奇妙な占い師
「ふぅ……これだけ逃げれば、とりあえず大丈夫だろ」
小一時間走り続けたクロは、井戸のある小さな広場に辿り着いたところで、ようやく足を止めた。
広場は先の路地裏から見て街の反対側に位置し、繋がる道は六方へ放射状に伸びている。ここなら追ってくる敵も見やすく、また逃げやすいはずだ。警戒さえ怠らなければ一休みできるだろう。
広場の周りには、木組みの骨格に補修を繰り返した壁をした家々が立ち並んでいた。中から下流の住宅街といった趣だ。
中には店看板もちらほら見える。こちらは行商の類とは違い、このアブリスに住む者たちに向けた店屋といったところか。
武装した集団に追われている現状、身を守る武器の一つでも欲しいところだ。しかしざっと見たところ期待に沿うような店は無さそうだった。
「追っ手が来ないところを見ると、あの金髪は全員うまいこと倒してくれたかな? どっちにしても、早めに街から出たいところだけど……」
「…………」
「……意外と、人目に付くようなところに行ったほうがいいかもな」
「…………」
「適当にこのあたりの建物に入れば、やり過ごせる気もするし……」
「…………」
独り言を続けるクロを、広場の隅からじっと見つめる瞳。
一瞬目が合う。素早く逸らして、しばらく間を置いてから、も一度ちらり。また目が合った。
実のところ、広場に入ってきた時点でその存在に気付いてはいた。何となく、暴力的な意味で無く狙われている気がして、意識的に無視を決め込んでいたのだが、いよいよそれも難しくなりつつあった。
何故かといえば——徐々に近づいてくるのだ。
座っている木製の小さな丸椅子に、紫の布をかけたこれまた小さなテーブルという屋外リラクゼーションセット。その一式まるごと、徐々に近づいてきているのだ。
「……どうしようか」
言ってる間にも、目の前までやってくる。
もう駄目だ、逃げられない。おしまいだあ。——いや待て、諦めるのはまだ早い。拒絶の意を示すのだ。意志を持って闘いを挑むのだ。上手く丸め込んで丁重にご遠慮願うのだ。そうだ、それしか道はない。
しょうもない言葉の束が頭の中を回り終えて、クロは覚悟を決めた。勢い込めて力強く振り返る。
「どうも」
目と鼻の先だった。
澄んだ蒼い瞳だけが視界に映る。相手は椅子から離れて、クロの眼前に立っていた。
「おおうッ⁉」
思わずクロが後ずさる。
「おっと。近すぎた」
今度は蒼い瞳がそう言って、ぴょこぴょこと距離を取っていく。
そこでようやく、クロは目の前にいるのが小柄な少女であることに気付いた。
ミスハほどの子供ではない。しかし女性の色香があるかというと疑問を差し挟む余地に溢れた、起伏の足りない体型。その小柄で平坦な全身を包むのは、いかにも怪しげな術でも使いそうな、奇妙な紋様が刺繍された魔導服。左の耳には瞳と同じ蒼色のピアスをしていた。
彼女の人形のように整った顔には、何の表情も張り付いていない。しかし見つめる瞳には、吸い込まれるような奇妙な魔力が宿っているようにも感じられた。
「改めて、どうも」
「……あ、ああ。これはご丁寧にどうも……」
「じゃあ早速こちらへ」
「え? ちょ——ええ?」
困惑するままのクロは、蒼い瞳の少女に腕を掴まれる。そして連行。転回。着席。同じく着席、からの対峙——したところで、眼前にどかんと水晶球が置かれた。
……何だこの水晶。表面めっちゃざらざらしてる。いやそうじゃない。何だコレ。何が起きた。あ、これあれだ。わずかに残った記憶の片隅にあるぞ。
「はて。準備はこれだけで良かった……? まあいい。それではお客さん、何を占いましょう」
そう言って少女は二人の間に鎮座する水晶球に手をかざした。
よもや占いの押し売りなんてものが存在しようとは。何も知らない客を相手にふっかけようとは中々の悪徳商法だ。
知っていれば回避できるのだろうが、今のクロではそうはいかない。これが記憶喪失の人間が否応にも味わう苦境というわけか。いや絶対に違うだろ、おかしいよこれ。
「えーっと……なんだ。勘違いさせたんなら悪いけど、俺、占いはしないから。そんなことしてる余裕ないし」
