地面の色が、鼠色の石ころや草の濃緑と交じり合っていく。目に映る全てが濁った野菜スープのような色へと溶けこんで、わずかだけ差した希望の光とともに消えていく。


 本当に、これで終わり……なの?


 そう思った時、抽象画のようになった景色の中に、いくつか小さな影が膨らんだ。

 妙な影だった。四つの粒のような、豆のような。いやもう少し大きい。影の正体を追って、フレデリカは憔悴した顔を持ち上げる。


 そこにあったのは、指だった。人差し指から小指までの、先っぽだけが宙に浮いている。

 指たちはしばらくもがくと、不意にぐっと何もない空間の何かを掴む。そう、それはまるで——扉のように。


 次の瞬間、落雷のような音を立てて空間が引き裂かれた。そして男が一人、毒々しい煙と共に飛び出してきた。


 フレデリカは思わず手を差し出す。


「おごッ!」


 地面に倒れ込みながら、フレデリカが抱きとめた間抜けな声の主は、もちろん、扉に飲み込まれたはずの男だった。

 首を大きく揺らしつつ、男はすぐにぴょんと立ち上がる。


「あーびっくりした。何だ今の、息できねえし。毒ガス、とか? ……って、おお? おいお前、大丈夫か? おーい」


 男は話すたびに黒煙を吐きながらフレデリカに手を差し伸べてくる。

 しかしフレデリカはその手を握らなかった。心と身体を奮い立たせ、紋章器の力を全開に、自力で立ち上がる。


 気力も、体力も、まだ消え去ってはいない。諦めるにはまだ早い。


「当たり前でしょ。バカにしないで」

「なんだ、大丈夫そうだな。——ってか、んなこたどうでもいいんだよ!」


 急に大声を上げて、男は右に左に何度も辺りを見渡し始める。


「ああああァッ! まさか、逃した⁉ 逃げられたのか⁉ いや嘘だ! 嘘だ認めねえ! そんなの認められるわけがねえ!」


 吼える口から溢れる黒煙が量を増していく。振り回す両手が、内側から染み出したように黒く染まっていき、次第に空間に黒い傷跡を残すようになる。


 何かが、この男から溢れ出している。


 フレデリカより少し遅れて、男も自分の腕の異変に気付いた。

 それから更に何度か腕を振り回すと、突然、中空を思い切り殴りつける。耳を割らんばかりの轟音とともに、空間に黒く巨大なヒビが広がった。


「こっちじゃねえ、クソッ! どこ行きやがった!」


 向きを変えて更に殴りつけると、また割れるような音とともにヒビが広がる。

 その空間のヒビからは、男の口から出ているのと同じ黒煙が、じわじわと染みだしていた。これは何か……何か、危険な予感がする。


「ちょ、ちょっと待って! それ以上は、待って! 待ってお願い!」

「あァ⁉」


 予想以上の剣幕に、フレデリカは一瞬怖気づく。しかし、そんなことで言い淀んでいる時間はない。


「ゼグニア帝国の……ううん、違う。わたしには、助けてほしい人がいるの。あなたに! あの男もそこへ逃げたはずだから、ここで暴れるより今は……」


 苛ついた顔で聞いていた男が、不意に後ろを振り返る。


「……あれか?」


 男の視線の先、街から少し離れた空に、巨大な竜巻が起きていた。

 ルベンと呼ばれた男が飛んでいった時の、猛烈な風を思い出す。あれこそ神承器ゼピュロスの力に違いないと、フレデリカは確信していた。


 居場所はわかった。この謎の男も生きている。再び希望が見えてきた。


「さっきの奴とは……ちょっと違うかな? けど、まあいいや。誰でもいいんだ、誰でも」


 フレデリカの横でそう呟くと、男は口元を歪めて笑っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る