「大丈夫。お安くしとくから」
懐の余裕という意味ではない。
「なんと今なら特別セールで五割引。おまけにこのカエルの置物まで付いてくる。金運増強ペロリと溜まる。払ったぶんより返ってくるかも」
瞳の蒼さと同じように、冷たく落ち着いて、静かな声だった。
しかしその声に乗せてつらつらと出てくるのは気の抜けるような商売文句。合わせてテーブルにでんと置かれたカエルの焼き物も驚いたように舌を出し、間抜けな印象を膨らませる。そしてまたこのカエルが結構でかい。
「重くて邪魔そうだし、運もむしろ逃げそうだし、すげえいらねえ……」
「やはり蛇のほうが人気……?」
今度は威嚇する巨大な蛇の置物がテーブルの上に現れた。襲い来る蛇に驚くカエルが、今まさに捕食されようとしている。弱肉強食の世界が目の前に広がった。
押し売りはこれだけでは終わらない。クロの反応が芳しくないことに気付くと、少女はまだ不満なのかと言わんばかり、どこからともなくガラクタを取り出しては、次々机の上に載せていく。
「いや、貰えるものが不満なんじゃなくてだな……」
「ということは、やはり価格設定にまだ問題が……?」
「違うわ! つーか、値段の相場なんて知らないし。単に占いなんてする金も時間も無いんだよ、今の俺には」
「それは残念。記憶喪失のまま、あてもなくうろつくよりはいいかと思ったけど」
その意見自体には一理ある。とりあえず港町ルノスに行くつもりだったが、根拠となるものは一切ない。
役に立つ情報があれば取り入れたいところだが、当てにするのが占いごときではさらに見当違いの方向に————
あれ?
「おっと、いけない」
少女はわざとらしく自分の唇を押さえた。
クロがほとんど反射的に、跳ねるように立ち上がる。
同時に、二人の周囲に氷柱が降り注いだ。
いきなりこんなものが、一体どこから⁉ 思考の混乱がおさまるより先に、四方全てを氷柱に囲い込まれていく。気付けば氷柱は檻を支える柱のごとく無数に屹立し、虜となったクロを三百六十度の全方位から見下ろしていた。
少女の左耳にあるピアスが蒼く輝いていた。
「もう少し話をしたいから、どうぞ座って。どうせ今のクロじゃ私には勝てない」
名前まで知っている? 記憶喪失だけならまだしも、この名前はミスハと交わした会話以外でまだ使ったことがないはずだが。
「別にそこまで驚くことじゃない。だってほら——」
少女はクロを宥めるように言いながら、水晶球の上でこねるように手を動かし始める。
なるほど占いで知ったのか。確かに腕の良い占い師らしく、その姿は実にサマになって——いない。
どこかぎこちないというか、収まりが悪いというか。真剣味もなく、何かを水晶の中に視ようとする気配もない。はっきり言って、これ以上なく嘘臭い。
おまけに水晶球のほうも表面がざらざらと加工が荒く、見るからに安っぽい。なんとなしにクロが触れてみると、ひんやりと冷たかった。これも氷だ。水晶球ではなく、ただの氷の塊だ。
「ホラ吹きと腹を割って話せってのは、ちょっと難しい話だろ」
「……。確かに」
置物の蛇やカエルと同じように、偽占い師の少女はぺろりと舌を出した。それでも表情は変わっていなかった。
「とりあえず私が盗み聞きをしたのは置いておくとして」
「いや、置くなよ」
「私の名前はイェル。イェル・クティオ。まず、私は敵じゃないとだけ言っておく。今のところ味方でもないけど、それも置いといて」
傍らにパントマイムでできた空想上の箱が積み重なっていく。
クロとしては一つずつ積み降ろして逐一ご高説賜りたいところだが、イェルと名乗った少女はさっさと言葉を続ける。
「私は今、ゼグニア帝国近衛騎士団の協力者として、ある人物の護衛の仕事をしている」
「ていこく、このえきしだん、の協力?」
聞き覚えのあるような、ちっともさっぱり無いような、クロにとっては近くて遠い単語が出てきた。
いや、また出てきた、と言うべきか。目を覚ましてからこっち、体験するのはこの奇妙な感覚ばっかりだ。
「そう。貴人の護衛をする騎士たち。そして私は、単に追加で雇われた傭兵とも言う。しばらく訳あって単独行動をしてたけど、そろそろ合流するつもり。ところが一つ困ったことがあって」
「護衛相手を見失ったとか?」
「いや、そこはまだ大丈夫。問題は私以外の近衛騎士団と傭兵部隊が潰滅してることで」
「か、潰滅って……」
「裏切りや襲撃が重なって、生き残りは多分私とあと従騎士が一人。まあ全滅といって差し支えない」
どう考えても大事だが、イェルは無表情で淀みなく話す。相変わらず何を考えてるのか掴めない。
「それはご愁傷様だけど、俺にわざわざ話しかけたのと何の関係があるんだ? まさか俺に全滅した騎士団の代わりをしろってんじゃないだろうな」
「惜しい」
「どこがだよ」
「代わりじゃなく、役立たずの騎士団を超える仕事をしてもらいたい」
思わず吹き出した。
いきなり何を言い出すかと思えば、まさか要求を青天井に引き上げてくれるとは。帝国近衛騎士団などという仰々しい名前の集団ができなかったものを、戦い方も忘れた一個人にできるわけがない。
「話にならねーや。悪いけど、他を当たってくれよ。俺はあんたらに協力するつもりも実力も無いからさ」
「私の護衛してる人物、誰だか分かってる?」
「ミスハだろ」
無表情なイェルが、初めてほう、と口だけ動かして感情を見せた。
「いつから
「素晴らしい」
イェルが賞賛の言葉を述べた。素直に感動しているのか、小馬鹿にしているのか、相変わらずの無表情からは窺い知れない。
「逆に聞くけどさ。何でお前は俺に協力させようとしてんだ? 盗み聞きしてたってんなら、俺が戦えないのも分かってるだろ」
「もちろん。それを理由に姫様が同行を拒否したのも知ってる」
「だったら……」
前のめりに言いかけて、はっと氷柱の隙間から周囲を見渡す。つい話し込みすぎた。こんな目立つ状況では、敵に見つけてくれと言っているようなものだ。
「追っ手なら心配ない。私がとっくに片付けといたから」
さらりと言い放つと、イェルは指を横に流して空中に線を引く。二人を囲んでいた氷柱が全て同時に砕け、光の粒となって辺りを舞った。
「……へえ。強いんだな、あんた」
「あのくらいなら問題ない。でも、バルテザみたいなのは全く話が違う」
「そういやミスハも、ちらっとそんなこと言ってたな。神承器がどうとか。俺聞いたこともないんだけど、何なのそれ?」
その時不意に、突風が二人の間を吹き抜けた。
寒い、というわけではない。なのに不思議と、全身に鳥肌が立った。
「…………あれ?」
妙に視界が広く見える。自分のものではない呼吸や心臓の鼓動が聞こえる。それも目の前のイェルどころか、周辺の民家にいる人々のものまで鮮明に。
「予想より動きが早い」
聞こえたイェルの言葉も、時が引き伸ばされたかのようにゆっくりとしていた。
イェルはクロの肩越しに少し目線を高く、遠い空を見つめている。
その視線の先を見るために、わざわざ振り向く必要はなかった。イェルの蒼い瞳に反射する風景を、今のクロは子細に見て取ることができた。夕焼けの色が混じり始めた空と雲。そして人の形が一つと——輝く剣。
間違いない。街の上空に人影が一つ、文字通り宙に浮いている。
クロはその人影を、砂漠の中でオアシスを見つけた遭難者のように凝視し、観察する。人影は何かを見て、会話をしているようだ。手にした剣が静かに輝いている。直視してもごま粒ほどにすら見えないような距離だろうが、瞳の反射を介してすら、はっきりと一連の動きが見えた。
「クロ、話の続きは後で。今は——」
全身を絶頂にも似た昂揚感が巡っていく。
身体を締め付けていた鎖が、次々と開放されていくのがわかる。
脳が空になって再構成され、一つ一つの細胞が沸き立っていく。血が全身を溶かして回っている。
気付かないうちに口角が歪みながら上がっていた。
そして脳が、意識が、魂が叫ぶ声を聞いた。
『……あれを。あれを、あれを、あれを、無性に、たまらなく、どうしようもなく、ただ、ただただ、ただただただひたすらに————殺したい!』
「成る程、こうなるのか」
すぐそばのイェルの声は、もうクロには届いていなかった。
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